7:風邪の功名

 午後。マティアスが執務に一区切りをつけて応接室に向かう。

 そこにはエミーリアはいつものように穏やかな微笑みを浮かべてマティアスを待っていた。

 ふんわりとした薄茶の髪はいつもと違って下ろされていて、幼げに見える。


「ごきげんよう、陛下。ヘンリック様」


 エミーリアが丁寧に腰を折る。相変わらず見惚れるようなうつくしい礼だった。

 その様子にやはりなんでもなかったではないかと思いながら、少し安堵していた。そしてマティアスは自分が安堵したことに驚いた。

「あ、シュタルク嬢、無事だったんですね」

 会って早々、ヘンリックが妙なことを言い出したのでエミーリアもきょとんと目を丸くしている。

「はい? 無事とは?」

 首を傾げるエミーリアに、ヘンリックはちらりとマティアスを見て意味ありげに笑った。

「いやほら、昨日はシュタルク嬢からの手紙が届かなかったから、陛下がそわそわしちゃって」

「ヘンリック」

 いつもより低いマティアスの声に、ヘンリックは肩をすくめた。余計なことを言わなくていい、と念を込めたが友人にはあまり効果がなさそうだ。

 エミーリアは「ああ」と無事を確認されたことに納得して、そしてすぐに「……手紙……」と目を落とした。

「昨日は少し、体調を崩してしまって……せめて陛下への手紙を書いてから力尽きようとがんばったのですが、無理でした……」

「いやその気合いはすごいと思いますよ」

 心底悔しそうなエミーリアに、ヘンリックは思わず感心してしまう。エミーリアにとってもあの手紙は重要なものだったらしい。

 そんなに無理をすることはないだろうに、とマティアスは内心でため息を吐き出しながらも、その手紙がこないことをわずかとはいえ気にしていた自分もどうかしている、と眉間に皺を寄せた。

「……それで、体調はもういいのか」

 見る限り、エミーリアの様子はいつもと変わりない。具合が悪そうには見えないし、熱もなさそうだ。

「はい、昨晩しっかり眠ったおかげで熱も下がりましたし、もう大丈夫です」

 嘘をついているわけではなさそうだし、無理をしているわけでもないらしい。ふわりと微笑む姿に、ほっとする。

「……そうか」

 かすかに、マティアスの目元の表情が和らいだ。それを見逃すエミーリアではない。

 もしかして、気のせいかもしれないけれど、といくつも言い訳を重ねて、マティアスを見上げながら控えめに問いかけた。

「……もしかして、心配してくださいました?」

 エミーリアの緑色の瞳は、期待するようにきらきらと輝いていた。

 そんな女性の様子は苦手な類であったはずなのに、エミーリアには嫌悪感は湧いてこない。

 そこにあるのは純粋な期待であって、邪な感情を感じないからか。しかしエミーリアが求めているのはマティアスの好意であって、それは今までマティアスが苦手としてきた女性たちと同じはずなのだ。

「いつも届くものがこなかったから、少し気になっただけだ」

ふい、と顔を逸らしてマティアスがぶっきらぼうに言う。

「……ふふ、ありがとうございます」

 たいしたことでもないのに、エミーリアはうれしそうに笑った。ふわ、とまるで花が綻ぶような笑顔だ。

 マティアスがちらりと横目で見たその笑顔は、思わず目を奪われてしまうほどに愛らしい。

「立ち話もなんですから、ささ、座って話しましょうねー」

「あ、ありがとうございます、ヘンリック様」

 そう言いながらヘンリックは腰掛けるエミーリアの肩にストールをかけた。体調を崩したというから、エミーリアが身体を冷やさないようにだろう。つくづくマメな男だ。

「そういえばあのあと調べたのですけれど、チョコレートの原料のカカオには疲労回復や滋養強壮の効果もあるそうですよ! ですので陛下もご安心くださいね」

 先日の調べ物の成果をエミーリアは目を輝かせながら報告した。

「調べたのか」

「はい、王立図書館の資料に書いてありました」

 エミーリアも暇ではないだろうに、わざわざそんなことを調べて勉強してきたのか、とマティアスは小さく笑った。

 どうも彼女は好奇心旺盛で、知識を増やすことが好きらしい。

「あれ? 王立図書館まで来たなら陛下に会いに来れば良かったのに」

 ヘンリックが会話に割って入ると、エミーリアはぱっと頬を染めて目線を落とした。

「え、えっと……それは」

 口籠もる様子は公爵令嬢エミーリア・シュタルクというよりも、彼女の素を出しているようだと近頃マティアスは思っている。

「……やはり、陛下のご迷惑になるのではと思いまして……こうして週に一度はお会い出来ますし、それくらいは我慢するべきかなと」

 おずおずとエミーリアが告げた内容に、マティアスはため息を吐いた。そんなことを気にしたのかこの少女は、と。

「用もないのに会いに来るバカや、護衛のくせに執務の邪魔してくるやつもいるくらいだから貴女が気にする事はない」

「あれ? さりげなく俺も邪魔してるって言われてる?」

 ヘンリックが不思議そうに目を丸くしているので、マティアスはじとりと睨みつけた。

「してるだろう」

「してませんー! 休息を忘れがちな陛下に休めと言うことは邪魔とは言いませんー!」

 マティアスとヘンリックのやりとりにエミーリアは思わずくすくすと笑ってしまう。

 二人ともエミーリアよりも年上なのに、時折子どものようにじゃれあっている。

「陛下は人気者ですね」

「いや、そういう意味で寄ってくるわけじゃないだろう」

 にこにことしているエミーリアに、マティアスは困ったように眉を寄せた。

 マティアスに寄ってくる人間は、誰もがマティアスに好意があって近寄ってくるわけではない。

「そうでしょうか? だって陛下はこんなに素敵な方なんですもの、皆さんお会いしたくなるのは当然でしょう?」

 エミーリアのその言葉は、お世辞というわけではなく心の底からそう思っているのだとわかる。

 だからこそマティアスも否定出来ず、言葉を失った。

「わー……熱烈ですねぇ……」

 ヘンリックのしみじみとした声に、エミーリアは目を丸くした。

「ねつれつ……」

 はて、それはいったいどういう意味だっただろうというような顔で首を傾げたエミーリアが、みるみるうちに真っ赤になる。

「え、いや、ちが……!? 一般論としてのお話で、いえ、その、陛下は素敵な方ですけれど……!」

「褒められて嫌な気分にはならないですよ、ねぇ陛下?」

「まぁ、そうだな」

 素直な賛辞を受け取らずに不貞腐れるほどマティアスは子どもではない。

「世辞や嘘は嫌いだが」

「……嘘でもお世辞でもございません」

 エミーリアが消えてしまいそうなほど小さな声でそう主張する。

 なるほど、エミーリアは意志が強いほうらしい。恥ずかしさよりも、違う解釈をされるほうが我慢出来ないと見える。

「なら素直に喜んでおこう。君はもう少しそういう顔をしていたらいい」

「そういう顔、とは?」

 エミーリアは怪訝そうな顔で問い返してくる。その顔にマティアスはくすりと笑みを零した。

「子どもが拗ねたときと同じ顔をしている。そのほうが年相応でかわいらしい」

 普段の少しすました顔よりもずっといい。

 するとエミーリアは火がついたように顔をさらに赤く染め上げた。

「こっ……かっ……!」

 言葉にならない声をあげて、エミーリアは耳まで真っ赤にして、怒ればいいのか恥ずかしがればいいのかといった顔をしている。

「ひ、人をからかって遊ぶなんて、ひどいです……!」

「からかっているつもりはないが」

 もちろん、遊んでいるわけでもない。

 口に出したことはすべてマティアスの本心だ。嘘やお世辞は、マティアスも軽率に言うような性格はしていない。

 エミーリアはうう、と口籠もって反論できずにいる。

「……やはり、まだ熱でもあるんじゃないか」

 くすくすと笑いながらマティアスが問いかけた。

「い、いえ、大丈夫です、熱ではないです」

「しかし顔が赤い」

 手を伸ばして、マティアスはエミーリアの頬に触れる。とても滑らかな頬だった。

「それは……!」

「それは?」

「~~!」

 口をぱくぱくさせて、エミーリアはますます赤くなる。どこまで赤く染まるのだろうとマティアスが思っていると、ガタンッと音を立ててエミーリアが立ち上がった。

「お、おっしゃるとおり熱がまた出てきたようですので、今日はこれで失礼いたします!」

 いつもの淑女っぷりなどどこへやら。エミーリアはドレスをひるがえして逃げ出すように部屋から飛び出た。


「困ったな、やりすぎたか」

「……いい性格してるねぇ、陛下」


 途中から空気のように存在感を消していたヘンリックがにやにやと楽しげに笑いながら呟く。

「ヘンリック、彼女を追いかけてくれ。本当に熱が出ていたら大変だからな」

「熱なんて方便、信じてないくせに」

 そう言いつつ、ヘンリックはマティアスに命じられたとおり部屋を出てエミーリアを追いかけた。無事に迎えの馬車に乗せたら戻ってくるだろう。


「なるほど。……まぁ、悪くないな」

 エミーリアと過ごす時間はなかなか楽しい。少なくとも今のマティアスはそう思えた。


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