夜になって、昼間の暖かさが嘘のように肌寒い微風が身体にまとわりつき始めていた。


 日中の陽気に惑わされて薄着をしているとうっかり風邪をひいてしまうのがこの季節だ。もちろん、九時近くにもなってこんな屋外の駐車場に一時間以上も立ちっぱなしという状況が寒さの感覚を増長させていることは分かっていた。

 そうしなければならない義務があるでもなし、誰かに強要されているわけでもないのだから、さっさとやめることもできる。

 むしろ、そうした方がいいのだ。その方が、あらゆる意味で救われる。

 何も知らないふりをして、また明日から今まで通りに振る舞っていること。それが一番平和で、誰も傷つかない──三上麗子は頭の中でそう考えながら、それでもそこを動こうとはしなかった。

 本当は、それが一番不幸なことだと知っていたからだ。

 だから彼女はここに立っているしかなかった。進むことはもちろん無理だが、今となってはもう退くこともできなかった。


 北大阪急行江坂えさか駅から少し東に逸れたところのフレンチ・レストランの駐車場の隅っこで、高速道路の高架の陰に隠れてじっと店のドアを見つめている。頭上を行き交う車の走行音だけが彼女の耳を支配し、他には何も聞こえない。

 そして十メートルほど離れた店を出てくる客のすべての顔が分かるよう、普段外出時にはしない眼鏡を掛けていた。

 それはまた、目的の相手から自分をカムフラージュするための意味もあった。

 そしてまたここには、昼間、親友の萩原が、麗子が鍋島に気のあるようなことを主張して譲らなかったのを、頑として受け入れなかった理由もあった。


 煉瓦造りの建物の中央に位置する、上部がアーチ型になった黒光りのする木製のドアが開いて、十五分ぶりに客が出て来た。

 そして、その二人連れこそが目的の人物だった。

 麗子は少し後ろに下がって、二人に気づかれないように高架の闇に紛れ込んだ。

 男女の方は、レストランの玄関灯に照らされてはっきりとその姿を確認できる。大きな白い襟の付いた淡いピンク色のアンサンブルに同じようなヒールを合わせた、肩より少し長いストレートヘアの二十二、三歳くらいの女性と、ダークグレーのスーツにノータイのドレスシャツの襟元を開いた、すらりと背の高いインテリ風の男。男の年齢は三十一歳。麗子は知っていた。二人は穏やかに微笑んで互いを見つめている。

 そしてドアから少し歩いたところで女性が手にしていた薄手のハーフコートを羽織ろうとすると、男がそれに手を貸した。

 昼間あんなに暖かかったのにこうしてコートを用意してきているところを見ると、二人の待ち合わせの時間は夕方以降だったのだろう。麗子の知る限りでは、男は今日の午後から身体が空いていたはずだから、女に合わせたのかも知れない。

 そうすると、この女は学生ではなく社会人か……。

 どこからどう見ても、幸せそうな恋人同士だった。

 いいじゃないの、と麗子は思った。

 お似合いだわ。素直で優しそうな、可愛い女性ひと。こういう子の方が、あなたには必要なのかも。勝ち気で可愛げの無い女より。 ──ねえ、飯塚いいづかくん。

 やがて二人は麗子の立っているのとは反対側にある、駐車場の奥へと歩いて行った。腕を組み、ぴったりと寄り添いながら。

 麗子は俯き、眼鏡を外した。これ以上見ていたくないという思いからではなく、成すべきこと、確かめるべきことが済んだという、いわば仕事帰りの決まった仕草のような手慣れた動作だった。

 しばらくすると車のエンジン音がして、たった今二人の消えた方向から一台の乗用車が現れ、麗子のいる高架下の道路脇を過ぎて通りへと走り去った。もちろん麗子の存在に気づいた様子はなかった。そんな緩やかなスピードではなかったし、だいいち車内の二人は外の様子に気が行くような雰囲気ではなかったようだ。

 運転している男──飯塚瑛二えいじに寄り掛かるようにして肩を抱かれた女性。この二人の姿が、駐車場出口のすぐそばに立つ街灯の下を通り過ぎるときに車内にはっきりと浮かび上がり、そして麗子に引導を渡したのだから。

 車がどんどん小さくなり、テールランプが他の車のそれと見分けがつかなくなるまで、麗子はただ見送っていた。

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