2002.03 TEXT オーバーフロー

■2002.03 オーバーフロー


 やおいの強姦についてのメモ。岸田秀氏の『性的唯幻論序説』から着想しています。


 セックスと強姦は同じ行為です。違うのは、受け身の側がその行為を受け入れられるか否か、ということだけです。

 セックスが「愛による行為」か「強姦」か決めるのは、受け手(主に女性)の側です。攻め手(主に男性)は、その行為が「愛」か「強姦」かを決める権利はありません。

 逆に、女性の側に愛情がある場合、あるセックスが「愛情による行為」か「愛情によらない行為」かを決めるのは男性です。


 女性は男性の行為が愛情であるか否かを判断することはできません。

 そうして男性も女性の行為が愛情であるか否かを判断することはできません。


 ただ、セックスが愛情のない行為であっても、男性は女性ほど肉体にダメージを受けることはありません。

 現実には、女性による男性の強姦も存在するとは思いますが、男性による女性の強姦よりははるかに少ないと思うので、ここではひとまず除外しておきます。


1 セックスが「愛」か「強姦」かを決めるのは女性である。

2 セックスが「愛情による行為」か「愛情によらない行為」かを決めるのは男性である。


1 セックスが「愛」か「強姦」かを決めるのは女性である。

 ということは、あるセックスを「愛」だと思っていた男性が、女性によって「強姦」とされる可能性があります。

 男性――警察や裁判所――がほかの犯罪にくらべて強姦の被害者を「被害者」と認めないのは、「愛」によるセックスが女性の身勝手で「強姦」とされることを恐れるからではないでしょうか。

 いつ自分の行為が「強姦」とされるかわからない。だから、強姦の被害者を「被害者」ではなく、「共犯者」・ある種の「加害者」と見なす動きが出てきます。


 曰く、


 お前が誘惑したんだろう。

 お前が十分に抵抗しなかったんだろう。

 嫌だといって実は好きでやっていたんだろう。


 強姦の被害者が正当な被害者として扱われないのは、男性の恐怖心によるのではないか、というお話でした。


 もうひとつの理由は、家父長制のなかでは、女性は父親によって所有されている商品であるからです。

 家父長制とは父親が家族を支配する制度のことです。女は父親が所有する商品であり、父親は家事とセックスをする女――妻と、他人へ売り渡す女――娘を所有している。

 娘は、ほかの男のために価値のある商品でなければならない。

 新鮮であること。きれいであること。従順であること。未使用であること。

 父親の承認を得ずにセックスをするということは、それが「愛」であれ「強姦」であれ、娘の商品価値を落とす行為になる。

 強姦の被害者となった場合、被害者は自分に落ち度がなくても、正当な「被害者」とは見なされない。

 それは自分の過失によって商品価値を落としたことになるからだ。


2 セックスが「愛情による行為」か「愛情によらない行為」かを決めるのは男性である。

 男性は性欲さえあれば「愛情によらないセックス」をすることができるが、女性は「愛情によらないセックス」をすることは難しい。女性が相手を精神的に受け入れなければその行為は「強姦」になってしまう。


 男性が女性に「強姦」されたと思うのは男性の認識の問題である。

 女性が男性を「強姦」することは不可能ではないが、身体の構造上難しいことである。

 男性は「愛情のないセックス」が「強姦」と直結されることは少ない。「愛情のないセックス」はたんなる「排泄行為」であることが多い。


 男の性欲は本能である、という通説があるが、男性の性欲が本能であるということは都合のいい嘘であり、性欲は文化の産物でしかない。

 孫引きだが、小倉千加子氏の『セックス神話解体新書』に、野生児のセクシュアリティの話が出てくる。言葉を覚えられなかった野生児には、自分が男か女かという認識(性的アイデンティティ)がなく、セクシュアリティを持たない野生児たちは、性的行動を示さないというくだりがある。

 ジェンダーは言語による記号であり、セクシュアリティは文化の作った強力な意識装置であるという。

 現在の社会の人間はセクシュアリティという意識装置によって、男の性欲は本能であると認識させられている。


 男の性欲は本能である。女の性欲は本能ではない。

 という意識装置があるかぎりは、男のセックスは「本能」ではなく「愛情」だと完璧に証明することはできない。

 なので、セックスが「愛情による行為」か「愛情によらない行為」かを決める権利は男性にある。


 男のセックスは「愛情」であると女性が証明することはできない。

 だから女性は男性に「愛情」を確認しようとする。


 女のセックスは「愛情」であると男性が証明することはできない。

 が、女の性欲が本能ではない、という意識装置があるかぎり、男性が女のセックスは「愛情」だと証明することは、女性が男のセックスは「愛情」だと証明することよりはたやすい。

 そして男性が女性に「強姦」される可能性は、その逆の可能性よりもはるかに少ない。

 というわけで、男性は女性ほどは相手に「愛情」を確認する必要がない。


 男のセックスが「愛情」であると証明することは本人にしかできないので、ヘテロセクシュアルの恋愛では、女性が男性のセックスの「愛情」の有無を証明することは不可能である。

 男の性欲は本能であるという認識があるから、男のセックスには「愛情」が存在しないということを証明することのほうが簡単である。


 男のセックスには「愛情」が存在しない、というロジックをどうくつがえすか。


 男に確実に「愛情」を持ってもらえる女になる。

 自分の恋人だけは違うと信じる。あるいは恋人を教育する。

 男はそういうものだと割り切る。あるいはあきらめる。

 男に「愛情」を期待しない。


 対処方法はいろいろありますが、下にいけばいくほど現実的で救いのない方法です。

 自分が女であるかぎり、女性は男のセックスが「愛情」によるものであると完全に証明することはできません。


 だから女性は男のセックスが「愛情」であると確実に証明できる装置をつくります。

 それが男による男のセックス――やおいです。


 やおいの強姦にはお約束がひとつあります。

 やおいの強姦は、攻めによる「愛情」でなければならないということです。

 さいしょは強姦が攻めによる「本能」であっても、いずれは「愛情」に改宗しなければなりません。この鬼畜攻めが愛情によって堕ちていくさまが、強姦やおいの醍醐味のひとつだと思います。

 やおいの強姦は、攻めによる「愛情」、あるいは「本能→愛情」でなければならない。


 男が男を強姦するには、男が女を強姦するときよりも強烈な動機を必要とします。

 理由としては単純に、


1 相手を愛しているから

2 相手を貶めたいから


 とふたつ挙げておきますが、やおいは1、あるいは2→1でなければなりません。

 2は、強姦する人間が攻めではない場合のみが該当します。2だけのやおいは個人的には読んだことがありません。


2002年5月20日追記:

 2だけのやおいも存在すると思うのですが、弱者を性によって貶めることでカタルシスを得るという快楽装置をヤオラーがどこまで持っているかという部分が疑問です。

 男性向けのポルノには明らかに弱者を貶めることでカタルシスを得る快楽装置が存在すると思うのですが、女性向けのポルノでは、読者が感情移入するのが強者であるか弱者であるかによって、この快楽装置の作用は違ってくると思います。

 ヤオラーの女性が性によって弱者を貶めることに快楽を感じるかどうかについては、今後の課題にしたいと思います。


 やおいの強姦は、攻めの愛情がオーバーフローした結果の暴力でなければならない。

 なぜ「強姦するほど受けを愛している」という手垢のついたロジックがいまでも有効であるのか。


 「強姦するほどその女を愛している」というロジックは、女性にとっては受け入れにくいものです。

 男>女という社会では、愛情がなくても男が女とセックスをすることが可能であるからです。

 そして、強姦するほどの愛情を証明することが難しいからです。


 「強姦するほどその男を愛している」というロジックも本来は証明できないことではありますが。

 男が男を強姦することは稀である。

 だから強姦するほどの愛情を証明することが女性の強姦よりは簡単である。

 

 男>女という社会では、強姦されようとされまいと女は男の劣位ですが、対等な関係である男が男に愛情によって強姦されると、その順位は受け>攻めというふうに変換することができます。

 男が男に強姦するほどの愛情を持つことによって、攻めは受けの劣位になるのです。


 現実では、強姦は強姦される側の人格や尊厳を貶める行為になります。

 『強姦と快楽』で書いたように、強姦される側がそれを受け入れないという選択肢もありますが、現在の社会では、周囲がそのように見なしてしまいがちです。

 が、やおいにおいては、強姦は強姦される側の人格や尊厳を貶める行為ではありません。

 むしろ、強姦される側は強姦する側によって人格や尊厳を保証されることになります。

 対等である男が強姦せずにはいられないほどに魅力的な男。

 やおいでは、強姦される側は強姦する側によってその存在を肯定され、上位に持ち上げられる行為となります。

 なので、強姦する側が完璧であればあるほど、強姦される側の男の価値も上がるのです。

 現実の強姦は、強姦された相手の人格を貶める方向へ機能しますが、やおいの強姦は、強姦された相手の人格を貶める方向へは機能しない。

 やおいという文脈のなかでは、強姦はむしろ強姦された側の人格や存在を過剰に肯定するための行為として起こる。それが現実の強姦との最大の違いではないでしょうか。


 強姦する側が完璧であればあるほど、「愛情」による強姦は起こりにくくなります。

 その「起こりにくい」ことが起きてしまう――「愛情」の激しいオーバーフローが、やおいの強姦の正体ではないでしょうか。


 これらのことは最終的に強姦された側が強姦する側を受け入れた場合のみの話です。強姦やおいに働く意識装置のひとつと認識していただければ幸いです。

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