車に戻った二人は、鍋島の要望通りに心斎橋へ向けて走った。

「──そう言やおまえ、近いうちに休暇とる予定じゃなかったっけ」

 長い赤信号に引っかかり、諦めがちにサイドブレーキを引いた芹沢は隣の鍋島に言った。

「うん。しあさってや」

「何の用だっけか」

「結婚式」鍋島は煙草の煙を吐いた。「二次会の幹事も任されてるし。一日がかりやから休まなしゃあない」

「おまえも人がいいね」と芹沢は笑った。「幹事なんて面倒臭ぇ」

「中学、高校と一緒やった連れや。断れへん」

「けどよ。こうなっちまうと無理なんじゃねえか」

「何で」と鍋島は顔を上げた。「休むで、俺は」

「……そうだったな」

 芹沢は納得の意味を込めた溜め息をついた。

 刑事なんて仕事をしていると、その労働時間はいわゆる普通のサラリーマンより飛躍的に多くなるのは逃れられない運命だが、かといって二人とも俗にいう仕事人間ではなかったし、その反対の意味としての余暇人間でもなかった。

 大昔、新人類という言葉が何かともてはやされたとき、その定義の一つとして仕事よりプライベートを優先し、そのためには周囲の評価など気にしないという点を非難されていたが、鍋島も芹沢も、そういう潔い自己中心性も持ち合わせていなかった。だいいち、そんな人間は刑事なんて仕事に就かないものだ。

 ただ、鍋島は取ると決めた休暇は必ず取る男だった。

 警察官といえども労働者だから、一定の休暇は認められている。しかしそれを目一杯、しかも自由に使うことができるかとなれば、かなり難しい。と言うより不可能に近い。当然のことだ。そしてそれは、必ずしも警察官に限ったことではないだろう。だから鍋島も、勝手気ままに休暇を取るようなことはしなかった。

 大事な予定が入ったとき、それがどうしても外せないものなのかどうかをよく考えて、外せないと結論づけたときには堂々と休暇を取る。それで仕事に支障をきたすことが分かっていても、彼は屈しなかった。そのために前日まで自分だけがかなりのハードワークになろうとも、喜んでそれを受け入れた。だから彼の休暇申請は、ほぼ百パーセントの実現率を誇っていた。

 それはなぜか。

 警察官になるとき、そう決めたからである。

 私生活は守る。僅かな報酬のために人生を警察官という職業に捧げない。

 つまりそれは──

 父親のような警察官にだけはならないということだ。

 逮捕術や柔剣道、刑事訴訟法などを覚えるより先に、彼はまずこのことを腹の底にどっかりと据えて警察学校の門をくぐったのだ。

「──この事件が長引けば、いよいよ休みなんて期待薄だもんな」

 芹沢は言った。「俺も、田舎に帰るのは諦めた方がいいかもな」

「帰ってこいって言われてんのか?」と鍋島は訊いた。

「まあな」

「何かあるんか」

「たいしたことじゃねえよ」

「たいしたことやないのにわざわざ言うて来ぇへやんろ」

「それが言って来るんだよ、うちの家族は」

 やっと青信号になり、芹沢は車を出した。「親父がぎっくり腰で寝込んじまったってだけなんだぜ。しかも店は兄貴に任せてあるから支障はないんだ」

「おまえにも戻ってきて欲しいのと違うか。親にとっては、やっぱり長男のおまえが頼りなんやろ」

「それじゃ兄貴の立場がねえよ。いくら娘婿だからって、脱サラしてまで店を継いでるのにあんまりだろ」

「……なあ、芹沢」

 鍋島は言った。「今度の事件が俺ら──中でもおまえにとっては特別なもんやってことは、みんなよう分かってる。俺かて杉原さんがあんな目に遭うてるんやからやった奴が憎いし、早よ挙げて締め上げてやろうと思うで。けど、実家の大事は、それはそれで別や」

「大袈裟だな」

「親が倒れたっていうたら、一大事や」

「ただのぎっくり腰だって言ったろ。ああいう仕事にはよくあるんだ」

「俺は嫌いやな」と鍋島は強い口調で言った。「俺はそういうの嫌いや」

「おまえ……」

 芹沢は鍋島が母親を亡くしたときの話を思い出した。

 病状が悪化した母親のために彼の父親は二日間の休暇を取ったが、母親が少し持ち直したと知るや一日で休みを返上し、仕事に戻った。その二日後、彼の母は静かに息を引き取ったのだった。鍋島が父親に強い憎悪を抱くきっかけとなった一件である。

「──今の言い方はちょっとまずかった」芹沢は言った。

「俺に謝ってもろたかて困るな」鍋島はふんと笑った。「おまえの気持ちも分かるけど、一人で犯人を挙げられるなんて思うなよ」

「分かってるよ」と芹沢も小さく笑った。「あーもう、うるせえ」



 油とニンニクの匂いがこってりと染みついたラーメン屋のカウンターで、鍋島はさほど旨くないラーメンをすすっていた。

「──川辺明美ねえ」

 鍋島の隣に座って同じようにラーメンを食べている三十代前半の大柄の男が言った。黒の革ジャンの中に黒のハイネックセーターを着て、ジーンズをはいている。下っ端のチンピラと言ったところだ。

「ああ。ミナミじゃちょっとは知れた顔らしいで」

 鍋島はラーメン鉢を見つめながら低い声で答えた。「宗右衛門町『ドルジェル』のアケミ姉さん」

「あ、あのアケミか。知ってるわ」と男は顔を上げた。「気のええ女やで」

「性格なんかどうでもええんや」

「そらそやな。で、そのアケミが?」

「男おるやろ」

「おるやろな、そら」

 鍋島はスープの残った鉢をカウンターの奥へ突き、水を飲んだ。

「探ってくれへんか」

「そっちで調べることでけへんのかいな」

「でけへんこともないけど、それやったらおまえに訊きに来るか?」

「まあ、せやな」と男は頷いた。

「時間がかかる」

「……ヤァ公か?」

「何でそんなこと訊く?」

「別に。相手がヤァ公やったら、あんたらには面倒なことやろなと思て。マル暴に話通さなあかんから」

「へえ、そんな心配してくれるんや」

 鍋島はちらりと男を見た。「コソコソしょうもないことやってるんやないやろな」

「俺が何をしてるって言うんです?」男は肩をすくめた。

「──まあ、どうせバクチとかそんなんやろけど」

「や、やってませんよ」

「どうでもええ。どうせ俺の担当やない」

 鍋島は言いながらジーンズのポケットから皺くちゃの一万円札を出し、男に差し出した。

「とにかく、その女の男の素性が知りたいんや。できるだけ早く」

「……簡単には無理でっせ」

 男は言いながらも金をジャンパーのポケットにしまい込んだ。

「そこを何とか調べ上げるのがおまえの腕やろ」

 鍋島は男の肩を手の甲で叩いて立ち上がり、カウンターの中で忙しく働いている店主に言った。「ごちそうさん」

「五五○円」

 店主は中華鍋をガチャガチャと忙しく動かしながら無愛想に勘定を告げた。

「おまえ払ろとけ」

 鍋島は男に言い、ガラス戸を開けて出て行った。

「……ちぇっ、ケチな刑事や」

 男は憮然として呟いた。

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