由莉vs音湖
先に仕掛けたのは音湖だった。
とりあえず、ゾーン状態の由莉が如何程なのか、音湖は確かめたくもなったが、生半可な攻撃では初日に弟子に負けるなんて失態を犯してしまう可能性があった。なんせ、由莉は音湖の弟子であると同時にその前から阿久津の弟子だったのだから。
少し汚いと思いつつ、音湖は密集した木々を縫うように姿をくらましながら一気に由莉の元へと詰め寄る。
その一方で由莉は…………静かに目を閉じていた。木が揺れる音や、枝の折れる音、微かに聞こえる吐息、全てが手に取るように分かった。不思議なくらい自分の感覚が澄んでいる。目を閉じていても音湖がどこにいるか手に取るように見えた。
(……来る)
木の間をすり抜けるようにして現れた音湖が後ろからローキックを放つ。それを由莉は何も見ることなく半歩だけ動いて回避する。由莉も体を思いっきり捻って隙の出来た音湖に詰め寄ると、腹部へと拳をつきだす……だが、音湖の手が由莉の腕を掴もうとする。それを左手で払うと、左の守りが甘いと言わんばかりに音湖の右足が脇腹に襲いかかる―――
(…………)
(これはどうかにゃ?)
由莉がその足を受けようと一歩後ろに下がろうとした、そのタイミングを狙い音湖は右足蹴りをキャンセルすると右向きの遠心力と前に出る力を左足に込めて真正面に蹴りを入れた。
流石に予期していなかったのか、由莉の顔が一瞬だが、強ばった。
本来ならサイドに避けてカウンターを狙える隙のある技だが、今の由莉は後ろへの体重移動が完了していないが故に横へ移動は不可能だ。確実に……当たる。
(ちょっと初歩的なフェイントだったけど、初見は厳しかったかにゃ? ……でも、ここで終わるほど由莉ちゃんは脆い子なのかにゃ?)
(…………)
だが、由莉はそれさえも反応しきって見せた。足先が腹に食い込む直前に由莉は引いていた右手で音湖の足を弾く。普段ならそれで止まることなんてないが、音湖は直前に右向きの遠心力がかかった状態でこの行動にでた。つまり…………
遠心力を相殺しきれていなかった
だから、今の由莉の動きでバランスを崩し、勢い余って倒れようとする。
(っ! まずいにゃ、力入れすぎたにゃ……っ)
由莉の右足が飛ぶのが見えた音湖は敢えてそれを受けつつ右に転がって体勢を立て直す。だが、その絶好のタイミングを由莉は逃すわけもなく一気に攻勢に出る。自分の全力を以てして、音湖に勝とう、そんな魂胆だった。
0の状態から最速へと加速した由莉は低姿勢の状態で音湖の懐まで一気に詰め寄る。そのまま、たった1歩で最速から0へと停止し、音湖の鳩尾を狙い全身全霊のアッパーを繰り出す。動きに一切の無駄がなくなり、まさに完成された動きだと由莉も自信があった。これなら音湖にでも届く、と。
「なるほどにゃ〜確かにこれは強いにゃ。そこいらのゴミ貯めにいる連中相手なら1人でボコボコに出来るかもにゃ」
「っ!?」
音湖は躊躇いもせずにそのアッパーを受けた。だが、調子を崩す訳でもなく平然と見た印象そのままを話した。その事で激しく動揺した由莉はゾーンの状態が解けてしまった。
「ど、どうして…………」
「ん〜……『甘い』かにゃ? キレはいいけど、肝心の攻撃が緩いにゃ。速度に特化しすぎて攻撃が弱い、本末転倒の典型的パターンだにゃ」
「…………っ」
攻撃が緩い……その言葉は由莉の心を確かに抉りとった。なぜ? いつもなら阿久津でも少しは何とかなるようになってきた筈だった。だからこそ、分からなかった。まだ何が足りないのだろう、そんな事を思っていると音湖は由莉の頭をポンッと触れた。
「と、他の人が今のを見ればそう思うかもしれないにゃ」
「ぇ……?」
「由莉ちゃん、今……無意識に手加減したにゃ?」
由莉は目を見開いた。手加減なんてするはずがない、いつも阿久津とやる時だって全力でやってきた。なのに、今更手加減する訳がない。そんな事を思っていた。
「そんなことは……」
「無抵抗の相手を傷つける事が怖い、違うかにゃ?」
「…………ぁ」
「やっぱりにゃ。その気持ちは何となく分かるにゃ……あっ、そろそろ鳩尾が痛くなってきたから離して貰えると助かるにゃ」
由莉は音湖の鳩尾に拳をめり込ませてストップしていた事に気づくとすぐにやめると、近くの大木の影に2人で座った。
「……音湖さん、私って甘いですよね……」
「まぁ、甘いにゃ。現場でやれば即死するにゃ」
「…………っ」
面と向かって言われるとやっぱりきつい物があった。阿久津はかなりオブラートに包んでくれるから心へのダメージはさほどだったが、音湖はズバッと切り裂くように容赦なく言ってくるのだ。
だが、可愛い弟子を傷つけるだけなんて師匠がするはずもない。
「由莉ちゃんはさ、自分が絶望的な状況……相手に銃やナイフを突きつけられた時、命乞いをするとしたら、なぜするにゃ?」
「命乞い……ですか。生きたいから……だとだめですか?」
「素直なのは由莉ちゃんの好きなところにゃ。だけど、もっとずるがしこくなってみるにゃ」
試しに言ってみるつもりだった。由莉の困っている顔が見てみたい、という気持ちも無きにしも非ずだった。だが…………
「命乞いして、殺すのを躊躇った相手を隙を見てぶっ殺すためですか?」
「にゃっ………」
サラッと由莉がえげつないことを言ったことに音湖はしばらく硬直してしまう。だが、不意に何故か笑いがこみ上げてきて音湖は山全体に響くように声高らかに笑った。
「にゃは、にゃははっ、にゃはははははははっ! 気に入ったにゃ、由莉ちゃん! そっか〜やっぱりただ優しいだけじゃなかったにゃ」
「ねっ、音湖さんが言わせたんじゃ……ひゃあ!? そんなに強く抱かないでくださいっ。痛いですよぉ〜!」
音湖に抱きつかれ、顔が豊満な胸に突っ込んで人生2回目の窒息死をする所だった。足をバタバタさせ、顔が青ざめてきた所で音湖は離すと、由莉は久方ぶりに吸うのではないかと言うくらい山の綺麗な酸素を肺いっぱいに吸い込んだ。
「ごめんごめんにゃ、はぁ〜おっかしいにゃ。由莉ちゃんはつくづく面白い子だにゃ。こんな子は見た事ないにゃ」
「こんなこと……前に葛葉ちゃんにもされた気が……うぅ……」
「にゃはは……それで、由莉ちゃん。さっきのは……恐らくゾーン状態に入っていたはずにゃ。どうだったにゃ? 今までと感覚が全然違ったはずにゃ」
男子が聞けば鼻血が止まらなくなるような話題から話を本筋に戻すと、由莉はさっきの感覚を思い出していた。
「……体がすごく軽かったです。音湖さんの動きも楽に見れましたし、時間がゆっくり動いているのに、その中で自分だけが普通に動けているような気がしました……あの状態なら、えりかちゃんにも勝てそうですけど……それに縋っていたらダメですよね」
「…………ほんと、由莉ちゃんはよく出来た子にゃ。普通の人が1度偶発的にゾーンに入っちゃうと、その状態になればとその力に魅了されて逆に食い潰されるのに……聡明すぎて恐れ入るにゃ」
一体どこでその思考を出来るようになったのかと音湖は白目さえ剥きたくなった。
完全に自己完結しているのに、それでもどこか抜けているそんな不器用な由莉は音湖には師匠としても愛らしい弟子だと思うと同時にこの子の力を引き延ばしてやりたい、そう感じた。
「さて、由莉ちゃん。ここからは少し森の中を歩くにゃ。自然の中で歩くのはすっごく気分が晴れるにゃんよ〜」
「森の中を……ですか……って、また早く行こうとしないでくださいよ音湖さ〜ん! それ歩くって言うより走ってませんかー!?」
慌ただしい声とにゃははと笑う声が入り混じる中で、2人は日が暮れるまで飽きることなく山の中を駆け回るように歩いていった。
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