鳥かご

 映画は、鬼にとらわれた姫を二人の勇者が助けるという物語だ。姫は綿貫が演じている。

 最終的に姫は助かるのだが、彼女を助ける勇者は二人とも死んでしまうという、結末だった。カタストロフィとは言えないが、大団円というのも少し苦しい気がした。

 姫というものは、魔性の女、なのではないかとも思える。彼女のためならば命を賭すことも構わないと、二人の男に思わせてしまうのだから。そもそも、鬼というものも、その姫の美しさに目を奪われ、彼女を奪ったのだ。こう考えると、全ては姫の美しさによる悲劇だったともいえる。

 山で撮影したシーンは、姫が鬼に捕らわれているときのものだった。自分の不幸を呪う姫を綿貫は見事に表現していた。露出の多いところが難点だった。

 試写会は何事もなく、終了し、前で生徒会長、井上奏太が制作班に労いの言葉をかけて、お開きとなった。素人が慌ただしく作った割には、なかなか良い出来だったと思う。これならば宣伝効果も期待できそうだ。

 

 帰りに、部員の四人で、カフェによることになった。

「綿貫さん、お疲れ様。素晴らしい出来だったよ」席に着くなり、雄清が綿貫に対して言った。

「ありがとうございます。おかげさまで生徒会の皆様ともお近づきになれたと思います。皆さんほんとに素敵な人たちですね。

 深山さんは、どうでしたか?おもしろかったですか?」綿貫は俺のほうを見てきた。

「うん、まあ」俺は適当な言葉が見つからなかったので、ぼそぼそとそういった。

「太郎何だか、浮かないね。夏バテかい?」雄清が俺の顔をまじまじと見る。別段体調は悪くない。

「こっちゃんがみんなに注目されるのが嫌なんじゃない」佐藤がいつものように軽口をたたく。

「馬鹿な。俺は綿貫が注目の的になろうと構わないさ」そういって、運ばれてきていた、アイスティーを口に含む。そういうと、佐藤は、どうだか、と口元を緩めながら、目の前のティラミスをスプーンですくった。

 雄清がトイレに行く、と立って、佐藤もトイレに向かい、席には俺と綿貫だけが残った。

「……お前少し元気がないんじゃないか」俺は綿貫に対してそういった。そうなのだ、浮かない顔をしているのは、俺よりむしろ綿貫の方であった。連日の撮影で疲れているのだろうか?

「ちょっと、気になることがあるんです」綿貫は、俺の目をじっと見てくる。俺が何だ、というと、「あの映画には何か意味があったのではないでしょうか?」と綿貫は言った。

「どういうことだ?」俺は本当に綿貫が何を言っているのかわからなかった。

「深山さんも萌菜さんと生徒会長さんが仲良く話をしているのは見ましたよね」

「ああ。撮影が無事に終わって、一体感みたいなものでも生まれたんだろう」俺がそういうと、綿貫は首を横に振った。

「違うんです。萌菜さんは撮影を始めた時から、生徒会長とは密にコンタクトを取っていました。彼らの間に、齟齬なんてものは微塵も見られませんでしたよ。それどころか、生徒会長は撮影のことについて、熱心に萌菜さんと相談していました」

「それは、立案と執行のリーダー同士なんだから当然だろうよ」

「違うんです。そんな堅い感じではなくて、なんというか……。深山さんはあの映画を企画したのは誰だかご存知ですか?」

「立案委員が考えたと、雄清は言っていたが」

「そうです。あくまで映画を企画し、その脚本を書いたのも、立案部の方であるはずなのに、萌菜さんは映画のことを知り尽くしていました。生徒会長さんと、萌菜さんとはまるで、二人の監督が映画の打ち合わせをしている感じに見えたんです」

「……本来ならば、部外者であるはずの萌菜先輩が、まるで初めから映画製作に参加している人物のように見えたということか?」俺がそういうと、綿貫は首肯した。「……確かに妙だと思っていた。俺は映画が頓挫しかけたから、執行部が立案部に手を貸したと聞いていた。それなのに、撮影はスムーズに進み、脚本も完璧な状態で用意されていたみたいだ。しかも、文化祭が開かれるまでまだ一か月ほど、余裕がある。立案部が執行部に助けを求めるには、少し早すぎる気もする。萌菜先輩は初めから知っていたのか?それとも萌菜先輩が映画を企画したのか?」萌菜先輩の狙いは何だろうか?

「萌菜さんにそれとなく尋ねてみたんですけど、やんわりと話をそらされました」

「人のうわさ話はそんな大きな声でするようなものではない」心臓がどきりとした。後ろの席に座っていたのが、萌菜先輩その人だったのだ。俺は驚きのあまり、言葉を失った。「名推理をする割には間抜け面だな深山君」

「じゃあ、やっぱりあの映画の脚本は、萌菜先輩が?」俺は萌菜先輩に尋ねた。

「それは違う。脚本を書いたのは生徒会長だ。君の言う通り、映画製作のかなり初期の段階で立案が執行部に協力を要請してきたことは事実だが」

「じゃあなんで、嘘なんか」俺が聞こうとしたら、萌菜先輩は俺の口に人差し指を当て、

「人を嘘つき呼ばわりするのはよくないな。私はそんなことは一言も言っていないぞ」と言った。「どういう事情があるのかは、本人に聞けばいいんじゃないか。井上生徒会長様本人に」萌菜先輩はそう言い残して、席を後にした。

 しばらくしてから、雄清と佐藤が戻って来て、雄清が、「ふたりともどうしたんだい?」と尋ねるまで、俺は呆然と立ち尽くしていた。

 カフェを出てから少し綿貫と話をした。

「萌菜先輩の言ったことどう思う?」

「私にもわかりません」綿貫は申し訳ないという表情をした。

「そうだよなあ。……それでさ、お前、あの映画には意味があったんじゃないかっていったろ。あれどういうことだ?」

「私が演じた姫、というのがすごく現実的な気がしたんです。生々しくて、本当に誰かの苦しみを表現したかのような……。私にはあの映画には強いメッセージが込められていたように思えるんです」

「生徒会長の強いメッセージか……。別に知らなくてもいい気がするんだが」芸術家の内に秘めたる思いなど凡人には理解不能なのだから。

「私は気になります。これはしておかなければならない気がするんです。もし生徒会長さんに伝えたいことがあるのならば、受け止めてあげるべきなのではないでしょうか」それはどうなのだろうか。綿貫はそういってから、目を泳がすようにして、俺のことをちらちらとみてきた。本能的に綿貫がまだ話してないことがあるのだと思った。

「それで、なんだ。他にも気になる理由があるんだろう」俺は綿貫に話を促した。

「……会長さんには、お姉さんがいるそうなんです。八歳年上で、名前をカナコというそうです。お姉さんも神宮かみのみや高校出身だとか」

 イノウエカナコ。俺ははっとした。「それって」綿貫は頷く。

 井上奏子は高橋雅英の恋人であったであろう人物だ。会長の八歳年上ならば、綿貫隆一と高橋雅英と同い年になる。会長の姉がその人である可能性は十分にある。彼女は今も生きているのだろうか?

「会長さんに話を聞きに行くのについてきてくれませんか?」綿貫は上目遣いで言った。

「苦手なのか?」

「そうではありません。華やかで素敵な方だと思います。ただ近寄りがたくて」

「だから、苦手なんだろう」俺がそういうと、綿貫は小さくはい、と言った。

 まあ、この前、おいしいもの食べさせてもらったからな。

「わかったよ。俺も付いて行ってやる」俺がそういうと、綿貫はうれしそうな顔をした。


 お盆が終わるまで、学校に立ち入ることはできなくなる。会長の家を訪ねることもできたかもしれないが、それ程、喫緊のことだとも思われなかったので、部活動解禁となるまで、萌菜先輩の残した謎はお預けとなった。

 お盆が終わってから、俺は綿貫と一緒に立案委員室を訪れた。部屋の中には会長の姿は見当たらず、机で書類を書いていた女子生徒に、会長はどこにいますか?と尋ねたら、すぐに戻ってくるでしょう、と言われたので待つことにした。

 綿貫は見るからに緊張していた。当たり前だ。人様の家のことにずかずかと入り込むような真似を今からするのだから。

 生徒会長がガラリと戸を開いて、俺たちのことを見た時、おっという顔をしたが、すぐに破顔し、「さやかちゃんどうしたの?」と親しげに声をかけてきた。

「会長さんにお話があるんです。すこしいいですか?」綿貫は緊張した面持ちで言った。

「いいけど。君は……確か山岳部の……」

「深山太郎です」俺が自己紹介すると、そうそう、撮影機材を運んでくれたんだったよね、と会長は言った。

 会長は主演女優の話ということだから、全く警戒することなく、俺達についてきてくれた。

「それで、話って何かな?君たちの宣伝のことなら、ちゃんと覚えているよ」

「違うんです。そのことではありません。……会長さんの、奏太先輩のお姉さんのことについて教えてほしいんです」綿貫がそういったところで、会長の顔が少し曇った。

「姉貴の話?どうして俺に姉がいるって知っているんだ?」会長は眉をひそめた。

「すみません。盗み聞きするつもりはなかったんですけど、奏太先輩がほかの方と話をしているのを耳に挟んだものですから」綿貫は弁解するように言った。

「いや、怒っているわけじゃないんだ。気になっただけ。そうか、そんな話、確かにしてたかもな。それで、姉貴がどうかしたの?」

「お姉さんのお名前って、会長さんの名前の奏に子供の子ですか?」

「ああ。よくわかったね」

「お姉さんに恋人がいたことはありましたか、その高校生くらいの時に」

会長は少し笑ってから、「さあ、そこまでは。俺もまだ、小学生の頃だったから。いたかもしんないけどわかんないな」と答えた。普通に考えればこのような奇妙な質問にすらすら答えるとも思えないんだが、会長は綿貫にすっかり気を許しているらしく、疑う様子もなく答えている。

「では、十年ほど前にお姉さんは入院しなければならないような、病気やお怪我をしましたか?」綿貫がそういったところで、会長の顔は明らかな不快感を示した。

「……なんでそんなこと聞くんだ?」怒声と言うには大げさだが、それまでの人の好さそうな話し方からはかけなはれていた。聞けばすぐに彼がいらだちを感じているのがわかるだろう。会長の豹変ぶりがすごかったので、綿貫はひるんでいる。綿貫が言葉を出せずにいたところ会長は続けて「そうか、君は綿貫家の人間だったな。姉貴がどんな風になっているか、病院の関係者からでも聞いたのか。これ、訴えたら、確実に病院側は敗訴するよ」

綿貫はようやく、口を開いて「不躾な質問をして申し訳ありません。お姉さんのことは何も知りません。病院の関係者からは一切、情報が漏れ出ているということはありません」と言った。

「ふーん、あっそう。じゃあなんで姉貴のことを?」

「話せば長くなるんですが、私の兄の隆一が失踪したことに関係しているんです」綿貫がそういったら、会長がぴくりとして、

「綿貫隆一が失踪?」と確認するように言った。

「はい。調べていくうちに、高橋雅英さんと井上奏子さんという女性に行き当たったのです。彼らが兄の失踪に関係しているのかはわかりませんが、兄に関することは余すところなく私は調査したいと思っているのです。それが兄への餞になるんじゃないかと」

「……そうか。綿貫隆一と高橋雅英か。……さやかちゃんはラッキーだね。その井上奏子は僕の姉と同一人物だよ」会長はしんみりとした様子で言った。

「では、十年前に入院したりは?」

「したよ。……姉貴は男に襲われたんだ」

「……それは……許されないことですね」綿貫は慎重に言葉を選んでいったようだ。

「ああそうさ。俺はそんな下衆を許すつもりはないさ。姉貴は妊娠はしなかった。だけど、心に深く傷を負ったし、その下衆は姉貴にとんでもないもんを植え付けやがったんだ」

「……何ですか」

「初めて病院に行ってから、一か月後、姉貴は検査を受けたんだ。エイチアイブイ抗体検査を。結果は……陽性反応だった」

 綿貫も俺も言葉を失った。いまだ、治療法が見つかっておらず、世界中で人を死に至らしめている、エイチアイブイ。後天性免疫不全症候群、通称エイズを引き起こす殺人ウイルスだ。

「天下の大海原病院で助かる術がないと言われたんだ。姉貴はそれこそ死ぬる思いがしただろう。投薬治療をやって、まだ発症はしていない。だが、姉貴が俺より早く死ぬことは確実だ。発症するまで二十年から三十年だと言われた。だけどそんなの信じられるか?姉貴はいつも、いつ発症するんだろうかという恐怖に苛まれて生活している。

 姉貴は子供を作ることも、天寿を全うすることもできない。俺たち家族も、医者もそんな姉を助けることはできないんだ」会長が何かを吐き出すようにして、言った。

「……お姉さんは、私の兄や、高橋雅英さんとはどういった関係だったのでしょうか?」

「それは姉貴に直接聞いてくれ。聞き出せたらだけどな」

「……奏太先輩があの映画を作ったというのは」

「元ネタは、姉貴のうわ言のような昔ばなしからさ。雅英君は逝ってしまって、隆一君も会いに来てくれない。私のこと忘れちゃったのかな?寂しそうに言いながら、高校での思い出話を俺にする。俺は聞きたくなんかないんだが、聞かないわけにもいかない。何度も何度も同じ話をされた。俺は姉貴の気持ちを誰かに伝えたかったのかもしれないな。姉貴がこの世にいたという確かな証拠を残したかったのかもしれないな」会長はどこかここではないところを見るような目で言った。「君らが姉貴の話を代わりに聞いてくれるのなら助かる。綿貫隆一の妹なら姉貴も喜ぶだろう」そういってから、会長は家の住所を走り書きして、綿貫に渡した。それから、脚本のコピーをほかの誰にも見せない、という条件付きで、俺達に貸してくれた。

 俺達は、会長に一礼し、一旦部室に行くことにした。 

「どうする、行くのか?」

「行かないわけにはいきません」綿貫はそういうだろうなと思った。

「しかし、俺には井上奏子の思いを受け止める自信はないぞ」

「だけど、彼女の話を聞かないで、高橋雅英さんが何を思い、私の兄がどう感じたかは絶対分からないです」綿貫はきっぱりと言った。

 俺はため息をつく。「わかったよ。俺は後ろで聞いているだけだからな」そういうと、綿貫は構いませんと言った。

 

 井上奏子のアパートは最近建てられたらしく、きれいな外装をしていた。

 奏太会長曰く、仕事をしているが、六時までには戻るということだったので、俺達は時間を合わせて訪ねた。

 綿貫がドアホンを押すと若い女性の声が聞こえる。「はーい」

「綿貫さやかと申します。綿貫隆一の妹です。井上奏子さんですか?兄のことでお話したいことがあるのです」

 しばらく反応がなかったが、「ちょっと待ってください」といって、ドアがガチャリと開いた。「どうぞお入りください」井上奏子は思っていたよりも元気そうに見えた。そして、世間の男が放っておかないだろうなという、容姿をしていた。

 部屋はきれいに片付いていた。女性の部屋に入るのは人生で二度目だが、感想というのはそれだけだった。

 奏子さんは俺達に椅子に座るように促し、冷たい麦茶を出してくれた。

 綿貫が改めて自己紹介をする。「綿貫さやかと申します。初めまして井上奏子さん。兄がお世話になっていたと存じております」

 俺も綿貫に続けて挨拶をした。「深山太郎です。ただの付き添いなので俺には構わないでください」

「隆一君は元気にしている?」奏子さんはそう綿貫に尋ねた。彼女は綿貫隆一が行方不明であることを知らないのだ。

「兄は去年から行方が分からなくなっているんです。山で遭難したのではないかと考えています」

「……そう……だったの。ごめんなさい」奏子さんは口に手を当てて言った。ショックはかなり大きかったようだ。

「いえ、私は今日、そのことについてあなたにお話を伺いに来ているのです。私は兄がどこの山に、どうして行ったのかを調べているんです」

「私に聞くことがあるの?」目を潤ませた奏子さんは驚いた顔をした。「私は隆一君が失踪していたことも知らなかったわよ」

「そのこと自体ではないのです」

「じゃあ、なに?」

「十年前に兄は北岳に登りました。その時、親友である高橋雅英さんを亡くしています」綿貫がそういうと、奏子さんは悲しそうな顔をした。やはり、井上奏子と高橋雅英は恋仲だったのだろうか。

「雅英君ね。……私は今でも彼のことを忘れられないでいる。私、彼のこと好きだったのよ。ううん、正確に言うと、恋人だった」

「無礼を承知でお尋ねします。もし答えたくなかったら、答えていただかなくても結構です。雅英さんは北岳の事故当時、精神状態が不安定だったようです。その原因に心当たりはないですか?」

「あなたたち、神宮かみのみやよね」奏子さんは俺たちの制服を見て言った。「ここには弟に聞いて来たのかしら?それとも別の方法?」

「奏太さんに教えてもらいました」綿貫がそういうと、奏子さんはそう、と言って、

「じゃあ、私の病気のことは知っているのよね」綿貫も俺も首肯する。「おおもとの原因はそれよ。私のせいで、雅英君は情緒不安定になった。そして、雅英君はザイルを切った。彼を殺したのは、私よ」

「……そんな、そんなことはないです」

「いいのよ。私がエイチアイブイに感染しなければ、雅英君はザイルを切ることなんてなかったでしょうから」高橋雅英はもともと、打たれ弱い性格をしていたという。奏子さんの感染は精神を乱すきっかけではあってもすべての原因ではなかったはずだ。だが、俺はそれを言うことはできなかった。部外者の気休めなど誰も欲しない。

「何から話せばいいのかしらね。あなたのお兄さんの話をすればいいの?おそらく失踪には関係ないと思うけど」綿貫は構いませんと言った。「そう、じゃあ、いじめられっ子の女の子がいたところから、話しましょうか」 

 井上奏子の人生は、エイチアイブイに感染する前から、凄絶で悲劇的だったのかもしれない。

 奏子さんは、よく男子にモテたそうだ。ためらいがちに言ったが、「よく」なんていうのは控えめで、恐ろしいほどモテたというのがおそらく正しいのだろう。彼女がそのことを鼻にかけているようには見えなかった。彼女が交際をしたのは、高橋雅英ただ一人だった。

 これは世の理なのかもしれないが、異性に好かれすぎると同性からは敵視されることがある。奏子さんの場合、星の数ほどの女性たちの恋敵となっていたのだろう。彼女らにとって井上奏子は目の上のたんこぶだ。自分たちの思い人を骨抜きにした挙句、相手にもしないとなれば、憎悪の感情を抱かれても仕方がない。嫉妬、憎しみは、彼女らをいじめへと向かわせた。

 さらに悪いことに、彼女に全く相手にされない、男たちも高嶺の花なのだと諦め、彼女にアプローチするような男はいなくなっていった。そして、女子たちから執拗ないじめを受けている彼女を見て、空気を呼んだのか知らないが、彼女と関わろうとしなくなった。

 いつしか井上奏子は孤立していった。

 そんな状況は高校に入学してもそれほど好転はしなかった。

 彼女はいじめにあうのを恐れ、自ら誰ともかかわらないように努めた。自分が人と関わると、相手も自分も不幸になると。

 そんな彼女の固く閉じた心の扉を開いたのが、高橋雅英であり、綿貫隆一だった。最初彼女は、山の話ばかりしている彼らを、馬鹿だと思っていたらしい。わざわざ危険なことをする、大馬鹿者たちだと。

 そんな、馬鹿達しか、自分とは関わってくれないのだと思うと、自分も彼らとあまり変わらないのかもしれないと思ったらしいが。

 二人はしつこいくらいに、彼女に関わろうとした。

 高橋雅英は、どうして私に関わろうとするんですか?という奏子の言葉に対し、「君の陰気そうな顔は世界で一番不細工だ」と言ったらしい。美人だ、きれいだ、作り物のようだと言われてばかりいた、彼女にその言葉は新鮮だった。自分に対し不細工だという人間がいるとは。

 彼女にとって興味深かったのは、そういう高橋雅英が引っ込み思案で、とても外交的な人間に見えなかったところだ。なぜそんな彼が自分に近づき、あのようなことを言ったのわからなかった。

 高橋雅英とよくつるんでいた綿貫隆一は彼女に対し紳士的に接していた。周りのうわさに流されやすい人間が、彼女に近づきもしなかったことに比べれば、隆一のその態度は、一線を画していたが、それでも彼女にとってはそれはありきたりのことで、関心のないようなそぶりをして、熱心に世話を焼こうとする高橋雅英のほうが彼女にとっては魅力的に映った。

 高橋雅英は不思議な男だったという。自分のほうがつらそうな顔をしているのに、奏子に会えば、今日もひどい顔だ、笑え、といったそうだ。

 井上奏子はそんな高橋雅英に惹かれて行った。そうして、夏休みに自分のほうから、彼にアタックし、付き合い始めたのだという。その後しばらくは、小さかったころのように快活な自分に戻れたそうだ。

 だが、そんなささやかな幸せさえも、打ち砕かれた。

 夜道、図書館から家に帰る途中、男に自動車に連れ込まれ、暴行された。

 彼女は泣いたそうだ。初めてがこのような下衆に奪われたことが悲しくて、高橋雅英に申し訳なくて。

 しかし本当の悲劇はそこからだった。

 大海原病院で検査を受けたら、エイチアイブイに感染していることが分かった。

 死ぬのが怖かった。早く死ななければならない自分の運命を呪った。学校を休みがちになった。ただ申し訳なくて、つらくて、雅英にも隆一にも会う気がしなかったという。

 それでも彼ら二人は、足しげく通った。

 気持ちが少し落ち着いて来た時、隆一から、雅英の精神が不安定になっていることを告げられる。奏子は自分のせいだと思った。

 聞くと、奏子が襲われた夜、雅英は図書館で奏子と一緒だったのだが、用事のために一人で先に帰ったから、奏子が襲われてしまったのだと、一人で思い悩んでいるのだという。

 奏子は大切な人を傷つけているのがつらかった。せめて雅英の前では元気でいようと思って、自分の元気な姿を見せようと思って、久しぶりに家を出て、高橋雅英の家で聞いたのが、山で滑落した、という一報だった。

「私には幸せになる権利がないのだと思ったわ」

 俺は高校に入ってこの半年、いろんな人の話を聞いた。だが、これほどまでに、悲しい話があろうか?聞いている身としてもつらいのだから、話している彼女はもっとつらいはずだ。

 綿貫は、最後に訪ねた。

「奏子さんには兄はどういう人間に見えましたか?何か気になることとかはありませんでしたか?」

「あなたのお兄さんはいい人よ。私が好きになったのは雅英君だったけれども。気になることか。うーん、雅英君はくらい性格してたけど、隆一君にも少しそういうところがあったかしらね。今考えると二人は似ていたのかも。隆一君は時々神妙な顔になって妙なことを言ってわ。俺は鳥かごの鳥なんだ、とか」

「……そうですか。お話していただいてありがとうございました」

 俺達は深々とお辞儀をして、彼女の家を後にした。

 家を出た後に綿貫に言った。

「そういえば、お前の兄貴の顔を見たことがないんだが、写真とかあるか?」

 そういうと、綿貫は家に来ますか?と言ったが、日も暮れかけていたので、俺は代わりに明日学校に持ってきてもらうことにした。本当はメールで送ってもらっても良かったのだが、綿貫はパソコンでのメールの送り方がわからないという。俺も綿貫もいい加減、スマホとやらを持ったほうがいいのかもしれない。

 

 俺は、井上奏子が最後に言った、鳥かごの鳥、という言葉が気になっていた。確か、隆一の日記の中にそのような記述があったはずだ。 

 家に帰ってから、綿貫の資料を見ると、確かに日記にそういう記述があると書かれていた。綿貫隆一は鳥かごの中の鳥、という表現を高校生の時から使っていたのか。

 彼にとってこれはどういう意味なのだろうか。何年もの間彼の心の中にある考え、いや、奏子さんの言い方から察するに屈託と言ったほうが正しいかもしれない。綿貫隆一は何かに囚われていた、そう、鳥かごの鳥のように。

 考えてもそれ以上のことが分かるはずもなく、俺は資料を片付けて、そろそろ気になり始めた、夏休みの課題を片付けることにした。


 八月も下旬になり、もうすぐ夏も終わるというのに、大気に漂う熱気は、夏の終わりを感じさせるどころか、いっそうの不快感を与えている。

 肌に張り付く制服に、顔をしかめながら、俺は自転車をこいで、学校へと向かった。

 部室に行くとすでに綿貫は来ていた。

「深山さんおはようございます」綿貫を見るとなんだか、涼しげな雰囲気を覚えた。

「おはよう。それで、写真は持ってきてくれたのか?」

「はい、デジタルデータのを現像してきました」そういいながら、彼女は鞄の中を探る。

 が、彼女がいくら探しても写真は出てこない。綿貫はあれ、あれ、と言いながら鞄をひっくり返している。

「忘れてきたんじゃないのか?」俺はそういった。

「……みたいですね。深山さん大変申し訳ないんですけど、ここで待っていてもらえませんか?」

「構わん。どっちみち部活するつもりだったから。運動し終えるころには戻って来られるだろう」

「すぐに帰ってきます」綿貫はそういって、大急ぎで家へと向かった。

 

 俺が運動し終えて部室に戻るころには、綿貫も学校に戻って来ていた。

「この封筒に入っています。私は学校祭のことで用事があるので、失礼します」と綿貫は言って部室を後にした。

 俺は写真を見るのは家に帰ってからにしようと思い、鞄にしまって帰宅した。


 家に帰った後、疲れて、少し眠ろうと思って横になったら、気づいたら夜になっていた。

 暑いところで寝ると、頭が痛くなることがある。俺は気付けに、アイスティーを飲んで、火照った体を冷やそうと、シャワーを浴びた。

 幾分かさっぱりしたところで、綿貫から写真をもらっていたのを思い出した。

 綿貫隆一は綿貫に似て美形で、男前であるに違いないと思いながら、封筒から写真を出した。

 俺はその顔を見たことがある気がした。綿貫の面影があるとか、写真の中の美男子の叔父に会ったことがあるのだ、とかいうぼんやりとした既視感ではなく、彼を直接見たことがあるのではないかという、感覚があった。もちろん、居住地が近いのだから、街ですれ違っていた可能性も、ないわけではないのだが、そんな極めて印象に残りにくいような出会い方ではなく、俺はその人のことを知っている気がしたのだ。

 そんな、妙な感覚はすぐに解消された。すべての疑問が解決された。

「なんてこった」


 

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