その男、過労につき
残業でくたびれた目をこすりながら、俺、
カチンカチンに冷えた北風にまじって、ズリズリとけだるそうな靴音がする。言うまでもなく、自分の靴が鳴らしている音だ。
22時。今日は珍しく早く帰れた。いや、早く帰ったというほうが正しいのだろうか。
もう、限界だった。
頭にもやがかかったような感覚を覚え、思考力が極端に低下。考えることそのものに苛立ちを覚え、それがなおさら考える力を奪っていった。
最近、そんな事が増えた気がする。栄養ドリンクを何本飲もうが、脳自体が活動することを拒否しているかのようである。
だから今日は、もう帰ることにした。
21時ちょい過ぎに会社を出られるなんて、ここ半年の社畜ぶりを考えると奇跡に近い。いつもなら、まだExcelシートに羅列された数字をにらみつけ、関数を呼び出して範囲指定をしている頃だ。
今月の残業時間も三桁を下るまい。
きっかけは無責任な上司が丸投げした仕事の、やらなくてもよいフォローだった。
それをバカ真面目にこなした結果がこれだ。
神も仏もないとはこの事だろう。
仕事上の「頼み事」というものは、一度引き受けてしまうと次から次へとやってくる。断る力とは誰の本だったろう。気がつけばどんな仕事も俺が片づけるような体制になっていた。
俺も、誰かに投げられれば少しはラクができるのだろうが、経済的事情で後進が入社してこない万年赤字部署では望むべくもなく。
俺がそんな激務をこなす中、ボスの
「フットサルは遊びじゃないんだよ。人脈形成のため。ただボール蹴ってるだけじゃないんだよ。いわば残業だよね、これも。ハッハッハッハ」
などと笑いながら部内の女子社員にのたまっていた。女子社員は半笑いになりながら、困ったように俺の方に視線を向けた。
部内の誰もが、俺の「働きぶり」を知っていた。
だが、長く各人の地位が固着した組織というものは、どれだけ仕事ができようが、またできまいが、立場の置換は起こりえない。俺がマネージャーの代わりに仕事をこなそうとも、マネージャーが俺に仕事を丸投げして定時でフットサルにでかけようとも、両者の関係は永遠に変わりはしないのだ。
こんな生活、いつまで続くのだろう。ため息が、白くなって大気に溶ける。
こんなカンジでわが身の不幸を嘆いていると、後ろからキコキコと金属がきしむ音が聞こえてきた。
「りょーいちさーん、りょーいちさーん!」
キコキコの間に俺の名を呼ぶ声が混じる。振り返ると、古びた自転車にまたがった黒いセーラー服の少女が、手を振りながらこちらに向かってきた。
白い息を吐き、ワイン色のタイを揺らしながら、彼女の自転車は愉快な音を鳴らして近づいてくる。
「はあー。追いついたー」
彼女は俺の横につくと、よっ、という掛け声とともに、あまりエレガントとは言えない動作で自転車を降りた。
「まつりちゃん、塾の帰り?」
「りょーいちさんは残業帰り?」
「質問に質問で答えたらいけません」
はぁい、と彼女は笑った。
彼女は
彼女が引いている自転車は、俺が入居して間もなくに買ったものだ。
中学一年でピタッと背が止まってしまったまつりちゃんは、過不足ないという理由で、小学生の頃に買った、塗装がはげかかった自転車に乗り続けている。
俺が長身なこともあって、あまり近づかれるとショートボブの髪さえ視界に入ってこない。そして実際、今も彼女の口から立ちのぼる白い息しか見えなかった。
「ちゃんとご飯食べてる? 帰り遅いからって外食ばかりだと体に悪いよ。また作ってきてあげようか?」
「今日みたいに寒い日はお風呂に肩までつからず半身浴でゆっくり身体を温めるといいんだって。疲れてるんでしょう? お風呂のお湯、入れておいてあげようか?」
「この前着てたコート、肩のところほつれてたね。縫ってあげようか?」
まつりちゃんは顔を合わせれば俺の生活チェックを始める。そして「あげようか?」の連呼が始まるのだ。
そんなに頼りなくみえるのだろうか。
「だって生活能力ゼロだもん。結婚もしてないし。私が面倒みなかったら誰が見るの?」
ものすごく真剣な顔で言われてしまった。
10年近くも家族のように暮らしていれば、これまでの生活の中であったいろいろな出来事が共有される。その中には俺が「危なかった」という事件もいくつかあるわけで、それが彼女が生来おせっかいな性格をさらにブーストしているのだろう。
「私にお小言言われたくなかったら早くお嫁さん見つけることね」
「はいはい」
「5年待ってくれれば私が結婚してあげてもいいですけど」
「その時はよろしくお願いします」
アパートの前でまつりちゃんと別れる。彼女の家はアパートの隣だ。
カツンカツンと、塗装がはげかかった鉄製の階段をあがり、部屋に転がりこんだ。
今日は特段疲れた。いや、これまで蓄積された疲れがどっと出たように思える。
そういえばまつりちゃんのお小言も、今日はいつもより多かったように思える。見た目からしてくたびれていたのだろうか。
「半身浴、半身浴と...」
まつりちゃんのお小言がリフレインされ、自動給湯の設定を湯船の半分にセットした。
築30年超の古いアパートだが、お風呂だけは大家の好意でユニットバスに改装してもらった。このアパートで新型のユニットバスを備えているのはこの部屋だけだ。学生時代の家賃のまま住まわせてもらってる俺からすれば、本当にありがたい事だった。
お湯を張るまでとコタツのスイッチを入れ、足をもぐりこませる。
冷えた指先がじんわりと溶けていく。
「疲れたなあ」
はう、と大きなため息をつく。
時計の針は22時半を回ろうとしていた。
先週は毎日ように午前様で、日曜日にはおすそ分けを持ってきたまつりちゃんから、お小言のシャワーをたっぷり浴びることとなった。
言うまでもない。俺だって早く帰りたいんだ。
22時を過ぎてオフィスに残っているのは俺だけである。上司のフットサル
そんなに早く帰れるなら、誰か手伝ってくれればいいのに。
俺が抱えている仕事の約半分は、俺じゃないとできないようなものでもない。
誰にでもできる仕事だが、誰もやりたがらない仕事なのだ。
すなわち、会社の運営には必要だが、やっても評価につながらない仕事ばかりなのである。
このあたりは人事のまずさもあるのだろうが、それを俺が指摘したところで、何か変わるわけではない。
お前は黙って残業してろ。マネージャーから無言の圧力は、やがて部の総意として醸成されていった。
「矢間根がやっている仕事は、矢間根しかできないから」
と、彼らは自分に言い聞かせて、俺を見捨てる罪悪感から逃れていた。
そしていつしか俺自身も、そんな環境に対する
「♪~ お風呂が沸きました」
チャイムと一緒に女性の声がする。だが、コタツに魅入られてしまった俺は、もはや浴室に向かうモチベーションすら失い、天板に突っ伏した。
「つかれたなぁ…」
最近、独り言が増えたような気がする。心の中に澱みたまった負の感情が、言葉となって口から這い出てくるのだ。
そうしなければ、心が潰れてしまうのではないかと思えた。
それでも短いセンテンスしか出てこないのは、脳が活動限界を超えているからだろう。
「お風呂、入らないとなぁ…」
頭では分かっているのだが、身体がコタツから離れない。
まぶたが重い。
意識が混濁する。
ここは自分の部屋なのか。それとも会社なのか。
早く帰れたというのも実は幻想で、本当は会社の自席で居眠りしているだけではないか。もちろん、さっき言い並べられたまつりちゃんの小言も幻聴だ。
指が勝手に動き、キーボードを叩いているかのような錯覚に陥る。
瞼の後ろには見慣れたExcelシートが広がっている。
どの感覚が本物で、どこにいるのが正解なのか。その判断もつかなくなる。
どこでもいい。休めるなら。眠れるなら。
心の中の真なる欲求が表層に浮かび上がってくる。
(冬は半身浴だよ!)
突如、まつりちゃんの声が聞こえた。
そうだ、お風呂に入るつもりだったんだ。
思い切ってまぶたを開いてみた。
だが。
様々な色彩が視界にあふれ、何を見ているのか、何が見えているのかすら分からなくなる。
走ってくる少女。鬼のような姿のバケモノ。弾ける炎。風渡る草原。雪を被った高山。見たこともないイメージが現れては消え、俺の視界を奪っていく。
この光景はなんだろう。いつか見た映画か、それともアニメで見たシーンだろうか。
いや、違う。この体験は初めてのものだ。
「あんたね? じっちゃんが言ってた伝説のシャチクって」
おぼろげな視界の中に、こちらを見上げる女の顔があった。
薄れゆく意識の中で、彼女とまつりちゃんの顔がシンクロしていく。
そして何度かの暗転の後、俺の意識は完全にシャットダウンされた。
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