君と綴るいつまでも
みち木遊
第1話 不思議な思考のジーニアス
プロローグ(仮)
意外な事っていうのは、結構な度合いで起こるものだ。
事実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、それもあながち間違ってはいないのだろう。
自分でそう言うのは少し違うのかもしれないが、少なくとも俺が生きた一部を開始とした今までがそれと言える。
その大半の理由を作ったのはある少女。
IQ130以上の天才で学生の身でありながら、研究者であり、中学生の時には博士号を取得している、とすでに凄いことになっている上に容姿端麗と来たものだ。
低めの身長の癖に出るとこが出て引き締まるとこは締まっていて、幼さを残した整った顔立ちには何か来るものがない男性がいるのか疑わしいほど。
だが、そんな超スペックな少女はモテるという単語から遠い存在だった。
何故なら、その高すぎるIQのせいなのか、素の性格がそうなのか、不思議な思考回路を持ってしまったヤバい奴だったからだ。
倫理観が欠けているのか、常識が欠けているのかのいずれかなのか、どちらともなのかだけは目に見えている。
ぼそっと『人体実験をしたい』と聞いた日には、警察を呼ぼうかと思ってしまうほどだった。
そんな残念天才美少女はどうして、なぜなのか、普通を生きようと当たり前という誰が決めたのかわからない人生ノーマルモードの俺と接点を持ったのか。
そして、どうして、そんな少女が僕に好意的に友好関係を築いてくれているのか。
全く分からなかった。
いや、そもそも、どこで接点が出来たのかすら記憶がない。
ただわかることは、気付けば知り合いになっていて、話しているうちに友達になったと言うことくらいだろう。
では、ずっと忘れていた自分と少女の名前の紹介と行こう。
さっきから俺、俺と詐欺師みたいに一人称を連呼していた人生ノーマルモードこと、
そして、IQ130超えで不思議ちゃんの残念天才美少女こと、
この物語はそんな二人がほかの人間を巻き込み、ほかの人間に巻き込まれながら、綴っていく、他人から見れば下らなく、俺達から見れば高価な、そんな価値を持ったお話。
一章 自己捜索のジーニアス
俺こと、
この学園に入学し一年が過ぎ、二年生となった今、学校の内容にも慣れ始め、友人もそれなりに出来た。
過不足なく学園生活を過ごしている、というのが当てはまるのだろう。
ある一部を除いては、だ。
いつものように放課後になると俺は三階建て校舎の二階の端も端、一番奥にある教室ではない一室にいた。
部室やロッカールーム、ましてや、科目別の準備室や、資材置き場でもないそこは『研究室』と書かれた看板が申し訳程度にドアに掛けられている。
その看板は遊びで作られたわではない。
本当に研究室なのだ。
普通で平均な俺がどうしてここにいるのか、その理由は簡単だった。
「いやぁ、悟志君は普通だよねぇ」
単純な感想にも、煽りにもとれるセリフを吐いた少女がいるからだ。
IQ130超えの天才で、身長こそ平均を下回っているがスタイル抜群で顔立ちも整っている完璧スペックなはずなのに、いろいろと欠如しているせいでモテるという単語からかけ離れた、学校の中で唯一、授業ではなく研究をするために登校している少女、
彼女の話し相手という役割の為に研究室に来ているのはいいものの、どうしていつも俺が普通、普通と連呼されなければならないのか。
確かに貴崎よりは普通なのかもしれないが、これでも頑張って生きているんだ。
普通と言っていいのは自分だけでいいと思っているのに…。
「貴崎、お前から見れば、俺は普通を字で行く人間にしか見えないようだけどさ」
俺もさすがにと思い、言い返してみると、
「あはは、でも、友人が君しかいない私にとっては特別なんだ」
と貴崎が笑いながら返す。
そう言われると、俺も返す言葉が無くなってしまう。
事実、貴崎は研究室に引き籠る以外、学校に来ている意味がないため、名前だけのある生徒として扱われ、そのせいで友人どころか名前が置かれている教室のメンバーと顔を合わせたことが無いのだ。
「…、研究はどうなんだ?」
彼女の言葉に返す言葉が見つからず、話を少し強引に切り替える。
貴崎は俺が何故そう訊いたのかの理由を察したのか小さく微笑んで、
「んー、進み具合は悪くないんだけど、それがどうつながっていくのかって質問されると細かくは答え切れないって感じだなぁ…」
と、苦い表情でデスクトップパソコンのモニターを見つめながら、貴崎は言う。
「そうか」
それに俺はほんの少し無理に笑顔をつくり、短く返した。
そして、貴崎は会話で緩めていた気を引き締めるように背伸びをし、俺が
集中と言う言葉以外に何が当てはまるのか、そう思うほどの眼差しで題材の論文だろうか、大量の文字をあっという間に連ね、文章として組み上げていく。
慣れと才能の結晶とは、この事を言うのだろう。
そんな彼女の姿を見て、生きている世界の違いを直に感じていた。
さっきまでの変わっているだけの女の子ではなく、研究者の一人に変わった彼女に俺は何も言うことはできない。
彼女には時間がないことを俺は知っているから。
彼女の研究の行き着く先が彼女自身だと言うことを。
彼女と接するようになり、友好を深めた俺だけが知っていた。
決して、知っていることで優越感を感じる
むしろ、どう対処していいかわからないもので、彼女がどんなに前向きに頑張っていても、俺を含めた『
たぶん彼女も俺達の気持ちを彼女なりに理解はしているのだろう。
だが、それでも彼女は研究をやめない。
徹夜も絶食も厭わない。
だから、俺はそんな彼女のお目付け役として、存在している。
彼女が研究室に籠ろうとすれば、俺も研究室に残って、監視する。
学校の帰りはいつも一緒に帰っているのもその一環だ。
過去に家に帰ったと思ったら、帰り道を迂回し、俺に会わないように学園に向かい、研究室に徹夜しに行っていたことが何度もある。
現状、俺と彼女の間に友情はある。
だが、その間に一切の恋情は含まれてはいない。
なんなら、恋情それ自体が存在しない。
看守と囚人の関係のような関わり合い。
だから、俺は思う。
いつまでもはない関係なんだ、と。
時間が過ぎ、時計を見ると午後七時を回っていた。
「貴崎、もう時間だから、帰る準備すんぞ」
俺は貴崎にそう呼び掛け、自分のバッグを持った。
貴崎はそれに、
「…んー?…お、もうそんな時間かぁ。わかった、帰る準備でもするよ」
と、あきらめるような表情をつくり、椅子の背もたれに体重を預ける。
ギィ、と金具同士がこすれた音が鳴り、どれほど彼女は身体を預けているのかが判った。
「んぅ~~…、んっと」
背伸びを終え、少し勢いを付けて椅子から立ち上がった貴崎は少し作業場から離れたところにあるバッグを取って、パソコンに刺してあるUSBメモリをちょっとした操作を経て取り出す。
そして、再び操作をし、電源を落とし、USBメモリと作業場に散らかった紙を纏め、机に置いたままのファイルに雑に入れると、一気にバックに仕舞い込む。
まるでガサツな男のような、そんな後始末風景。
それをなんとも言えない目で俺は見ていると、その視線に気付いたらしく、
「いつも君はそういう目で私を見ているな」
貴崎は目を細めながら、作業のために額の直ぐ上で縛っていた前髪のゴムをほどき、前髪を直して、デフォルメされたドクロが印象的なヘアピンを前髪の片側に付けながら俺に訴えてきた。
髪を気にしているところは女子なんだけどなぁ…、と密かに思いつつ、俺は、
「気のせいだろ」
と、短く無意味な嘘を吐いた。
当然なことだが、それに貴崎は納得がいかなかったらしく、さらに目を細めて、更には眉間にしわを寄せて、俺に訊く。
「どうせ、男みたいだって思ったんだろ?」
大正解だった。
質問が完全に正解だった。
俺という男はわかりやすい人間なのか、それとも彼女の心情を察知するスキルが高すぎるのか。
俺としてはどちらでもいい気はしないが。
「…まぁ、そうだな」
仕方なく俺は肯定しているようなしていないような、
それが癇に障ったのか、多分そうだろう、頬を膨らまし、貴崎は俺に、
「悪かったね、どうせ私はいつもがさつで男っぽいよ!」
すこし口調を荒げて、怒っていた。
「…なんかゴメン…」
正直、俺自身の行動はどうであれ、直接的な被害を与えたわけではないと言うことがあり、あまり反省しないで、とりあえずで謝った。
まぁ、お察しの通り、それがさらに彼女の癇に障ることになる。
「心から謝ってないだろ!君はいつもそうだ、私のことを女の子っぽくないとか言って!私だって少しは乙女なんだぞ!」
端から見れば、彼女の扱いが悪い彼氏が彼女に怒られているような言葉の羅列だが、実際、関係こそは違うが、俺がする貴崎の扱いが雑なのは、多少の事実に当てはまる。
いつもという程ではないが、『女の子っぽくない』と言っていることも事実だった。
確かに、怒られても仕方がない。
「…すみません」
そう考えた俺は、先ほどの心半分の物とは違う
「…もうっ、次にそういう感じで私を見たら殴るからな!!」
と、言いつつもサイズが大きくダボダボの白衣の余った袖で胸部ををペシペシと鞭のように殴られ、この一悶着は終末を迎えた。
少し時間を進め、帰り道の途中。
「なんか、買い食いしよう」
貴崎は京都にでも行きそうな軽さで俺にそう提案した。
時計を見れば、午後七時二十六分。
俺も腹が減ってないと言えば嘘になる。
それに別に軽く食べるくらいなら家での夕飯も食べきることはできるだろうし。
そう考えて、俺は、
「いいな、それ」
彼女の意見に乗っかることにした。
帰宅途中にハンバーガーのファーストフード店があったはずだと、そこを目的地に歩き、すぐに店にたどり着いた。
そこで俺と貴崎は腹の足し程度を頼み、買った食べ物をもって椅子に座る。
「久しぶりなんだよなぁ、こういうの」
貴崎は目を輝かせて、学生なら結構見る事どころか食べることの多い物を見て言った。
それの反応はただ苦手で食べていないからじゃないことは、知っていた。
たしかに彼女は忙しいが、そういう話でもない。
だから、俺はある意味こうするしかなかった。
「そうだな、俺も最近行ってなかった」
俺は彼女の言葉に事実を返した。
それに貴崎は、
「意外だな、君はいつも私以外の友人と言っているのだろうとばかり思っていたよ」
と、驚いたような表情でそう言った。
彼女は言った瞬間忘れているのだろうが、俺は友人と帰宅することはほとんどない。
理由はすぐわかるようなもので、貴崎といつも下校しているから。
だが、このことは貴崎に言ってはいけない、返してはいけないと思い、俺は事実を隠し、
「俺は個人的にあんま
と、らしい嘘を吐いた。
それには彼女が気付くことはなく、スルーされた。
それに対して、俺は安堵し、頼んだ品物の放送をがさつに開けて、食べ始める。
俺と同時に貴崎もむしゃむしゃと小さな口で頬張り、なんとも幸せそうな顔をしている。
…これがIQ130かぁ、なんか一般人と変わんないな…。
むしろ子供のような、そんな感じがした。
「うまいな。悟志君の、一口くれよ」
なんだこの高性能幼児生物は、と思い始めていたその時に、貴崎は俺にそんな提案をしてきた。
「ん、いいぞ」
俺は軽い感覚で、食っていたハンバーガーを彼女に差し出し、彼女はソレをすかさず、まる餌付けされる鳥のようにパクっと小さな噛み跡を残し、一口持っていった。
「んぅ、うまいなそれも」
貴崎は彼女と別のメニューを頼んでいた俺のをおいしそうに食べ、一言だけ感想を言う。
それしか言わねぇな、こいつ、というセリフは心にしまっておくとしよう。
まぁ、それはそれとして、俺も食事の続きをしようと、再び、ハンバーガーを口にした時、
「あ」
と、貴崎はなにか思い出したかのようにはっとした表情をして、
「…んぁぁぁぁあああああ…」
と、彼女の食べていたハンバーガーを一旦トレーに置いてから、勢いよく机に伏せた。
伏せる時顔はあまり見ていなかったが、伏せている部分からでも見える彼女の横顔の一部は何処か紅潮しているような気がした。
「…いきなりどうしたんだよ?」
そんな彼女を見て、俺はほんの少し心配しながら聞いてみた。
「………す…」
「は?」
貴崎の返した言葉はあまりにも小さすぎる声量で形になることはならず、俺は聞き返す。
「…か……きす…、あああ、もうっ、間接キスだよっ!!」
それに何故かキレながら、貴崎は怒鳴るような声で返す。
「あー」
俺はそれに平坦で納得したように相槌を打つ。
「おかしいだろなんでそんなに冷静なんだよ!」
どうも俺の反応が気にくわなかったらしく、彼女は少し驚きながら、聞いてきた。
「いや、そんくらいやったところで死なねーし」
と、俺の中で当たり前の考えを彼女に突きつけた。
「は?」
今度は貴崎が聞き返す。
その表情は全くもって訳がわからない、といった感じで俺を見ていた。
正直、死んだ目でほぼ無表情をキメながら見つめてくるのは、結構、怖い。
「悟志君、君にとっての恥ずかしいと感じるボーダーラインを教えてくれないか?」
そして質問。
正直になにも考えいなかったと話しても、言い訳として聞いてくれないような気がする。
そもそも、元を辿れば、貴崎が『食わせろ』と言ったから、こうなったのではなかった?
あれ、俺、完全に悪くないじゃん。
たしかに後処理は悪かった気がする。
まぁ、仕方ないのかもしれない。
理不尽に不平だのなんだの言う気力は今の俺にはない。
という事で、答える。
「全裸を身内じゃない異性にみられるとか、ですかね…」
正直も正直、俺の価値観を晒上げ大会だ。
そしてその答えに対しての貴崎の反応というと。
「え、あ、はい…」
ドン引きというのか、照れているというのか、恥ずかしがっているというか。
どうとも取れるような微妙な表情に赤らめた顔色を添えていた。
そして、沈黙。
この沈黙は完全に俺が悪い。
全裸の時を例に挙げるんじゃなかったと今更になって後悔している。
そして、俺は沈黙を破ろうと一言。
「…まだハンバーガーお互いの残っているし、食べよう…」
「…うん」
それに肯定の貴崎の声。
そこから一つ間をおいて、お互いのハンバーガーを食べ始める。
貴崎は顔を赤くして、俺は顔を青くして、まるで火と水のような正反対の顔色で沈黙の中食事を再び始めたのだった。
ハンバーガーを食べ終わり、店から出た後の帰り道の途中。
「美味かったな、ハンバーガー」
「おう、そうだな」
貴崎が背伸びをして言った言葉に俺は何気なく返す。
ちなみに先程の沈黙は時間の経過で滞りをなくした。
時間さまさまである。
そんな時間に対して媚びていると、
「あー、久々だなぁ、こういうの」
貴崎は感慨深そうにそう言った。
その意味は、多分、俺の思い浮かんだ意味と会っているかもしれない。
だから、
「そうだな、かれこれ、三カ月ぶりか?」
記憶をたどって、訊く。
それに貴崎は満面の笑みを浮かべ、空を見上げて、
「そう、三か月ぶりだ」
そういって、満月が昇る空に手を伸ばした。
時間帯的に人気が少ない道を歩きながら、ただ伸ばす。
届かない月に向かって、なんとしても触ろうとしているようにも、俺には見えた。
「時間ってのは、その日その日を数えると長いと思っちゃうけど、過ごしてみるとアホみたいに短く感じる」
貴崎は言う。
「だから、楽しめる時間だけ楽しんで、頑張れる時間だけ頑張るのが一番かもしれないな」
時間の噛みしめ方が他人より、数倍も強い彼女だけが載せれる説得力で。
「なぁ、悟志君、未来って明るいよな」
そして、俺に言う。
共感とも質問とも取れる、多分、どっちにも取れるようには訊いているのだろうが、そんな言葉を彼女は俺に投げかけた。
俺は少し考えて、
「明るいのかなぁ…、少なくとも今日があって、明日を待つ。明日がなくても明日を待つために頑張る、そういうもんじゃないのか?」
すこし曖昧に、でもわざと、『無い事』も考えて、答えた。
貴崎は空を仰いだまま、手を力なく降ろし、
「…悟志君、シュレディンガーの猫っていうのを知ってるかい?」
「え、あぁ、確か、結果が重なり合った状態を確認することができないとか、そんなんだったはず」
俺は突然の貴崎の問いに答ると、
「うーん、もっと言えばだいぶ違うんだけど、私の言いたいことに沿ってるから合ってるって事にしとこうか」
と、ほんの少し馬鹿にするようなわざとらしい言い方をして、俺の答えを認めると、
「私はさ、人間でそれを実験してみたいって思ってる。猫じゃなくて、感情のある人間でね」
恐ろしいことを言った。
「違法行為を堂々と言うなよ」
俺は彼女の言葉にツッコミを入れると、彼女は、あはは、と小さく笑い、
「私は私自身の未来を見てみたいんだ。明日がないかもしれないという恐怖の中、今日という日をどう生きるのか、明日がやって来た者は、明日が来ない未来にいる自身に対して、どう思うのか、そして再び来た恐怖とどう向き合っていくのかをさ」
そう言った。
被験者は今の彼女自身じゃないか、俺はそう思った。
そう思って、俺は何も言えなくなる。
それ解っているのか、いないのか。
貴崎は続ける。
「私はこれでも真っ当に生きているつもりだよ?ただ、みんなよりは早歩きしてしまっているだけで、やり方さえ見つかれば、私もみんなの歩幅に、速度に合わせることだってできるかもしれない。だから、毎日、自分の血を抜いて、研究してる。貧血になったり、間違いが起こらないように細心の注意だって払ってるし、その為の努力だって、欠かしたことはない。それに、…これは君、悟志君に出会ってからだけどね、自分を実験対象だと思わなくなった」
貴崎は一旦、間を開け、俺の顔を見るように顔を降ろすと、小さな深呼吸をして、
「でもね、それでも、私はね、生きる気満々じゃないんだ。むしろ、死んでもいいなってくらいなんだ。私の研究が私が生きているうちに完成出来れば、生きることができるから万々歳だ。でも、もし、私が死んでから完成したとしたら、『私と同じ人間を救う手』くらいにはなるはずだ。私っていう生き物はね、ほかの人間より大雑把なんだ」
えへへ、そう言って、彼女は可愛らしく笑った。
この話は、何度目だっただろうか、シュレディンガーの猫の下りは今回が初めてだが、貴崎が自身の身をあまり案じていないことを訊くのは今までの付き合いの中、何度も話として聞いていた。
だが、何回も聞いていても、返す言葉が思いつかない。
ただ、それに対する悔しさが増すだけだった。
彼女お目付け役として、貴崎巳和という一人の少女と触れ合って、それなりの友情と信頼を築き上げてなお、彼女の『明日』という言葉を理解し切れていなかった。
あの時、『支えること』を約束したというのに、支え切れていない。
支えることもできていないのかもしれない。
その罪悪感から俺はいつもこう返してしまう。
「…ごめんな」
俺が悪い、そういうわけでもない。
ただ、ただ、悔しかった。
悔しくて、申し訳なかった。
俯き、謝った俺に貴崎は珍しく理由を聞いてきた。
「思ったんだけど、いつもこういう話をした時、謝るんだ?私の方が謝りたいくらいに君に助けられているのに」
その理由を俺は少しの黙り込んだ後、話す。
「約束、守れてないからさ」
短くも俺の言いたいことが凝集したそれに貴崎は少し寂しそうな顔をした。
「今まで言わなかったけどさ、あの約束、別に破ってもいいんだ。その程度のものなんだよ」
貴崎は表情を変えず、悲しそうな声でそう言った。
「え…」
俺は唖然とし、聞き返す。
貴崎は寂しそうな顔から無理矢理作るような笑顔に表情を変え、
「私はさ、君のお陰で自分の心配を出来るようになった。それにもう君が私の友人としているだけで十分の支えになっているんだよ」
そして、彼女は何でもないように言う。
「だから、気にすんなって」
その言葉に俺は返す言葉が浮かばなくなった。
でも、頭の中で言葉が思い付かないだけで、口はもう言葉を綴っていた。
「気にしないわけ無いだろ。友達一人いないだけで充分な問題だ」
あまり長い言葉ではなかったが、口から漏れだした言葉は、
「あはは、私も大分、価値が高くなったなぁ」
彼女に届いたらしい。
それを裏付けるように、彼女はなんとも言えない微妙な笑いを浮かべて、
「まだまだ生きる理由があるってことかぁ…、大変だな」
そう、心なし声色は楽しそうに聞こえるような、そんな声で言った。
「大変じゃないぞ、忙しいんだ」
俺は貴崎の言葉を訂正するようにそう言うと、
「忙しくさせたのは、君のせいだ」
彼女はニタリといたずらな笑みを浮かべ、俺に言葉を返した。
「じゃあな、悟志君」
「ん、じゃな、貴崎」
少し歩き、貴崎の家の玄関前で言葉を交わし、貴崎がちゃんと家の中に入って行ったことを確認し、俺はそこから自分の家へと向かい始めた。
まだ春に入る頃合いなだけあり、風は冷たく、俺はほんの少し身を縮める。
そして、
「いつもごめんな」
そう、呟いた。
二章 君と俺のトリガー
俺、
そして、その入学式という日の放課後に当たる時間に一人の少女に声をかけた。
その少女は周りよりも圧倒的に低身長でまるで迷子のように周りをきょろきょろ見回して、目立っていたからだった。
それに見かけは中学一年生かそのくらいの幼さなのに、ぶかぶかな白衣を羽織り、その下に俺と同じ一年生のネクタイと学校指定のブレザーが見え、見た目とのギャップという意味でも目に付いたからでもあった。
「どうしたんだ?」
俺は彼女の肩を叩いて、呼び止めてからそう訊いた。
正面から声を掛けたから驚くことはなかったが、
「なんだ!?」
声を掛けてきた俺自体に驚かれた。
まぁ、仕方ない。
俺も入学早々に知らない異性から声を掛けられっると少なからずビックリするし…。
「迷子か?」
俺は単刀直入に聞く。
それにその少女はあたふたと右に、左に顔を向け、俯いて、
「…うん」
虫のような声で肯定した。
なら話は早いな、そう思い、
「構わないなら、俺も探すの手伝うぞ」
そう言うと、少女は顔を上げ、
「本当か?」
聞き返し、俺は、
「おう」
短く返事をした。
これが
だがお互い名前を知るのはまだ少し後の事だ。
少女が探していた場所は研究室という部屋だった。
彼女曰く、新しい教室でまだ教室名が書かれた案内プレートが張られていないのだという。
そして、その教室があるのは校舎の二階だという事。
それだけだった。
あまりの手掛かりの少なさに少し唸ってしまうが、やると言ったらやらなければならないと思い、入学式で一層、人があふれている廊下の中、俺と少女は歩く。
それにしても、人が多い。
入学式で同じ学校の人間を探したり、似たような性質を持つ奴らを集めようとしたりと、一年生の教室が二階に固まっているだけあって、混雑もいい所だった。
「大丈夫か?」
俺は少女に何気なく訊くと、
「大丈夫だ」
と短く返って来たが、
「うぴゅ!?」
と少女から発したのであろう訳の分からない奇妙な悲鳴が聞こえ、もしやとそこを見てみると、人にぶつかって転んでいた。
「マジで大丈夫かよ…」
俺はそう呟き、転んだ少女の方へ向かう。
転んだ勢いでスカートの中のピンク色の布が見えているが、見ないことにして、気にすることもなく、俺は、少女に手を差し出し、手を掴んだことを確認したら、引っ張って立ち上がる手助けをした。
「ごめん、ありがと…」
少女は俯きながら、礼を言った。
「気にすんなって、ぶつかって謝らずに通り過ぎる奴が一番悪いからさ」
と、少女にひき逃げのようなことをした奴に独を少し吐きつつ、少女に気を遣わせないように返した。
「…それにしても、見つからないな」
そんなことを言いつつ俺はまた辺りを見回すと、校舎の一番奥、
異常なくらい人が込んでいるというのにそこだけ誰もいない空間を見つけ、その空間に教室の扉のようなものが見えた。
「あれか?」
俺はそう言うと、
「見つけたの?」
と、少女は聞き返し、
「多分、アレだな」
「わかった、わたしには見えないけど、行ってみよう」
俺の推測に行動を付けて、少女は二つ返事をした。
そして、すぐさまそこへ向かい、教室の扉のような物が本当に教室の引き戸だという事を確認し、少女の方を見ると、少女も俺の方を見て、『これ本当に探している部屋なのか?』みたいな視線を送っていた。
「…開ければいいんじゃないか?」
俺は少女から一歩下がり、戸を開くことを勧める。
少女は軽く頷き、一歩前へ出て、戸を開けた。
そこには大量の段ボール箱から出来た段ボールの山とオフィスデスクに書類棚が三つほどと、狭くない空間が狭く見えるような物質量がそこには広がっていた。
「ここだ」
少女はその光景を見て、言葉を失っていた俺とは対照的にほんの少し嬉しそうにそう言った。
「…ここで合ってるのか?」
さすがに入学初日の生徒が探すような部屋じゃないと思い、確認を取ると、
「うん、ここで合ってる」
そう答えた。
俺はどうとも言えない気分ではあったが、
「なら、よかった」
そう言って、帰るためにそこを後にした。
次の日、普通に授業があると言うことで俺は当たり前のように学校へ向かった。
そして、シラバスやらなんやらの説明とさわり程度の授業を受け、放課後になる。
俺は帰ろうと思い、教室を出て、不意に昨日の空き部屋と少女のことを思い出した。
そういえば、あの少女を見かけなかった。
クラスが違い、それもたまたま、会えなかっただけだとは思った。
だが、それでも何となく気になった。
校舎の端に設けられた研究室といい、段ボールで埋まった空き部屋といい、謎が多すぎる。
俺は興味本位で昨日探した研究室へに目的を変更し、足を運んだ。
一年生の教室が二階にあるという事もあり、足を運ぶこと自体は簡単だった研究室の前に俺は立っていた。
引き戸の上部につけられた窓は
だが、どうしてかそんな気が起こらなかった。
日を跨いでも研究室の案内プレートはつけられてないままの、この部屋がある事だけを俺は確認して、運が良ければ、昨日の少女と会いたかった、それだけのことで、ここまで来ていたから。
だから、さっさと帰ろう、そう思い、本当に帰宅へ意識を向け、そこから立ち去ろうとした時―――、
ガラガラガラッ、と勢いよく引き戸が開けられ、
「うぎゃっ」
そこから出てきた昨日見た少女が変な悲鳴をあげ、俺の
「ぐふっ」
俺も変な悲鳴を挙げ、二人して床へと倒れた。
俺が下敷きになり、飛び出してきた物体Xが俺の上で倒れるような形になって、床の敷物になる。
「…うぐ…」
腹部に男にとっては幸福感あふれる柔らかな感触があるがそれよりも鳩尾のショックで俺は呻いた。
そりゃ、人間の急所を偶然とはいえ、不意打ちされれば、誰でもそうなる。
「…うぅ…、ん?」
俺の呻きを聞いたのか、それとも床では無いものに倒れた感触に気づいたのか、物体X改めて、昨日の少女は俺の胸部に顔を埋めるのをやめ、顔をあげ、ポカンと言う擬音が似合うような唖然の表情をした。
「よぉ、とりあえず退けてくれないか?」
俺は気さくな挨拶(死にかけ)をして、同時に俺の胴体マットからの退去を命じた。
すると、
「え、あ、う、うぁ!?ごごごごご、ごめん!!」
と、顔を紅潮させつつ、漫画のような慌てかたをして少女は俺の上から退去した。
退去したといっても、俺から退けて、床にペタンと座るだけだったが。
床は汚いから立った方がいいんじゃないか?
そう指摘したかったが、何となくそれも野暮かな、などと変な考え方をしてしまい、そういう言葉は出ず終いになった。
そうなって、そうならなくてもだが、俺はとりあえず上体を起こし、
「怪我とかないか?」
と、少女に聞いた。
すると、顔が赤くなったままの少女は小さく頷きつつ、その場から立ち上がる。
その後、お尻をパンパンと叩き、スカートについた埃を払うような動作をして、ネクタイやら、前髪やら身だしなみをその場で整えること、十数秒。
やっとと言うほどの間もなく、身だしなみを整え直した少女を見て、俺にこう言った。
「確か、君は昨日のいい人?」
もっといい覚え方がなかったのか。
「まぁ、昨日、会った人間だな」
俺は少女の適当すぎる人の覚え方に不服を感じながらも、何とか、普通寄りの返答をした。
すると、少女は『おぉ』、と言う声が聞こえるほど、ぱっと表情を明るくさせ、
「君を探すつもりだったから都合がいい!」
などと、言って、片手を捕まれ、強制的に立たされ、
「おわっ!?」
驚きの声をあげるも虚しく、名前の無い『研究室』と呼ばれた教室に連れていかれるのだった。
連行され、昨日より、ミリレベルで片付き始めた段ボールの山のすぐとなりに置かれたソファに座らされた。
そこでなにもされることはなく、連行してきた当の本人は、部屋の入り口付近に置かれた冷蔵庫からジュースらしき物を出し、そのすぐそこの戸棚の中に並べられたコップも出し、とてとてと短い距離を早歩きして、手に持つそれらを、ソファの前に置かれたテーブルにおいて、少女はソファの俺のとなりに空いたスペースに座った。
ソファが一つだけあるから仕方のないことなのだが、どうしてもこういう光景を見ると、大体、同じ年の同級生に見えない。
「ありがとう」
俺は、そんなことを思いつつ、ジュースの礼を言った。
「いいんだ、昨日のお礼だから。あ、そうだ、名前、教えてくれ」
少女は礼に断りを入れて、俺の名前について、訊いてきた。
「俺の名前?辻井悟志、お前と同じ一年生だ」
「辻井、悟志、か。辻井君って呼んでいいか?」
「ん、別に構わないけど」
「そうか、辻井か、辻井君、これからよろしくな」
俺の名前を聞いて、俺の呼び方を決め、よろしくなと勝手に両手で俺の手を握って、ブンブンと握手擬きをして、何と自由な事だろうと思いつつ、
「お、おう」
とつい返事をした。
そして、ちょっと待てと思い、引っ掛かった疑問を何気なく投げてみる。
「こらこそよろしく、とは言いたいけど、お前の名前、知らないんだよな」
言い方がガラの悪い方に寄ってしまったが、少女は、『あ、忘れてた』といったような感嘆の表情を見せ、
「私の名前はな、貴崎巳和、巳和って呼んでくれ、辻井君」
貴崎巳和と名乗った少女はニッコリと笑い、また両手で握ったままの手をぶんぶんと振った。
まぁまぁな痛みが手首を襲いながら、あえて、
「おう、わかった。よろしくな、貴崎」
名字で呼ぶことにした。
「へぇ、ここで研究すんのか」
俺はそう言って、貴崎の話しを聞いて、感心し納得し、興味をいだいた。
「意外と私って、すごい方の人間だとは、自負してるんだ」
そう言って、貴崎は胸を張る。
確かに、胸を張ってもいいくらいに凄いことを彼女はやっているという事は、この数分でよくわかった。
彼女の話を聞くに、貴崎はもともと頭がよく、IQ130というとんでもない数値をたたき出し、中学生の頃に医学分野で博士号を取得した。
更に国からの特例で医師免許を持っているというレベル。
制約があるらしいのだが、医者と名乗ってもいい位は出来ると彼女は豪語していた。
そして、高校に進学するという話の中、この私立
そして、研究室として貸し出された部屋を片付けている途中、外の空気を一旦、吸おうと思い、廊下に出ようとした瞬間、ドアを開けながら自分の足に
「誇らしいな」
俺はそういって、尊敬の眼差しで貴崎を見つめると、
「あはは、そう言って、見つめるなよ、照れるだろ」
笑いながら貴崎は顔を紅くしていた。
かわいいやつだな、俺はそう思った。
実際、一目見ただけでもわかる童顔だが整った顔立ちに、制服のブレザー越しからでもわかるメリハリのある体型。
正直、男としては彼女にしたいくらいに高スペックな容姿を彼女は携えていた。
まぁ、正直な話ってところでそれは終わっているが。
「なぁ、辻井君、すこし手伝ってほしいことがあるんだ」
貴崎は、俺がジュースを飲み終わったところを見て、頼みごとをするときに使う構文のような投げかけをした。
「ん、何を?」
俺は何か手伝わされるのかな、と予想しつつ、返事をした。
「あのさ、この研究室の箱を片付けるの、手伝ってくれないか?」
貴崎は少し照れくさそうに、段ボールの山を指さして、そう言った。
俺は無言で段ボールの山、略して、段山に目を向けた。
百七十五と少しある俺の身長より少し高い段ボールの山がそこにはあり、おそらく奥行きがそれなりの教室の三分の二程を埋めているところを見て、相当な量がある事は明白だった。
だが、まぁ、なんというか、昨日、彼女を助けたのは俺の善意で、今日、この部屋に近づいたのは俺の興味で、今、ここにいるのは俺が貴崎の話に関心を持ってしまったからで、断る理由もなく、行きつく先は、
「日を跨ぎつつになるのを覚悟してもらえるなら」
と、ちょっとした条件を付けつつ、俺は肯定した。
部屋の
「ふー、…辻井君、休憩するか?」
額に滲んだ汗を腕でぬぐいながら貴崎は俺に提案をした。
「ん、そうするか」
その提案にまだまだやれそうな気がしながらも、続けると言えばそれに合わせて頑張りそうな貴崎のことを考え休憩を取る事にした。
また二人で同じソファに隣り合って座り、出しっぱなしのコップに出しっぱなしの
「結構、片付いたな」
貴崎は段山を見て、達成感からだろうか、少し嬉しそうにそう言った。
結構と言っても、体感で、と付け足すほどに少しだった。
割合で言えば、五分の一程。
だが、五十個ほど片付いたとなれば、体感でそう言ってもいい気がする。
「まだまだ頑張りたいけど、あと一時間くらいでやめようか。それで明日放課後にまた片付け直すって事でいいか?」
俺は時計を見て、少し考えてから、提案する。
「あー、そうだな。…私も大人しくそのくらいで帰って体力を回復しとかないと…」
そんな独り言を呟いて、貴崎は、
「そうするか」
と、短く答えた。
「んじゃ、もうちょい休憩してろ、俺は先に始めてるから」
俺はそう言って、貴崎を残して、段山に取り掛かった。
「…、なぁ、辻井君、君はなんでほぼ初対面の私にそんなに尽くしてくれるんだ?」
そんな僕を見て、貴崎はジュースを飲みながらそんあことを訊いてきた。
「あー、考えたこともなかったなぁ」
俺は言う。
実際に考えたこともなかったし、いざ考えると理由が浮かばない。
物心ついたころからこういう人助けっぽいのはやっていたし。
それこそ、何となくだった。
ただ、困っている人がいれば助けようと思って、動いていた。
だから、理由がない。
当たり前になっていることに理由を聞かれても困るだけだったから、その通りの意味で、答えることにした。
「当たり前の事をやってるだけだよ」
その答えに、貴崎はあまり間を開けずに、
「辻井君って、凄い良いバカなのかなって思った」
失礼なことを言ってきた。
「馬鹿って何だよ」
俺は不服で訊くと、
「そんな人助けを当たり前にする人間って、人間をすぐさま信用するような人間が多いから」
と、真っ当な理由を貴崎は答えた。
「あー」
その答えを出された俺はどうしようもない声をあげた。
事実、俺は人間を信用しやすい。
その分、騙されやすいというのもある。
それで何度も損をして、後悔もした。
「確かに俺って、馬鹿だな」
そんな過去にあったことを思い出し、改めて自分を見て馬鹿だという事を認知した。
そして、少し落ち込んだ。
それを見てなのかどうかは知らないが、貴崎は俺に言う。
「でもさ、バカって言っても、いいバカなんだよ。みんなが幸せになるために頑張ってくれる、凄く良い人、私はそう思うよ」
笑いながら、優しい声でそう言った。
「…どうもな」
俺はその言葉でほんの少しだけ自信を貰いつつも、自分が馬鹿だという事実にショックを受けながら、片付けを黙々と続け始めた。
それを見て、貴崎はジュースを飲み切ってから、
「私もやり始める」
と、宣言し、また片付け最前線に二人が揃った。
午後七時三十分。
「もう終わるか」
俺は貴崎にそう言うと、貴崎は手を止め、時計を一回見て、そのあとに俺を見て、
「そうするか」
と返した。
今やっている片付けを切りのいいところで中断し、俺たちは各々で下校の準備を早々と終わらせ、学校から出た。
そして、その途中。
ある程度まで下校経路が同じという事で、適当な話をしながら、俺と貴崎は暗い夜道を歩いていた。
「今日は本当に助かった。ありがとな」
「別にいいよ。なんだかんだで楽しかったし」
「そうだな」
貴崎と俺は言葉を交わし、
「私さ、話したと思うけど、授業受けないんだよ」
いきなりそんなことを言い始めた。
そして、続けて言う。
「だからっていうのも、なんか変なんだけど、さ」
なんというか、焦らすような言い方で、
「私の知り合いからでいいんだ、友達とかいうやつになってくれないか?」
と、どうしようもなく、口にしてできるような物じゃない頼みごとを貴崎は俺にした。
俺はその時、改めてわかった。
貴崎巳和という存在は一人だという事を。
ずっと彼女と話していて、どことなく、人付き合いが出来てなさそうな感じがしていたが、今の頼み事でそれが感覚ではなく、そういう事実として、俺に理解させた。
友達になれって、普通、人に言うだろうか。
たぶん、普通言わない。
少なくても、俺はそうだ。
まぁ、そういう定義する怪しいモノでもあるんだけど。
だから、俺は言う。
「別にいいぞ」
勝手にしろっていう意味で。
そして、意味なんて知らない貴崎は言う。
「えへへ、辻井君、これからもよろしく」
嬉しそうに、幼い顔に笑顔を浮かべて。
俺はソレを見て、なんとも言えずに、なんとも思えずに、
「よろしくな」
と返した。
遅くなったという理由で彼女の家の途中まで送り、少し遠回りして家に帰ったころには八時を過ぎていた。
親が入学一日目で遅くに帰って来たことを心配に思ったらしく、いろいろと訊いてきたが、適当に全部答え、明日も遅くなるとだけ伝えて、自室に籠った。
食事やら、風呂やらはすでに済ませ、後は寝るだけという状態で俺は自室のベッドに寝ころがる。
そして、ふと思い浮かぶのは貴崎の顔だった。
ころころと表情を変える彼女に飽きないという良さはあるが、どうしてか、まだ彼女に良い印象を持つことはできなかった。
どこか違う存在、そう感じていた。
たぶん頭の良さなんだろう、とかでは括りきれないような何かが彼女にはあった。
人付き合いをしたことが無いから、その理由が今の所一番適してはいるのだろう。
だが、どうしてか、それだけではない気もしなくはない。
しかし、その結論は全く持って、今、出る気がしなかった。
「…明日とか、その後の話なんだろうけどなぁ…」
俺はそう呟き、部屋の出来を消し、寝ることにした。
翌日、また昨日と変わらず、さわり程度の中学から毛の生えたレベルの授業を終え、放課後を迎える。
そして、俺はまた研究室(未完成)に足を運び、朝からずっと一人でやっていたのか、まぁまぁ小さくなった段山を見て、小さな声で「おぉ」と感心した。
この部屋の主、貴崎はちょうど休憩中だったのかソファに座って、ジュースを飲んでいた。
手が小さいからか、両手でコップをつかみ、ジュースを飲んでいるところを見ると、やはり同学年に見えない。
むしろ、小学生といったほうが分かりやすいような気もしなくはない。
「よ、手伝いに来たぜ」
そう俺が彼女に呼びかけると、貴崎は俺の存在に気付いたらしく、
「今日も頼むよ、辻井君」
ジュースを一気に飲みをして、コップを口から離すと、笑顔で返した。
俺は取り敢えずバッグとか片付けの邪魔になりそうなものをソファの端に置くと、置き終わるのと同時に、貴崎は立ち上がり、
「それじゃ、やろっか」
そう言って段山へと俺を迎え入れた。
そして、片付けの協力を始めてから、休憩挟んで三時間が経ち、俺は貴崎に、
「今日はこのくらいしようか」
と、残り少しとなった段ボールをみつつ、切り上げることを提案した。
「あー、…うん、そうしよう」
その提案に今日は歯切れが悪く貴崎は返答した。
「もうちょっと続けるか?別にそれでも俺は大丈夫だけど、貴崎は朝から多分、ずっとなんだろ?」
俺は取り敢えず、俺は遠回しに体力的に持たないんじゃないか?と投げかけると、
「うん、まぁ、朝からなんだけどさ…。明日、土曜で休みで、次の日も日曜も休みだろ?それだと月曜日から始めるつもりの研究の予定に合わなくなっちゃいそうなんだよ」
と、貴崎は個人的な理由を俺に教えてくれた。
俺は、日程がずれるのはまずいんだろうな、と思い、こんな提案を投げる。
「明日も学校行けるように話を付けれれば何とかなるとは思うけど、どうする?」
俺は昨日のホームルームで話された『教員の許可を取れば、日曜を除く休日に登校することを許可する』というものを思い出し、それを彼女に言ったのだった。
それに貴崎は、
「え、そんなこと出来るの?」
「出来るけど」
訊いてきたので、すぐさま俺は肯定した。
「どうする?」
俺は短く意思確認をして、
「じゃ、じゃぁ、…明日も手伝ってくれる、辻井君?」
俺の参加と行動の決行を確認してから、
「それじゃ、訊いて来る」
そう言って、俺は研究室を一旦、後にした。
職員室に行くと、まだ俺のクラスの担任、
「矢作先生、ちょっと伺いことがあるんですが」
俺は職員室の入り口に立ち、かなりの人数が帰った室内の中年男性、もとい矢作先生に声をかけた。
俺の声にすぐ気づいた矢作先生は、
「ん、辻井、まだいたのか、そろそろ帰れよ」
といいつつ、『こっちに来てもいい』と言うように手招きし、俺はソレに従って先生の前に向かった。
「で、どうしたんだ?」
優しそうな声で訊いてきた先生に、
「明日、貴崎さんと研究室のかたずけを終わらしたいので、登校の許可をいただけませんか?」
単刀直入に訊くと、
「ん?お前、貴崎に会ったのか」
「え、あ、はい」
そんな質問を挟み、
「まぁいい、明日午前六時から正午辺りまでは学校にいるから、その間までならいいぞ」
と言って、休日の登校に必要な『休日登校許可書』を書いてもらい、その用紙を受け取った。
そして、俺に先生はこんなことを言った。
「辻井、貴崎はどんな奴だと思う?」
それに俺は少し考えて、返す。
「貴崎さんは、ちょっと変わってるなとは思いますが悪いやつではないんじゃないかなって思います」
正直な感想を。
それに先生は、
「ははは、そうかそうか。授業に出れないからあまり交流する時間はないだろうけど、仲良くしとけ」
と、笑いながら言った。
俺はただ、その言う表向きの意味しか理解できずに「はい」とだけ、返事をし、教室を後にした。
研究室に戻り俺は、
「明日、矢作先生がいる午前中の六時から十二時までなら登校していいってさ」
さっそく彼女に伝えると、
「それは本当なのか!?」
まるで尻尾を振る犬のように嬉しさを表情に出しながら訊いてきた。
「本当だ」
短く返すと、貴崎は、
「やった、ありがとう、辻井君!!」
そう言って、飛び跳ねることこそはしなかったが、俺の手を両手で掴み喜んで感謝していた。
「落ち着けよ」
笑いながら俺は彼女が聞いてくれるはずもないであろう呼びかけをした。
「ごめんごめん、嬉しくてさ」
彼女は俺の予想通り、言う事を聞かずに喜んでいた。
だが、俺には一つ疑問があった。
それは、なんでこんなに彼女が喜んでいるのか、というものだった。
不思議でたまらないことだったが、俺はその答えを訊く気になれなかった。
あまり深い交流がない人間に深入りしたくない、というのもあったが、それよりも、どうしても、彼女のそういう理由について、訊いてはいけないような、そんな気がした。
だから俺は、
「そんじゃ、明日も登校出来るってことになったし、帰ろうか」
そう提案した。
「ん、そうしようか」
俺の考えなど知ることは決してない彼女は笑顔で俺の提案に賛成し、二人で、帰る準備を始めた。
学校から出た帰り道、貴崎はふと携帯を取り出し、少し弄った後、
「辻井君、お母さんが家によって来なさいって、言ってるんだけどどうする?」
「へ?」
いきなりの内容を含め、突然の質問に俺は思わず
俺なんか、貴崎に変なことをした?
まず思ったのがそれだった。
だが、思い当たる節がない。
それならどうして?
思考内の負のスパイラルに陥りそうな俺の疑問の渦に、
「お母さんに辻井君のことを話したら、ぜひ会ってみたいって」
貴崎は答えをくれた。
「…本当に俺に会いたいって言ってるの…?」
とりあえず、本当に迎え入れようとしてくれるのかだけは訊いてみることにした。
「うん、大歓迎で待機してるって」
どうやら、嫌われてはいなさそうだ。
だが、親御さんが呼んでいるにせよ、女の子の家に男が、それも出会って二日ほどの面識が浅い俺が足を踏み入れていいモノなのか…?
確かに、問題やら、間違いを起こそうという気も、起きてしまうという気の緩みも一切ないのだが…、どうなのだろうか。
「いや、でも、俺、あんまりお前と付き合いが長いわけでもないだろ。なんなら、出会って二日だぞ」
俺は頭の中に置いていても伝わらないだろうと思い、頭の中に浮かんでいた考えを端的に伝えると、
「でも、友達だろ?」
キョトンとした顔で、貴崎はそう言った。
根本的に友達という意味を違えているな、
まぁ、だがしかしの話だ。
人付き合い初心者のやる事としては上出来な部類なのではないだろうか?
それに玄関辺りで顔を合わせて五分程の対談をして、すぐ帰れば、それほどの問題も起こらず、楽に事を済ますことができるだろう。
という事で、
「はぁ…、ん、わかった。ちょっとだけお邪魔するよ」
盛大に溜め息をつき、了承した。
貴崎の家の前に付き、まず思ったのは、貴崎の家、でけぇ、だった。
二階建ての一軒家、とだけ聞けばそれほど少なくはないのだろう、だが、それに加え、まるで小さい城の様なそんなサイズを表す比喩を入れれば想像の中で貴崎の家が簡単な形として浮かび上がるだろう。
「マジで、これが貴崎の家なのか?」
「うん、マジ」
あまりの驚きに、俺は貴崎に確認を取ると、なんとも軽く、貴崎は『そうだ』と答える。
「まぁ、玄関前に立たれても困るから、入ってよ」
そう言われ、俺は玄関を通された。
「ただいまー」
と、家の住民、貴崎が。
「お邪魔します」
と、部外者の俺が。
玄関をくぐると、白を基調とした長い廊下と、二階に行くための階段が目に入った。
そして、少しだけ視点を動かすと、天井からシャンデリアがぶら下がっていた。
…ん?
シャンデ…、リア?
やばい、帰りたい。
庶民が
俺がそう思い、脱出ルートを考えていた時、
「いらっしゃい、あなたが辻井くんね」
玄関の奥にある扉が開いたと思えば、貴崎によく似ている女性が現れた。
「は、はい、いつも巳和さんにはお世話になっています。辻井悟志と申します」
俺は慌てて、つたない敬語で自己紹介を女性にした。
そいえば、貴崎のこと、巳和といったのは何気に今日がはじめてではないだろうか。
まぁ、それはどうでもいいのだが、それにしてもこの女性は誰だろう。
母親にしては、見た目が若いし、貴崎(巳和)の身長を見た目そのままで伸ばしたような見た目…、姉あたりが妥当だろうか。
そう予想して、
「えっと…、巳和さんのお姉さんでしょうか?」
最終的に判らず、確認をとるように聞いてみると、
「あらあら、私そんなに若く見えた?」
嬉しそうに女性は聞き返した。
「え」
思わず、そんな声をあげた俺に貴崎(巳和)が小声で、
「あの人、私のお母さん…」
憐れむように教えてくれた。
「え、嘘やん、若くない?」
目の前の驚愕事実にエセ関西弁が出てしまった。
そんな俺を見て、貴崎(母)は笑いながら、
「いつも、巳和がお世話になってます。もしよければ、上がって少しゆっくりしてください。それにそちらの都合がよければ夕飯とかも、どうかしら?」
丁寧な言い方でそんな提案をしてくれた。
だが、
「いえいえ、俺、すぐ帰りますんで…」
失礼なことを言った。
その時の俺は咄嗟に思い付く言葉がなかったし、何より、家族で面識の無い人間をここまで歓迎できるのか、わからなかった。
そういう家庭と言われれば、そうなんだとしか思うしかないが、どうしても、家の色ではない何かを感じていた。
「あら、そうなの?なら、仕方ないわね」
貴崎(母)はもの惜しげに言って、
「気を付けて帰ってね」
と、付け足し緩やかに手を振った。
「はい、お邪魔しました」
それに俺は定型文のような言葉を口にし、貴崎の家から出た。
出て、少し歩いて、
「辻井君!」
呼び止められた。
「ん?」
呼び止めた声が貴崎だとわかり、何気なく振り返り、早歩きして少し息が荒くなっている貴崎がそこにいた。
「辻井君、一応、今日、言い忘れてた事があって…」
彼女の言葉に疑問符を無言で浮かべた俺の前に、彼女はさっと何かを差し出すように見せた。
その手の中にあったのはスマートフォンだった。
「…あー、
俺はなんとなく察して、予想にあがったことを訊いてみた。
wireとは、いま全世界的に使われている連絡アプリでチャット形式の会話から通話まで無料で出来る代物だ。
友人がいなくとも家族間で使うこともあるし、大抵の人がこのアプリを入れている。
だから、予想して訊いてみた。
「う、うん。…明日の集合時間とか聞いてないし、友達なら、こういうのやっとかないとな、って…」
と、照れくさそうに案の定のことを言ってくれた。
「まぁ、そうだったな。時間決めんの完全に俺も忘れてたし」
そう言いつつ、俺はスマホを取り出し、アプリのフレンド追加機能を起動させて、
「ほい」
そう呼び掛けつつ、画面を見せた。
「ありがと」
貴崎はそういって、それなりに早い画面操作で俺のアカウント登録し、
「ちょっと、スタンプ送る」
「いいぞ」
確認の手段で、スタンプという絵文字の進化版のような奴を送って、チャット上での接続を確認する為に、彼女の了承に適当な返事を入れ、二秒程後、ピロン、と俺のスマホから電子音が鳴り、彼女のアカウント名と共にスタンプの送信があったという通知が画面上に現れる。
とりあえず、俺はその通知をタップし、トークチャット画面に移動し、スタンプとアカウント名で見てみる。
ちなみに一般的なアカウント名の一例として、俺のアカウント名は、『サトシ』だ。
そして、気になる貴崎のアカウント名は―――、
「…『
思わず読み上げてしまうほどの不気味かつ、個性的にして、変なアカウント名に受信してしまった頭蓋骨のスタンプ。
やべぇや。
端的に俺はそう思い、
「これ、貴崎のアカウントでいいのか?」
貴崎に確認を取ると、
「うん、それであってる」
頷きながら、肯定した。
「あと、ついでに読み方は『ずがいこつ』じゃなくて、『とうがいこつ』」
そして、ついでで正しい知識を教えてくれた。
あれぇ…?
とりあえず、俺の頭の中には謎のアウェー感が広がっていることだけは確かだった。
「あー、…うん、とりあえず、オッケー」
何ともは切れが悪い返答のような、そうでないようなことを口にし、自分が持てる最大のフリック操作速度で自分のホーム内で表示される彼女のアカウント名の変更をした。
言わずとも、『
アカウント名を変え終え、溜め息を音にならないレベルで一つ。
「それじゃ、帰ったら連絡するから」
俺はそう言って、彼女を後にした。
数十分掛け、自宅についた俺は早々にwireを開き、貴崎にメッセージを送った。
内容は簡単だった。
『明日、八時からなら集まれる』
ただの業務連絡だ。
間もなくして、その連絡に返事か来た。
『わかった、明日の八時に研究室で』
何ともがさつな感じが溢れる物だった。
俺はその返答を忘れない内にカレンダーにメモを取った。
よし、と満足感に少し浸っていると、
貴崎とのチャット画面に何かの細胞の画像にポップな色の太字で『忘れないで』と書かれたスタンプが送られてきた。
マジか、そのセンス、マジなのか。
正直、画像の細胞が本当に細胞なのかすらも危ういレベルだ。
だけど、俺はその不思議なセンスにくすっと笑った。
かすかな笑いだったが、悪くないな、そう思った。
だから、俺は、また貴崎のアカウントの名前を変える。
『貴崎巳和』から、『へんてこな天才』へ。
別に彼女と判ればそれでいい。
だからこそ、そうすることにした。
「…明日が珍しく楽しみだな…」
楽しいかどうかはさておき、面白そうな明日になる。
そう確信して、なんとなく呟いた。
日を跨ぎ、翌日の午前八時、俺は研究室にいた。
もちろん、貴崎もだ。
到着はほぼ同着で、すぐさま作業に移ることができた。
バタバタと何気に忙しく働いていた。
片付けも終盤に差し掛かっているのもあり、軽い物と重い物、大きい物と小さい物など、極端なものが多くなっていた。
中には人体模型や、大型のデスクPCや、研究室らしい分かりやすい品があったりもした。
それなりに大変な作業だったが、開始から約四時間後の正午少し過ぎの十二時五分に作業が終わった。
とりあえず、俺たちが終わるまで少しの間待っていてくれた矢作先生に作業の終了を報告すると、戸締まりのために教室の鍵を俺たちに託して先生は学校から出ていった。
片付いた研究室のソファに前回同様に隣り合って座り、作業後の達成感に浸っていた。
そして、二人して背もたれに寄りかかり、天井を仰ぐように見て、
「辻井君、お疲れ様。本当に助かったよ、ありがと」
「気にしなくていいよ、そっちもお疲れ」
お互いに労いの言葉を掛け、ふぅ…、と息を合わせたわけでもないのに同時に溜め息を吐いた。
しばらくして、貴崎は状態をそのままに、
「なぁ、辻井君。お昼持ってきてたりするか?」
「ん?いや、持ってきてはないけど、どうした?」
「食事に誘おうかなと思ってね」
「誰を?」
「むしろ君以外の誰かだったら怖くないかい?」
「確かに怖い。…まぁ、昼食持ってきてないし、行こうか」
と、流れるように貴崎は俺を食事に誘った。
それに俺は了承を返し、ゆったりと立ち上がる
そして、荷物をまとめ、教室の鍵を職員室に返し、学校を後にした。
友人と食事に行ったのはいいが何が食べたいのか決まらないままで出たせいで街を放浪したことはないだろうか。
今、俺はソレに直面していた。
午後一時、それなりに飲食店が建ち並ぶ場所にいるのだが、俺も貴崎も何をどうしたいのかすら決まらず、どんなのが食べたいのかという話から、身の上話に変わり、世間話までする始末。
目的がすり替わり続け、最終的に決まった行動目標は『二人が良いなと思った店に入る』という、牛丼屋さんに入るコースまっしぐらな物となった。
「辻井君、君はシュレディンガーの猫って知ってるか?」
貴崎はふと俺にそんな質問をした。
それに俺は普通に、
「え、あぁ、確か、結果が重なり合った状態を確認することができないとか、そんなんだったはず」
記憶にある知識を答えた。
それに貴崎は、
「うーん、もっと言えばだいぶ違うんだけど、私の言いたいことに沿ってるから合ってるって事にしとこうか」
笑いながら、曖昧に俺の答えを評価した。
そして、貴崎は俺じゃないどこかを見つめる視線で俺を見て、言う。
「私はその実験を人間でやってみたいんだ」
「は?」
その言葉に俺は思わず、聞き返した。
「だから、私はノイマン、ウィグナーの理論に批判するためのパラドクスという事象を提唱する思考実験、一般的にシュレディンガーの猫と呼ばれる実験を量子力学的観点ではなく、心理的な観点をもって人間で実験したいんだよ」
貴崎のその目は単純な興味と言う光が差し、輝いていた。
だが、俺はなぜ彼女がそんなことを考えているのか検討もつかず、
「人体実験は犯罪だぞ」
と、引きながら少し冷たく言った。
「…まぁ、そうなんだけどね」
どうしてか、少し寂しげな表情でそう答え、貴崎は空を見上げた。
白い雲と青い空がそこには広がっている。
見慣れているせいで何とも感じないはずだが、貴崎は
彼女の言動に理解はなかったが、何となく、なにか言いたかったのだけはわかった。
しかし、俺はその彼女の言いたかったことに言及することができないままになってしまった。
理由と言えるものでもないが、ほんの少しの間のあと、貴崎が明るく俺に話を振りだしたからだった。
「辻井君、あそこはどうだ?」
さっきの表情はどこへやら、まるで子供のように指差したのは超庶民向けのファミレスだった。
「いいのか?」
もしかしたら、とっさに雰囲気を変えるために適当な飲食店を指したかも知れない、そう思って、確認をとると、
「ああいう所の方が何も気にせず話せるだろ?」
もっともな理由を貴崎は言って、
「さぁ、辻井君、入ろうよ」
「お、おう」
そう言われ、手を引かれ、言われるがまま、引かれるがまま、俺達はファミレスに足を運んだ。
店内に入り、席に座って早々にメニューを決め、注文して、とりあえず、貴崎の提案で学校について話していた。
授業のこととか、クラスのこととか、いろいろ、沢山。
授業のことはさすがIQ130と言うべきか、何から何までわかっていた。
だが、クラスのことについては、興味深そうに聞いてはいるが、どこか掴めないような難しそうな表情が彼女の話を聞く姿から見て取れた。
俺はその様子に何かを感じながらも、無視をした。
わざと、彼女にその様子に気付いていないと思わせるように。
「―――って感じかな」
一通り話し終え、俺は一息つくように、話し始める前に二人で取っていたドリンクバーの紅茶を一口飲んだ。
貴崎もそれに合わせて、取って来たアイスココアを一口飲み、
「みんな、かぁ…。会いたいなぁ、研究ドア越しか、たまたま授業中に廊下に出た時くらいしか見たことないし…」
憂鬱そうに彼女は結論じみたことを言った。
結論というよりは自虐のような気もするが、彼女がしてほしいと始まった話だ。
「そうか」
だから、俺は適当に答えた。
短くて、同情してるようにも、していないようにも聞こえて、使い勝手だけいい言葉を俺は彼女に返した。
それが一番良かった。
多分、いつでも、いつまでも、そういうのはこういう返しが一番なんだろう。
「ははは、本当に辻井君はいい人だな」
俺の無難な返答に貴崎は笑った。
妥協なのだろうか。
まだその程度しか話し合えないという妥協と、それに次ぐ何か。
その何かはまだわからなかったが、そんな二つが彼女の笑顔には浮かんでいた。
俺はそのなにかがその瞬間、とてつもなく知りたくなり、つい、こんなことを言った。
「…なぁ、貴崎、なんかずっと隠し事してるような気がするんだ。いや、隠し事じゃないのかもしれないけど、なんか、その、入り込んだ話をしないというか、途中までちゃんと触っているのに、いきなり表面だけかしか触れなくなるような、そんな感じがするんだ」
そして、俺はそういって、聞き直すように聞く。
「貴崎、別に言いたくないなら、言わなくていいんだけど、なんかあるのか?」
その問いに貴崎は唖然とした表情だった。
どうしてといううような、疑問と驚きに満ちた
その視線に貴崎はしばらく宛てられ、ちいさく諦めたような渇いた笑いをこぼした。
「…そっかぁ、ちゃんとできてなかったか…。はは、なんか残念だ」
そういった彼女は少し考えるように目を閉じ、静かに開け、
「辻井君、君にだけ、まぁ、教師辺りは知ってる事だけど、他者に漏らさないでほしい、その条件を飲んでくれるのであれば、隠してたこと、話すよ」
真直ぐな目で、貴崎は俺にそう言った。
口が軽くすぐ自分のことをひけらかす奴の
だから俺は、
「分かった。誰にも言わない」
二つ返事で承諾した。
理由は簡単だった。
彼女の目を裏切る気にはなれなかった。
そして、考えずともそんな条件くらいすぐ乗るつもりでいたからだ。
ある意味、自分勝手かもしれない。
何より、もしかしたら、俺が彼女の隠し事に対して力になることがあるかもしれない、そう思ってしまったのだから。
自信過剰もいいところだ。
何もできないのがオチなのはなんとなくわかっているのに。
俺がそんなことを思っているとは、たぶん知らないであろう貴崎は隠し事について話し始めた。
「いきなり重い話のなるだろうけど、私はこのままだとこの高校を卒業する前に死ぬ」
いきなりの告白に俺は言葉を失った。
驚きというよりは、信じられない意味合いが強い。
あまりの突然な超重量に俺は冗談かと思った。
そんな俺に、貴崎は続けて言う。
「私は新種の、私が初の症例になる奇病ってやつに侵されていてね、飛沫性とか、体液性ではないし、何なら感染力は全くないんだけど、何もせずに暮らせば、確実に死ぬものだ。だから私はその研究をしてる」
そう言う貴崎の表情は何故か笑っていた。
だから訊いた。
「…それって、怖くないのか?」
それに少し考えてから、貴崎は答えた。
「自分の体のことを知れて正直怖いと思うことがあるけど、それよりも知れたことでどうしたいかとか、どうするのかが明確になって、頑張ろうって思えるんだ。だから、そんなに怖くはない」
「…そうか」
俺は彼女に短く返して、思った。
貴崎という人間はあまりにも強いのだと。
俺が何とかしようなんて思ったのが無駄に思えるくらいに。
そして、俺はう言う。
「それじゃあ、さ…、多分全く分かんないとは思うけど、今どんなことを研究してるのか、教えてくれよ。そういうの嫌いじゃないんだ」
嘘をつかずに、別に理解できなくても、後で調べればいいというような精神で。
「いいのか?」
俺の頼みに確認をとるように、いや、もしかしたら、わからない話をするぞ、と忠告をしているのかもしれない。
そのどっちでもとれる言い方で、貴崎は訊いてきた。
俺はそれに無言でうなずくと、
「そうだな、どのみちわからないこと前提で多少噛み砕いて話すことにするよ。じゃあ、どこからはなそうかな―――」
貴崎は俺の知らない言葉を噛み砕けるものは分かりやすく噛み砕いて説明しつつ、彼女の研究を語り始めた。
俺は彼女に気付かれないようにスマホのメモ機能にわからない単語を羅列させた。
あとで自力で調べればなんとなく話について行けるかもしれない、そんな一心で彼女の言葉を不明点をメモに残した。
「―――でね、今はそこの論点をまとめてるところなんだよ」
そう言って貴崎の話が話が終わったときにはメモ帳に書いた語句は百は越えていた。
俺は一瞬、唖然としていたせいで何も答えられなかったが、
「すごいな、貴崎は。俺が分かりやすくかみ砕きながら説明してくれるしさ。何よりも自分に対してそこまでわかる人間、この世の中を探してもそんなにいないよ」
すぐさま、持ち直し、率直な感想を口にした。
それに貴崎はにこりと笑いながら、
「ありがとう。でも、私何かよりずっと、辻井くんの方が凄いと思うよ」
そう言って、それに疑問を感じた表情を俺は作り、
「俺の方が凄いって、変なこと言うな」
ほんの少し、『わけがわからない』と言うニュアンスを含めながら、訊くように言う。
貴崎はそれに笑顔を崩さずすぐ、
「ばればれだったけど、私の話についていこうとして、わからない単語とかスマホにメモしてたんだろ?」
俺の行動を察し、その行動の原理を推理して、確信の上で訊いてきた。
ズルい奴、俺はそう思いながら、
「別に貴崎のためじゃなくて、自分のためにやってんだ」
意地を張って、下手なツンデレのような台詞を返した。
「あははははは、辻井くんはやっぱり優しい人だよ。それにとても偉い人間だ」
改めて誉めて、笑って、貴崎は忙しそうに表情と感情を操りながらそういった。
誉められるのは嬉しくないわけではないが、バレない前提でやっていた分、バレていたことに多少のショックを感じていた。
それこそ複雑な感情と言った方が収まりと正確さが良い所をついている。
「…俺そんなに分かりやすい?」
さすがに自信がなくなり、貴崎に確認をとると、
「少なくとも、授業中にそのやり方でいじっても全くばれる心配はないと思うよ。やらないことをオススメするけどね」
じゃあ、なんであんたはわかったんだよ、と返したくなる返答をした。
「まぁ、一対一でもその技術は通用するとは思うけど、私は余裕で分かるからな。自慢じゃないが観察力が人並み以上なんだ」
俺の心を読んだのか、貴崎はついでにと言わんばかりに俺の浮かんだ疑問に答えた。
そして、自慢げな笑顔で笑った。
確かに苛立たしさはあったが、こうやって貴崎の観察力の高さが証明された以上、 俺はなにも文句が言えなかった。
「あー、もうなんだ、多分この先もこういう話する度にケータイでメモするからな」
だから、反発するような口調で言外に『また研究の話を聞きたい』、と彼女に伝わるように言う。
「うん、また聞きたいときに聞いてくれよ、何だかんだで聞き手がいると楽しいんだ」
貴崎は先ほどのドヤ顔とは違い、心底楽しそうな笑顔で返した。
その表情にほんの少し、いいな、そう思った。
それと同時に、こんな奴が友達でも楽しそうだな、と。
単純に、小学生よりもさらに低いレベルでの思考で思った。
だから、いや、多分その時の俺の語彙力的にも、そう言っていたのかもしれない。
「なんか、貴崎を見てるの、楽しいわ」
そんな、素っ気ない言い方ではあったがそれなりの笑顔を作って、友好関係としての好意を伝えた。
それに貴崎は、
「お?おぉ、辻井くん、やっと明るい表情になった」
と、俺の考えていた反応とは少し違う反応を俺の顔を覗き込みながら、嬉しそうな表情をした。
「俺、さっきまで暗い顔してたか?」
貴崎の驚きかたもあり、素朴な疑問を投げ掛けた。
それに貴崎は『そうなんだよ』と、言わんばかりに深く二回頷いて、
「だって、メモとってる時なんか、怖かったくらいだし。それに、今日一回も笑ったところ見てないよ」
と、聞いてしまっただけに、申し訳ないな、と思ってしまうことを教えてくれた。
それでも貴崎はフォローなのか、
「でも、多分、今頃、私が暗いこと言わなかったら、それなりに明るい顔してたんじゃないかなぁ、って、思ってさ」
申し訳なさそうに俯いて、そんなことを言った。
だが、事実、それは全く違う。
勝手に俺が落ち込んだだけなのだ。
貴崎は全く悪くない。
俺は聞くことを選んで、貴崎は聞かせてくれて。
「悪いな、俺が聞くって言ったのに」
また暗くなってしまうことは理解していたが、それでも、俺は明るくすることができずに、話してしまった。
貴崎はそれに何か言葉を返すことはしなかったが、苦笑いのような下手な作り笑いをみせ、
「暗いのはもうやめだ。明るい話をしよう」
すぐに明るい表情になったと思えば、切り替えるように話題の供給に回った。
どうやら、かなり気を遣わせてしまったらしい。
さっきから、ずっと気を使わせたままだったが
「わ、悪かった、なんの話をしようか 」
そして、俺は慌てて彼女に応えるように話題の収集を始めた。
「そうだね、じゃあ、………、じゃあ…、えーと…、…、…話題が…、話題がない…」
「あ…、…あー…」
貴崎も俺の呼び掛けに応えるように話題を探すように考え、言葉がでないところを見て、俺は思い出し、感嘆した。
そうだった、貴崎には
友人と言えるものが、彼女からすれば俺だけしかいないと言う弊害として、ここに出てしまった。
近いうちに俺の家に呼んで、適当に録り溜めされているドラマや、バラエティー番組でも見せてやろうかな、そう思いかけるくらいに、話題の無さが酷く、俺の方が必死になって話題を探し、
「…あー、…あ、そうだ、貴崎の家見た人みんな、貴崎のこと金持ちとか言ってたりしてなかった?」
適当な話題として上がったのは本当にどうでもいい、話題になるかどうかも微妙な疑問だった。
だが、今まででそういう話題もしてこなかったのか、
「私、友達とか家に呼んだことなかったなぁ。家庭訪問とかも断ってたし、なんなら、病室で三者面談とか、かな」
思ったよりも食い付いてくれた挙げ句、その情報付近のことまでも教えてくれた。
どっちにせよ、暗いワードがちらほら見えるが、それを拾うしか他がないという事で、
「へー、始めて聞いたな、病室で三者面談とか」
暗くならないように、当たり障りのない言葉の広いかたをして、話をなんとか繋げた。
「そうだね、私からすれば、よくあることだけど、
「あー、そういえばそんなこと言ってたなぁ…。それにしても、同じ病院なのは奇跡的だな」
話題がやっと降りてきた貴崎はある意味珍しいことを言った。
俺はそれに初日の担任の挨拶で言っていたことを思い出しつつ、世の中の狭さに驚いた。
確かに、医者から教員になることは、俺が聞いたことがないだけなのかもしれないが、珍しい転職の仕方だと思う。
「でも、そういう知識のある教師がいると何だかんだで楽じゃないか?」
「んー、まぁ、そうだな。知ってるのと知らないとで大違いだし…、それに――――」
貴崎が俺の適当に投げた質問に答え、なにかを続けようとしたその時、
「お待たせいたしました。ご注文の品の――」
と、俺たちの頼んだ品を持ってきた店員に貴崎の言葉は流され、まるで無かったことのようになってしまった。
俺はその続きを聞こうと、言葉を出そうとしたのだが、
「おぉ、辻井くん、思ったよりここの食べ物はボリュームがあるんだな」
と、見た目と同じような子供のような目の輝かせ方で貴崎は出された物の見た感じの感想を言い始めた。
なんか、本当に子供みたいだ。
「なぁなぁ、辻井くん、見てくれ、この星形に切られた人参。メニューの写真にはなかったぞ」
嬉しそうに恐らく子供と思われ、店員が要らぬ気遣いで謀っただろう星形に切られた人参を見て、言っていた。
多分、貴崎は何かの企画の一環だと思っているのだろうが、俺の人参がただ単に輪切りに切られてるのを見て、何故、疑問を抱かないのか、疑問だった。
だが、まぁ、嬉しそうだから何も言う気になれない、というのもあり、俺は何も言うまいと、自分の中で処理した。
そして、俺もテーブルに置かれた料理に手を着けた。
口に運び、可もなく不可もない味が口の中に広がるいつものファミレスの味。
その味を無感情に貪り、ふと貴崎を見ると、対照的な幸せな表情で、美味しそうに頬張っていた。
味覚には個人差があるとはよく言うものの、ここまで美味しそうに感じている人間を見たことがない。
俺はもしやと思い、
「食事制限とかないのか?」
と、素朴な疑問を投げると、
「いや、大してはないよ。ホント限定的なものだけだから」
「あ、そうなんだ」
すぐさま答えられ、俺はあとすらも言う間もなく納得した。
そして、お互いにまた食べ始め、30分経っただろうか、
「あー、久々に食べた…」
と、俺が雑に背もたれに寄りかかりながら、
「ご馳走さまでした」
と、貴崎は丁寧に両手を合わせて、空になった食器を前にそれぞれの態度をとった。
「それじゃ、辻井くん、店から出よう」
「ん、あぁ、そうだな」
貴崎の提案に俺はすぐに応じ、会計へと向かった。
会計を済まし、店から出た俺たちは、何故か、公園にいた。
俺の家からも、貴崎の家からも、同じ距離くらいに位置する公園に何もすることもなく、ただ駄弁っていたら、行き着いた。
時間帯的にも子供が多い時間で、楽しそうな騒々しさがそこには広がっていた。
「なんでここに行き着いたんだろう」
そう言いながら、すぐそこにあったベンチに腰かけつつ、『俺が聞きてぇよ』と返してしまいそうになるが、その言葉を唇に触れる前に
「どうしてだろうな。それよりもう夕暮れか」
赤く染まり始めた砂と遊具を見て、時間を感じ、貴崎にそれを報告するようなことをした。
「ん、…そうだな。研究忘れて、ご飯食べて、町をブラブラと歩いて、友達と話し合って、…すごい楽しいよ」
春から夏へ少しずつ昼は長さを増している、もう少し経てば、この時間もまだ昼のように明るくはなるだろう。
だが、どうしても、彼女のあの言葉が頭から離れずにいた。
『私はこのままだとこの高校を卒業する前に死ぬ』
そして、一つ疑問が生まれる。
無駄、とはさっきの発言から見て、思ってはないだろうが、よく思ってなかったらどうしよう、何てことを俺は考え始めた。
どうしてこうネガティブな考えばかり働くのか、
だが、俺はそれを訊こうとは思わない。
むしろ、訊く気は全くない。
ただ彼女の公園を眺める横顔を見て、俺は考える。
楽しそうに遊ぶ子供を見て微笑ましく見ている彼女の横顔に嫌悪の色はなかった。
出合って三日が過ぎ、短くもそれなりに深く付き合い始め、何となく慣れ始めてきた今、俺がわかる範囲では、貴崎巳和と言う人間は、そういう感情はストレートに出す人間だと言うことになっている。
そこからざっくり彼女の心境を察しただけだが、案外それが当たることがある。
貴崎が単純なのか、俺がすごいのか、それとも同じレベルの人間同士と言うだけなのか。
多分そんなのでは計れない、勘の領域。
人の心とは時に鋭く、時に鈍い。
それを実感する瞬間の一つが
だから、鋭さを残しつつ、俺はこんなことを言った。
「これから…、これからも、出来たらさ、毎週、
提案だった。
貴崎はその提案に驚いたような、戸惑ったような、それ以上の感情を織り混ぜた表情を見せ、嬉しそうに、楽しそうに、笑って言う。
「そうだな…、来週のために目標が私にできるのか…。本当に辻井くんは不思議な奴だよ」
それに俺は何かを返すこともなく、彼女の視線から逃げるように、そっぽを向いた。
「?…どうかしたか?」
心配そうな声色で訊く声がして、
「なんでもないよ」
と変わらぬ声で答える。
貴崎はそれに少し間を開けて、多分、笑いながらなのだろうか、
「それならいいや」
楽しそうな明るい声で俺に返した。
時間は過ぎ、夕日も落ち、辺りは街灯の光が一部一部を強く照らす風景が広がっていた。
それまでの間、二人で途切れ途切れの会話をしていた。
パッと見て、つまらなそうで、案外話している方は楽しい、そんな会話をして時間を過ごした。
そんな中、ふと、貴崎は何かを思い出したらしく、
「あ、辻井くん、少し付き合って欲しい場所があるんだけど、どうかな?」
身長差からか自然と上目遣いになり、距離感を考えたことがあるのか、ないのか、それなりに近い距離に貴崎が迫っていた。
大きな目に引き込まれるような瞳、それに幼くも整った顔立ち。
意識していない分、意識してしまったこの瞬間に鼓動は遅れてドクンと鳴り、その音でハッと我に返った。
だから、一瞬。
秒もないが体感三秒程の瞬間を不意に過ごした。
なんなんだ?
ただ、漠然としない疑問だけが浮かび、誘いに答えることを忘れていたのに気づくのに二秒、さらに驚きすぎて、思考を働かせ、答えとなる言葉を発すまで三秒。
計五とコンマ数秒の間を持って、
「お、おう。別に良いけど…」
返したのはこんなのだった。
「…なんか、予定とかあったのか?」
そんな俺に巳よりはそう訊いた。
案の定なのか、普通一般のすぐ返されない返答に対しての反応なのか、用事を押してまで付き合ってないだろうかと、気を遣われてしまった。
「いやいやいやいや、なにも用事はないよ、ただ、…、うん…」
必死で用事はないと伝えようとして見たが、間を開けた理由を口に出しかけた瞬間、その内容を言い淀んでしまい、まさに竜頭蛇尾の勢いになってしまった。
「…『ただ』のあと、何を言おうとしたんだ?」
単純な興味からの質問とは時には恐ろしいものに成りうることを今改めて知った気がした。
貴崎の投げた質問は単純に気になると言うだけらしく、悪気も悪意も、なんなら、言い詰めようなんて意思は全くないものだった。
だが、どうだろう。
『みとれてた』やら、『ドキリとしていた』なんて、そうさせた本人に言えるだろうか。
少なくとも、俺は言う気にはなれない。
なんなら、その場から逃げ出したいくらいだ。
「いや、さっきのは無しにしてくれ。それより、行きたいところってどこだ?」
まるで誤魔化すように言った。
俺は逃げ切れないだろうな、そう思ってはいたが、さすが貴崎と言ったところなのか、
「…まぁ、いいか。どこって言うと、何て言うのかなぁ、良いところで収まるとしたら『玩具屋さん』かなぁ…」
普通にスルーし、俺の質問に曖昧な言い方を混ぜて答えた。
正直、言及されなくて、かなり助かった。
それにしても、収まりの良いところで『玩具屋』と言う変な表現をするような店とはなんだろうか。
少なくとも、俺は店自体の説明をする時にそういった表現をする店は知らない。
一応、俺の住むこの街には生まれてからずっとの付き合いになるため、知らない場所はほぼ無いはずなのだが…。
「まぁ、とりあえず行こうか?」
考えてもでないなら、確かめにいってやると言うような気持ちでそういう言うと、
「ん、そうだな、行こうか」
何を思うわけでもないのだろう質素な貴崎の声が返ってきた。
少し道を戻り、さまざまな店が立ち並ぶ通称『繁華街』に行くと、少しだけ裏路地に歩き出し、たどり着いたのはボロボロの外装が印象的の『山田玩具店』とかかれた看板の一見の店だった。
「この、山田玩具店ってとこが目的地なのか?」
外観に驚きつつ、俺は貴崎に聞いてみると、
「そうだよ、ここが目的地だ」
心なしか楽しそうな貴崎がほんの少し楽しみを混ぜた声色で答えてくれた。
そして貴崎は、すたすたと軽い足取りで店内にはいっていくのを見て俺もそれに続いた。
入った店内は照明の寿命が切れかけているのだろう、薄暗さを覚える明るさが乱雑に陳列、いや、置かれたと言うような本で埋め尽くされた商品棚の壁とラミネートされたいつの時代かわからない広告のポスターが張られた床を照らしていた。
それこそ、商売する気のないようなその店内に俺は少し不安を覚えた。
それに反して貴崎は隣でルンルン気分で歩いていた。
それにしても、貴崎は恐ろしいほどに笑顔を作っていて、この空間においては癒しのような効果を生んでいるのがまた変な話だった。
貴崎の顔に安心を覚え、周囲の雰囲気に不安を覚え、今一番、感情の起伏が忙しいのではないだろうか。
というか、貴崎は何故、店内を散歩するかのように歩き回っているのだろうか。
乱雑に置かれた本を漁るように手で掻き分け、たまに一冊拾い上げ、読んでは元に戻し、また漁り始め、それを繰り返す。
そしてたまに「…おぉ」と感嘆の声を漏らす。
その度に本の中身を俺は覗き見てはみるが、難しい言葉ばかりで、全く理解も、何について書かれているのかも解らなかった。
まぁ、ごく希にかなり古いギャグ漫画の時もあったが。
玩具店とは思えない本の数になんで貴崎がここに来たのか、俺は少し解った気がした。
多分、これは予約していた本をを貰うついでで他の本を見ているのだろう。
確かに難しい本を漁る理由も頷ける。
だから俺はこんなことを聞いた。
「貴崎って本好きなんだな」
それに彼女は、
「自分が本の虫って自覚するくらいにはね」
と、本を見ながら答えた。
なんとも続かない答えだと思いつつ、自分が興味のあるものに夢中になっているときに質問されればにたような反応になるな、など思い、本当に好きなものだと言う解釈をもって、彼女を見るだけにした。
そうして十分ほど本を見て、
「ごめん、目的忘れかけてた」
ハッと気づいたような表情を見せた彼女の言葉がそれだった。
別に俺は好きそうだったからなにも言わない方針をとっていたが、それもどうかと思った。
まぁ、それをとやかくと言う必要もないから、なにも言わなかったが。
「それじゃ、目的を達成するか」
貴崎はそう言うと店の奥へと進み始めた。
俺もそれに付いていくと、店の最奥にレジスターと山積みになった本が乱雑に放置されたカウンターに辿り着く。
そこで貴崎は、
「おーい、先生ー!私だ、貴崎巳和だ」
と、誰かに自分の存在をアピールし出した。
すると、カウンターの先が見えない程につまれた本の向こう側から、
「んー、知ってるよ。男なんて連れて、彼氏でも出来たかと思ったら、ただの付き添いで今がっかりしてたことだよ」
と、気だるそうな男の声が返ってきた。
内容は結構、貴崎と俺をいじったものだが。
「なんで普通に友達だと思えば良いことをそうやって人をイラつかせる言葉に先生は変換できるのか甚だ疑問だよ」
言葉こそ平静ではあったが、声色と良い、笑顔なのに顔を赤くして血管が若干浮いているのを見るとほんの少し恐ろしさを感じた。
というか、貴崎ってこんな表情するんだな、と関心すらしてしまう自分がいた。
そしてそんな彼女を見ているのかいないのか、先生と呼ばれた声しか聞かせてくれない誰かは、
「えっと、…あぁ、巳和の友達の男の子の君、名前、何て言うのかな?」
それほど嫌悪感を持たない代わりに何処か勘に障るような、気だるさを孕んだ口調で俺に話を振り始めた。
「あ、はい。俺は辻井悟志って言います。貴崎さんにはお世話になってます」
と、社交辞令的な挨拶を俺は返した。
それに声は、
「あははは、いや、気を遣わなくていいよ。のんびりで良いんだ。なんならあと五分で、今やっていることが一段落つきそうだから、お茶でもいれようかと思ってたんだが、喉渇いてたりしてないかな?」
と、今度は単純に気だるさだけが乗る声色で声は聞いてきた。
「いえ、結構です。さっき飲み物飲んできた所なので」
俺はそう言ってできるだけ気に障らないような言い方で誘いを断った。
すると、声は少し悲しげに、
「…そうかい、それは残念だよ」
とだけ言い残し、それからは何も言わなくなった。
俺と貴崎は声が何か次の言葉を派するのかどうか検討もつかないまま、静かに声が何か言うのを待った。
そして、三分ほど経ったか、そのくらいで、
「なんか僕が悪いみたいだからやめてくれない?せめて巳和、フォローくらいしてほしいんだけど…」
声は音をあげ、貴崎にすがる様なことを言った。
それに貴崎は、
「知らないよ。自爆したのを他人のせいにしないでくれるかな?」
と、冷ややかな目でほんの山の向こうを見つめながら、少し苛立ちが見てる声色で男の声に訊くように言った。
たぶん、俺が友達とか彼氏に見えたとかのことを根に持っているのだろう。
やけに怖い。
「…わかったよ。…よし、今やっと作業が終わったから、顔でも出すかな…」
貴崎の怨念に押されたのか、仕方ないなと言ったような言い方で何も返さない貴崎に向けてなのだろうか、返事を出した。
そして、すぐにガラガラガラ、と何かを落とすような音と「あぁぁぁぁぁあ!?」と叫ぶ声が聞こえ、「あー、…しんど…」と、呟く声が少し間を開けて聞こえたあと、カウンターのような場所のとなりに掛かった『すたっふおんりー』と子供が書いたような手書きの表示がある
彼の表情はさっきの声で何かあったことは明確だったが何故か恐ろしく悲しげなものだった。
「先生、初対面の人に顔出してすぐ名乗らないのは失礼なんじゃないかな?」
だが貴崎は容赦無しで畳み掛けて先生の呼ばれた男性にそう言うと、
「あぁ、すまないな、悟志くん。僕の名前は
やはり気だるげな雰囲気だけは消えていなかったが、こうして目の前に本人がいるとそれも感じのよさと思えてしまうような不思議な空気を持つ人物だった。
「辻井君、巳和がいつも世話になってるらしいね。こんな見た目でもしっかり中身は君と同い年だから、ちゃんと扱ってあげないと、ね」
ふらっとした動作で俺の方に向いた丙さんはにやにやと悪い笑みを浮かべそんなことをいった。
「こちらこそ、貴崎さんにはお世話になっていますから」
俺は世辞として、再度そういう言葉を返すと、
「確かに、私は辻井くんにお世話になってると言えど、先生、ふざけ過ぎはよくないと思うんだけどな」
割り込むように貴崎は丙さんに対し、見てすぐにブチ切れ寸前なんだなとわかる笑顔で突っ込んだ。
マジ、その表情は怖いっす、貴崎さん。
そんな彼女に俺は恐怖を覚えつつ、素朴な疑問を丙さんに投げることにした。
「あの…、一つ聞きたいんですけど、なんで貴崎さんは丙さんのことを先生って呼んでるんですか?」
それに丙さんは何気なく答えてくれた。
「昔ね、僕は医者兼、研究者だったんだ。それで現役時代最後に担当してたのが巳和でね。その名残で巳和は僕のことを先生って呼んでる」
「そうだったんですか…」
俺はその答えに反応し切れず、アッサリとした返ししかできなかったが、
「あはは、まぁ、そうだよねぇ。俺もそういう感じになると思う」
そうフォローを入れて笑ってくれた。
「…先生、さっそくで済まないんだけど」
そんな僕と丙さんの間にまた貴崎は割り込むようにそういうと丙は思い出したように、
「あぁ、そうだったそうだった。…はい、これ」
丙はポケットからUSBメモリを取り出し、貴崎にそれを渡した。
「いつもありがとう、じゃあ、私たちは帰ることにするよ」
貴崎はソレをカバンの中に仕舞い込むとそう言って、頭を一度丙に向かって下げて、
「よしっ、帰ろ、辻井くん」
そう言って、普段より嬉しそうな様子の若干、早歩きでさっさと店の出口に向かっていった。
俺はソレに付いて行こうと、
「あ、お邪魔しました」
と、会釈だけして、彼女の元へ向かおうとしたその時、
「辻井君、明日の正午辺りにここに来てくれないか?話したいことがあるんだ」
丙さんがそんなことを訊いてきた。
それは其れに不思議に思いつつも、いったん足を止め、
「わかりました、明日の正午ごろにまたここですね」
俺も聞きたいことがあるというのがあり、二つ返事で了承した。
「ありがとう。巳和を待たせてもあれだからね。すみません、わざわざ足を止めてくれて」
俺にそう言って礼を告げた丙に俺は会釈して店を後にした。
店から出た後、俺は貴崎の家の前まで貴崎を送り、一人で帰宅した。
今日はどうやら、両親が幼児で夜家を空けているらしく、たった一人となった家で俺は一人、のびのびとすることにした。
そして、夜になってまでのびのびとしているそんな中、wireの通知がスマホの画面に映し出された。
俺はそこからwireのトークチャットの画面を開くと、貴崎からwireの通話機能での連絡が入っていた。
それに何事もなく通話を始める。
『あ、辻井くんか?』
「そうだけど、どうかしたか?」
『あー、月曜日なんだけどさ。放課後まで私、研究室にいれなくなった』
「?…えーっと、要は一緒に帰れないって言いたいのか?」
『そう、わたしはそう言いたかった。ありがとう私はまた一つ語彙を増やすことができたよ』
「お、おう、それは何より。で、どうしたんだ?」
『え、あ、済まない、それだけなんだ。月曜日、病院に少し用事があ
ってさ』
「そうか、わかったよ」
『あぁ、済まないな』
「気にすんな」
『じゃあ、おやすみ』
「おう、おやすみ」
そして通話が終り、俺はホーム画面に戻し、スマホをそこら辺に適当に置いた。
そして、さっきの通話を思い出して、貴崎から初めてかかった通話だったことに気付き、少し不思議なところが表面化してる部分があったが会話が普通に進んで違和感を何一つ覚えなかったことに気付く。
最初は何か不思議な雰囲気があったが、彼女の声色に慣れたのか、それとも感覚がマヒしてしまったのか、彼女が話し方を覚えたのか。
何事もない若干心配性な彼女の連絡に俺は少し笑ってしまった。
そして、彼女に次に会うのがほんの少し、極々、僅かだが、楽しみになった気がした。
次の日の正午頃、丙さんに言われた通り、俺は山田玩具店の中のカウンターの前にいた。
到着し、カウンター越しに丙さんを呼ぼうとして、『そこで待っててくれないか』と言われはや十分。
さすがに飽きてきたのでスマホにダウンロードしていたアプリゲームで遊んでいると、
「いやぁ、ゴメンゴメン、待たせたね」
すったふおんりーと書かれた暖簾から丙さんの声が聞こえ、彼が姿を見せた。
「いまから僕、休憩に入るから店を一旦、閉めるんだよね」
そう言って、暖簾のすぐそこにいくつか纏まってある電気のスイッチを押すと店内の照明などが一斉に消えた。
「だから、話するのにちょうどいいし、御昼飯奢るからさ」
そう言って、俺の肩を叩き、俺の決定権がない昼食が始まった。
元々行き先は決めていたらしく丙さんに付いて行くがまま着いた場所はオシャレなイタリアンレストランだった。
適当な席に座った俺たちはさっさとメニューを頼み、丙さんが食前にと頼んだ二人分の紅茶を眺めながら、話し始めた。
「ごめんね、大人が子供を呼び出すような怖いことしちゃって」
「いえいえ、こちらこそ、奢ってもらうなんて」
「あはは、呼び出しに応じてくれたお駄賃ってとこでこれは留めといてくれよ」
何気ない会話を始め、丙さんは笑った。
そして、その笑顔のまま丙さんはこんなことを訊いてきた。
「まぁ、話したい事なんだけどね、まず、巳和ちゃんのことどう思う?」
そして、一昨日、矢作先生に訊かれたたことを思い出し、少し印象が変わったことを思い出しつつ、答える。
「貴崎さんは、面白い人だと思います。友達としてはすこし不思議で心配な部分がありますけど」
苦笑いを浮かべつつ俺は答え、それに、
「そうか、友達、か…。なんか安心したよ。初対面の時、彼氏でも連れて来たのかと思ったって言ったけどね、あれは結構、本心よりの発言だったんだ。もしあの時に気を悪くして居たらとても済まないと思う。過去に一度、巳和は彼氏ってやつを連れてきたことがあってね。まぁ、
俺はその話を聞いて、どこかで怒りの感情が、湧いた気がした。
巳和にそう言う知識がなかったのが悪いと言えばそうだが、体目当てで近寄ったその彼氏とやあの存在にやけに苛立ちを覚えた。
そして、思った。
俺は貴崎の何を見て話しているか、と。
改める間もなく俺自身はその問いに『目』とすぐさま答える。
俺は彼女のまっすぐな目に魅かれ、友人として呼べるようになったんだ。
だから、月曜日の病院に行くといった彼女のことが若干心配してるのではないだろうか。
たとえ必要が無くても、そん自問自答をして、ムキになって友達のことを考える。
貴崎じゃなくても友達と呼び始めた俺の周囲には大体同じ感覚で接している。
だからこそ、
「俺は少なくとも、その彼氏みたいな奴じゃありませんよ」
普通の声で、何も変わらないように、話流れや空気感的に若干笑いを含めるくらいの事をして、俺は丙さんに返した。
「はは、そんなこと、言わなくてもわかってるよ。君が巳和の目を見て話しているのがすぐわかった。だから、そんな心配はしてない。さっきの質問で確認もできたしね」
そう言ってストローでグラスの中の氷をからからと小気味のいい音を立てて、掻きまわした。
そして丙さんは、
「そうだね、君になら話そうか。たぶん巳和から、彼女自身の話は聞いたと思う。だから、今度は僕が分かりやすく説明しようかな。ついでに彼女の昔話も少し踏まえてだけど」
そう言って丙さんは貴崎巳和という少女について話し始めた。
俺は丙さんから話を聞いた。
貴崎巳和が道の病に侵されていてその道の病がどのように命を蝕むことが予想され、現状どのように貴崎の命を蝕んでいるか。
貴崎は今まで友人というもの、それ以前に赤の他人というものをあまり知らないという事。
それゆえに、様々な人間に騙され、何度も裏切られ、そのたびに人間を信用しようと努力していること。
彼女が、丙さんから見ても自分を実験対象にしか見ていないのではないかと思われていること。
彼女に対して丙さんの主観、客観しての事実を訊いた。
そして、俺は何も言わなかった。
「まぁ、僕が話せるのはこのくらいかな」
そう言って丙さん自身から話を切るまで、反応はおろか、ただ茫然と彼の話を訊くしかなかった。
その後も何か話すことができる訳でもなく、茫然とそれを継続させられていた。
昨日、メモを取った貴崎の話を少し調べてみたが、それもちゃんとわかる訳でもなく、わからない単語を調べるとわからない単語が出るような状態になってしまい泥沼のような状態だったのだが、こうやってわかりやすく内容を教えてもらうと、彼女の言っていた全体がどんなに恐ろしいものなのか、それを彼女は自分を調べるという行為でどれ程現実を突きつけられているのか、ソレに抗い続けているのか、彼女の生きることについて、いや、彼女自身を蝕むものに対してどれ程の憎しみや、何かしらの感情を原動力にし、日夜研究を続けるその姿の大きさを知った。
「…でも、俺は何もしてあげられないです」
当たり前のことがやっと口から漏れ出すように音となって、
だが、そんな諦めてるだけじゃ、俺の性分じゃ許容することはできなかった。
「それでも、何かできるんじゃないかって、そう思いました」
無駄口、空虚な言葉、なのだろう。
独りよがりで、鼻で笑われることなのだろう。
それでも、俺はそんなことを、こんなことを、言った。
「…そうか、なら、頑張ってみてくれ。昨日、彼女にUSBメモリ渡してただろ?アレ、彼女の担当してた時のデータのコピーなんだ。まぁ、法律上そういうのはやっちゃいけないんだけどね。でも、僕はそういうデータベース的な事しかできない。だから、君は巳和の何かの支えになってあげてくれ」
そう丙さんは言って笑った。
その直後、まるでタイミングを見計らったように料理が運ばれてきた。
店員が料理を並べてる間の丙さんの顔がどうしてか、『タイミングよく来るように話してやったぜ』といっているような気がした。
昼食を終え、なんとなくで丙さんに付いて行き、山田玩具店のカウンター前に来てしまった俺は何度と奢ってくれたことに礼を言ったはずなのに、
「今日は本当にありがとうございます」
と、また礼を言っていた。
「もうそんなに気にしなくていいからね」
そう言って、笑って丙さんは俺を見ていた。
そして、とうとう緊張が切れはじめて、なにがなんだかの半狂乱になってきた脳内で、適当にそこにあった大学受験用の参考書を手に取り、
「これください」
と三千円出費したのだった。
その日の夜。
親は家にいてリビングで五月蠅かったという理由で俺は自室のベッドに電気も点けずに寝ころがった。
別に何がある訳でもないがこうしてるのが好きなだけで、何も考えてなかった。
ただ、ふと、こんなことを思った。
丙さんが言ったことを含めて。
貴崎の存在の不確定さ、そして、俺が友達として何ができるのだろうか。
そんな自己犠牲かつ、自己満足で、傲慢で、迷惑な考えを理解しつつしていた。
理解しているうえで考えてるなんて、なんともたちが悪い奴だ。
俺は俺をそう評価し、考える。
そして、なにか浮かぶわけでもなく時間を浪費していることに気付き、寝ることにした。
次の日の放課後、何があったわけでもなく学校で何一つ発展を感じない授業を受けて、過ぎた今、研究室に向かおうとしてた俺の足を見て思い出した。
(そういえば、今日、貴崎は先に帰ったんだっけか)
俺は少し不自然な足取りをしつつも自然に玄関へと足を運んだ。
昔から、俺は困っている人やらを助けたり、問題に巻き込まれる性格だった。
そのせいもあり、自己犠牲で傲慢で迷惑な考えが身に付いてしまったのかもしれない。
その日の帰りは、雨が降っていた。
まだ氷が地面に張っていて、たまに滑って転びそうになる、そんなレベルだった。
俺はその道を滑らないようにゆっくりと歩きながら、適当にあたりを眺めていると、まっすぐ歩いたすぐ先に子供と氷で滑ったのか、転んでいる老人を見つけた。
俺はそこにすぐ辿り着き、『どうしました?立てますか?』そんないつものような言葉を口にして、老人もとい、年を召した女性がたつのを手伝った。
そこにいた子供が言うにはその子供の祖母がその女性らしい。
そして、どうしてそうなったの答えとして、氷で老婆が滑り子供が立たせようと努力したが立つことが叶わず、その場で困っていたらしい。
俺は子供と女性が礼を何度かいいうのを「そんなのはいいですよ」と謙遜して、二人が去っていくのを見て、再び歩きしたその時、
―――――――キキィ――――――――。
甲高いブレーキの音が丁度、俺の斜め後ろ当たりの車道から聞こえ、それに驚いて、振り返るとすぐそこには車があった。
人間とはそういう時、本当に時間がゆっくりに感じすべたがゆっくり動いて見えるらしい。
まず避けれるか考え距離的に無理と判断。
そして、判断するものが一項目で終わってしまった人間というのは過去を総ざらいして記憶があふれ出すらしい。
まるで風船に入れ続けている水がオーバーフローして溢れかえるように、何もかも、記憶としてあったのかも怪しいモノまでも思い出せてしまうらしい。
目の前には脳がオーバークロックした分ゆっくりと近付く車を見ながら思った。
また巻き込まれるのか。
そして、車が体に触れた瞬間、すべての時間が通常の速度に戻り、激しい痛みと共に轟音が体と来るからなりだしたのを目視して、身体は吹き飛ばされた。
俺の身体は面白いほど、視界を回転するように変えながら頭から地面にたたきつけられた瞬間――――――――――――――――――――。
三章 失ったメモリー
目を覚まし、一番最初に目に入ったのは、白い天井で、体が動かないことに気付いてのはそこからすぐのことだった。
唯一、動いた首のみを動かすと点滴やら、何やら医療機材があって、すぐにここが病院なのだと理解した。
そして、やっと手が点滴で動きにくくなっていることが分かり、布団の重みが体を押さえていることが分かった。
要は、動かないんじゃなくて動かしにくかっただけだった。
それが解り、俺は何があったのかと思い出そうとした時に気が付く。
何も思い出せない。
自分の名前ら日常に必要な動作、言語、計算などの知識は全く持って問題ないが、親の顔も、友人に誰がいるのか、俺は何をしていたのか、なぜここに俺はいるのか。
何一つ思い出せない…、いや、記憶が、無くなっていた。
だが、不思議と混乱はしなかった。
むしろなんでだろう、何があったのだろうと推察することに必死でそれどころじゃなかった。
ただ、なにか忘れてはいけない人がいた気がするが、その薄っすらと残る記憶のいぶつは推察の波にさらわれ何処へと消えていった。
目覚めたのは夜だったらしく、一向に思い出せなかった俺は何となく寝ることにした。
目覚めたことは看護師越しに両親に伝えられたらしく、その後、病院に両親、
見舞いラッシュの午後を越え、夕方。
ガララとノックなしに病室の扉が開かれ、小学生のような身長の少女が俺の元へ早歩き出来て、俺の前に着くなり手を取って、
「
泣きそうな程心配した顔で俺を見ている。
その表情を見て、矢作先生が言っていたことを思い出した。
『今日の夕方かな?身長が低い女の子が来るはずだ、彼女にとって君は親友みたいなもんだ。とりあえず、
だから俺は、
「問題ない、別に貴崎が心配するほどじゃないさ」
そう返し、なんとなく笑った。
貴崎と思われる少女は、
「そうか、ならよかったんだ。とりあえず、今日は安静にしといてくれ。入院中は毎日行けたら行くから、なんかできるかはわかんないけど待っててくれよ」
なんとも頼りない頼れるセリフを放った貴崎と思われる少女は、どうやら言動から見て貴崎巳和本人で間違いなさそうだった。
「ありがとう。あまり期待しないで待ってるよ」
俺は冗談でそう言って笑った。
少なくとも俺の中では彼女と、いや、今日あったすべての他人とは初対面だったが、どうしてか、俺は彼女だけは、しらを切ってあまり話さないように逃れようとは思えなかった。
貴崎が帰り、普通に病室で時間が過ぎていった。
見舞いに来てくれた人達が言っていたことを断片的につなぎ合わせて、俺の過去の虚像を組み叩ていると、不思議と時間に飽きることはなかった。
現状は事故に遭って、頭を地面に強く打ち、丸一日寝ていたという事は全体に知れ渡っている。
しかし、俺の記憶喪失については両親と矢作先生を含む一部の教員しか知らないという。
他には隠し通すという事にもなっているらしく、そこは俺の腕に掛かっている。
なんとも難しい状態だ。
そう思いつつ、俺は何も考えないでボーとしながら窓の外に映る月を眺めていた。
ただ、貴崎の顔がどうしても頭の端から離れずにいて、そのことを少し考えたいという欲求をという事を除けば。
プロローグ(真)
記憶を失ってから早一年と数カ月。
何となく隠す生活にも慣れ、適当に話せるようになった。
特に巳和といる時間はそれなりに長くなり、仲もかなり良くなった。
彼女についての事、その他諸々はすべて、
これで俺の秘密を知る人間は両親、矢作先生、丙さんの四人と一部の教員だけとなった。
このくらい知っている人がいれば何とかなるだろう。
俺は適当に踏んで暮らしている。
今日も、研究室で巳和を監視してから、一緒に帰りながら話している。
「なんで、赤ん坊の骨の柔らかさを調べちゃいけないの?」
「貴崎、それは赤ん坊が可哀そうと思わないか?それでも知りたいなら多分、大昔に似たような研究した人がいるだろうからその人の資料から学んでくれ」
「え、悟志君、君が赤ちゃんを誘拐してくれば良くない?」
「犯罪じゃい」
ぶっ飛んだ内容だが、それも楽しい俺はそう思って歩く。
不思議な思考のジーニアスと共に歩く。
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