10:戸惑いと混乱
きつい香水の匂い。
鮮やかな色のドレス。
赤い口紅。
媚びた笑顔。
それらはマティアスにとって苦手な女性の象徴のようなものだ。
たいていの女性には裏の顔があるのだろうと思っているし、実際マティアスが接してきた女性の多くはそうだった。
まだマティアスが少年であった頃。会う度に真っ先にマティアスに話しかけてくる令嬢がいた。
その令嬢は気が強いのか、他の令嬢たちと違ってマティアスにも臆することなくはきはきと話す子で、なんとなく受け答えをするうちにマティアスもよく話しかけるようになった。
マティアスにとっては新しくできた友人だった。彼女と話すのはとても新鮮で、楽しいと思っていた。
けれど。
『私はいつも王子に声をかけていただけるわ。このまま上手くいけば私が未来の王妃になれるかも!』
その令嬢は、たくさんの少女に囲まれながら胸を張り自慢げにそう話していた。
ああ、なるほど。彼女はマティアス個人に興味があったわけではなく、未来の国王とお近づきになりたかっただけなのだ。
多感な少年時代のその経験は、マティアスの胸の奥底に楔を埋め込んだ。
マティアスが凛々しく成長すればするだけ、似たような経験は積み重なっていく。
最悪だったのは夫を亡くした伯爵夫人に暗に愛人にしてほしいと頼まれたことだ。マティアスは真面目で口数も少ないせいか、気の強い女性は意見してくることも少なくなかった。
即位してからは多少減ったものの、減っただけでゼロにはならない。
『正妃なんて今更望めないし、面倒だもの。けどうまく愛人になれば贅沢できるってものでしょう?』
楽しげにそんなことを話しているのを耳にしたのも一度や二度ではない。マティアスの耳に届かないとでも思っているのだろうか。
だとすれば愚かにもほどがある。
そしてさらに悪いことに、そういった女性たちはヘンリックにも媚を売るのだ。それをヘンリックは時におかしそうに、時に煩わしそうにマティアスに報告する。
マティアスにとって恋愛なんてものはとうの昔に諦めたものだった。国王ともなればそれも珍しいことではない。王の婚姻にそんな甘い感情は必要ないだろう。
国王という立場上、いずれ王妃は必要となると思っていたし、だからこそ重鎮たちの薦めたエミーリア・シュタルクとの婚約には異論はなかった。周りが薦めるのなら、のちのち面倒が少なくていいだろう、とそれだけだった。
エミーリアは今まで接してきた女性とは違った。
一見すると誰が見ても完璧な貴族の令嬢。しかしその中身はけっこうな変わり者で、ときおり素っ頓狂なことを言うこともあれば、ただの令嬢とは思えないほどの博識さに驚かされることもあった。
マティアスが女性と話していて楽しい、と感じたのはエミーリアが初めてだった。
そのくせ少しからかうと途端に真っ赤になって慌てるのも可愛らしいと思った。……ほんの少しだけ、可愛らしいと。
そう感じ始めていたのだ。
「お、戻ってきたか。遅かったな、あと五分しても来なかったら探しに行こうかと」
執務室に戻るとヘンリックがすっかり寛いでいた。部屋の主がいないのをいいことに彼も休息をとっていたのだろう。
「ああ」
「……どうした?」
いつもなら一言二言注意をするはずだが、今日はそんな気も起きなかった。マティアスの異変にヘンリックはいち早く気づく。
「別に」
偶然、エミーリアと会ったのだとわざわざ言うことでもない。
今日会うまで、マティアスにとってエミーリアは好ましい女性であった。いや、今も好ましいとは思う。
だが、しかし。
近づいた瞬間の、濃い香水の匂いに身体は拒絶反応が出た。
その時に、そういえば今日はいつもと少し雰囲気が違うと気づいた。
いつもより強めの香水。いつもより鮮やかで華やかなドレス。
マティアスの知るエミーリアは、やわらかい色のドレスを着て、控えめにしかしふわりと香る程度に香水をつけた女性だ。
どちらが本当のエミーリアなのだろうか。
今日はマティアスと会う予定ではなく、私用で王立図書館にやって来ていたエミーリア。それを考えれば、今日の彼女が素のエミーリア・シュタルクなのではないか。
例えば、どこかでマティアスが苦手とする女性について知ったエミーリアが、マティアスと会うときには控えめな服装をしていたのだとすれば。
それは、マティアスが苦手とする女性たちと、どこが違うのだろう。
「……別にって顔じゃないけどな」
ヘンリックがこちらを見ながらそう言うので、マティアスはそれを無視するように椅子に座り未処理の書類を手に取った。
「執務に影響はない」
「あっそ、影響がないと俺が感じている間は黙ってますよ」
深く聞かれたくないみたいだし? と近衛騎士である前に友人でもあるヘンリックは、こういうとき距離のとり方がうまいと思う。
聞かれたくない。確かに、聞かれたくない気がする。
自分が見てきたエミーリアはなんだったんだろうか。計算されていたものだったのだろうか。
女性はそういうものだと思っていたくせに、何故かイライラするし、胸に何かがつかえているようにすっきりとしない。
何を期待していたというんだろうか。
なぜ裏切られたような気分にならなければならないのか。
裏切りは信頼があってこそ成り立つもので、マティアスはエミーリアを信頼していたわけではない。
けれどどうして、少年の時に友人だと思っていたあの令嬢の真意を知ったときと同じような気持ちになるんだろうか。
もう、そんな子どもでもないのに。
それからマティアスが仕事に没頭した。時間はすぐに過ぎ去り、気がつけば太陽が西に沈みかけていた。
「いつになく集中していたな」
褒められることのはずなのに、ヘンリックはあきれたような顔をしている。
「まだ話す気はない?」
「支障は出ていないし、むしろ捗っていると思うが」
話す必要はない、とマティアスは再び書類に目を落とした。
「はー……おっまえ変なところで頑固だよなぁ」
「おまえも大概しつこい」
マティアスが不快そうに眉を寄せる。すっかり癖になってしまいそうなほどマティアスの眉間の皺は深くなるばかりだ。
「聞かれたくないんだろうけど、聞き出したほうがよさそうなんだよなぁ……」
はー、とヘンリックがため息を吐き出したところでノックの音がする。やってきたのは書記官だった。
「騎士団からの報告書を預かってまいりました。それと、恒例の手紙が届いてますよ」
書記官はにこにこと微笑ましそうに笑いながらマティアスに書類と手紙を渡す。
恒例の、と言われるほどエミーリアからの手紙はすっかり当たり前のものになりつつある。
それもそうだ。体調を崩したというあの日以外は、エミーリアは欠かさず手紙を出してきている。
いつとならば、届いてすぐに休息もかねて手紙を読むのだが――マティアスは手紙を受け取ると、しばし見つめたあとで封を切らずに引き出しにしまった。
この手紙も、エミーリアの策略なのだろうか。そう思うと苦い気持ちが溢れてきて、とても読む気になれなかった。
どうせ内容はいつもと同じ、エミーリアの日常のことを書いてあるだけだ。もしかすれば図書館で会ったときのことを書いているかもしれないが、今すぐ読まなればならないものではない。
エミーリアからの手紙は、いつだって返事を求めるようなことは書かれていないから。
手紙を読まずにしまったマティアスに、ヘンリックはまた一度ため息を吐き出したのだった。
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