十六夜月・病室・錆

 窓に息を吐きかける。

 白く曇ったそこに、あの人の名前を書いた。

 窓の外は暗闇に包まれている。山奥に立つこの病院の、窓から見える景色は何れも暗い、魔物のような木々ばかりで、此れで気がふさがないと言えば嘘になる。

 ふと、外から小さな音が聞こえた。

 カタタン、カタタン、と何かが回る様な音だ。直ぐに車輪を想像して、そっと窓を開けた。

 夜風はとても冷たい。ぶる、と身体を震わせつつ目を凝らす。

 カタタン、カタタン、カタタン、カタタン、カタタン…。

 音はだんだん大きくなる。それに合わせて期待がどんどん膨らんでいく。思わず身を乗り出す様にして下を覗いていると、程なくして、自転車を引いた長身の影が見えた。

 あのひとだ。途端、拍動が上がる。上擦った声を何とか抑えながら、潜めた声で

「いつきさん…いつきさん…」

そう呼びかけると、彼はす、とこっちを見上げた。

「こんばんは」

「こんばんは」

思わず笑顔が零れだす。彼は静かに笑みを返して、引いてきた自転車を病院の壁に立てかけた。

「どうしますか?」

 問いかけは短い。幾度目なのか、もう忘れてしまったけど、聴かなくても答えは決まっているのに。

「行きたいです」

 小声でそう返すと、彼は静かに両腕を広げた。ここは三階だけども、繰り返すうち、恐怖心はなくなっていた。錆びた窓枠にそっと腰を乗せ、両足を揃えて外側に座る。窓の桟が当たって痛い、と。思った瞬間、ず、と手が滑ってしまった。

「!!」

 思わず声をあげそうになったのも束の間、彼はいつものように抱き留めてくれる。白いレースの寝巻の裾が大きくはためき、静かにおさまった。

「気を付けて」

 そう声を掛けられて無言で頷くと、彼は困ったような目線をくれて自転車のハンドルに手をかけた。

「どうぞ」

 支えてくれている自転車の荷台に何とか横座りすると、「動きます」と小さな声がかかる。頷くと、車体は真っ直ぐに立て直された。

 彼がペダルに足をかけると同時に、自転車は静かに滑り出した。



 魔物のような木々は両脇から襲い掛かるように暗い腕を伸ばしている。それでも、彼の腰にしがみついている間は、怖いと思わなかった。

 甘えるようにその背に頬を擦りつける。言葉を交わさなくても、それだけで胸に温かいものがこみ上げた。

 やがて、木々の黒々とした腕は二人を追うのを諦め、代わりに満天の星を従えた青白い月が現れる。

 小高い丘のようなそこは開けた草原で、彼はいつもここで自転車を止めた。

 そのまま座ると濡れてしまうため、彼は自転車に結わえてあった敷物を広げて、手で合図してきた。

 言われた通り座ると、彼は静かに微笑む。

「元気にしていましたか?」

「いいえ、あまり良くなかったのです。でも今夜はなんだかとても楽です」

 そう言って微笑みかけると、彼も笑った。

「それはよかった」

 そう言って、また、会話は途切れる。

 それでも不思議と気まずさはなくて、居心地が良い。暫くそうして風に当たっていると、彼は静かに切り出した。

「もうそろそろ、お別れの時の様です」

 ぽつり、と。そんな風に言う。

 突然のセリフに、文字通り頭が真っ白になった。口を半開きにしたまま固まって、それでも必死で考える。何故そんなことを言うのか、どうしてなのか。なにか、悪いことをしてしまったのだろうか。嫌われたのだろうか。

 そんな不安を見透かしたのか、彼は静かに首を横に振った。

「元々、物事には限りがあるのを、貴方は知っている筈です」

 残酷な言葉だった。けれど、それを言わせてしまったのは、聞きわけがなかったせいだ。何とか口の端を引き上げてぎこちなく微笑むと、彼も安心した様に薄く笑んだ。

「何か、思い残したことはありますか?」

 彼は引導を渡す様に言う。それが悲しくて目を伏せながら、おずおずと口を開いた。

「貴方の本当の名前を、教えてください」

「本当の?」

 少し驚いたように目を見開く彼を見上げながら、哀願する。

「しま いつき、は貴方の名前ではないでしょう」

 言うと、彼は困ったように笑って「参ったな」と呟いた。

「ごめん、僕は本当の名前をわすれてしまったんだ」

 そう言った彼の眼は悲しくて、とても嘘を言っているようには見えなかった。

 だから、

「ごめんなさい」

 言うと、彼は今度は悲しそうな目をして、そっとその腕で包み込んでくれた。温かい。そう思うと、少しずつ、意識が遠のき始める。


 肌を撫でようとした夜風が体をすり抜けてしまうのを感じたのが、私の最期だった。

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