雪、花畑、寝起き、朝禁止

 鼻先にふと、懐かしい香りが漂った。

 薄っすらを目を開けてしまってから、寝なおそうと身動ぎをする。長い眠りの為か節に痛みがあり、返って目が冴えてしまった。それでも、暗闇にしがみつく様に目を閉じ、息を殺してみる。

 幾度か大きな息を吐き、落ち着かぬ態で姿勢を変えるが、結局もう、温かい闇に戻ることはできなかった。

 年々、愛すべき無の闇に沈める時が、短くなっている気がした。

 結局這い出すしかないのか。気が進まないが、そろりそろりと背後の土を掻いてみる。長い間同じ姿勢でいた体には酷い負担がかかったが、それも仕方がない。幾度か繰り返すうちに、土に穴が開き、ゴロゴロと崩れ出すのが判った。そっと体を滑らせ、這い出ると、途端にひんやりとした空気に包まれた。

 身が凍るようだ。思わず身を竦めながらあたりを見回す。そして、思わず目を細めた。

 ああ、目覚めを誘った香りはこれだったか。

 冬籠りを始める前は気付かなかったが、この場所は菜の花の畑であったようだ。この眼には静止するものは見えづらいが、今は風があり、寝起きには少し強すぎるほどの香りが漂っている。

 新しい春が来たのか。それにしては寒い、と足を踏み出すと、冷たい塊が触れた。思わず幾度も手を振って払いのけながら、首を左右に振る。盲いて居るわけではないのに辺りの様子が判らないのは不便な事だ。

「おや、もう目覚めたやつがいたのか」

 不意に背後から声がした。ずるりと長い体を引きながら剣呑な視線をくれる相手を、何とか思い出す。

「ああ、アンタもいたのか」

 そう返すと、捕食者たる彼は鎌首をもたげた。

「丁度いい。腹が減っていたのだ」

 ゆらゆら震える頭からチロチロと舌を出すのだけは、よく見えた。思わず「忌々しい目だ」と独り言つ。

 そして、

「老いさらばえたこの身が糧になるなら呉れてやろう」

と、何度目か同じセリフを返した。

 この大蛇は幾度か前の冬籠りから、やたらと付け回してくるようになった。逢う度に「旨そうだ」というので、逃げる術もない老蛙は食えと返すが、まだ腹の足しにはされていない。

 この冬、眠りにつく前も同じ会話をしたのを、ふと思い出した。

「まだ起きるには早いのじゃあないか」

「いい香りがしたのでね」

「なんだ、アンタも同じクチか」

 笑うと、蛇はバツが悪かったか、そっぽを向いたようだった。

 あたりはしん、と静まり返っている。

 互いに語ることもなく、暫くそうしていたが、

「まあいい、アンタも寝なおすしかないよ。この寒さだ」

蛇はとぐろを巻きながら不意にそう囁くと、するりと土手の上の方に登って行った。

「春の香りかと思ったら辺り一面雪景色だ。悪趣味な天気だよ」

 遠く、そう聞こえて、後はゴソゴソと穴を掘る様な音が聞こえ始めた。

 雪中菜花に息絶えるも一興、等と。

 思いつつも花の香りを嗅いでいた老蛙もそのうちまた、元の巣穴に潜りこんだ。

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