「真澄、あたし──違うのよ」

「違うって、何が?」

 言葉こそ普通だったが、そう言って麗子を見据えた真澄の表情はもうそれまでとは違っていた。嫉妬という一言では片づけられない、いろんな負の感情で暗く混濁していた。

「だからごめん、あたし、いま気がついたのよ。そう、そうよね。五日前って言えば、あんたが勝也に電話した日よね。昼間はあたしに何度も電話くれてたっていう、あの日。でも誤解しないで、別にあいつと約束してたわけじゃないし、だから当然隠してたわけでもないの。あいつだってそうよ」

「分かってる。今さっきそう言うたやない、勝ちゃんの部屋に押し掛けたって」

「そう、そうよ。嘘じゃないからね」と麗子は真澄の顔を覗き込んだ。

 その直後、 『時すでに遅し』という言葉が頭に浮かんだ。

「別に何も疑ってへんわ。麗子と勝ちゃんのことはもうずっと前に理解してる。勝ちゃんかて、麗子とのことであたしに嘘なんかつかはったことないし、つく理由もないでしょ」

 真澄は平静を装って言った。しかし、声はうわずっていた。

「そうよ。その──だからね、真澄」

「麗子ね」

 と、真澄は強く言った。正面を向いたままだった。

「え、うん」

「さっき自分のこと無神経な女って言うたけど──それ、どこまで自覚してるの?」

「……してるわよ、じゅうぶん」

「嘘。してない」

「してるわよ。今回ばかりはあたしだって……」

「してない!」

「真澄……」

 麗子は驚いていた。驚くと同時に、ひどくいやな予感が全身を包み始めているのを感じていた。自分がとんでもない過ちを犯してしまったことは十分承知していたが、だからと言って、こういう事態になるなどとは思ってもいなかっただけに、この先の展開が怖かった。自分はただ、誰かに愚痴を聞いてもらいたかっただけなのだ。

 真澄は手元のグラスに視線を落とした。そして言った。

「……ひどすぎるわ、麗子」

「………………」

「あたし、麗子のことずっと羨ましかった。今でもそうよ。麗子は頭がいいし、綺麗やし、いつも自信に満ちてて──あたしみたいな世間知らずの籠の鳥とは違って行動的で意志も強いし、欠点なんか何一つないし……麗子とあたしは雲泥の差、月とスッポンで」

「なに言ってるのよ真澄」

「そやから麗子が勝ちゃんとどういうつき合い方してても、どう見ても恋人同士にしか見えへんでも、二人が断固としてお互いを親友やて言うのやったらそう思うことにしようと決めた。麗子はあたしなんかでは当然考えも及ばへんことができる人なんやと思うから。実際そうやって他にちゃんと彼氏がいたんやから、やっぱり勝ちゃんとは親友なんやってことが分かった。でも──」

 そこまで言うと真澄はグラスを口に運んだ。さっきの麗子と同じように大きな溜め息をつくと、思ったことを忘れないうちに全部言ってしまおうとしているかのようにまた一気に続けた。

「でも、親友やったら何してもいいの? 九年も前から知ってるから何でもありってことなん? 自分の従妹がその人のこと好きって知ってても、自分はその従妹よりずっと前から相手を知ってるから、辛いことがあったら夜に部屋に押し掛けてもいいと思ってるの?」

「違う、思ってない」

「要するに、自分たちの友情の前ではあたしの気持ちなんて二の次ってことなんやね」

「真澄、聞いて」麗子は真澄の腕に手を掛けた。

 真澄はさっと腕を引っ込めると、恨めしそうな眼差しで麗子を睨みつけた。

「……あたしがいつもどんなに不安な気持ちでいたか──」

「ごめん……」麗子は俯いた。

「きっと麗子には一生分からへんでしょうね。自分にはとうてい勝ち目のない女性が身近にいる普通の女の気持ちなんて。しかもその女性は自分の従妹で、自分の好きな人と一番仲良くやってるのよ。愛情じゃなくて友情やとか言って」

 真澄の言葉には、押さえきれない怒りが露わに吹き出していた。麗子は必死でそれを鎮めようとした。

「ほんとに愛情じゃなくて友情なんだから。親友ってそういうことでしょ。真澄もそれは認めるって今、言ったじゃない」

「言うたわ。けど聞き飽きた」と真澄は吐き捨てた。

「……分かった。この際それ以上なのは認めるわ。親友よりも親密だけど、真澄が心配してるようなのとはほんとに違うの。そう、兄妹みたいなもんなのよ」

「でも兄妹じゃないでしょ」と真澄は冷たく言い放った。

「真澄……」

「だったらさっさと気持ちを告白したらええやないって思ってるんでしょ。でもそれができひんから悩むんやない。麗子のことは別として、実際にあの人があたしをどう思ってるかなんて分からへんもの。麗子みたいに、好きになった相手とは確実につき合えるような、そんな確率百パーセントの女とは違うのよ、あたしは」

「あたしのどこが確率百パーセントだって言うの? 現にこうしてフラれちゃったじゃない」

「フラれたって言うけど、ほんとは最初から相手にもしてなかったんでしょ。その人のこと」

「……どう言うこと?……」

「その人が、麗子の前では安らげへんかったってことは、麗子にその人を受け入れてあげる気持ちがなかったからやないの? その人のために麗子は何の用意もしてないってことよ。要するに、最初から相手にしてへんかったのと一緒よ」

 真澄は顔を背けた。「……二股かけられて当然やわ」

 グラスを見つめる麗子の顔色が変わった。さらに真澄が言う。

「最初の目的通りにしてたらええのよ。一番大切なのは研究なんでしょ? そのために大学にいるんでしょ? 男の顔色見に行ってるんじゃないでしょ? 勝つつもりでやってるんでしょ?」

 真澄は嫌悪感を剥き出しにして言った。険悪な空気が二人を完全に覆い尽くしていた。

「……真澄もそんな風に思ってたのね。あたしのこと」

 麗子は呟くと淋しそうに──あるいは悔しそうにも見えた──笑った。

 真澄は黙っていた。自分がかなり辛辣な言葉を投げ掛けたのは分かってはいたが、撤回するつもりはなかった。

「……そうね。あなたの言うとおり。あたしはたかが恋愛ごときで自分を変えることなんてできないのよ」

 麗子は煙草を口に運びながら言った。意地になり始めていた。

「たかがって言うけど、人生を豊かに送る上で大事なものの一つやわ」

「そうかしら」

 麗子は鼻をふんと鳴らした。

「そうよ。あたし、麗子が失恋したって言うから驚いたし、おまけに相手に別の女がいたなんて事情を聞いたらちょっと腹も立ったから、精一杯慰めてあげようと思ったけど、そんな考えなんやったら慰めもしいひんし同情もしいひんわ。たかが恋愛なんて言う人は、どうせまた同じことを繰り返すに決まってるもん」

「……またずいぶん哀れまれたもんだわ」

 麗子は下を向いて笑った。「結構よ。きれいごとしか言わないガチガチの箱入り娘さんなんかに慰めてもらおうと思ったあたしが確かにバカだったんだから」

「……あたし、帰る」と真澄が立ち上がった。

「そうね、帰った方がいいわ」と麗子も頷いた。「帰って、どうやったら自分のウジウジした気持ちを勝也に伝えられるかよく考えることね」

 真澄は黙って財布から千円札を出し、自分のグラスの横に置いた。そして最後に麗子を睨みつけると、くるりときびすを返して格子戸へと向かった。

「ねえ真澄」

 麗子が真澄を呼び止めた。真澄が振り返る。

 前を向いたままの麗子は煙草の煙をゆっくりと吐き出すと、それから真澄に冷たい視線を投げかけて言った。

「……あんた、本当に勝也のことが好きなの? あたしへの競争心でそう思ってるだけ

なんじゃない?」

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