時間はあっという間に過ぎていった。

 萩原は車を比較的低速で守口もりぐち方面へと走らせていた。約束の時間より四十分も早かったが、娘の美雪を彼女の母親のところへ送り届けるところだった。


 美雪は今、助手席でシートベルトを緩く締め、萩原の方に首を傾けて小さな寝息を立てていた。少し茶色かがった長い髪を綺麗に編み上げ、透き通るような白い肌に赤い頬をしている。七月生まれの彼女が「美雪」と言う名を授かった由来の一つだ。そのきめ細やかな肌と同じ白い丸襟のブラウスに生成りの編み込みのカーディガンを羽織り、赤とグリーンのタータン・チェック柄のプリーツスカートをはいていた。レースの折り返しのあるソックスに黒いエナメルの靴が、萩原と逢う今日という日が彼女にとって特別な日であることを証明していた。

 萩原はいつも美雪をおめかしさせて自分に逢わせてくれる前妻の智子に感謝した。女の子のどこが可愛いと言って、こうしてよそ行きの服を着て親を楽しませてくれるという可愛らしさがある。智子もそんな親の楽しみをよく分かっているからこそ、自分にもこんなに可愛い美雪を見せてくれているのだと萩原は考えた。


 駅前の通りから三百メートルほど北へ入ったところに、智子と美雪の住むマンションがあった。萩原はマンションの前に車を寄せ、美雪を起こしてしまわないようにゆっくりと抱きかかえると、そっと背負って静かにドアを閉めた。

 そして彼女の重みを心地よく感じながら、一歩一歩踏みしめるように玄関の階段を上がった。

 マンションの中に入るのは初めてだった。柔らかい照明の下でメールボックスの名前を一つずつ確かめていった萩原は、上から三番目の列に「日下くさか」の名前を見つけた。エレべーターのボタンを押し、ドアが開くと中に入って3のボタンを押した。エレべーターが上へ動く小さな振動にも、背中の美雪が目を覚ますのではないかと心配した。


 三○五号室は一番奥にあった。インターホンを押し、小さく深呼吸した。

 ロックを外す音がして、ドアがゆっくりと開いた。中から、二時間ほど前に美雪を預かる際に会ったときと同じ服装をした智子が顔を出した。

「……ルール違反よ。こんなところまで来るなんて」

 智子は顔を強張らせながら冷たく言った。

「いや、違うよ。ほら……美雪が寝てしもたんや」

 萩原は身体を斜めにして、背中の美雪を智子に見せた。

「あ、やっぱり。幼稚園に行った日は、このくらいの時間になると疲れるのよ。もう九時前やし、いつもなら寝てる時間やわ」

 智子は萩原の背中から美雪を抱き上げた。美雪は智子の肩に顔を埋めた。ぐっすりと眠り込んでいる。萩原は彼女の小さなポシェットと彼のプレゼントの入った紙袋を、玄関脇のシューズボックスの上に置いた。

「──あら、ありがとう。いつもごめんなさいね」

「ええんや。こんなことぐらいしかできひんから」

「……じゃあ、おやすみなさい」

「あの」と萩原は一歩前に出た。

「なに?」

「良かったらその……ちょっと歩かへんか」

「そういうことやったらあたし──」智子はゆっくりと首を振った。

「い、いや、別にそれでどうこうってことやないよ。その……」

 智子は訝しげに萩原を見つめていたが、やがて笑って言った。

「ええわ。でも美雪が目を覚ましてあたしがいてないと分かると不安がるから、少しだけね」

「ああ、分かってる」

 萩原は軽く頷き、スーツのポケットに両手を入れて下を向いた。

 智子は美雪を布団に寝かせるために部屋の中へ入っていった。萩原は廊下で待っていた。


 マンションを出た二人は、背の高い街灯が両側に並ぶ広い道をゆっくりと歩いた。

「美雪もだんだんしっかりしてきたな」

「再来年は小学校やもの。あたしが働いてるのも労ってくれるのよ。仕事が終わって母のところにあの娘を迎えに行ったら、『お疲れさま』なんて言うてね」

「頭がええんやな。きみに似てる。その……目のぱっちりしたとこや髪の色なんかも」

「顔の輪郭や気の強そうな眉なんかは、萩原くんそっくりよ」

 智子は笑顔で言った。萩原も照れ臭そうに笑うと俯いた。シャツのポケットから煙草を取り出し、ライターを手で覆って火を点けた。

「──今こうして、月に一度しかあの娘に逢わんようになってつくづく思うんや。アメリカに行ってた三年がもったいなかったって。俺ときみがこんなことになるんやったら、俺一人で行くんやなかったって」

「残れと言うたのはあなたよ。それに──」

 智子は足下を見つめたままだった。「一緒に行ってたら、別れてたかしら。あたしたち」

「そうやな」

「離婚してからもしばらくはあたしにも美雪にも逢おうとせえへんかったやない。仕事が忙しいとか言うて」

「……そうやった」

「あの時はすごく辛かったわ。ああ、ほんまに捨てられたんやなと思て。あたしは良くても、あの娘が可哀そうで。今さら恨みごとになるけど」

「悪かったと思ってるよ」

「今ごろ言うてもらったかて遅いわ」と智子は吐き捨てた。

 萩原は口もとの煙草を手に持ち替え、智子に向き直った。

「なあ、何でそんなに突っかかってくる? 何を怒ってるんや?」

「怒ってないわ」

「俺が部屋まで行ったのがそんなに気に食わへんのか?」

「違う」

「約束を破ったのは悪いと思うけど、今夜は仕方がなかったやろ?」

「違うわよ。そんなことで怒ってるんと違うの」

「ほな、何で──」

「萩原くんの気持ちが読めるのよ。何かあたしに言いたいことがあるんでしょ? でないとわざわざ外に連れ出したりしいひんはずよ」

「いや……」と萩原は口ごもった。

「違うの?」

「……分かるのか」

「あなたのこと、十年も前から知ってるのよ」

 智子は小さく笑って腕を組んだ。「何なの。相変わらず、言いにくいことがあるときは回りくどいんやね」

「分かった」

 萩原は小さく溜め息をついた。そして智子をじっと見つめると言った。

「その……美雪を引き取らせてほしいんや」

 智子は唖然として萩原を見上げていたが、突然思い出したように「話にならへんわ」と呟くと、後ろを向いて来た道を歩き出した。

「待てよ、冗談で言うてるんやない」

 萩原は智子の腕を掴んだ。その手をさっと振り解き、智子は萩原に向き直った。怖い顔をしていた。

「あなたにあの娘の面倒が見られるとでも言うの?」

「実は、係長昇進と、法人部への異動の内示を受けたんや。栄転や。早かったら来月の辞令で──」

「それ、どういう意味? お給料が上がるて言いたいの? あたしはお金のこと言うてるんやないのよ。あなたからは今でも充分なだけ貰ってるし、それには感謝してるわ。でも、あたしも銀行員の妻やったから分かるのよ。あなたいったいどれだけあの娘と一緒にいてやれるって言うの? ましてそんな忙しいとこに異動になったらなおさらよ」

「だから俺は今、実家に戻ってるし。実家にはおふくろが──」

「ご両親は承知なさってるの? あなたのそう言う気持ち」

「………………」

「あなたのお母様があの娘を育てて下さるっておっしゃってるの? あたしとそっくりの目と髪をしたあの娘を」

「両親にはまだ……話してへんのや」

「でしょうね」と智子は溜め息をついた。「萩原くん。いつからそう思うようになったの?」

「それは……」

「ねえ、いつ?」

 智子はじっと萩原を見据えたままだった。

「──今夜、あの娘に逢うたときにはっきりそう思ったんや。もしかしたらずっと前から潜在意識の中にあったのかも知れん」

「相変わらずね。あなたはいつも思いつきで行動するのよ」

「思いつきなんて、そんなええ加減な気持ちとは違うよ」

「言い方が悪かったら訂正するわ。あたしの言いたいのは、あなたにとってはその場その場の気持ちがすべてやってことよ。今そう思ったからそうしたい。前のことは前のこと、なのよ」

「そんな風に言わんといてくれよ」

「だってそうやないの。あなた、離婚のときかてそうやったわ」

「えっ……」

「違う?  離婚の理由を問い質したあたしに、あなた言うたわね。『悪いけど、今はもう別れることしか頭の中にはないんや』って。『今まで愛してたことには嘘はない。でも、俺は今の気持ちを大切にしたい』って」

 萩原は黙ってしまった。

「結婚したからとか、父親になったからとか、そういうことの責任感はあなたにはまるで無いのよ。いつも自分の気持ちが一番大事。あたしにもそれを分かってもらって当然やと思てる。萩原くん、あなたいつまであたしに甘えたら気が済むの?」


 萩原の頭に、離婚のとき智子に言われた言葉が蘇った。クズよ、あんたは──。


「あたしはもう、あなたの奥さんじゃないのよ」

「分かってる」

「言いたいのはそれだけ。悪いけどあたしここで。さよなら」

 智子は早足で帰っていった。その背中に萩原は声を掛けた。

「来月も、美雪に逢えるかな」

 智子は立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

「それは約束やから。また連絡します」

「……ごめん。きみにはほんまに──悪いことをしたと思てる」

 智子は淋しそうに萩原を見つめた。そして言った。

「あなたの中には……永遠に続く愛情ってあるのかしら」

 萩原は何も言わなかった。言えるはずがなかった。

 智子はくるりと萩原に背を向けて、街灯の下を歩いていった。萩原はしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがて俯くと唇を噛みしめた。足下に煙草を落とし、踏み潰す。そして智子のマンションの前に停めた車に戻るために歩き始めた。

 途中、閉まった酒屋の前にある自販機で缶コーヒーを買い、ちびちびと飲みながら歩いた。


 車の前まで戻った萩原は、ポケットからキーを取り出し、ドアを開けた。さっきまで美雪がそこにいた助手席が、必要以上に広く見えた。

 彼はマンションを見上げた。だが、智子と美雪の部屋がどれなのか分からなかった。

 車に乗り込み、エンジンを掛けた。西宮にしのみやまでがやたら遠くに感じられた。

        

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