舞踏手の耳飾り  ~舞妓ヴェスタと魔女の物語~

澳 加純

第1話 舞踏手 一

 シャラン… シャラン…

 踊り手が手足を動かす度に、腕輪足環の銀の鈴が涼やかな音をたてる。

 夜の空気を振動させ、日差しに焼かれた乾いた肌に、涼しさを感じさせる音色だ。

 

 風の無い夜だった。


 とうに熱砂のむこうに陽は沈み、ナツメヤシの葉が夜露に濡れる頃のはずだというのに、夜のとばりに包まれ月が白く輝いてなお、空気は熱く人にまとわりついていた。


 シャラン シャララ……

 風に舞い上がる赤沙の鼓動。鈴の音だけが鳴り響く。

 こんな夜には悪魔シャイターンが来る。

 それ、その暗がり、闇のなか。

 鈴の音よ、悪魔シャイターンを追いはらっておくれ。


 シャララララ……

 呑み込まれるような深い闇のなか、篝火に照らし出され、ひとり鮮やかに漂う妓女ガーワジ。 

 まだうら若い女で、すっぽりと上半身を隠すヴェールが、彼女が大きく一歩踏み出そうとする動きにつれて、ふわりと揺れて浮き上がった。


 引き締まったしなやかな肢体を色とりどりの綾布で包み、迷信深い彼女らの誰もがそうするように、踊っている最中悪魔に心奪われぬよう、銀細工の耳飾りだの腕輪などと、かえって邪魔になりはせぬかと想われるほど、じゃらじゃらと飾り付けていた。

 小麦色の肌と濃い闇の陰影が、彼女を見つめる者たちに摩訶不思議な思いを駆り立てた。


 シャラン シャララ シャラン

 踊り手を照らし出す炎どもが目覚め咆哮すれば、どこから集まって来たのか、炎の美しさに魅入られた蛾を呑み込み、その美貌を一層際立たせる。

 流れる水のような動きに合わせて、ヴェールは絡み付き、舞い上がり、大きく揺れ動くのがなんとも悩ましげでさえある。

 ヴェールの向こうから挑む、切れ上がった大きな瞳のなんと魅惑的なことか。


 彼女が踊っているのは、七つあるヴェールの踊りのひとつ、踊り手が鈴をつけその音色を伴奏として踊る『湖面に浮かぶ月の踊り』であった。

 胸元に置かれた右手が緩やかな弧を描いて頭上へ、左手は前方へ、誘うように首が振られ、赤い唇の隙間から洩れる熱い吐息さえ伝わって来る。

 舞い上がったヴェールの端が再び踊り手の肢体に巻きつく前に、彼女は上体を反り返し右脚を蹴り出した。くるぶしまである長いスカートが大きく揺れ、両脇に入った大胆なスリットから、すんなりとした脚が太腿のあたりまでむき出しになる。


 シャララ……

 鈴の音が掻き乱す。水面みなもはさざめき、ぽこりぽこりと水泡が現れる。それらは危なげに離脱すると、鬼火となって宙を乱舞する。

 いや、これはまぼろし……。

 だがなんとまばゆい闇の輩ジンの誘惑であろう。

 彼女を見つめる幾つもの瞳は戦慄した。


 帝都サナルより遠く離れたマシマエヤータの城の中庭で、篝火に浮かび上がった妖美な踊り手はこの世の者ならず、われらをこの世ならざる処へと導く闇の輩の使いイフリータやもしれぬという想いが人々の心をよぎったその時――――


 パアーーン!


 踊り手の右手と左手が、切り裂くような激しい音を立てた。

 彼女の姿のみを凝視していた者たちの視野が拡がる。

 篝火の後ろ、踊り手を遠巻きに囲むように控えた楽士たちが、闇の中からボゥと現れた。


 ターーーーァァン…


 太鼓の音が響く。強く跳ねる低い響きが、回廊を駆け巡り、城中にこだましていく。

 その余韻が消え入らぬうちに、クードが旋律を奏で始める。

 クードとは、半球状の胴体に羊の皮を張り、胴体の2倍はある棹が付いていて、五弦を爪で爪弾いて演奏する。アルイーンでは名こそ違えどそこかしこにある、見慣れた古い撥弦楽器である。


 踊り手は、ふわりと翔んだ。

 重さを感じさせぬ跳躍――――。

 同時にヴェールが彼女のからだから滑り落ちた。

 その刹那、この世の者ならざりし踊り手も、クードの旋律も、激しく華やかに、この世を謳歌する生き生きとしたものへと一転した。

 鈴の音が高らかに鳴り響く。太鼓のリズムが心騒がせる。

 クードの旋律にプタード――洋梨型の胴体に銅の半分ほどのさおが付いた、クードより素朴な乾いた音を出す三弦楽器が加わり、さらにウチャールと云うイゾルタン琴が加わっていく。

 それは濃く深い闇の恐ろしさを寄せ付けぬ、生ける者の荒々しくもたくましい躍動の踊りであった。


 篝火のように、踊り手も燃え上がる。

 妖美の仮面を脱ぎさり、これが本来の彼女の顔ではなかろうか。何者をも恐れぬ、虐げられ踏み倒されても起き上がる、若くて美しい生命力に溢れた女の顔があった。

 ぐるりと彼女らを取り巻いて見物していた、マシマエヤータの城の人々から歓声が飛ぶ。

 誰ともなく手拍子が始まり、ひとりまたひとりと加わり、あっという間に中庭に詰めたの人々の間に伝わると、踊り手も楽士も見物する者もひとつとなった。


 興奮の渦が巻き起こり、全てを包み込み、天高く昇っていく。人々の顔に浮かぶのは高揚の喜びだ。

 あちらこちらから嬌声が上がり、口笛が響く。

 今宵の宴に喜び、酒に酔い、平安に過ごせた一日を神に感謝し、人々は歓喜の中にいた。

 生きているという実感を共に手にしていたのだった。


 シャン!


 最高潮に達した時、妓女ガーワジの鈴がリズムを変えた。

 一瞬にして喧騒は消え去り、鈴の音だけが気高く鳴り響く。


 シャラララ…… シャラララ

 踊り手は再び煌々とした『湖面の月』となり、静寂を求め、闇を呼ぶ。

 女の強い視線が、響動どよめきを消却する。

 大きくゆっくりと腕を振り、足で律動を刻む。


 シャシャンシャン…… シャラララ、シャララ……

 凪いだ水面に静かに映る月は――


 シャララララ…… シャラシャラ……

 ――――雲間に隠れ行く


 旋律の中からウチャール琴の響きが消え、プタードの和音が消え、静かに静かにクードの爪弾く音と共に、踊り手は闇に紛れていく。

 人々は息を吞み、それを眺めていた。

 やがてクードの残響と鈴の音が、黒い夜へと溶けていった。


 最後に残こされたのは、熾火を残したかがりのみ。



 しばらくは、何も起こらなかった。

 時が止まったかのように、静かだった。



 消えかかった燠が爆ぜる音で、ようやく静寂の呪縛から覚めた観客は、踊り手に惜しみない喝采を送った。

 それは桟敷から見物していた総督ナキーブとその家族も同様で、総督マクトル卿は、踊り手に銀貨三十枚と云う破格の褒美を与え、もう一指し踊って欲しいと希望した。



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