つごもりの夜
車を降りると、強い潮の香りがした。
街灯に照らされた道路の向こうは、堤防のコンクリートがつらなっていて、暗い水面がわずかに見える。
さざ波の音が絶え間なく続く。空は暗く、星の数がとても多い。
明日が新月ということもあり、今日は晦日(みそか)の月。空には月がない。
駐車場の片隅に、黒い影がネバネバとしていた。背筋が微妙にチリチリする。
「都会じゃ、光が強くて目立たないけど、この辺りだと判別がつくやつだよ。まして、今日はつごもりだ。月がないからな」
私の視線に気が付いた田野倉が荷物を下ろしながらそう言った。つごもりというのは、新月の前の晦日月のことで、月籠りが語源なのだそうだ。
「練習にちょうどいいかな」
鬼頭が、街灯の下へ私を手招きする。
「簡単な九字の切り方を教えておく」
「はい」
「まず、これが刀印という、手の形」
私は鬼頭に倣って、右手の人差し指と中指を左手で作った鞘に納める。
「ここから横縦横というふうに格子を描いていく……一緒にやってみて」
ゆらゆらと蠢くそれにむかって、私は鬼頭とともに九字を切った。
臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前
虚空に描いた線が淡く光を放ち、蠢いていた影を貫いた。
「うん。よくできたね」
私はポカンと、影のあった位置を見つめる。
「今のは?」
「低級な闇の生き物。暗霧(あんむ)。あれが集まると様々な霊障(れいしょう)をおこす。まあ、今の程度なら、たいしたことはできないけれどね」
「……はじめて見ました」
「うーん。本来、どこにでもいるのだけど。たぶん、君の霊力が急激に跳ねあがってきた証拠かな」
霊力って、上がったりするものなのだろうか。上がったとして、それって、喜ぶべきことなのか、かなり微妙な感じがする。
「講習終わったら、宿屋へ入るぞ」
田野倉に呼ばれ、私と鬼頭は荷物の場所へ戻る。
駐車場の奥に、民家と呼ぶには少し大きい日本家屋があり、『民宿 なぎさ』と書かれた小さな看板が玄関にかけられていた。
「夜分遅くにすみません。予約した田所です」
入り口は、広い三和土と靴箱があり、一段高いところに板の間があり、奥からお爺さんが出てきて私たちを出迎えた。
私たちが泊まるのは二階の奥の二部屋。
私は、一番奥の部屋に言われるがままに荷物を置いた。
部屋は、山側に面した窓が一つ。六畳の畳の部屋で、テーブルが置かれている。一応、エアコンは完備してある。
廊下側の扉は、ふすまだ。鍵はかからない。
防犯と言う意味では、不用心ではあるが、そもそも霊能力者は、鍵どころか壁も抜けて攻撃可能みたいなので、そこにこだわっても意味がないだろう。
「部屋に結界を張るから、その間に、風呂に入ってきて」
鬼頭が私の泊まる部屋に、何やら紙の札を張り始めた。聞いたところによれば、一応、許可はもらっているらしい。
「お風呂、大丈夫でしょうか?」
「建物自体にも、田野倉が陣を張っているから、大丈夫だとは思うが、長湯はしないほうがいい」
「わかりました」
民宿のお風呂は、いわゆる家族風呂で、男湯、女湯の区別はない小さなものだった。
建物に陣を張るといっているだけに、つきまとうように感じていた影の気配は、今は感じない。
それでも、やはりのんびりと湯につかる気にはなれず、風呂は早々に切り上げた。
民宿とはいえ、寝巻用に浴衣がおいてあったのだが、先日の夢で、自分が浴衣のようなものを着ていたことを思い出し、持ってきたパジャマを着る。セイとのキスが予知夢なら嬉しいが、洞窟のような場所で吊るされるのは、勘弁してほしい。それを予感するようなことは少しでも避けたかった。
美形の男性二人とのお泊りなのに、洗いざらしの可愛くないパジャマを着るって、残念女子の見本みたいだけれど、妖艶ネグリジェで大人女性アピールなどしている場合でもない。
そんなアピールしたら、仕事の邪魔で迷惑に違いないし、しかも誘惑できる自信などこれっぽっちもないから、やるだけ無駄である。
「あれ? 浴衣じゃないんだ」
部屋に戻ると、ちょっとがっかりしたように、田野倉が私を見た。
そういう田野倉は、Tシャツに半ズボンである。スキンヘッドのせいで、やーさんのようだ。なまじ濃い系の端正な顔をしているので、法衣を着ていないと坊さんに見えない。
「そういう田野倉さんも、浴衣じゃないじゃないですか」
「いざというとき、動けないから」
普段の法衣は浴衣と違って、動けるのだろうか。謎である。
鬼頭はまだ、Yシャツとスラックスのままだ。ようやく札を張り終えたようで、まだ着替えていないのだろう。
不意に、田野倉が眉を歪め、鬼頭がわずかに頷いた。
「んー、ちょっと出てくるわ」
「無理するな」
鬼頭の言葉に、田野倉はヒラヒラと手を動かす。
「ドンパチにはならんだろ」
田野倉はそう言って、襖に手をかけた。
「鬼頭、結界は張ったが、一応、ここにいろ……あ、壁、薄いから励むのは、ほどほどにな」
「励む?」
「あほか!」
田野倉に向かって、枕が飛んだ。枕は田野倉には当たらずに、閉められた襖にぶつかり、ストンと落ちる。
見ると、鬼頭の顔が真っ赤であった――やっと田野倉の言葉の意味を理解して、私も俯く。
六畳間にひとつだけ置いてある布団が、何とも気まずい。
「あ、えっと。お茶、飲まれます?」
私は、部屋にすみに移動されたテーブルのそばに腰を下ろし、そこに置かれていた茶器に手を伸ばす。
「ああ」
妙に二人きりであることを意識してしまい、急須を持つ手が震えてしまう。
「大丈夫。仕事中だ。何もしない」
震える手で、湯呑を鬼頭の前に置くと、優しく微笑まれた。
怖がっている、と思われたのだろうか。鬼頭は、湯呑を手にすると、自然に私から離れた位置に座りなおした。
「……わかっています。お仕事です、よね」
私は、湯呑に目線をおとした。胸の奥がギュッと痛くなる。
仕事だから、彼はここにいる――遠ざかった彼の距離感がそれを物語っている。最初から分かっていたことだ。
「田野倉さんも人が悪いですね」
田野倉は単純に鬼頭をからかっただけであろうが、私としては現実をつきつけられた気分だ。
「まったくだ。好き勝手なことを言いやがって……」
鬼頭としては、ビジネスであるから、男女間の感情が介在しないほうがやりやすいのはあたりまえだ。私が変に意識して行動したらやりにくいに違いない。
私はお茶をごくりと飲みほし、自分の感情を閉じ込めた。
「……そういえば、田野倉さんはどこへ行かれたのですか?」
「ああ、空の気配がしたから、会いに行った」
「空さん?」
私たちをずっとつけ回していた気配は、隼人のものだと言っていた。
「儀式は明日だ。俺たちがこっちに来ることは想定済みだったのだろう」
「そうですね。ここに来ないと、何も始まらないわけですから……」
カミサマの儀式をするにしろ、それを横取りするにしろ、この地に来なければどうしようもない。
「田野倉さん、おひとりで大丈夫なのですか?」
「それは問題ない。あいつは、ああ見えて強い」
鬼頭の言葉は深い信頼が感じられた。口悪く言い合っていても、田野倉は頼りになる人物なのであろう。
「空さんは、ともかく。磯田隼人というのは、どんな人なのでしょう?」
カミサマの力を手に入れて、いったい何をしたいのだろう。そもそも、彼自身、既にすごい力を持っているように思えるのに。
「潮神社は、潮田家が何代か前に神職を退いてからは、神主は他の神社との掛け持ちをしている雇われみたいな状態でね。当然、社人の家系であった磯田家も、神社と関係は断ったのだけど、渦潮使いとしての能力が血族に現れやすいので、霊能力者の血族として残っているのだが……」
鬼頭は湯呑のお茶を飲みほして、トンとテーブルの上にそれをのせる。
「隼人自身は、本当に霊能力者として登録はあるものの、仕事は会社勤めをしていて、能力者として仕事をしたという記録がない」
もっとも。実際、『霊能力者』という看板だけで商売している人は、少数派だろう。
「奴の調査はまだ十分ではないが、かなり孤独な男だ」
鬼頭はそういうと立ち上がって窓のそばに立つ。ガラス窓にも一枚、札が張られている。
風なのか、それ以外なのか、よくわからないが、窓ガラスがキシキシと音を立てている。
「隼人は、母親を早くに亡くし、父親も十八歳で亡くしている。五つ離れた妹を奴が育てたらしい。ただし、その妹は五年前に亡くなった――世間を呪いたくもなるだろうな」
「それで、カミサマ?」
「まあ、その心情はわからんでもないが」
「……ですね」
とはいえ、生き血をすすられたりするのは嫌である。気の毒だとは思うけど、私が彼の為に犠牲になるのは勘弁してほしい。
「それにしても、嫌な晩だ」
鬼頭は窓の外をじっと見つめる。私は立ちあがり、彼の隣で外の暗闇に目をやる。
ガラスの向こうに、異形のモノが漂っているのがわかった。
思わず、ぶるりと震えると、鬼頭がそっと私の肩に手を置いてくれた。
「闇が蠢いている――神の力が弱まっている証拠かもしれない」
闇を見る眼差しは真剣そのもので、怖い。
セイのこんな表情は見たことはない。彼は、私のセイではないのだと改めて感じながらも、私は鬼頭に惹きつけられいく自分を感じていた。
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