夢渡り 2

 そこは、くらいもやがかかっていた。

 潮騒の音がする。

 その中にぼんやりと光が見えてきた。

 学校の教室のようだ。

「……が好きなんだ。協力してくれない?」

 日に焼けた、いかにもスポーツ少年という感じの少年が、目の前の少女の手を握っている。

「うん……いいよ」

 少女は、笑って頷いて……そして、うれしそうに去って行く少年を哀しげに見送った。

 とたんに、ぐわんと世界が歪み、光が消える。

 渚に素足を浸し、手で顔を覆っている少女がいる。学校の制服だろうか。白いブラウスにプリーツスカート。まだ、嗚咽をこらえ、肩をふるわせている仕草に幼さが残っている。

 しかし、間違いなく、彼女だ。

 過去の記憶の夢だろうか。

 潮騒の音がやけにうるさい。

 暗霧?

 もやの濃さが深くなり、海のむこうから、迫ってくる気配がある。

 闇の生物である暗霧は、まれに、ひとの心に住み着き、悪夢を招く。

 害といえば、夢見が悪い程度で済むほどであるが、体調や精神的に不調になると活発に動き出す傾向があり、悪夢の繰り返しで睡眠障害などを起こすことがある。

 それにしても、気配がでかい。

 いつから憑りつかれているのか知らないが、こんなに大きな暗霧なら、すでに体調を崩していてもおかしくはない。

 俺は彼女に目をやった。

 よく見ると、彼女の身体は、淡い光をまとっている。

 自身を守る、強い力だ。その光が、彼女の周りを照らし、暗霧から最後の一線を守っている。

 しかし、その力は守護のみに働いて、外へは向けられていない。

 ゆえに暗霧にむしばまれながら、平気で生活していられたのだろうし、力に守られているからこそ、俺もそばにいて気が付かなかったのだろう。

 それにしても、これだけ大きな暗霧を体内に飼っていたら、悪夢を見ない時でも、マイナス思考に陥りがちだ。

 この前の『最初から失恋予定』のデートという夢に、今さらながらに納得する。

 俺は、彼女から少し離れた波間へと足を進めた。

 招かれていない夢渡りの場合、俺は俺の意思で姿をとれ、好きなように動ける。

 しかし、彼女が俺を『認識』したら、俺の姿は彼女によって、作り替えられる――そうなると、力が限定されてしまう。

 魔を払うならば、彼女に気付かれない方が都合が良い。

 俺は、どよどよと彼女を欲して海を渡ってくるモノをにらみ、除魔印を結ぶ。

「このゆめは、まばゆいひのひかり」

 俺の言葉に反応して、あたりが明るくなった。

「よどみをはらう、てんのいぶきぞ」

 潮風が吹き上がるように海の上を走り、暗霧を振り払う。

 よどんでいた空気が、清浄に変わり、青い澄み渡った空の下、美しい海が広がった。

「誰?」

 泣いていた彼女が、その手を下ろして『俺』を見る。

 ごぉーっという音がして、再び世界が作り変えられた。

 がたん ごとん

 規則正しい音が鳴り響く。

 目の前に、つり革が揺れている。見慣れた、いつもの電車の車内だ。

「今のは?」

「低級な闇の生き物、『暗霧』だよ」

 俺は答える。

 俺の目の前には、いつもの大人になった彼女がいた。

「あなたは?」

「退魔士だ」

 答えると、俺はいつの間にか袈裟を着ていた。

 たぶん、彼女のイメージなのだろう。着なれない衣服に俺は苦笑した。

 田野倉の仮装をしている気分だ。

「ありがとうございました。私、中島優樹菜といいます」

 彼女はそう言って微笑した。胸が、ドクリと音をたてる。

「俺は――」

 俺が名乗ろうとしたそのとき、またベルの音がして、俺は夢から追い出された。

 脳裏に、彼女の優しい微笑みが焼き付いていた。



 それから。

 何事もなかったように、電車に乗る。

 中島優樹菜は、前と変わらぬ位置に立つ。時折、俺と目が合う気がするも、言葉を交わそうとはしない。

 夢というのは、必ずしも、覚えているものではない――そして、彼女から見た俺の姿が、必ずしも俺とは限らない。

『ちかんから助けてもらった』という夢から考えると、その助けてくれた男の姿を夢で俺に重ねているのかもしれない。

 夢渡りをしたとき、夢の世界の自分の姿を確認することは難しい。

 鏡があったとしても、彼女の意思が働かなければ、姿は映らないからだ。

 あれから、遠目で見る優樹菜は、表情が明るくなった気がする。

 あれだけの暗霧を払ったのだ。心はだいぶ軽くなったに違いない。

 そういえば、化粧は変わらないが、唇が前よりつややかになり、目元があでやかになったように思えてきた。

 彼女は、恋をしているのかもしれない。

 そんな結論にたどり着くと、胸がドクンと苦しくなった。

 いくたびか、そんな彼女を見つづけた、その週末――俺は、再び、夢渡りをした。


「セイくん?」

 目を開けると、そこには優樹菜と、青い水槽があった。

 鮮やかな珊瑚と、魚の群れが目に飛び込んでくる。

 どうやら水族館のようだ。

「見て! あっちに、カクレクマノミ!」

 彼女の指さした先に、かわいらしいオレンジと白、黒のコントラストをした魚が泳いでいる。

 生き生きとして、くるくる動く瞳。通勤電車では絶対見ることのできない彼女の表情に俺は魅了された。

 現実ならば、人に押し流されそうな人気水槽であるが、ここは彼女の夢の中。そこには、俺と優樹菜のふたりだけだ。

「あ、そろそろイルカショーの時間ですよ!」

 彼女は携帯で時間を確認すると、足早に俺を先導する。

 見知った水族館なのであろう。風景などのディテールが細かい。

「セイくん、急いで!」

 促されて、俺は後を追った。どうやら、俺は、『セイ』という名の男らしい。

 俺はまだ、彼女に夢の中でさえ、鬼頭誠治と名乗ってはいない。意味が分からない。

 偶然の一致、ということであろうか。

 イルカのジャンプを見ながらはしゃぐ優樹菜を見ていて、不安になる。

 彼女の隣にいる俺は、俺なのだろうか。それとも、ほかの誰かなのだろうか。

「あの……ひょっとして、つまらない、ですか?」

 思案に沈んだ俺を、不安そうに優樹菜が見上げる。

「いや、違う……」

 俺は慌てて首を振る。この前の夢が頭によぎった。

「これって、デート、で、いいのかな、と思って」

 苦し紛れにそう口にすると、優樹菜の頬が真っ赤に染まる。

「そ……そう、だと、うれしいです」

 恥じらいながら瞳を伏せた仕草が愛らしく、胸がドクンと高鳴った。

「俺、退魔士だけど……いいの?」

 俺が俺じゃない可能性もあるのに、俺はそう聞いた。

 言葉はしっかり声になる。この言葉は、彼女に受け入れられている。

「退魔士だと、何かいけないのですか?」

 逆に質問で返されて、俺は、俺じゃないかもしれないという疑念を一瞬、忘れた。

 少なくとも、この前の『夢』の続きになっている。

「俺と、つきあってくれる?」

 こくん、と頷く優樹菜があまりにも可愛くて、俺はそのまま彼女を胸に抱き寄せた。

 ビクンと、彼女の身体がふるえる。反応があまりにもうぶで、それがまた俺の理性を吹っ飛ばした。

「あの……ひとまえですから」

 さらに恥ずかしそうに彼女はうつむく。

 イルカショーのスタジアムは、満員の客で埋まっていて、イルカのパフォーマンスがつづいており、歓声が響いているが、俺たちのことなど、気にもとめていない。

「かまわない」

 俺は彼女のあごに手を当てて、唇を重ねた。

 夢だから――その感触は、こころもとなくて、俺はさらに深く口を吸う。

 不確かな唇の感触を求めているうちに、また、ベルが鳴り響く――。

 目覚めた俺の胸に、彼女のぬくもりは、どこにもなかった。


 それから半年――。

 いけない、と思いつつ、俺はたびたび、彼女の夢に入った。

 優樹菜との夢は、まるで現実のようにディテールが細かい。

 いつの間にか、夢の中で、俺は彼女の部屋に入り浸るようになった。

 夢で体を重ねたところで、本来、快楽を感じることはない――しかし、彼女と俺の気は非常に相性がよいらしく、交わるたびに不思議な安らぎを俺に与えた。

 正直に言えば、俺は、完全に彼女に夢中で、ほぼ溺れているも同然だった。

 それならば、現実の優樹菜に声をかければいい、と、自分でもわかっている。

 職務規定で、霊的な『被害者』との接触は禁じられてはいるものの、優樹菜をむしばんでいた暗霧のことは、誰も知らない。

 普通に通勤電車に乗り合わせる女性に、通勤途中で声をかけたところで、後ろ指さされることはないのだ。

 とはいえ。どうしても、できなかった。

 夢の中のセイが、俺とは限らないからだ。

 彼女部屋に入るたびに、増えていく二人用のおそろいの食器が、目に入る。

 優樹菜は、セイという男の家に、通っているのが、会話の端々でわかる。

 わずかな希望は、優樹菜がセイの職業を退魔士と信じていることだ。

 俺かもしれない。でも、俺じゃないかもしれない。

 俺は、その疑念を隠したまま、セイとして、夢の中だけ彼女を抱く――ひどい奴だ。それでも、やめられない。

 さらに気掛かりなことに、彼女の霊的な力が高まりつつあることだ。もともと、あれだけの暗霧に耐えてきたのだから、素養は、充分にあったといえる。とはいえ、いきなり、君は霊的な才能があると夢でもないのに現実の彼女に言う勇気はなかった。

 そんな悶々とした日々が過ぎて。

 その日、駅の改札を抜けて、俺はどきりとした。

 ラッシュアワーをすぎて、ひとがまばらなホームに、優樹菜が立っている。

 俺は心臓の音が高鳴るのを意識しながら、彼女の後ろにならんだ。

 優樹菜が、カバンに手をやると、チリンと銀色のカギがホームに落ちた。

「落ちましたよ」

 拾い上げたその時――何かが変わる予感がした。


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