10:新しい薔薇
この日、マティアスは少々困惑していた。
目の前の美女と目が合う。にこりと微笑まれた。その微笑みの裏には何かを潜ませていそうで、正直マティアスの苦手なタイプの女性だ。しかし相手が相手だけに、邪険にはできない。
「……今日はグレーデン侯爵だけが来るものと思っていたんだが」
マティアスがそう零すと、麗しい美女の隣に座る侯爵は「申し訳ない」と笑った。本気で申し訳ないなんて思っていないだろうということはわかる。
「私は愛しい妻からの頼みは断れません。陛下もご理解いただけるのでは?」
グレーデン侯爵……変わり者のリヒャルト・グレーデンが愛妻家と呼ばれるようになって数年経つ。彼が社交界の花と呼ばれた令嬢と結婚したときはそれはそれは周囲は騒然となったものだが、マティアスは気にしなかった。その後の愛妻家っぷりには「あの変人も結婚で変わるものか」と思ったが。
「それに妻は私の見張りにちょうどいいんですよ。今朝もめんどくさくなってすっぽかそうかと」
「国王に面会の予約をしていてすっぽかすのはおまえくらいだ」
マティアスが呆れた顔でそう言うとリヒャルトは「あはは」と笑う。年齢が近いこともあってマティアスとリヒャルトは幼い頃から互いを知っている。幼なじみというほど交流はないが、それはひとえに子どもの頃からろくに人との付き合いをしてこなかったリヒャルト側に原因があった。
「国王陛下とのお約束を破るわけにはまいりませんから、私が同行させていただきました。どうぞお気になさらず」
ずっと人形のように微笑みながら黙っていた美女……リヒャルトの妻であるコリンナが口を開く。
リヒャルトからの面会の申し出を受けて用意されたのは応接間だ。謁見の間でも執務室でもないあたりが、マティアスと比較的親しい人間であるという証になる。
ここに女性を招くことはあまりない。マティアスの婚約者であるエミーリア、そして伯母であるリンハルト公爵夫人くらいだ。マティアスの女性に対する忌避感はそう簡単に払拭されない。
コリンナの言うとおり、マティアスはコリンナ自身をまともに記憶したのは最近になってからだ。
「妹がお世話になっております」
コリンナ・グレーデン。結婚前の名前はコリンナ・シュタルク。シュタルク公爵家の長女であり、エミーリアの姉である。
白銀の髪に翠の瞳の、誰もが目を奪われるほどのうつくしい女性だ。
「……エミーリアなら今頃伯母と茶会をしているはずだが」
ここに呼ぶなり、コリンナが向こうに参加しても問題ないだろう。そういう意味でマティアスが口を開くが、コリンナは「まぁ」とくすくすと笑った。
「とっても気になりますけれど、それでは夫の見張りにはなりませんわ。今日は研究の成果を陛下にご覧いただきたくて」
このまま世間話が続きそうな流れをコリンナが優雅に断ち切った。妻の言葉にリヒャルトが合図をすると、鉢植えが運ばれてくる。
「これは……」
鉢植えを見たマティアスが思わず小さく零した。
鉢植えに植えられていたのは、淡い黄緑色の薔薇だった。
丸いフォルムの、小ぶりな薔薇が咲き誇っている。蕾の頃は少し濃い黄緑色をしているが、満開になると白みが強くなるようだ。色といい形といい、愛らしさの際立つ薔薇だった。
エミーリアのようだ、と。
そう思ったのはその色と形のせいかもしれない。
「このたび生まれた、新しい薔薇です。このような色は今までありませんでした」
コリンナが誇らしげに説明する。
昨今、アイゼンシュタット王国だけではなく近隣諸国では薔薇の品種改良が盛んに行われている。しかしそれは薔薇の形や香りを競うばかりで、新しい色の薔薇は未だになかった。これは間違いなく素晴らしい研究結果だ。
「緑色の薔薇とは珍しいな」
「いやぁ、妻からのリクエストでして」
大変でした、とリヒャルトは笑っている。大変でしたなんて程度ではたどり着くことのできないことだと思うのだが、リヒャルトにはできてしまったらしい。
「……おまえの愛妻家っぷりもなかなかだな。夫人の名前でもつけるのか?」
マティアスとエミーリアの思い出の薔薇ともなったリンハルト公爵邸と王城の庭園に咲く薔薇も、実のところ何代か前のグレーデン侯爵が開発したものだ。
この新しい薔薇にコリンナという名前をつけたら、また恋物語として有名になるだろう。
「いいえ、この薔薇の名前はもう決まっておりますの」
にっこりと微笑みながらコリンナが否定する。
「……と、いうと?」
愛妻家の侯爵が手がけた新しい薔薇だ。妻の名前をつけるのはそう不自然なものとは思えなかった。ましてその妻であるコリンナが、色などをリクエストしたというのならなおさら。
しかしコリンナは違うのだという。コリンナの様子からして、彼女自身も満足いく名前なのだろう。
「この薔薇には『エミーリア』という名前がございます」
堂々と胸を張るコリンナに、マティアスは言葉を失った。
一目見たときからエミーリアを思い浮かべた。この薔薇に名前をつけるとすれば、コリンナよりもエミーリアという名前がふさわしいということには大いに同意するが。
……ものすごく喧嘩を売られている気がする。
主に、エミーリアへの愛に対して。コリンナから「あなたにはここまでのことができるかしら?」という挑戦状を叩きつけられている気分になった。
そして同時に、コリンナという女性をしっかり認識したのが最近であるとはいえ、疑問が浮かぶ。
……もしかして元からこういう性格だったのか? と。
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