五時間目 家庭科2
光の届かない薄暗い森。時折聞こえるコウモリの羽音。ただでさえも気が滅入りそうな、魔物が出没するダンジョン。晴れているのに、空には星一つ浮かんでいない。いや、見えないのだ。濃い霧に邪魔されて。
「ここは……どこなんだよ」
俺、勇者ユウイチは誰にともなく呟く。声は周囲の木々に弾かれて、細切れになって霧散する。誰にも聞こえない。誰にも届かない。ここには、誰もいないのだから。
がさっ。
背後から聞こえてきた草の音に、俺は腰の剣を振り抜きながら、向き合った。しかしどれほど警戒していても、それ以上の何があるでもない。
しかし俺は確信していた。何かがいる。そして俺の首を落とそうと、虎視眈々と狙っている。
相手は、魔王の手下か? それともただのゴーストか?
緊迫した時が流れる。時間にして、きっと数分のことだろう。しかし俺には、無限とも思える程長く感じられた。
必ず居るはずの敵は、待てども待てども、姿を現す気配がない。
……気のせいか?
ようやっと体の力を抜きかけた途端、がさがさと、草が大きな音を鳴らす。飛び上がるほど驚いて、再びそちらを睨む。森の奥から出てきたのは、一匹の、真っ白い毛玉。
「ウサギ!」
俺は目を輝かせ、剣を握り直した。ウサギ。哺乳類。肉。食料!
しかしウサギは俺の剣幕に驚いたのか、それこそ脱兎のごとく逃げ出してしまう。
「あっ、ちょ、待って、お願い……!」
追って走ろうとするが、腹が減りすぎて力が出ない。そうこうするうちに、ウサギは影も形も見えなくなってしまった。
俺はがっくりと膝から崩れ落ちた。ため息とともに剣を鞘に収める。
それからマントを敷いただけの敷物の上に、どっかりと腰を下ろした。マオと待ち合わせをする目印のために炊いた火に、両手をかざす。
「……腹、へったな」
言葉と同時に、正直な腹がぐうと不平を言った。もういつから食ってないのか。辛うじて水分だけは取っているが、この状態がいつまでも続けば、勇者パーティーが餓死するという、笑えないバッドエンドを迎えることとなるだろう。
「マオ……早く戻ってこいよ」
「なに? そんなに寂しかった? でもごめんね。男からのプロポーズは受けられない」
そんな俺の耳に、慣れ親しんだ軽口が届いた。俺はがばっと立ち上がり、待ちに待った相棒の来訪を喜んだ。
「マオ! 飯は!?」
「早速それかよ。仲間の無事を喜ぶとかしないの?」
「飯の後にいくらでも喜んでやるから! まずは、飯!」
マオは「はいはい」と肩を落としながらも、奇妙な形に膨らんだリュックを下ろす。やはり、食べ物が見つかったのか!
「はい、これ」
マオが袋から取り出したのは、一匹の魚……の、魔物だった。
「えっ……これ、食うの? てか食えるの?」
「食えないことはない。けど、内臓は毒だから、綺麗に三枚に下ろさないと、死ぬ」
「え、嘘。これを下ろすの?」
「そう。それなりに大きいから、できるでしょ」
マオは、「はいこれ。よろしくね」と気軽に魚(?)を手渡してくる。
しかし俺は、引きつった頰をひくひくと動かすのが精一杯だった。
出来る出来ないの問題もあるけれど、それ以上に、やりたくない。だって三枚おろしとか、血が怖い。それにほら! 今! 絶対こっち見た! 濁りきった目で見た! ギョロって!!
「な、なら囓ろうよ」
俺の必死の訴えは、マオによって一蹴される。
「間違えて内臓を舐めたらどうすんの。下ろしたほうがいい」
「いや、でも今日モルトワールさん、いないしさ……」
「いつも頼りきってないで、たまには自分でやりなよ」
「それならマオもだろ!」
「俺はいつも手伝ってる。やってないのはお前だけ」
呆れ顔のマオは、すでに焼き魚にするための串を作っている。どうしても三枚下ろしをやるつもりはないようだ。
「じゃあ俺がそっちやるから! 焚き火とか竹串とか作るから! マオこっちやってよ!」
「無理だよ」
「なんで!」
俺が叫ぶと、マオは懐に手を突っ込んで、刃渡り十センチ未満の小さなナイフを取り出した。キョトンと見ている俺に、びっ! と刃を向ける。
「僧侶である俺のナイフは、これ。教義的にこのサイズが限界なの。
これで、その魔物の鱗や肉を、裂けると思う? 無理だね。刃こぼれするだけで済めばいいけど。それとも何? お前、ナイフの刃入りの焼き魚が食いたいわけ?」
「いや、それは……」
「今、これを解体できるのは、お前の聖剣だけなの。そして聖剣は勇者にしか扱えない。俺は聖剣を握れない」
それは事実だった。勇者でない者が聖剣を握ると、電流が走ったかのように、全身が痺れてしまう。
マオはぐいぐいと魚(?)を俺に押し付ける。マオの顔がその距離まで近づいて、ようやく気付いた。マオの顔は笑っているが、目がちっとも笑っていない。
「あのさ。今日で遭難六日目なんだよ。最後に食ったのは三日前。
言いたかないけど、迷ったのはお前が地図を無くしたり、魔物を深追いして道を外れたりしたからだよね? もう俺限界なの。腹が減ったのはお前だけじゃないの。
つべこべ言ってないで、さっさとやってくれない? この際だから、内臓の部分、多めに切るのは許すよ。そこまで精密な包丁さばきが、お前にできるとは思ってないから」
けれど。
「間違っても、内臓を傷つけて毒を撒き散らすのだけはやめてよ? そんなことされたら、せっかくの白身まで食えなくなる。
もしそうなったら、俺、お前のこと殺しちゃうかも」
「……えっ? ころ……」
「だってそうでしょ? 勇者は死んだって、復活できるんだよ? だったら、せっかくの食料を無駄にするような役立たず、生かしておく価値もないよね? むしろ死んでくれたらその分、食い扶持が減るじゃん」
「ま……マオ、さん? え? ちょ、冗談……冗談だよな?」
恐る恐る、俺は問いかける。マオは、にっこりと笑う。
「あはは、本気にするなよ。あんなもん、冗談に決まってるだろ。
さぁ、早くやっちゃってよ。俺腹ペコなんだからさ。
……ね?」
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