天上の百合
@usiosio
プロローグ
小百合は老婆であった。
夫を早くに亡くし、子はとっくに独り立ちし、米国やら英国やらに行き、一人、高齢者向け住宅で余生を過ごしていた。
小百合は孤独死であった。
病気も無く、愛猫だけが、炬燵で動かぬ老婆の側でただ鳴いていた。
小百合は幸せだった。
2日後、貯まっている新聞に気がついた近所の人間により発見され、急ぎ帰国した我が子と孫に、老婆を慕う者達に、美しく飾られ葬られた。
小百合は困惑していた。
ようやく夫の下へ行けると穏やかな気持ちでいたのに、何故か目の前には愛猫。
但しーーー尻尾が4本。
「ミィちゃん、あなたそんなにたくさんの尻尾、どこで生やしてきたの?」
生前と同じように甘える猫の耳の後ろを掻いてやると、もっと撫でろと言わんばかりに猫は擦り寄ってきた。
「もしかしてあなたも死んでしまったなんてことないわよね?」
勿論、猫は死んでしまったわけではない。
既に猫にしては老齢とはいえ、近所の人間によって保護されたその猫は、老婆の葬式にも特別に参列を許され、人懐っこい性格から先日まで町内会館でたくさんの町民に囲まれて楽しく過ごしていた。
「ママ、ぼくね、寂しくて寂しくて、」
口を開いた猫に、老婆はぎょっと目を剥く。
「もっともっとママと遊びたかったから、たくさんがんばったんだ。」
そう、猫は、死んでいない。
この世に、生まれていなかったのだ。
「ママ、もっともっとたくさん遊ぼう。」
一番元気だった頃のママの肉体へ
一番美しかった頃のママの顔へ
一番幸せだった頃のママの記憶へ
ぼくといつまででも遊んでくれそうな
老婆は猫の願いでその身体の時を戻す。
十代の頃の肉体、二十代の頃の美しさ、
そして老婆は気付いていた。
一番幸せだった頃に記憶が戻らないことを。
それが、死ぬ間際まで、常に幸せだったということの証明だと。
「ミィちゃん、私あなたが怖いわ。」
「怖いのは仕方が無いよ、猫は人語を解さないし、ヒトを若返らせるなんて出来ない。だってぼくは猫じゃない。」
ネロ、猫はそう名乗った。
似て非なる平行世界の、ノーマという国の、皇太子。
彼は本来人間で、15年前、彼が10歳、暗殺で命を落としかけた時、生死の狭間からうっかりこちらの世界へ迷い込んできたのだという。
俄には信じ難い話だが、夢なら夢で、愛猫の言うことだ、信じてやろうと、小百合はその話に必死に耳を集中させた。
15年前、何らかの要因で猫になってしまった彼は、腹の傷も然る事乍ら、餌の捕り方も分からず餓死寸前だった。
『あら大変!君怪我してるじゃない!親猫はいないのかしら…兎に角お医者様のところへ行きましょう、ね?』
偶然か運命か、その場に通りかかった小百合の手により命を長らえたネロは15年彼女に寄り添い続けた。
恋などという生温いものでは無い。生まれて直ぐに亡くし、顔も知らない母に重ね合わせただけの親愛ですらない。
執着、思慕、歪んだ恋慕にも似た「愛」
小百合の死によって、それらは暴走する。
家族に甘んじていた心は、欲望に忠実に、ただ欲しいと、小百合が欲しいのだと、其の細い糸で仕切られた小さな世界を、今まで必死に守り続けた糸を、引き裂いてしまったのである。
頃合を見計らい迎えに来たノーマの使者が、ネロに一つの魔法を教えた、千の生贄と引き換えに、世界の理を、天の意志を、全てを歪ます禁術。
「さぁママ一緒に行こう。ずっとずーっと、永遠に遊び続けようね。」
小百合の指が、空間に溶けていく。
違う、そうではないのだと叫びたかった。溶け落ちてもう声も出せない。彼女は安息が欲しかった。死という安息を望んだというのに、其れを、其れを
「ーーー」
深い闇に落ちていく。
新たな世界で彼女に残されるのは、光か、それとも
『プロローグ』完
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