世界で一冊だけの本

 本屋に自分の本を置いてきたことがある。小学四年生のときだ。


 本っていっても、文庫本サイズのノートに、シャープペンで小説未満の何だかよくわからない文章の連なりを書きつけたものだった。親の再婚で義理の三兄弟ができた主人公の女子が、その全員に好かれて奪い合われるみたいな、当時好きだった児童文庫や少女マンガの影響がありありのやつ。

 カバーも紙を折って作り、題名やイラストを色鉛筆で描いてノートに掛けた。裏表紙にはバーコードも記した。もちろんISBNコードのことなんて何もわかっていない。黒線と数字をそれらしく並べただけ。


 振り返ってみれば、お子さま感丸出しの極めて稚拙な代物だったけど。

 それは確かに、世界で一冊だけの本で。


 だから、全国で大量に売られているどの本よりもこれは貴重で素晴らしいものだと思って、私は完成した自分の本を日々うっとりと眺めていた。

 それを本屋に置いてこようと思いついたきっかけはもう忘れちゃったれど、いったん浮かんだそのアイディアはとても素敵で、ますますうっとりした。こんないい本をただで提供されて本屋も喜ぶだろうと思った女子小学生の頭、大丈夫か。ぜんぜん大丈夫じゃなかったな。

 でも、大人の私がきっともう持つことのない、おもちゃの宝石みたいにぴかぴかと輝く自信と満足感を腕いっぱいに抱えていた小学生の私が、今はいとしく、うらやましくもある。


 週末に家族で買い物と外食に行ったショッピングモールの二階の本屋――その文庫コーナーで、周りに人がいないタイミングを見計らって、そのときいちばんお気に入りだったポシェットに忍ばせていた本を取り出し、素早く棚に押し込んだ。

 その瞬間の魂が抜けるような興奮は今でも思い出せる。

 万引きならぬ万押しを達成した後は、すぐにその場から逃げ出したけど、身体が妙にふわふわして頼りなかった。

 次の週末に見に行ったら、もう本はなかった。

 なぜか、店員に処分されたとは考えなかった。手書きのバーコードが運よくレジを通過して、誰かが買っていったのだと思い込んで、また興奮した。あとがきに(そんなものまで付けたのだ)携帯電話ガラケーのメールアドレスを記して「感想を待ってます」と書いたのだから、きっと近いうちに、世界でひとりだけの読者からメールが来ると思った。


     *


「決してよい行いではありませんが――」

 森島もりしま章子あきこは微笑んで「素敵な思い出ですね」と言ってくれた。

「ありがと」と応じて、私はマグカップを持ち上げ、ラテアートの基本であるリーフ柄が描かれたカフェラテを口に運んだ。


 今夜の私たちは狸小路たぬきこうじのブックカフェにいる。明日は土曜日。私は飲んでもいいんだけど、章子が所属している写真サークルの撮影会が早朝からあるというので、お酒じゃなくてお茶にした。


沙織さおりさん、ちょっと失礼します」

 ふいに章子は、かたわらに置いた一眼レフカメラのレンズキャップを外して、壁一面の本棚をファインダー越しに覗きこんだ。モニターを見ないのがこの子の流儀だ。大量の本で構成された風景の何かが、この子の琴線にふれたらしい。

 立て続けにシャッターを三度切って、章子はすぐにカメラを置いた。撮影会でもこうやって、いっさい迷いのない動きで撮るのだろう。


「小さいころからお話を書くのが好きだったのですね」

 話題を再開した章子に、私は「でも、その『本』が最後だったよ」と苦笑した。

「それから、二十歳を過ぎるまでは一文字も書かなかった」

「なぜ?」

「笑わない?」

「えっ。わかりません」

 眼鏡の奥の目が(どうしてこの作家志望の限界OLは不確定で答えようがないことをあえて訊いてくるんだろう、脳がアルコールで溶けてるのかな?)という感じのとまどいに揺れた。私の友だちの大学生はこういうところが実に正直である。

「それは、実際に聞いてみないと……」

「笑ったら帰る」

「どんな内容でも笑わないよう努力します」

 章子は唇をぎゅーっと真一文字に引き結んだ。

 私は、ぽつりと言った。


「いくら待ってもメールが来なかったから」


 誰かから感想が来ると、小学生の私は本当に信じていたのだ。

「ちょー面白かった」かもしれないし「つまんなかった、金返せ」かもしれないけど、とにかく何かメールが来るはずだと思い込んでいたのはなぜだろう。一日に何度も着信を確認し、授業中にもガラケーを開いて先生に没取されて親を呼ばれたこともあった。

 子どもの興味がうつろうのは早い。友だちと遊ぶのにも忙しく、塾にも通わされ始め、やがて私は感想メールを待つことを忘れた。ショッピングモールから本屋が撤退して百円ショップになった春、私は小学五年生になり、もう小説らしきものを書くこともしなくなった。


「――それで興味を失くしちゃう程度のものだったんだよねえ」

 私はへらへらと言ったけど、章子は笑わなかった。

「でも、大人になってまた書いておられる。投稿小説を」

「まあ、ね」

「ちなみにその『本』の作者名は、何かペンネームを?」

「いんや。堂々と新井あらい沙織って書いた」


「では、これから連絡が来るかもしれません。沙織さんが今後デビューして出版された本を、本屋で見かけた人が、あのお手製の本を書いた子だと気づいて」


 私は、章子をぼんやりと見つめた。

 慰め混じりの洒落じゃないのは、その小さな顔を見てわかった。本当にその可能性があると信じているのだった。小学生のころの私のように。

 私は笑った。

 笑わずにいられる?

「最高のエピソードじゃん、それ」

「まさか、と思いますか。でも、そういうドラマティックなことって、意外と起こると思います」

 章子も微笑んだ。

 この子は、私の才能を信じている。それが嬉しいし、おそらく写真に関して本物の才能を持っているこの子の心のまっすぐさが、ときどき恐くなる。その恐さに完全に押し込まれたとき、私は森島章子の友だちでいる資格を失うだろう。

「明日は」

 と、私は言った。「私も早起きして書くか」

 章子の表情が輝いた。

「では、お家に帰ってから晩酌してはいけませんよ」

「しない。きっと。たぶん。おそらく」

「なぜ『しない』とだけ言えないのですか」

 一転、渋い表情になる章子に、私はへへへと笑う。

 静かに夜が更けていく。

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