優しい世界に住みたかった
「それで飯沼先生に、何を聞くっていうんだい?」
職員室へと向かう途中、雄清は俺にそう尋ねてきた。
山岳部の顧問は、名字を
俺自身、単に名字が同じだけだとは思った。しかし、もしかしてと思って、今日の朝、それを確かめに行ったのだ。
飯沼先生には会うことはできなかったが、彼の机の上には、飯沼春子の写真が飾ってあった。
飯沼先生が、詳しいことを知っているとは限らない。
仮に、飯沼春子が、学校をやめるような事態になっていたとすれば、知っていたとしても、進んで話してくれはしないだろう。
「飯沼春子が、今どこで何をしているか聞いてみる」
「まさか、本人に直に尋ねる気かい?」
「もし、飯沼先生から聞き出せたとして、本人の
「それはそうだけど」
そんなことを話しながら、俺たちは、職員室へとたどり着いた。
飯沼先生の席へと向かう。
「飯沼先生」
俺は席に座っていた、飯沼先生に声をかけた。
「ん? おお、深山と、山本か? どうした? 次の山行はまだ先だが」
「いえ、すこしお尋ねしたいことがあるんです」
「なんだ?」
俺は覚悟を決めるために、一度深呼吸をした。
「飯沼春子さんというのは、先生の娘さんですか?」
「……そうだが。どうしてそれを」
「二十年前のマスコット倒壊の事故についてのお話を伺いたいんです」
飯沼先生はじっと俺のことを見たが、ため息を吐くようにして、
「ここじゃ、なんだから、社会科準備室で話そうか」
といって、席を立った。
俺たちは、社会科準備室に向かって歩く、彼を追って職員室を後にした。
「それで、どうして二十年前のことを?」
社会科準備室の席について、飯沼先生はまずそう聞いてきた。
「文化祭で出す、部誌に生徒会が分裂した原因は何だったのか、という記事を載せようと思ったからです」
また、変なことを載せようと思ったな、と飯沼先生は呟いて、
「私が知っていることは、話そうと思うけど、一つ条件がある」
「なんですか?」
「個人名は伏せて書いてちょうだい」
「はい、それはもちろん」
「出来たら、見せること」
「はい」
こほんと飯沼先生は咳ばらいをして、
「娘にたどり着いたということは、ほとんど答えにたどり着いているとは思うけど、何が聞きたいの? とりあえず、知ったことを話してくれない?」
「多少、想像の話も混ざっていますが」
俺は飯沼先生に、夏休みが終わってから、調べてきたことを伝えた。
「二十年前に生徒会が作ったマスコットが倒れ、陸上部の女子生徒がけがをした。その女子生徒は生徒会長、飯沼春子の中学の同級生で、かつての部活仲間だった。
その女子を怪我させてしまったことが原因で、生徒会は分裂、今の生徒会は立案部と執行部に分かれている」
事実としてはそれだけだ。嫉妬がどうだとか、恨みつらみがどうだとかを飯沼先生に話すのは
「それで、正しいと思うけど、他に何を聞きたいの?」
「春子さんは、事故の後、転校してしまったのですか?」
飯沼先生は声には出さず、首肯しただけだった。
「今は何をしているんですか?」
「医者やっているよ」
「彼女に会いたいんですけど」
「病院に行けばいいんじゃない? 綿貫の家の病院だよ」
「大海原病院で働いているんですか?」
「そう」
なんという因果だろうか。世間の狭さを感じる。
社会科準備室を出た俺達は、部室へと向かっていた。
才色兼備にして、生徒会長にまでなり、衆目の的となった飯沼春子。
努力に努力を重ね、それでも飯沼には敵わず、神宮に進学し、飯沼春子が去ってから陸上部のエースとなった、堀越久美子。
努力家は天才に嫉妬していた。天才は気にも留めていなかった。だが、おそらくは悪い空気を察して自ら身を引いたのだろう。
飯沼春子は陸上をやめた。
それで終わればよかった。飯沼春子が少々の苦い思いをして、事は済んだだろう。少なくともカタストロフィにはならなかったはずだ。
転機は学校祭での事故だ。嫉妬は憎悪に変わり、周りの人間も学校祭を台無しにされたことで彼女に対する風当たりが強くなっていった。
結果、生徒会は分裂。学校にいづらくなった彼女は、転校していった。
俺は頭の中で、状況を整理していた。そんな時雄清が聞いてくる。
「一つ気になることがあるんだけど」
「なんだ?」
「堀越久美子だけでなく陸上部の先輩も、春子さんに嫉妬したと書いてあったよね」
「そうだが」
「妙じゃない? 堀越久美子も一年生なのに、エースになっている」
「……それは、……確かに」
天才にしても、努力家にしても、先輩を押しのければ、良くは思われないだろう。一年生でエースになる、というのはどれだけ努力したとしても容易ではない。
堀越は自分より優秀な飯沼に嫉妬したかもしれない。
だが、同様に堀越も周りの人間から嫉妬される可能性は十分にあった。
ふと中庭を見て、マスコットが組み立てられてあるのを見る。
「なあ、あのでかいの、どうやって固定するんだ?」
「大きな鋲を地面に差し込むんだよ。それに重心をなるべく下にして、倒れないような設計じゃないと、そもそも体育祭実行委員であるところの、僕ら執行部が許しはしないさ」
「それって結構前から決まっていることなのか?」
「マスコット制作自体は三十年以上前からだけど、えっと、綱領は昭和59年制作だったかな? 生徒会が運用していたはずだ」
「じゃあ、初期のころから厳格にルールを決めていたんだな」
「まあ、そうだね」
二十年前のマスコットはそのルールに
どこかにそんなことが書いてなかったか?
というか、そうでなければおかしい。生徒会が主導となって作られる各群団のマスコットがうまくできたのに、主導者の生徒会のマスコットが倒壊?
そんな馬鹿な話があるか。そんな根本的なことを俺は見落としていた。
部室に戻った俺は、机に広げられてあった資料を見た。
数学部の日誌に目を通したとき、探していた記述を見つけた。
『全く誰だよ、鋲を抜くような馬鹿は』
この鋲というのは、マスコットを固定していた鋲のことだったのか。さっき読んだときは、何かの隠喩だとばかり思ったが。
俺は、その時、とんでもなく、嫌なことに気が付いてしまった。
固定のための鋲を抜かれたマスコットは倒壊した。その結果怪我をしたのは誰だ? 堀越久美子だ。
ではそれで本当に得をするとしたら、誰だ?
堀越久美子は憎い相手を学校の敵にできて、満足したかもしれない。けれども、怪我を負った。いいわけがない。
本当に得をするのは誰だ?
「……まったく」
どうしてこんな簡単なことに気が付かなかったのだろうか。俺は自分の間抜けさを苦々しく思った。
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