「よっと」

 彼女はその、地上から四メートルはありそうな枝の上から飛び降り、猫のようにしなやかに全身のバネで衝撃を吸収するように静かに降り立った。

 考えごとをしながら歩いていたので気づかなかったが、ここはかつて、ぼくと麗那先輩が最初に出逢った場所。あの憎き不良生徒五人衆を、ぼくの女神様が、鮮烈熾烈苛烈しれつかれつかつ猛烈に、たたきのめした、あの場所だった。

「麗那先輩」

「生きて帰って来れたんだ。さっすが縁人くん、私が見こんだだけのことはあるね」

 後腐れなど何ひとつ感じさせない、屈託のない笑顔で、彼女はぼくを迎えてくれた。正直夢葉が人質にとられたときのあの一件で、麗那先輩はすっかりぼくに関心をなくしてしまっただろうと思っていたけれど、そんなことはなかったようで安心した。ぼくが無事生還して喜んでいた、というよりは、そうなることを予期していたかのような、そんな口ぶりだった。

「最近、心おどる戦いがなくってさ。体がうずいてたとこなんだよね。縁人くん、ちょっとおねーさんと付きあってよ」

 麗那先輩の代名詞とも言える〈あの笑顔〉が、ぼくに向けられ、ぼくの中の警報装置が、最大音量で警鐘を鳴らした。

 ぼくは麗那先輩が退屈していたという、ただそれだけの理由で、思い出の校舎裏の一本杉の下、麗那先輩に、組手というよりは、一方的に殴る蹴るの暴行を加えられていた。

 相変わらず奇想天外な、体操選手日本代表すら霞んでしまう、おおよそ人類の限界を超えた獣か何かを想起させる、そんな動き。体重なんて存在しないんじゃないかと思わせるほど軽やかに彼女は宙を舞い、そこから繰り出される、嵐のように激しく斬撃のように鋭い攻撃のひとつひとつが、まるで砲丸のような異常な重みを有して、やってくる。

 八木師匠のもとで死に物狂いで身につけた先読みで、はじめの何発かはさばけても、こちらが反撃の動作に入る前に、次の攻撃がやってくる。ぼくには、麗那先輩が同じ人間だとは到底思えなかった。種族の違いとでも思わなければ、眼の前で起きている、いかんともしがたい運動能力の差を、理解すること自体できなかった。

 どすん。

 ぼくの鳩尾みぞおちにめりこむ、麗那先輩の膝蹴り。

 女性の放った一撃とは到底思えないその重さに、ぼくは胃液を地面にまき散らし、横隔膜が痙攣けいれんを引きおこし、まともに呼吸することさえままならなかった。く、苦しい。呼吸を整えなければ。ひっひっふー。ひっひっふー。

「ありゃ。大丈夫? 加減したつもりだったんだけど」

 加減されていたにもかかわらず、情けないことにぼくはそのまま地面にくずおれ、兜虫かぶとむしの幼虫のように、地面でうずくまってしまった。

 麗那先輩はそれ以上攻撃してくることはなく、ただ「いい運動をした」とばかりに悠々と、伸びをしていた。地面に臥床がしょうしたことで生じたローアングル・カメラが、無防備な彼女のスカートの中の純白を捉えた。

 そんなことなどまるでおかまいなし、とでもいうように、麗那先輩は上からぼくを覗きこんで、太陽のように朗らかな笑顔で、言った。

「私さ。縁人くんの成長が楽しみで、ずっと気にかけてたんだよね。自分じゃ実感ないかもしれないけど、縁人くん、私と会ったときよりもずいぶん強くなってるよ。人の強さを見抜く眼には自信あるんだ、私」

 あの麗那先輩がぼくを認めてくれた、と、ぼくは顔にこそ出さなかったが、内心では感涙にむせび泣いていた。彼女に認められるがため、地獄のような訓練の他さらに自主鍛錬、課外授業、果ては特別訓練キャンプにまで参加して鍛えた甲斐があったというものだった。

 しかしその後、太陽が雲に遮られるかのように、彼女はその笑顔を曇らせた。

「だからあのときは、ちょっとがっかりしちゃった」

 あのとき、というのは、たぶん、先の任務でぼくが夢葉を守ろうとして麗那先輩の前に立ちふさがったこと。そして、夢葉を救うために自分の身を顧みずにあの場に残ったことだろう。

 いつも余裕の笑みを絶やさなかった麗那先輩の、その珍しい顔を、ぼくは脳裏に焼きつけながら、彼女の言葉に耳を傾けつづけた。

「縁人くんの欠点は、冷酷さがないところ。敵にまで情けをかけるほどまさか甘ちゃんじゃないと思うけど、必要な時には味方でも容赦なく見捨てる、そして、戦の中で自分が果てても構わないっていう〈覚悟〉が足りない。そんな気がする」

 直球だった。

 ぼくは、反論できなかった。戦場では任務の達成どころか、ただ自分が生きのびることだけで精一杯。それでは任務に殉じる覚悟がないと言われても仕方がなかった(もっとも軍人としては駆け出しのぼくがそんな命知らずの無茶な戦い方をしていたら、今ごろここで麗那先輩とイチャイチャどつきあってることもないわけだけれど)。

 麗那先輩はしゃがみこんで、ぼくに顔を近づけてきた。彼女の、燃えるようにあかい髪が、ぼくの頬に触れた。シャンプーのような香りでも期待していたが、あいにく無臭だった。

「縁人くんはさ、もし自分が人質にとられて、眼の前に私がいたら、どうする? こないだの、あのオジョーサマが人質にとられたときみたいにさ」

 麗那先輩は、唐突にそんなことを訊く。

「助けを求める? それとも……」

 即答できずに押し黙るぼくをまくしたてるように、彼女は続ける。

「まさか。ぼくが麗那先輩にそんなみっともないことするわけないでしょう」

 終零路に人質に取られた月野が、恐怖でどうにかなりそうな自分を必死で押さえつけながら「逃げてください」と言ったときの姿が、ぼくの中で蘇った。

 月野は結局殺されてしまったけれど、そして彼女のおかげで今ぼくはこうして生きていられるわけだけれど(彼女の捨て身の攻撃がなければ、終零路に串刺しにされていたのはぼくの方だった。彼女はぼくの身代わりとなって殺されてしまった)、彼女のあの勇気は、ぼくに少なからず影響を与えた。けれど、それでも、惚れた女の前で威勢のいいことは言えても、いざ自分が人質にとられたら、おそらくこんなに堂々と、胸を張って麗那先輩のために死ぬ、なんて言えないだろう。きっとぼくも月野のように、必死で、生きたいという生物の本能に抗い、恐怖で涙と小便を垂れ流して、それで最後の最後で何とか、「ぼくにかまわず、彼を殺してください」と、震えた声で、ひりだすようにして、言うのだ。

「そうだよね。縁人くんなら、そう言うと思った」

 その答えを待っていた、とでも言うように、麗那先輩は眼を細め、あの嗜虐的な笑みを浮かべた。

「じゃあ、もし〈そのとき〉が来たら、容赦なく縁人くんを殺すね。あののように」

 麗那先輩は、平然と言い放った。

 彼女なら実際にそうするとわかっていても、実際にそう言われると、怖気おぞけが走る。夢葉がまだ生きてることを麗那先輩に伝えるべきかどうか迷ったが、結局言わなかった。麗那先輩が夢葉を斬ったことを悔いているようには思えなかったし、夢葉の生死に興味もないだろう。

「だから逆に、もし万一、私がヘマして敵に捕まるようなことがあったら、縁人くんも私を殺してね」

 心底それを望んでいる、とでもいうように、麗那先輩は言った。

 彼女はよわい十八にして、ぼくには想像もつかないほどの屍山血河しざんけつがを渡り歩いてきている。そして、戦場で人生を全うする覚悟があるからこそ、夢葉のように覚悟のない者が戦場にいることが許せなかったのだろう。

 夢葉は、こんな地獄に来るべき女の子じゃなかったのだ。後方支援を望んでいたとはいえ、彼女は軍学校などに入学するには優しすぎたし、弱すぎた。

「善処します」

 ぼくがそう言うと、麗那先輩は、少し寂しげに笑い、「そう言うと思った」とだけ言った。

 麗那先輩は、ぼくに手を差しのべた。

 ぼくは、その決して大きいとは言えないものの、どこか力強さを感じる手をとり、立ちあがった。

 ぼくの肩をばしばしとたたき、麗那先輩は言った。

「おねーさんのわがままに付きあってくれてありがとね。縁人くんのそういう優柔不断なところ、好きだよ」

 優しいところ、と言ってほしかった。しかし優柔不断なのは事実なので仕方なく、麗那先輩に好きと言ってもらえただけで、ぼくのハートは思春期の中学生男子のようにすっかり舞いあがっていた。LOVEではなくLIKEだろうけれど。

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