13:呼びたい。呼べない。

 エミーリアが画家の女性と別れ、城の中に入るとちょうどヘンリックが廊下で「んー」と言いながら伸びをしているところだった。

 そしてばっちりと目が合って、ヘンリックは気まずそうな顔をする。

「あー……サボってるわけじゃないですよ?」

「ふふ、わかっております」

 おそらく息抜きか休憩といったところだろう。ヘンリックは不真面目そうに見えても仕事はきちんとする人である。

「机仕事って苦手なんですよねぇ、肩が凝って」

 苦笑するヘンリックに、エミーリアも頷いた。

(騎士様は普段、陛下の執務の補佐はしないものね)

 いつもなら書記官がやるようなことを、今フェルザー城では騎士がやっている。王城の優秀な書記官たちはここにいないからだ。

「ヘンリック様は活動的な方ですものね」

「遠回しにじっとしていない奴と言われた気がしますが」

「いいえ、まさか」

 ヘンリックはマティアスの護衛として時に壁の一部ではないかというくらいにぴしりと動かずに待機している。そんな姿をエミーリアは何度も見ている。

「シュタルク嬢は部屋に戻るとこですか?」

「そうですね……どうしようかしら。デリアはまだきっと暇ではないでしょうし」

 エミーリアも予定よりは長く庭にいたけれど、デリアは手紙を書くと言っていた。小一時間はそっとしておいたほうがいいかもしれない。

 実のところ、マティアスの災害対応の手伝いがないと、フェルザー城でエミーリアは少し時間を持て余してしまうのだ。しかしこれ以上エミーリアが出しゃばるのも問題ある気もするし、難しいところである。

「……そういえばけっこう意外だったんですけど、なんであいつと友人に?」

 あいつ、と濁されているものの、それがデリアのことであるのはすぐにわかる。

「あら、ご存知ではないんですか?」

「……近況を報告し合うような仲ではないので」

 苦笑いのような、しかし少し悲しげな顔で告げられて、エミーリアは「そうでしたか」とヘンリックから目を逸らした。見てはいけない顔のような気がした。

「わたくしが、デリアと初めて会った時に話しかけたんです。とってもかっこよかったから」

「かっこいい?」

 エミーリアの言葉に、ヘンリックは首を傾げた。エミーリアは、ええそうですよ、と笑う。

「近況は知らなくても、デリアの境遇はご存知でしょう? ……彼女は、庶民育ちの令嬢だと陰口を叩かれることが多いんです」

「……それは、まぁ」

 知っています、とヘンリックは小さく答えた。

「でもデリアは俯いたり泣いたり逃げたりせずに、まっすぐに前を見ていたんです。それはもうかっこよかったんです! だから絶対にお友達になりたいなと思って」

 エミーリアがデリアと出会ったのは社交界デビュー前のことだった。まだ幼いと言ってもいい年頃の彼女は、とても堂々としていたのだ。

 それがエミーリアの目にはとても素敵でかっこよく見えて、すぐに話しかけに行った。話しかけたときのデリアは突然公爵令嬢に声をかけられて驚いていたなとエミーリアは思い出す。

「……シュタルク嬢がお友達になることで、陰口も少しはマシになったんじゃないですか?」

「さぁ、どうでしょう? わたくしはただ素敵な人だと思ったから話しかけただけですもの」

 ヘンリックの問いに、エミーリアは微笑みで応えた。

 けれどきっと、そういう効果もあったのだろう。あの頃のエミーリアはそこまで計算して行動したわけではないけれど。

 エミーリアの微笑みに、ヘンリックは「そうですか」と零し、そしてやさしい目でエミーリアを見下ろした。

「……あれはひねくれているし素直じゃないし、まぁまぁキツいところもありますけど。できればこれからも仲良くしてやってください」

「それは……もちろんです」

 ヘンリックに言われるまでもないことだ。

 こくりと頷いたエミーリアを見て、ヘンリックが微笑んでいる。

(お兄様みたいな……ううん、でもちょっと違う感じ……?)

 兄に見守られていたときの眼差しにも似ていたが、根本的な何かが違う気もする。その何かを探ろうとエミーリアはじぃっとヘンリックを見上げると、すぐにその顔はニヤリと意地悪な顔に変わる。

「あと、できれば陛下の名前も呼べるようになってあげてくださいね。けっこうしょげていたんで」

「う、うう……! そ、それは、その、努力します……」

 ここでマティアスのことを出されると、エミーリアはすぐにまた真っ赤になってしまう。落ち着いたはずの心臓がまたうるさくなってきた。


 努力はする。もちろんだ。

 エミーリアとて、いつまでもこのままでいていいとは思っていない。




 ヘンリックと別れて部屋に戻ると、エミーリアはソファに腰かけて「うう……」と小さく唸った。

「マ、マ、マティ……」

 一人きりなら名前を口に出すことができるのでは、と握りしめた自分の拳を見下ろしながら何度も挑戦するのだが、その度にエミーリアの脳裏にはマティアスの顔が浮かんでしまってダメだった。心臓が痛くなるし恥ずかしいし声がかすれてしまう。

「マティ……ァ……~~っ! やっぱりダメ……!」

 集中すれば、無心になればと思うのだが、好きな人の名前を口にして無心になれるわけがない。むしろ邪念しかない。

(陛下の微笑んだお姿とかわたくしの名前を呼んでくださったときの声とか、そういうのを思い出してしまって……! ダメだわ……!)

 エミーリアは両手で顔を覆いながら何度も声にならない悲鳴を漏らす。

 好きな人に名前を呼んでもらえたら嬉しい。それは、エミーリアはとてもよく知っている。だからこそエミーリアも呼びたいと思う。

「けど陛下のことを名前で呼ぶ前にわたくしが死んでしまいそうだわ……」

 心臓はどきどきしているし、顔は熱い。この調子では結婚式の当日になっても名前で呼べないのでは……?

 そんなことを想像して、エミーリアはさぁ、と真っ青になった。呼べるようになった未来よりも、呼べないまま唸っている自分の姿のほうが容易に想像できてしまったのだ。

「れ、練習すればきっと……!」

 呼べるようになるはずだ。……たぶん。


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