scene14*「思い出」
心がちりつくような、恋をしてみたかったの。
【14: 思い出】
お風呂の湯船に浸かりながら、大人の体つきになった自分の体を見ては、小さな頃のやせっぽちの体の時に何だか不安になったことふと思い出した。
あの頃は何にも知らなくて、
たしか初めて保健体育の授業を受けてこんな子供の体に、よく分からないものが受け入れられるのかとすごく不思議に怖く思ったけど、
そんな子供の心配を余所にいとも簡単に叶えられてしまった。
私の通うバイオリン教室の先生のハルマさんはとても優しかった。
彼とは週に1回は必ず会っているし、それが叶わない時は絶対に電話もしている。
だけれどハルマさんに恋をしているかは、本当のところ自分でもわからない。
多分私は恋がどんなものか知らないと思う。
湯船に浸かりすぎて火照った体。
私は右肩を見つめて唇をそこに当てた。
ちゅうっ、と吸ってみる。
赤いしるしがついて、キスマークってこういうやつなのかな、とバカみたいに思った。
花びらみたいというより、たんに怪我をして赤くなったという感じだった。
* * * *
「これ、どうしたの?」
ベッドで私の体を見たハルマさんはとても驚いたようだった。
どことなく張りつめた空気になる。
私は、「見てて」と言い、しるしをつけた時の真似をした。
すると彼は合点がいったようにホッとした顔をして「なぁんだ。」と、まるで自分に言い聞かせているみたいにして私を抱きしめた。
ある日、私がハルマさんの教室に行くと、同い年くらいの男の子がいた。
詰襟の制服で、少し幼さはあったものの顔つきは精悍な感じがして、私は少しだけドキドキしながら会釈をした。 彼も会釈をしてくれた。
するとハルマさんがレッスン室から出てきたところで、私がいることに気がついたのか挨拶をした。
私は、とうに生徒ではなかったから「適当にいます。」と言って、レッスン室を後にすることにしたけれど、行き先はハルマさんの私室だということはもう決まっている。
制服の彼は別に不思議がる事は無く、ハルマさんに促されるようにレッスン室に入って行った。
「あぁ、あの子は音大受験したいみたいなんだよ」
私があの彼について聞くとそう言った。
だけれど別の教室に移ってしまうらしい。
どうして、と尋ねると、僕が薦めたから、と答えた。
後ろから抱きしめながら、這うように私の体を触る。私はそれがくすぐったくて笑ってしまう。
「受験となれば、今のうちからもっと優秀な先生の元でレッスンさせたいからね。あの子は才能があるし」
耳たぶを舐められて、肌がざわつく。
私とハルマさんがこうなったのは必然だったように思う。
小学生の頃からレッスンを受けていて、ハルマさんは優しかった。
優しくて何となく好きになった。
それが果たして本物の恋かは分からないけれど、ハルマさんには小さいころから憧れていた。
肌を合わせるようになったのは2ヶ月前。
どしゃ降りの雨の日に偶然会って、ハルマさんの家が近かったからお邪魔しただけのこと。
ハルマさんの部屋でシャワーを借りて、着替えを持ってきてくれたハルマさんをバスルームに引き入れたのは私。
終わって罪悪感を感じたのはハルマさんのほうで、私は案外あっけらかんとしていた。
(あの子、何ていうんだろ)
今日のハルマさんの匂いはバニラの匂いだった。友達からの海外土産の石鹸らしい。
抱かれた私はこの人と同じ匂いなんだと思ったら、何となくさっきの男の子の顔が浮かんで、ほんの少し嫌な気分になった。
* * * *
しばらくたったある時。
学校帰りにバス停であの子を見かけた。
詰襟の制服に、バイオリンケースを肩にかけている。
私はまるで馴れたように彼に近づいて「こんにちは」と声をかけた。
振り向いた彼は、すぐに思い出したみたいで「あぁ」という顔をした。
「こんにちは。ハルマ先生の教室の子だよね?」
そう尋ねると彼は「ハイ」と頷いた。ただそれだけなのに、どこか品が良かった。
「これからレッスンなの?」
「いえ、今日は違います」
「私はもう辞めちゃったけど、あそこの生徒だったんだ」
「そうなんですか」
その時に、バスが向こうからやってきたので 「じゃあ、頑張ってね」と言い、
「また会えるかもしれないね」とも言ったら、彼は微笑んでお別れの会釈をくれた。
その微笑が、話しかけて迷惑だったろうかと思い始めた感情を上手に拭ってくれたような気がして、今まで感じたことのない温かさが胸に降りた。
そしてそのバス亭の何気ないやりとりから、
気付けば彼の事ばかり浮かんでしまうようになった。
最初見た時から、何か感じるものがあった。
(あぁ、これだ)と、何となく納得したような、不思議な気分。
それに気づくと同時に、ハルマさんの教室へ行って名前もまだ知らない彼を一目見たくなってしまった。
けれど当たり前のことながら、そこにハルマさんがいると思うとブレーキがかかった。
行けば多分ハルマさんは私の心を見透かすだろう。
何となくそれにはためらいがあったので、ストーカーじみてるけれど私はバス停で彼を待ってみる事にした。
偶然を装って、ぶらぶらしたりして。
すると翌日に彼はきた。
今日も肩にバイオリンケース。
私は緩む頬を抑えて彼のほうへ歩き出す。
彼は私が顔を上げる前にもう私を見つけてくれたようで、穏やかな表情を向けてくれた。
何故かその表情を見た瞬間、飛び上がりたいほど嬉しい気持ちになる。
「こんにちは」
「こんにちは」
ずっと待ってたなんてこと言えるわけがない。嬉しいのを堪えて、さりげなく聞いた。
「あの、教室うつるって聞いたんだけれど、本当?」
そう聞くと、驚くでもなく普通に「そうなんです。」と言った。
私は「いくつ?」と聞くと彼は「高1」と答えた。
私よりも2つ年下に少しだけ驚く。
男の子の年齢を判別できないのは、きっと中高女子校だからなのかもしれない。
「今日はレッスン?」
「はい。これから先生のところに」
名前を聞かなければと思ったところでバスが来てしまった。
バスの窓越し、彼は手を振ってくれたことが嬉しかった。
その日の夜、食事は咽喉を通らなくて、
お風呂でもベッドでも考えるのは彼の事ばかりで、
ハルマさんのところへ行ってみればよかったのかもしれないとか、
でも行ったら気持ちが取り返しがつかなくなりそうで、
そんなしょうがない気持ちを往復するように考えていた。
どんな指先で弦を押さえて、どんな豊かな音を出すのだろうか。
私は、今度久しぶりにバイオリンを持ってハルマさんのところへ行こうと思った。
* * * *
「珍しいね。バイオリン持ってくるなんて」
「たまには、ね」
「コンチェルトでもやる?」
「ねぇ、あの男の子、今日くるの?」
「どうして?」
「何となく、聴いてみたいなぁって思って」
「彼が許せば、ね」
私は構えた。
ゆるやかな出だしを彼が弾くとそれに合わせて私も音を出す。
体で繋がるよりも、こっちのほうがずっとずっと一つになれるような気がするのは私だけだろうか。
ハルマ先生、彼を名前で呼ぶようになったのはいつだったろう。
私は、ハルマさんとこうなる必要があったのだろうか。
ハルマさんに悪いことをけしかけてしまったんじゃないだろうか。
自分の気持ちに責任もとれない癖に。
ハルマさんの音が急に止んだ。
私はなんだろうと思ってハルマさんを見ると、何やら哀しそうな瞳をしていた。
それもつかの間、コンコン、とノックする音が聞こえて、ハルマさんは「先生」の顔に戻った。
ドアをあけると、彼が立っていた。
私に気がついたようで会釈をする。私も同じように返した。
「サガワくん、オーディエンスがいても気にならない?」
「え?」
「今日は、お客様一人が聴きにきているのだけれどどう?」
ハルマ先生はお茶目っぽく言うと、彼も意味がわかったのか「いいですよ」とニッコリ笑った。
私は出された椅子に座って、レッスン風景を見る。
バイオリンを扱うサガワくんの指先をじっと眺めていた。
しなやかな、健康そうな肌色の手。ちょっと硬そうな指先。
弦のどの位置にも簡単に届きそうな大きな手だと思った。
あの指に、触れたい。触れて欲しい。
レッスンが終わり、ハルマさんと玄関で彼を見送った。
ドアが閉まるや否や、私の右手にハルマさんの左手が絡んでくる。
指先を愛撫するみたいに絡められた。
その瞬間に、どこかで予感していた。
ハルマさんは気づいてしまったかもしれないと。
サガワくんと、バス停で話をするのは日課になった。
ハルマさんと会う時にはまるでなかった、こみ上げるような嬉しさ。
飛び跳ねたいくらいの感情。
私は頬の筋肉が疲れるまで笑顔だった。
いつも会うたびに(あと少し、あと少し)と思った。
バスの窓越しに見える彼。どんどん遠くなって行くと哀しい気持ちになる。
そして分かりやすいほどにハルマさんとは、あまり連絡をしなくなっていた。
* * * *
「演奏会に、行かない?」
電話でハルマさんの久しぶりの誘いだったにも関わらず、私は断ってしまった。
何となく行きたくなくて「友達と約束があるの、ごめんなさい。」と言ったら、
ハルマさんはもう大人なので「そうか。」と、あくまで普通に言って、
その後も何だか普通な会話をお互い交わして電話は終わった。
先生は本当に大人だった。
全てさりげなく優しいし、落ち着いている。
距離だって推し量ることがとても上手だ。
それなのに私は一体なんだろう。
自分で切り出すことから逃げてて、大人のハルマさんのせいにしたくて……
自分の浅はかさと心のなさに落ち込んで、その夜、泣いた。
そのくせ、瞼の裏に映るのはサガワくんばかりで、情けなさで余計に涙が溢れた。
* * * *
サガワくんが、何かのチケットと小さな紙切れをいきなりくれたのは、本当にバスでの別れ際。
よく見たら、演奏会、だった。
一瞬ハルマさんの誘いを思い出してドキッとしたけれど、サガワ君の誘ってくれた演奏会の会場は横浜。
ちょっと遠出することになるけれど、この季節、コンサートなんてどこの会場でも増えるから、同じ会場ではないだろうと居った。
「じゃあ行くね」
「え」
私が重要なことを聞こうと思ったところで無情にもバスのドアは閉まった。
貰ったチケットと小さな紙切れを見ると、「また後でメールしたいので、よければ連絡ください。」と、ケータイの電話番号とメールアドレスが書いてあった。
彼のアドレスを見ると「Violino」と書いてあった。
それはイタリア語で「ヴァイオリン」を記す。
そしてそれは、私のアドレスにも使われていたものだったから、勝手ながら特別な気持ちになりそうになった。
* * * *
演奏会、大きなホールに沢山の人が集まる。
私は精一杯の背伸びでオシャレをしてきた。
彼も同じで「これでハイヒールだったらもっと大人なのにね」そう言うと
「大人ばっかりで僕らは浮いてるね」 と彼は笑ってくれた。
演奏会は、とてもよかった。
ショパンが私は大好きなのだけれど、今日のでバッハもとても気に入ったし、
音の洪水に包まれるのは本当にとても久々だったから気分が本当に良かった。
会場を出て駅に向かう。
私達はたくさん笑った。
そして、何気なく斜め前を見た瞬間に、ぐらぐらとするような感覚に襲われた。
美しい女性と歩いていた、ハルマさんと目が合ったのだ。
ハルマさんは、驚いた顔で私を見つめていた。
* * * *
「あのまま、君に会わないつもりだったのに、まさかあんなところで会うなんて」
「ごめんなさい」
私は、彼とは何もない事を全て話した。本当に何もないと。
それに対してハルマさんは「大丈夫」と答えた。
一体何が大丈夫なのだろう。
私達は、もうダメなのに。
ハルマさんは、怒るでもなく、ただ、静かだった。
私はうろたえてばかりだった。
もう、この人とは手も繋げない。
私から放り出した癖に、寂しくなっている。
自分は馬鹿だと思った。
「僕達は、もう会う必要が無いというのは、君が一番にわかってるね。」
「だから、その必要どおりにしよう」
「ただ、バイオリンについての事だったらいつでもおいで」
「君の楽しい時間を奪っていつも申し訳ないと思ってた。……だけど、恥ずかしい大人だけれど僕は君といる時間がすごく楽しかったんだ。……君が、好きだった。これだけは本当だよ」
もう戻れない、本当に実感した。
目の前からいなくなったハルマさん。
喫茶店のコーヒーは、苦すぎてそれ以上飲めなかった。
* * * *
サガワくんと私は相変わらずだけれど、恋愛とはまた少し違うようにも思えた。
サガワくんはとっても素敵だと思うし、ドキドキする。
どこに行っても楽しい。私達に重要なのは場所じゃなくて、二人でいることだと思った。
思っていた。
その日のサガワくんは、少しさびしそうだった。
そして、肝心な言葉も使おうとしなかった。
おかしい、と、思ったけど、嫌な予感が私の頭をよぎって、
それが怖くてこわくて、なるべく普通に努めた。
* * * *
サガワくんに呼び出された私は、待っていた。
落ち葉が敷き詰められた公園で、マフラー巻いて待っていた。
彼は来た。
手には自販機で買ったのか、ココアとホットレモンを持っていた。
ベンチに腰掛けて私はココア、彼はホットレモンを飲んだ。
今の季節、ブランコで遊ぶ子供なんかいなかった。
「もう、あの教室へは行かないんだ」
やっぱり、と、思った。だけれど私の不安はもっと違う。
それはずっと絶対的で絶望的で、だけれど正体が見えない。
「それに、引っ越すんだ」
離れてても大丈夫、だなんて、あたしはそれを信じれるほどじゃない。
むり、と思った。
後悔するかもしれないけれど、耐えられないと思った。
私達は、離れてしまったら絶対にダメになるって。
それでも 「……たまには、会いに行っても?」 と望みをかける言葉を言う。彼も否定しなかった。
彼の心はきっと変わってしまう。私が決定的に変わったように。
別れるときに、向かい合って両手を繋いだ。指先はやっぱり硬かった。
「バイオリン弾きなんだから、手は冷やしちゃだめ」
手袋を渡した。会うたびに寒くなるのに、一向に手袋をはめない事に気がついた。
最後のプレゼントの気持ちで持ってきたのだった。
「寂しくなるね」
「うん」
そして、キスをした。そっと。
かさついた唇は本当に儚くて、キスをしているのは現在のはずなのに、ずっと過去のものみたいに思えた。
もう、それっきり彼はバス停には現れなかったし、
メールも季節を跨ぐうちに自然と途絶えていってしまった。
* * * *
「わたしね、本当に子供だったのよ。あの時は」
実家に帰省中、偶然会ったハルマさんとお茶をした。
あの別れから8年になるから、先生はもう結婚して妻子がいる。そして私も結婚を控えていた。
「僕も気づいていたよ、なんとなく」
あの頃と違うのは、先生は顎鬚を生やし、私はあの頃よりも綺麗になったし髪ものびた。
あの後サガワくんは音大に受かり、海外留学もしてこの春から本格的に演奏活動も始めるようだと、ハルマさんから聞いたけれど、私はもう何とも思わなかった。
私は結局彼に会いに行く事は一度も無かったのだ。
「いつか子供が生まれたら、先生のところに通わせようかしら」
そう言うと、
「じゃあもっともっと健康で長生きしなきゃ」
と、お茶目に言って、もうオジサンなんだと思うと笑わずにはいられなかった。
あの時、お風呂場で自分にしたキスマークみたいな色の石が、今の私の左手の薬指にある。
私の誕生石なのだ。
先生と喫茶店で別れて、しばらく歩くと小学校が見える。
桜の花が満開だ。うすいピンクというより、白く見える。
忘れたわけではないけれど、でも彼が元気にしているようで少し嬉しくなった。
もうちょっと、私に勇気があれば、なんて思わない。
器用に全てを乗り越えて行けるようなものをまだ持ち合わせていなくて、
本当に「大事にするということ」を実際どう行動すべきか分からない子供だったから、仕方がなかったのだ。
それにそれが叶っていたならば今の私ではないだろうし、夫になる人とも出会えなかった。
あの頃の、「恋」を思い出して、ちょっとだけ切なくなる。
それと同時に自分がものすごく恥ずかしくて、愚かだと思ったけれど、
でもそれはそれでいいのかもしれない。
何度かの季節と恋を知って、本当に大事にするということがちゃんと分かったから。
今の私が願わなくたって、ハルマさんもサガワくんもきっと幸せだ。
それでも、もっともっと彼らが幸せになってくれますようにと願わずにはいられない。
私は、歩き出す。
はらはらと落ちて来る花びらを、肌で感じるように。
( 恋の終わりと大人のはじまりは似てる )
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