二人が千日前に着いたとき、アーケード街の店のほとんどは開店前で人通りも少なく、閑散としていた。

「この筋を入るんじゃねえか」

 映画館の東隣の路地に立ち、芹沢は奥を伺いながら言った。

「みたいやな」

 鍋島は少し背伸びをして、路地の奥まで見通そうとした。

「あった、あの看板や。行こ」

「待てよ、ガキが潜んでるって言ってたんだろ。ずかずか行くな」

「……俺が刑事に見えるか?」

 鍋島はジャンパーのポケットに突っ込んだままの両手を広げて、自分の格好をアピールして見せた。乳白色のサテン地に紺のラインの入ったスカジャンの中は紺のキーネックTシャツ、ボトムはブラックジーンズに黒のショートブーツ。しかも今日に限って無精ひげを生やしている。いつもながら、職業とはほど遠いイメージのスタイルだった。

「……まあ、一見して見破れる奴はいねえだろうけどよ」

「やろ。ちょっと見てくる」

 飲み屋の袖看板が重なり合い、前夜のゴミが散乱する路地を鍋島は奥へと進んでいった。少し遅れて芹沢が続く。


 軒下に赤提灯がぶら下がる一品料理屋の二階が目指す麻雀屋だ。牌の混ざり合う独特の音が窓越しに聞こえてきて、静かな路地にも響きわたっていた。

 鍋島はその前まで行くと、隣の店との間に出来たさらに細い路地を覗き込んだ。

「誰もいてない」

「タレコミ屋の見間違いじゃねえのか」

「あいつにガセを掴まされたことはない。確信のあることしか言わへんから」

「じゃあ、消えちまったか」

 そのとき、上の窓からぎゃあっ、と言う大声が聞こえてきた。

 そしてすぐに椅子か何かの倒れたような音と、その間を縫うようにガラスの割れる音がした。

「……遅かったか……!」

 二人は一瞬だけ顔を見合わせ、すぐに料理屋の戸口の横から上の麻雀屋に続く薄暗い階段を駆け上がって行った。


 磨りガラスの入った安っぽいドアを開けると、小さなレジカウンターの中で中年女が屈み込んでいた。飛び込んできた二人を見て、強張った顔をさらに引きつらせた。

「おばちゃん、ちょっと人捜しや」

 鍋島がそう言って、二人は煙草と酒の臭いの充満するフロアへと向かった。

 全部で十ほどある麻雀卓のうち、奥にある窓際の一つの周辺で騒ぎは起こっていた。三人の男に向かって、一人の少年がごついナイフを突きつけている。三人のうち一人がもう一人の男をかばうように立ち塞がり、少年を睨みつけていた。残りの一人は右肩から血を流し、ガタガタと歯を鳴らして腰を抜かしている。

 かばわれている男は河村忠広だった。

「……あいつや。とうとう会えた」

 鍋島は男たちを見ながら呟くと、そちらへ向かった。

「おい、何してる」

 男たちは一斉に二人を見た。振り返った少年は、原田に見せられた山口泰典の写真の顔だった。

「ちくしょう、あのおばはん、サツに……!」

 河村はそう叫ぶと雀卓の牌を掴んで二人に向かって投げ、自分をかばっていた男の腕を押し退けて窓に向かった。

 芹沢が追いかけようとしたが、残された男がしがみついてきて邪魔をした。

 山口はしりもちをつきながら後ずさりをしていたが、なんとか立ち上がると店の入口に向かって逃げ出した。鍋島が後を追おうとすると、どういうわけか肩に怪我を負った男に体当たりされ、前のめりにひっくり返って顔面を思い切り床に打ちつけた。

「くっ、なんでや……」

「離さねえか、このっ……!」

 芹沢がもがきながら言った。その間にも河村は部屋の突き当たりまで逃げ、開けた窓ガラスに足を架けて今にも乗り越えようとしていた。

「鍋島、表だ! 表に回ってくれ!」

 ようやく邪魔者を振り解いた芹沢は、窓際の河村を追いながら叫んだ。

「分かった!」

 鍋島も自分に体当たりしていた男に肘鉄を食らわすと、入ってきたドアへと走った。


 窓から飛び降りた河村の後を追って芹沢が窓枠に手を掛けたとき、また後ろからさっきの男が飛び掛かってきてフロアに引き戻された。そこでまた掴みかかったり振り解いたりの格闘になり、互いに一歩も譲らない攻防が続いた。

「くそっ、しつこい、な……!」

 搾り出すような声で言いながら、芹沢は喉元に回された男の右腕を掴み、空いた腕で男の腹に肘鉄を食らわせた。男が思わず腕を放して屈み込んだところをさらにその顎に空手三段の蹴りを見舞うと、男は床に崩れ落ち、そのまま伸びてしまった。

 芹沢はその様子に目もくれず、窓を乗り越えて路地へ飛び降りた。

 しかしとうの昔に河村の姿はなく、先に表に出たはずの鍋島も見当たらなかった。芹沢は忙しく辺りを見回しながら、足早にアーケード街へ出た。


 そのとき、パン、パン、と乾いた銃声が二つ響いた。芹沢は咄嗟に拳銃を抜いた。

「鍋島! 鍋島! どこだ!」

 芹沢は大声で叫び、闇雲に走り出した。

 千日前の通りに出た芹沢は、斜向かいのパチンコ屋の隣にある派出所から飛び出してきた警官を見つけるなり言った。

「西天満署に連絡してくれ! あと救急車もだ!」

 警官は黙って頷くと、くるりと振り返って交番に戻って行った。

 芹沢はパチンコ屋と工事中の建設現場の塀との間に伸びる通りに入った。向こうから来た女性が彼の持つ拳銃を見て凍りついているのが、駆け足の彼にも見て取れた。

 突然、足もとに血痕が現れた。ひと目見て、たった今誰かがここで落としたと分かる新しいものだった。

「鍋島! どこにいる!」

 芹沢はもう一度叫んだ。しかし返事はなかった。

「まさかな……冗談じゃねえぞ……」

 血痕を追って四つ角に出た。すると、『有料駐車場』と書かれた塀の足もとに倒れている鍋島の姿が目に飛び込んできた。

「鍋島っ!」

 芹沢は拳銃を直しながら駆け寄った。

「……くそっ、痛ぇ……」

 鍋島は肘を使ってゆっくりと起き上がり、そのままうずくまった。

「大丈夫……なわけねえか」

 芹沢は鍋島の肩を掴んで抱き起こそうとして、その手を止めた。

 左の脇腹から吹き出た血が広がり、着ているスカジャンを真っ赤に染めていた。その範囲はどんどん広がりつつあった。

「──りざわ、キツイぞ、これ……」

 鍋島は血だらけの手で芹沢の腕を掴んだ。

「……そうみてえだな」

 芹沢は静かに鍋島を起こし、その上半身を自分の膝で支えた。そのとき、右の太股にも傷を負っているのが分かった。だが銃弾によるものではなかった。あたりには血溜まりが出来ていて、芹沢はジャケットのポケットからハンカチを取り出し、気休めだと分かっていたが、鍋島の腹に当てた。


 通りの向こうからさっきの警官が走ってきた。

「すぐ応援が来るそうです!」

「救急車は?」

 警官は倒れている鍋島を見ると立ち止まり、顔を強張らせて言った。

「そちらも手配済みです……」

「おい、もう少しの辛抱だぞ」

 芹沢は鍋島の顔を見て言った。しかしその顔からは血の気が引き、その分が腹から流れ出ているのが手に取るように分かった。

「……あいつは……?」

 鍋島は息を荒らげて言った。

「どっちのことだ。河村か、山口か」

「河村や。山口は……俺をこんな目に遭わせて逃げてった」

「そっちも逃げられた」と芹沢は舌打ちした。「ってことは、河村はおまえに向かって発砲したんじゃねえのか」

「……ああ。おそらく、山口に……」

「じゃあいつは、おまえを刺したあと河村を追ったんだな」

「あいつ……たった二回で……刑事を半殺しの目に遭わせるやなんて……ええ根性してる……な……」

 鍋島は途切れ途切れに言って小さく笑った。

「喋るな。俺の言うことだけ聞いてろ」芹沢は言った。「いいか。もうすぐ救急車が来る。もうすぐだぜ。それまで何とか我慢して、気をしっかり持つんだ。うっかり目なんか閉じるんじゃねえぞ」

 芹沢は必死で鍋島に語りかけ、何とか気を強く持たせようとした。そしてそれはまた、自分自身に掛けている暗示でもあった。

 パトカーと救急車のサイレンが猛スピードで近づいてきた。芹沢は警官と顔を見合わせて頷いた。

「おい、あと少しだぞ」芹沢は鍋島に振り返った。

 しかし鍋島はすでに目を閉じており、返事をしなかった。

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