陸酔いって一体何なんだろうな
「どうします?」
綿貫はそう尋ねてきた。
「帰らないのか」
「……えっと、実はですね、こういうものがあるんです」
そう言って綿貫は鞄から、紙切れを取り出した。
「名古屋港クリスマスクルーズ? どうしたんだこれ?」
「萌菜さんがくれたんです。演劇部の礼だと言えばわかる、と言われたのですが」
それはご丁寧に。
演劇部でゴタゴタが起こった時、解決を依頼された、執行部の手伝いを俺は以前にしていた。
「私は四人で行くから、使えそうにないと断ったんですけど、どのみち今日しか使えない、と言われたので」
ふうむ。……まあ、いいか。
「まだ間に合うな。行ってみるか」
船着き場は、ここから歩いていける距離にあるようだ。
「いいんですか?!」
「だって勿体ないし」
それに、萌菜先輩にはいろいろとこき使われているのだ。ありがたく使わせてもらっても、ばちはあたるまい。
「じゃあ、行きましょう!」
そう言って、綿貫は俺の手を引いて、クルーズ乗り場へと向かった。
冬の日は短い。まだ午後四時を過ぎたばかりというのに、あたりはすっかり暗くなってしまっている。
潮風の香る、名古屋港の船着き場で、クルーズの客らしき人たちが、集まっていた。
船は既に着いている。もうすぐ乗船が始まるのだろうか。
乗船開始までの間、綿貫と話をした。真冬だというのに、少しも寒いとは思わなかった。
船に乗ってからの小一時間、名古屋の夜景を堪能した。綿貫はうっとりとした表情を覗かせている。しばたく、まつ毛の先がしっとりと濡れているようで、紅の差した頬が、乾燥した冬の空の下だというのにつややかだ。
俺が見惚れたのは、名古屋の夜景ではなく、こいつのそんな表情だったのかもしれない。
どちらにせよ、このような甘美な時間があることを、俺は今までどうにも、知りようがなかった。
ゆっくりと港が近づくのを見て、クルーズが終わるのを悟った。
波は穏やかだったので、船酔いすることもなかった。
二人で並んでタラップを歩き、港へと降りる。
すると、船から降りた綿貫が、よろけて、俺の方へと倒れかかってきた。
「すっすみません」
綿貫は慌ててそう言う。
「
人間の体とは不思議なものだ。揺れたものから、揺れないものに移った時も、地が揺れ、酔ったような感覚を覚えるのだから。
よろけた綿貫の手を持ちしっかりと立たせてやった。髪が揺れるたび、ふわりと良い香りがする。
「気持ち悪くないか?」
今のセリフ、綿貫の手を取る俺が、気持ち悪いかどうか聞いているみたいだな。
多分、佐藤とかはすぐに、「気持ち悪い、あんたが」とか言うに違いない。
「深山さんは気持ち悪くないですよ」
……大丈夫だ。綿貫に悪気はない……はず。こういうことを言うようになったのは、十中八九、佐藤のせいだろうが。
「……お前の気分の話をしているんだが」
「ああ、それもなんとか大丈夫そうです」
これが萌菜先輩であったのなら、わざと酔ったふりをしているのではと、勘繰るのだが、綿貫のことだ。そんなことはあるまい。
……いや、それはそれでいいかもしれない。セイント綿貫、時々小悪魔。……ギャップ萌え?
船を降りてからは、地下鉄で名古屋駅に戻った。
家まで送っていくと言ったのだが、迎えが来るらしく、撤去の決まった、駅前のグルグルのところで、別れた。……あれ、何ていう名前だっけか。
確か、タッチ・アンド・ゴー? とかそんな感じ。飛び立てフライ・アゲインだったか?……多分違う。
雄清なんかは、
駅前の一等地にでんと鎮座する、愛すべき邪魔者だ。駅前の渋滞は、あれが一端を担っていると言っても過言ではないが、やはり見慣れたものが撤去されるのは、少し寂しい気もする。
グルグルの撤去は、名古屋をまた一つ、没個性的な街に近づけることのように俺には思えてしまう。
感傷がそう思わせるのか。
変わらぬものなどないと、分かってはいるのに。
変わるといえば、このグルグルを挟んで桜通りの東に立地する、大名古屋ビルヂングも現在進行形で工事中だ。
よく知らないのだが、おそらくは数ヶ月としないうちに、開店できるのではないだろうか。……多分来ないけど。
名古屋の近くに住んでいるからと言って、出不精の俺は、滅多に街には来ない。次来るのは、まただいぶ先になるだろうから、どうせならここでしか見られないようなものを、見ておくのも良いのだが、この時期に人混みに好んで出向くというのは、ある意味自殺行為である。俺の愛する妹に風邪でも移したら大変だ。俺が、親父とお袋にどやされる。
無論、風邪やら、
そう考えて、すぐにJRの、改札口に向かったのだが、財布を取り出し、黄色い顔の描かれた交通系プリペイドカードを出そうとしたところ、肩を叩かれた。
「ちょっと」
なんだ、職質か? 心当たりはないが。
そう思って振り返ってみたら、なんと夏帆ちゃんが立っていた。
「夏帆ちゃん、こんなところで何しているんだ?」
「お兄ちゃんこそ、何で一人なのよ」
「今帰るところなんだ」
「そういう事じゃなくて、今日デートなんでしょう。どうしてもう帰るのよ」
「いや、そもそも、デートじゃないんだが。部活のメンバーで水族館に行っただけだぞ」
「雄君と留奈ちゃんと後、もう一人女の人でしょう。ダブルデートじゃないの? 留奈ちゃんはお兄ちゃんがその人にベタ惚れだって言ってたわよ」
あの女、いい加減な事を言いやがって。……いや合っているか。
「もう会ったのか。佐藤達に」
「雄君にはまだだけど」
ふむ。
それにしても、年下に雄君と呼ばれるのもどうなのだろうか。威厳の無い男だからしょうがないか。
「いずれにせよ、俺は帰る。
「いいじゃない。代わりに私とデートしてよ」
「妹とデートなんざシスコンそのものではないか」
「……私の事……嫌いなの?」
そういって、目をウルウルさせ上目遣いで見てきた。やりにくい。
「お前は中三だろうが」
「私中三だけど、中高一貫だから、そんなに気にしなくていいわよ。内部進学ほぼ確定だし。学校が倒産しない限り高校生になれるわ」
「おい。受験のあるなしに関係なく、しんどい思いはしたくないだろうが」
「お兄ちゃんと一緒なら怖くないよ」
……妹ながらあざとい女である。
結局言いくるめられて、妹と二人でミッドランドスクエアに行くことになった。……俺多分しりに敷かれるなあ。
「何見る?」
ミッドランドスクエアにある映画館の入り口に入ったところで、夏帆ちゃんが俺に聞いてきた。
「じゃあこれ」
そう言って、俺が指さすのは、某大ヒットのスペースオペラ映画最新作。「遠い昔、遥か彼方の銀河系」で繰り広げられる、剣術あり、超能力あり、おまけに宇宙船も出てくる、エンターテイメント性抜群の冒険活劇である。
四十年以上も愛され続けるとか、もはや神。復活させてくれてありがとう。
「ええ……、ハリウッドの大味はもういいよ。それに買収された映画とか、もうやり方からして気に入らない」
「大人の事情は察してやろうぜ。映画に罪はない」
夏帆ちゃんは俺の話など聞かない。
「それに、ウォルトディズニー亡き、ディズニー映画とか駄目でしょう」
「ディズニーさんはお前の生まれるずっと前に死んでいるんだが」
再度言うが、夏帆ちゃんは俺の話など聞かない。
「それに、ジョージ、可哀想だもん。絶対原作レイプされてるって。私の中じゃ、新旧三部作で完成された芸術だから。後のは全部蛇足よ。だ・そ・く」
「原作者を友達みたいに言うな。あと女の子がそんなこと言うもんじゃありません。見てもないのにわかるわけないだろう」
再三言うが、夏帆ちゃんは俺の話など聞かない。
「だからこっちにしよ」
そういって、邦画の恋愛映画を指さす。最初から俺に選択権などなかったのだ。……なんで聞いたんだよ。
それからチケット売り場に並ぼうとしたのだが、
「じゃあ、2人分よろしくね」
と言って、夏帆ちゃんは俺に学生証を渡し、後ろの方に移動する。
「おい。俺に払わせる気かよ」
「だって電車賃しか持ってきてないもん」
「お前、何しに名古屋に来たんだ」
悲しいかな、名古屋は夢の国ではない。金が無ければできることなんてほとんどない。……夢の国に入るにも金で買ったパスポートはいるけどね! 結局世の中、金である。夢は金で買うのだと、ウォルトさんは子供たちに教えてくれたのだ。
「お兄ちゃんに会えると思ったから。お兄ちゃんと私って運命の糸で結ばれているじゃない」
「そうかそうか、それじゃあ仕方ないな」
そういって、俺は嬉々として列に並んだ。何故夏帆ちゃんが学生証を都合よく持っているのかは考えなくてもよいだろう。
幸運なことに、水族館で学割が使えると考えていた俺は、学生証を持っていたので、損をしないで済んだ。
チケットの注文を終え、横にずれようとしたところ、少々驚いた。なぜかというと、俺の後ろに並んでいた、女性が、サングラスをし、マスクをつけているという、まさに不審者の姿であったからだ。
しかし、今の時期だ。それも仕方ないのかもしれない。
劇場に入ってしばらくしてから、俺と夏帆ちゃんの座っている席の横に人が来た。
気の利かない店員がいたもんだ。劇場は満員というわけではない。それなのにわざわざ隣席を埋めるとは。何気なく見ると、先の不審女である。
俺はその不審女と、夏帆ちゃんに挟まれる形になった。
映画が始まるまで、少し時間がある。
先ほどから、隣の不審女は、咳払いを繰り返している。ほんとやめてほしい。これで帰った後、風邪でも引いたら、確実にこの女のせいである。
いっそのこと、席を変えてやろうかとも思ったのだが、流石に、そんなあからさまなことは出来なかった。
トイレに行きたくなったので、
「ちょっと、トイレ」
と言って立ったら、
「なんで入る前に行っとかないのよ」
と叱られた。妹に。
隣の不審女に声を掛け、
「すみません」
と通る場所を開けてもらおうとしたのだが、聞こえなかったのか、無反応である。
「すみません」
もう一度言ったのだが、やはり反応はない。
仕方がないので、無理やりに跨いでいこうとしたら、その女が足を絡ませてきた。俺は心底、背筋の凍る思いがした。
「えっと、あの、なんですか」
不審女は、ようやくサングラスとマスクを外して言った。
「もう、深山君ひどいじゃない。どうして気づいてくれないの?」
劇場に入ってからコートを脱いだようで、その下のセーターが体の起伏に合わせて、ぴったりと張り付いて、否応なくその女の胸部を強調している。マスクの下の肌は、白く細やかで、すっと通った鼻筋に、大きな瞳、紅の差した頬が、俺の好きな女を想起させる。
だが、綿貫さやかではない。
その不審女は、萌菜先輩だった。
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