Ⅱ
1
研究室のデスク一面に分厚い書物を所狭しと並べて、麗子は度の強い眼鏡を少しずらして掛け、無心にペンを走らせていた。
大学はもうすぐ冬休みを迎えようとしていた。その冬休みが明け二週間もすれば、学年末試験が始まる。麗子はそれまでに自分の担当する科目の講義が何時間残されているかを考えた。それぞれあと四、五回だった。
自分の勝手で休んだせいで、どれも少しずつ遅れが出ており、最初の予定までは終えられそうになかった。彼女はカリキュラムの変更を余儀なくされた。
ドアがノックされた。麗子は左手で眼鏡を上げ、ドアを見て言った。
「どうぞ」
「失礼します」
入ってきたのは、手に一冊のノートを持った男子学生だった。麗子には見覚えのない顔だ。
「はい……?」
「あの、先生、ちょっといいですか」
「いいわよ。何か?」
「あの、ゼミ論のことなんですけど……」
「きみの? きみはあたしのクラスの生徒じゃなかったわよね?」
「いえ、あの──
「吉本先生?」と麗子は首を傾げた。「だったらどうして吉本先生のところへ行かないの?」
「教授は……生徒の人数が多いせいか、あまり一人一人には丁寧じゃなくて──」
「仮にそうでも、やっぱりあたしのところへ来るのは筋違いってものよ」
麗子は立ち上がった。「まあいいわ、今日は特別。でも、他の生徒たちには言わないようにね」
「すいません」と学生はほっとしたように息を吐いた。
麗子はノートを受け取り、手早く目を通した。
「──そうね。あたしが言っても差し支えのないところだけを指摘すれば──判例の引用が多すぎるわ」
「あ、やっぱり」
「自分でも分かってるみたいね。どうして? 枚数稼ぎ?」
「いえ、そんなつもりは」
「まずその点から直してみたらいいわ。それから、判例集以外にももっと多くの文献に目を通すことね」
そう言うと麗子は学生にノートを返した。
「あの、争点に対する意見の進め方は──」
「それ以上は吉本先生に聞きなさい」
そこで突然、デスクの端っこにかろうじて引っかかるように置いてあった携帯電話が鳴った。麗子は電話を見下ろして言った。
「いいかしら。あたし、ちょっと忙しくしてるの」
「あ、はい。ありがとうございました」
学生は一礼して出ていった。麗子は溜め息をついて軽く頷き、振り返って電話に手を伸ばした。
「はい、三上です」と幾分冷たい口調で言った。「あら、真澄?」
「いいえ、どういたしまして。──うん、すぐに帰れたわよ。家に着いたら十一時頃だったかな」
そして麗子はしばらくのあいだ真澄が話すのを聞いていた。途中、ゆっくりとデスクを廻って椅子に腰を下ろした。
「──そう、するの」と麗子は溜め息をついた。「それで、日取りは決まったの? いつ?」
「一月十日? 祝日ね」
麗子は煙草に火を点けた。苦虫を噛み潰したような表情だった。
「──そうよね。別にこれで結婚が決まったってわけじゃないんだし。そうよ。勝也だって考えるって言ってくれてるんだから。そう。何も悲観的になることなんてないのよ」
麗子は左手に電話を持ち替え、開いた右手でペンを取った。そして手もとの紙にのらくらと落書きをする。
『見合い 見合い 1/10 勝也のバカ』
と書いてあった。
「うん。じゃあね。また……」
麗子は丁寧にスイッチを切った。大きく溜め息をつき、椅子に深く背を預ける。そしてしばらくは考え込んでいたが、突然もう一度電話を掴み取ると、アドレス帳を呼び出してある番号を検索し、通話ボタンを押した。
何度か呼び出し音を聞いたところで、突然スイッチを切った。
「やめた……!」
麗子は電話をデスクに放り出した。
「追いつめるだけよね──」
そして眼鏡を掛け直し、開いたままの書物に視線を落とした。
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