第6話

 沈みゆく夕陽が、青い海を金色に染め上げていた。その景色は十年前と変わらず、そして十年後も変わらないのだろう。この島がこの海に現れたときからそれらは続いていて、永遠に続いていくのだ。海は何ひとつ変わらない。その色も、打ち寄せる波の音も、汐の香りも──美しい彼女の姿も。

 かつて、この禁断の聖地である人魚の入り江に足を踏み入れた少年は、もうすぐ十六歳の誕生日を迎える。この島ではそれをもって成人とみなされ、船に乗って漁に出るようになる。泳げないことを冷やかされて泣いていた少年は、今では島の誰よりも早く泳いでみせるようになった。ただ、その泳ぎ方が彼独特のものであったから、たまに揶揄されることはあるものの、島最速の泳ぎ手ということで、誰も格好悪いなどと笑ったりはしなかった。

 少年の泳ぎの師匠はといえば、少年が背も伸び、日にも焼け、逞しくなったのに対し、彼女はまるで出逢った時のままの姿であった。白蝶貝のような肌も、七色に輝く鱗も、海を切り取ったような青い瞳も、何ひとつ変わらないままだ。

 それでもふたりの間では何ひとつ変わることなく、成長した少年は以前ほど頻繁には入り江には来なくなったが、それでも週に一度はやってきて入り江で一緒に泳ぐのだった。

 先ほどまで海の中で一緒に魚になっていたふたりは、沈む夕陽を眺めながら岩場で身体を休めていた。

「この髪と同じ色だ」

 隣に腰掛けた彼女の金色の髪を撫でて、少年が笑った。海が変わらないように、彼女の髪の色もまるで変わらなかった。そしてその髪を何度見ても、少年が初めてこの髪を見て夕焼けの海の色だと感じた気持ちは、わずかほどにも薄れない。

「夕陽は赤いのにね。空は赤くなるのに、海は金色になるんだね」

 声変わりもして低くなった声が心地よかった。彼女はもっと撫でてくれと甘えるように、少年の肩に頭をもたれさせる。少年は微笑んで彼女の髪を撫で、そのまま肩を抱き寄せた。

 自分を抱きしめる腕を、頼りないとはもう思わない。引き締まった腕は強く水を掻き、彼女に追いつきそうな速さで泳ぐことを可能にする。何より、この広い海で孤独に耐えていた彼女の心まで、優しく包み込んでくれる。その温もりが好きだった。

 いつまでもこの時間が続けばいいのに。

 そう彼女が願っても、太陽が水平線の彼方に隠れてしまえば、少年は陸へと帰ってしまう。人間の世界に帰ってしまうのだ。次に来てくれるのはいつだろう。明日は来てくれるだろうか。明後日は? 海が荒れれば少年は入り江へは来れなくなる。だから海が荒れないことを祈りながら、ただ彼女は待ち続ける。少年の他には誰も来ることのない、この秘密の楽園で──。

「もう日が沈むわね」

「……そうだね」

 彼女の髪をくしゃくしゃっとすると、少年は立ち上がった。岩場に腰掛けた彼女には後を追うことはできず、ただきちんとたたんで置いてあった衣服を着るのを、じっと見守るしかない。

 完全に泳げるようになっても、少年はこの入り江で泳ぐときには必ず服を脱いだ。魚になるのに、服は不用だったから。

 服を着る、ただそれだけで一緒に魚になって泳いだはずの少年が、遠く隔たってしまったような錯覚に陥ってしまう。

 人間に戻った少年は、彼女のところへ戻って髪をひと房手に取って口付けた。

「また来るよ」

「うん、待ってるから」

 約束でさえない、それは挨拶。

 手を振りながら遠ざかっていく少年を、彼女は追いかけることもできずに見つめていた。


 その翌日、少年はやっては来なかった。大きくなって大人たちの手伝いもするようになり、そう頻繁に入り江へとやってくることはできない。それが解っているから彼女も約束などせず、ただひとり入り江の景色を眺めながら少年を待っているのだ。

 またしばらくは来られないのだろう。そう思って岩場に腰かけていた彼女に、ふと影がさした。

「え?」

 いきなり背中を突き飛ばされた。いや、突き飛ばされたのではない──すごい勢いで抱きつかれたのだ。その勢いは止まることなく、抱きつかれたままで海へと落下する。

 飛沫を高く舞い上げながら、もつれあって海の中を沈んでいく。何事かと必死に振りほどいてみれば、彼女の目の前に少年がいた。振りほどかれても少年は、今度は正面から彼女を抱きしめた。全く訳の解らない彼女は、少年を抱きしめたままで浮上する。

「え? ちょっと、何? どうしたの? こないだ来たばかりじゃない」

 多分、何かとても嬉しいことがあったのだろう。こんなはしゃぎ様を十年前に見たことがある。そう、泳ぎを覚えてみんなの前で披露して、あっと驚かせたとき以来だ。あのときも突然抱きついてきて、ひたすら嬉しそうに笑っていた。その笑顔がまるで真昼の太陽のように眩しかったことを今でも鮮明に覚えている。

 少年は彼女の目の前で、あのときと同じ笑顔を作った。

「聞いて、聞いてくれる? 昨日、すごく嬉しいことがあって…」

「うん、聞く。聞くからちょっと離して? そんなきつく抱きしめられたら苦しいわ」

「あ……ごめん」

 それでも顔は緩みっぱなしで、少年はいつものように岩場にあがった。彼女も潮溜まりにあがる。

「それで、何があったの?」

 聞いて欲しくて仕方がないといった様子の少年の顔を覗き込んで、彼女もつられて笑った。十年経っても変わらないままだと思いつつ話を待っていた彼女の耳に届いたのは、聞きなれない言葉だった。

「ケッコンするんだ」

「…… ケ ッ コン…?」

 嬉しそうな少年とは裏腹に、彼女は自分の心の片隅で何かが冷えていくのを感じていた。

「うん、やっと昨日プロポーズしたんだ。ダメかもって思ったんだけど、何て言ったと思う? 『私も待ってた』って! 僕の誕生日に成人の祝いも兼ねてケッコンするんだ。もう嬉しくて、昨夜なんて一睡もできなかったよ」

 嫌な予感がした。少年がこんなにも嬉しそうに話すのに、彼女の心は端からどんどん冷えて、凍り付いていくのだ。海の中で孤独だと震えていたあの日の冷たさが蘇ってくる。

「……えっと……、ケッコン って、なに?」

 海の中にはそんなものは存在しない。少年との会話にも今まで出てきたことがなかったので、彼女はその言葉の意味を知らないのだ。少年が当たり前のように意味を知っていても、海で暮らす彼女には解らない言葉や常識はこれまでにもあった。これもまたそのうちのひとつなのだと、少年は解釈した。

「結婚ってね、家族になろう、ずっと一緒にいようっていう約束だよ」

「……カゾクって」

「家族はね、同じ家に住んでる親子とか兄弟のことだよ。僕がいて、花嫁さんがいて、最初はふたりだけだけど、いつか子供が生まれて、その子供がまた結婚して子供が生まれて……って、一緒に寄り添って生きていく一番小さい集団……かな?」

「ずっと……一緒なんだ」

「うん、昔からずっと好きだったんだ。なのに泳げないことをからかわれてさ。何度泣いたか覚えてないよ。泳げるようになってみんなの前で見せたとき、最初笑われたんだよね。でもあの娘が『変な泳ぎ方だけど、あんたたちよりもずっと速い』って怒ってくれてさ。嬉しかったな。

 そのときに僕のことを見直してくれたみたいで、いつ僕から言い出してくれるかって待ってたみたい。もう信じられないよ。嬉しすぎて、頭がどうにかなりそう」

「そう、良かったわね」

 少年は嬉しそうに語ったが、後半はほとんど彼女の耳に届いていなかった。だんだんと心地よいはずの声が遠ざかってくのを感じた。指先から、尾ひれの先から、感覚が失われていくようだった。

 視線を落とせば、少年の胸が目に入った。いつものように裸ではない。白いシャツを着ていた。いつもならきちんと脱いでたたんでから海に入るのに、今日はやってきていきなり海に飛び込んだから、服はもちろんずぶぬれだった。白いシャツから焼けた肌が透けて見える。当たり前のように眺めていたその素肌。当たり前のように触れていたその素肌。なのに今日は見ることも触れることも拒むように、白いシャツが張り付いている。そんな薄っぺらい布きれ一枚で、こんなにも距離を感じてしまう。阻まれる。手の届かないところへ行ってしまう。

 結婚がずっと一緒にいようという約束だと言うのなら、もうここへは来れないかもしれない。ここはふたりだけの秘密の場所だから、ハナヨメに秘密でここに来なければいけない。だがそれは困難だろう。子供が生まれたらかかりきりになって、入り江での思い出など忘れてしまうかもしれない。いつでもぎゅってしてあげる、とそう約束した腕でハナヨメを抱きしめるのだろうか。もう二度と抱きしめてはくれないのか。一緒に魚になって泳ぐことはできないのか。

 また私はひとりぼっちになるの──?

 薄暗いこの入り江の淵でたったひとりで朝を待って、誰もこないこの入り江でたったひとりで夕陽を見つめて、たったひとりで、たったひとりで、たったひとりで。

 もう、ひとりにしないで。

 想いを言葉にすることもできず、彼女はまだ話し続ける少年に抱きついた。話に夢中になっていた少年は彼女を受け止めきれず、そのまま後ろに倒れ込んだ。少年のいる岩場よりも少し低くなっている潮溜まりから抱きついたので、勢いがついてそのまま彼女は少年に覆い被さるような形になってしまった。

「え……どうしたの」

 甘えて抱きつかれたことは何度もある。だが間近で見る彼女の青い瞳は、悲しそうに揺れているのだ。だが彼女は言葉もなく、ただ少年の瞳を見つめている。

 言葉になどできるはずがなかった。結婚するとこんなにも嬉しそうに語る少年に、ひとりにしないでくれ、結婚しないでくれなどと、どうして彼女に言えるだろう。嬉しそうに語る親友と一緒に喜べないなんて、と自己嫌悪に陥る彼女には沈黙するしかなかったのだ。

 少年は何も言えない彼女の背に手を回して、そっと抱きしめた。金色の見事な髪を何度も優しく撫でられて、彼女は少年の胸に頬を埋めた。このシャツの下には見慣れた、引き締まった胸があるはずなのに、こんな薄っぺらい布切れ一枚で。たったそれだけで、どうしてこんなにも遠いのだろう。けれど、耳を左胸に押し付ければ、シャツ越しに確かに聞きなれた少年の鼓動が聞こえてくるのだ。

「私………」

 何を言おうとしたのだろう。何が言いたかったのだろう。彼女は言いかけて顔をあげた。言葉を待つ少年と瞳が合う。だがそれは、ほんの一瞬で引き裂かれた。

「きゃあああああああああ!!!」

 ふたりだけの秘密の楽園で、女の悲鳴が響き渡った。弾かれるように顔を上げれば、赤い髪を結い上げた少女がこちらを見て怯え立ち尽くしていた。

「あ……」

 少女と、彼女の目が合った。

「いやああああっ、化け物!!!」

「違……っ、待って!」

 血相を変えて走り出した少女を、少年が飛び起きて後を追う。彼女の方を一度も振り返らないまま、少年は走り去った。


 彼女はただ、少年の後姿を見えなくなるまで見守るしか、なかった。

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