夢のあとかた デッドストック・フリート

サキノ

命の更新:本編

夢なんか嫌いだと思った。



 俺等は実際、父の夢そのものだったのだろう。けれど未だ存在しない理想を実在のモノへ落とし込むとき、誤算や技術的な制約はつきもので、先駆けたる俺等はその影響を特に強く受けることとなった。そして俺が生まれる頃には、既に父もそれを分かっていたのだ。



 航空機が製造されたときに付随して生まれくる、人の姿をした人のようなそれらは、便宜的に機人と呼ばれている。機人の生まれ方はヒトほど画一的ではなくて、お披露目ロールアウト日にふいと目を覚ます奴もいれば、エンジンの取り付けられた日、あるいは製造段階や更に遡って計画段階の頃よりまるで妖精のようにきまぐれに現れる奴もいると聞く。俺の一番古い記憶は、建屋のなかで行き交う作業の人に見咎められることもなく、機体が塗装されていくのを白日夢の中のようにぼんやり見上げていたというものだったから、多分ロールアウト前にも朧げながら意識だけはあったと思う。自分のラダーには始め赤い弧が描かれていたが、やがて深い青に塗り替えられ尾翼に787のロゴが大きく掲げられるのを、それが何を意味するのかもわからないままずっと見上げていた。


 父の夢、ボーイング787、愛称は「Dreamliner(夢の定期便)」。軽量で強い炭素繊維複合材を機体の多くの部分に使用することで軽量化を実現し、燃費に優れ、中型機ながら大型機さえ凌ぐ航続距離を持つ、ボーイング社の新型旅客機。途中の給油なしで長距離を飛ぶことができ、コストダウンと高速化に大きく貢献する787型は航空各社で国際線に導入され、現在では受領数は500機以上、総受注数は1200機以上にのぼる。その機種の先駆け、6機の飛行試験機のうちの5番目が自分だった。


 物心つき、実体らしい実体を得たのはそれからまたしばらく後のロールアウトの日、空を見上げたときだ。6月の曇り空のもとでも外の景色は鮮やかで、高く流れる雲に触ってみたくて伸ばしたてのひらをそっと取ったのが父だった。父の大きな手は温かく、空を背にした微笑みは穏やかであったことを覚えている。


「……はじめまして、ZA005。私が君の父、ボーイングだ」


「とうさん、?」


「そうだ」


 彼は頷き、抱き上げてくしゃくしゃと俺の頭を撫でながら、ずっと待っていたよ、と苦笑した。製造順でこそ自分は5番目だったけれど、ロールアウト自体は一番遅かったために、姉たちや弟もなかなか顕れない俺のことを心配していたらしい。


「わあっ、やっと会えたね005!」


「にいさん、目が覚めたの!」


 父に呼ばれるとみんなして駈けてきて、もちゃくちゃにされるほど歓迎されてくすぐったかったけれど、すごく嬉しくて、抱きしめられたり手を繋いだり駆け回ったりしばらく大騒ぎした。


 それからテストチームの人たちにも挨拶をして、ちょっと緊張しながら早速初飛行を行った。ふわり舞い上がる感覚はまるではじめから知っていたみたいで、けれどとても心躍るものだった。初めて触れたひんやりした雲の感触や風の流れを、フライトから帰ってきても興奮冷めやらないままにきょうだい達とたくさん話して、6人揃って夜更かしをして。それが、俺が試験機としてきょうだいに加わった日の思い出だ。


 それからの試験機としての日々、テストは戸惑うことや大変なこともあったけれど、きょうだい達と遊んだり励まし合ったりできたおかげで心細くはなかった。父であるところのメーカー、ボーイングは優しかったし、時々時間のあるときには先輩達や彼自身の話もしてくれた。航空ショーに来ていた社長の前で見事に側転をしてみせた先輩の話も面白かったが、俺等787のことについて話した機会は数えるほどで、そのいずれも俺等にせがまれたからだった。


 まだY2とか7E7とかいう名前で呼ばれていた計画段階から、父がどんなに自分たちの誕生を心待ちにしていたか。愛される素晴らしい機種が生まれるように、みんなでどんなにたくさん頭を悩ませたか。ローンチカスタマーを始めとする航空各社も、一緒に働けるのを待っていること。この試験にはどんな意味があるのか。試験の結果が量産機のきょうだいが生まれる時に活かされること。そして近い未来たくさんの弟妹が生まれること。そしてきっと、787を世界の空のどこにでも見かけられるようになること。それを語ったときの彼の瞳は、夏空を映したような輝きを湛えていたけれど、それでいて紡ぐ言葉はなぜかひどく苦しげでもあった。上の1・2号機の姉兄は静かに父の話を聞いていたが、弟の6号機は気にせず父の頬を突っついたり伸ばしたりしていた。


 父がその時語らなかったことを、自分は程なくして知ることになる。



「パパ、前はいそがしそうであんまり相手してくれなかったんだけど、今はいっぱい遊んでくれるから大好き!」


 自らがロールアウトする前、計画段階から居たという1号機の姉ZA001の言うことには、父は彼女が生まれてからも、しばらくの間彼女を現場の人や下請けの法人達に任せていたのだという。色んな人に相手してもらって楽しくはあったけど、パパが一番好きだから今のほうがうれしいよ、と姉は父にくっついてニコニコしていた。


 その頃には俺等もだいぶ背丈が大きくなっていたが、試験の進捗のほうは遅々としてなかなか進まず、また、試験中のエンジンが爆発したり、2号機の兄の配電盤が燃えたりもした。幸い兄は腹痛になったくらいで大事には至らなかったが、遅れていた開発は更に遅れた。父は浮かない顔をすることが増えていた。俺等の試験の結果は優れないらしく、父がたびたび夜遅くまでPCや書類を前にしていたり、何度も電話をかけたりしていたのも覚えている。


 ある夜のことだった。夜半を過ぎてふと目を覚まし、なんとなく眠れなくなって父の部屋まで行った。彼は相変わらずデスクのPCと書類の山に向かっていて、その背には濃く影が落ちている。


「父さん、まだ起きてるの?」


「……ZA005」


 振り向いた彼はこちらを見て、ふと、なにか諦めたような力ない笑みを見せた。彼の手元の書類には787型機の図が描かれていたが、一度グシャグシャに丸められたような跡がある。白い機体の尾翼には緑の星が描かれ、その星から延びる赤い軌跡に、自分はたしかに見覚えがあった。やがて青く塗り替えられていった自分のラダー、あの赤い弧。


「何だよ、それ」


 訊くまでもないことだった。その書類の上部に書かれていたのは「ZA005(N787FT)」、俺の名前だったからだ。呆然としている俺の頬に触れ、父は何か言おうとしたようだったが、そのまま俯いて背を向ける。


「試験後の話は、きょうだいから聞いたか」


 姉達も弟も、思えばそれまで一度もそれを話題にするのを聞いたことがなかった。でも俺はそれまで、お客さんを乗せて飛ぶのが夢というか、下に生まれる弟妹達と同じように当然自分もそうなるものだと漠然と思っていたんだ、ずっと。夜の静寂に時計の秒針の音だけがしばらく響き、長い沈黙があったあと、父は話し始めた。



……飛行試験機には、試験が終われば計測機器を取り払ったのち座席などへ積み替え、航空会社で旅客運用に供される機体が多くいる。試験期間などほんの1・2年ほどに過ぎず、機体としての寿命はその多くが残ったままだからだ。俺等6機も、本来ならば全て航空会社に受領される予定だったらしい。


 俺等787型は革新的な機体だった。新素材や新技術を多く取り入れたためだ。また同時にコストカットを謳っただけあって、これまでの機体と比較して製造における外部委託割合が大幅に増していた。


 過信があったのかもしれない。父はここ十数年うまくやってきていたと聞くし、今回もやり方を多少変えたところで変わらず、むしろこれまでよりうまくいくと思ったからそう踏み切ったのだろう。しかし夢は夢で現実は現実で、気づいたときには綻びは繕えないほど大きくなっていた。開発・生産は遅れ、設計のやり直しや長期ストライキが起こり、姉である試験機初号の機体の組み立て段階に及んでから強度不足が明らかになったりした。


 たとえば「部品やパーツの要求クオリティはここからここまで」と指示して任せたとして、わざわざ最上品質目指して納入するところなんかあるだろうか。労力、費用、時間……下請けだって利益は多くしたいし、品質の最下限を切らなきゃ大丈夫だろうみたいな品質のものを納める。一個一個は微々たる違いでも、そういうのが足し合わさってできた機体はどうなる?

 問題はそれだけじゃなかった。作ってみなきゃわからないことはあるし、そのために俺等試験機がいるわけだけど、やっぱり作られたように出来上がっていたとしても、望まれたようには出来上がっていなかったんだ、機種として。


 強度不足のための補強や複合材割合の見直しを経て完成した1号機は、当初父が謳っていたカタログスペックに比べ、大幅に重量をオーバーしていた。重さにして約9.8トン。そしてそれは、この機種の長所とされていた部分を台無しにするものだった。


 機体そのものが軽いほど燃料は少なくて済んで低燃費だし、燃費が良いほど一度のフライトで飛べる最大の距離である航続距離も長い。目的地までに途中給油がなければ空港を経由する時間のロスも、離発着・駐機にかかる費用もなくて済む。逆に言うと重いほど同じ距離を飛ぶのにも燃料は多く必要になり、航続距離も短くなって所要時間も経由コストも多くかかるのだ。


 重量等から算定された彼女の航続距離は12,800 km。787型の当初の目標より10~15%も短く、既に導入されていた機種とあまり代わり映えしないものだった。新型機だというのに、わざわざそれを選ぶメリットがなく、予定していた長距離便に使えず、価格に運用費や新型機故の乗務・操縦・整備訓練コストなんかも含めれば、結論は明らかで。そして、俺等6機のすべてがお披露目どころか完成も待たずに受領を拒否されたわけだった。


 2号機の兄は試験機では唯一、ローンチカスタマーの全日本空輸塗装だったが、彼も例外ではない。エアラインの青い制服を身に纏いながら、そこで働くことはないと生まれる前から決まっていたのだ。5号機の俺のラダーにはじめ描かれていた赤い軌跡は、元々契約していたロイヤル・エア・モロッコの塗装の一部だったが、自分は結局その塗装にもならず、父のところのハウス塗装機体として完成されたのが今の状態だった。


「……俺等不良品だってのか」


 父は俯き、答えない。


 元々787型機は2008年5月に量産機が引き渡し予定で、2008年夏のオリンピックに向けて導入しようと計画していた航空社も多くいたのだが、それが遅延に次ぐ遅延により既に時は2011年になっており、未だに量産機は生まれていなかった。遅延により顧客各社は機材運用の予定の大幅な変更を迫られただけでなく、例の性能問題もあって父のところには賠償請求が何件も来ている。そればかりか他社機種への乗り換え検討もあって、父もこれ以上引き渡しが遅れればもう後がないと焦っていたのだろう。


 あるいはそこで無理矢理にでも量産機の部品生産の流れをとどめ、見直しや交換をかけていたなら、こんなことにはならなかったのだろうか? でももしそうしていたなら、不完全なれども先手を取れた故の成功はあっただろうか? 俺には今もわからないでいる。


 父は疲れ切った表情で、絞り出すように言った。


「パーツの生産も組み立ても進んでいる、このまま進めるしかないんだ」


「ふざけんなよ!!」


父のデスクに拳を叩きつけたが、もう社内での決定は彼だけでは覆らない所まで来ていたのだろう。


 自分たちだけというなら、試験機は元々そういう役目なのだ、出来が悪ければ供用には適さないのだからと諦めもついたと思う。でも、試験機は量産機に先駆けて生まれ、その航跡を続く量産機達に活かすもののはずで、けれど、俺等は。




 かくして、後にボーイング社過去十年で最大の波乱とも称される大規模なデッドストック問題が起きた。俺等試験機よりは幾分はマシになっていたとはいえ、重量問題の解決が間に合わないまま初期の量産機の生産が進んだことで、契約していた会社達は性能問題持ちのそれらの機体の多くを受領拒否、問題が改善された後の生産分への割り当て変更を要求したのだ。数にして11機の望まれなかった787型機は、製造のラインナンバーからテリブルティーンズと呼ばれた。その後彼らは数年に亘り、翼に錘を括られて空港の空き滑走路に死蔵されることになる。


 俺は、行き場をなくして途方に暮れる弟妹達をただ見ていることしかできなかった。




 それからまたバッテリーや油圧やなんかの問題の発覚があってはひとつずつ解決がなされ、それらを経て出来が良くなった幾機もの後続生産分の受領があり、やがて俺等の試験は終了して役目を終えた。


 一番上の姉はしばらく経ってから日本の空港へと渡っていった。そのうち施設で展示されるのだという。旅客運用には入れなかったけれど、これからきっとたくさんの人に会えるねと、名残惜しげなれども笑っていた。


 2番目の兄と3番目の兄はそれぞれアメリカの博物館へ行った。日本の航空社塗装だった2番目の兄のほうは、始めのうち自分も日本に行きたいと不服そうだったが、じき納得したらしかった。4番目の姉は新型エンジンのテスト機に抜擢され、未だ忙しそうにしている。


 試験期間中に地球一周の最短記録を打ち立てていた弟の6号機は、メキシコで大統領機の任に就くと言って試験終了後早々に去った。兄さんもきっと素敵な博物館に呼ばれるよ、と元気づけてくれた彼を思い出しながら、きょうだいに嫉妬する自分が嫌いになった。



 そのまま何年かが過ぎた。今ではこの空港で駐機場代わりの空き滑走路に居残る試験機は俺だけで、テリブルティーンズ達にさえ及ばぬ性能から、今後もう運用目的での受領見込みはないらしかったが、父は口を閉ざしていたし、俺もあれからずっと父のことを避けていた。


 自社保有のテスト機も姉の1機があれば事足りた。弟のように燃費をそれほど気にせずに済む政府機といった需要はそうそうあるわけでもないし、塗装もあちこち剥げてみすぼらしくなっていた自分には、博物館からも声はかからなかった。


 空を飛んでの輸送フェリーさえされずにこの場で解体が関の山。佇みながら、日々離発着し、あるものは受領先へ旅立っていく機体達を見上げている。同じようにそうしているテリブルティーンズの弟妹たちが気遣ってよく話しかけてくれたが、あるものは中途半端な塗装、あるものは真っ白な仮塗装のままの彼らに見せる顔がなくて、なかなか応えられなかった。やがて彼らの中からもぽつりぽつりと受領が決まる者が出始めたけれど、兄なんだから笑顔で見送ってやらなきゃと思うのに、うまく笑えなくて毎回目をそらしてしまう。


 そのうち自分のエンジンとラダーは取り外され、誇るように尾翼に大きく掲げられていた「787」の文字さえ大きく欠けていた。窓はビニールに覆われ、フラップやドアも外されて残っていない。機人の存在の本体はあくまで機体そのもののほうであるためか、俺自身の姿も朝目覚める度に黒いテープに覆われた箇所が増え、いつの間にか実在感をなくしていき、足元から霞むようになっていた。もう自分は飛ぶことなどないのだから、飛行機でさえないのかもしれない。空は遠く、手が届かない物になっていた。


「くそったれ」




 気づくと、機首の下に座り込んで膝を抱える俺の眼前に父が立っていた。ふらつきながら掴みかかる。掠れた情けない怒号がだだっ広い空港の片隅に響いた。


「なあ親父、俺は一体何だったんだ、試験機として弟妹達が生まれるまでに禍根を絶つこともできず、運用へも展示へも望まれずに、どうして、なんのために」


 思わず溢れた涙も、滑走路さえ濡らさずに幻のように中空で消えていく。握りしめた指先を一面に覆うビニールテープの下は空っぽになっていて、剥がそうとするのはもう止めた。


 何が夢だ。役目もなく誰にも必要とされなくなって、心臓も舵もなくしてどこにも行けないのに、どうしてまだここにいるんだろう。まだ消えられない訳なんて、どこにあるんだよ。ああそうだろう、親父、あんただって解体を告げに来たんだろ、なあ、いやだ、もっと空を飛びたかった、とうさん、俺、消えるのはこわいんだ。


 いつの間にか背ばかり伸びた自分は、父の背丈をとうに追い越していて、その分父は小さく見える。けれどいつか幼かったあの時みたいに空を背にして、父は静かに口を開いた。


「……テリブルティーンズ3機の行き先が決まった。それにあたって、5号機おまえのパーツを16号機に使用する」


その言葉に、目を見開いた。




 さて、数寄者の彼の名をエチオピア航空という。後発の787型機のほか12号機から14号機までのテリブルティーンズ3機を受領・運用し、追加でもう3機、10号・16号・18号機を受領したいと言って、彼ははるばるここアメリカまで会いに来た。父曰く機体の状態的に一番最初に準備が終わるだろうのが16号ということで、彼女への説明や受領までのスケジュールのすり合わせということでまず面談の場が持たれる。当然俺も行くことにしたが、とりあえず父には止められなかったので黙認だろう。


「てめえが16号達の雇い主か?」


「そうだ」


 16号の肩越しに睨みながら訊いたが、彼はあちこちテープに覆われて亡霊みたいになってる俺のことを見ても、特に臆するようなふうでもなく平然としている。変わったやつだなと思った。


「ちょっとお兄ちゃん、失礼でしょ」


「……おう」


 窘められて16号の隣に座り、時折コーヒーを口に運びながら父からの書類に目を通している彼をつらつらと眺める。テリブルティーンズの受領を望む割に、その赤銅色の頬はずいぶん血色も良くて健康そうに見えた。


 テリブルティーンズ達は売れ残りでいわゆる特価見切り品扱いになっていて、それ故に彼らに手を出す航空社には移り気な会社や経営状態に難のある会社も多かった。受領の話が立ってはまた流れ、度重なる非受領にすっかり落ち込んでしまった弟妹もいたし、なんなら一旦契約はしたものの破綻して死んだ会社だっている。16号だってこれまで2度は非受領を食らっていた。こいつは信じてもいいんだろうか、妹たちを任せても大丈夫だろうか?

 穴のあくほど彼の顔を見つめながら考え込んでいると、彼は不意に顔を上げた。


「そうそう16号、君の名前を考えてきたんだが」


「名前」


 きょとんとする16号をよそに、エチオピア航空は意気揚々とテーブルに手帳を広げる。彼女と一緒に覗き込むと、幾つかの候補らしいものが書かれたり消されたりした跡があって、一際大きく丸で囲まれていた名前は


「“Rio de Janeiroリオ・デ・ジャネイロ”?」


「東アフリカの航空社では私が最初に拓いた南アメリカ路線の就航地、ブラジルの旧首都の名だ!」


 彼があんまりにも自信たっぷりに頷くものだから、16号と俺は顔を見合わせて吹き出してしまった。地名の名を持つ機体と言うのはそう珍しくはないらしいが、なんとも大仰な名前を賜ったもんだ。くすくす笑いながら、妹は確かめるように何度かちいさく名前を繰り返してから答える。


「リオですね、結構気に入ったかも」


「俺も悪くないと思うぜ」


「そうだろう!」


 そういうわけで、16号は名前をもらった。むこうで働き始めたら、その南米路線だってじき飛べるだろう。ブラジルの街は見たことがなかったけれど、自分のことのように楽しみに感じた。


 二人が内装やら制服の手配やら、詳細な予定や準備等を話す傍らで、父の用意してくれた書類を読む。約70年前に当時の国の皇帝の命によって生まれた彼、エチオピア航空は、度重なる過去の動乱と戦乱にもなお倒れず空を繋ぎ続けてきた、エチオピアのフラッグキャリアなのだという。現在も路線を拡大しているあたり、元気そうなのも納得だった。安堵と寂しさに小さくため息を吐きながら、ここに妹たちの、リオたちの居場所があるんだなと思った。俯いて、ぽつりと漏らす。


「……妹のこと、よろしくな」


彼はまるで当然みたいな顔をして俺に答えた。


「何言ってるんだ、お前も来るだろ」


「は?」


しばしの困惑。


「え……馬鹿言ってんじゃねえよ、部品取りになったら妹が受領される頃には多分スクラップだぜ」


「もう幽霊紛いなのにそれ以上死ぬも何もないだろう、機体がなくなれば妹についてくればいいさ。お前は試験機として飛行経験はあるんだし、これから妹にも多少なりそれを教えてやってくれれば、こちらとしても手間が省けて何よりなんだが」


 妹にもちょっと目配せしてから、にやり、楽しげに笑う彼が差し出したのは小さな社章だった。鮮やかな緑黄赤三色のバッジが、律儀にふたつ掌に乗っている。


「見切り品におまけで幽霊も雇うなんて、あんた変な会社だな」


苦笑がすこしだけ眦を濡らした。


「ほんとですよ」


 おひとよしなんですか、と妹が問う。そんなんじゃないさ、でも一国背負う会社に幽霊の一人くらい些細なことだろうと、事もなげに彼はからから笑った。





 やがて、出発の日。打ち合わせのときより幾分ぴしりとスーツに身を包んだエチオピア航空が、最終チェックを受ける機体の傍らで待っていた。


「リオ、005、調子はどうだ」


「ばっちりですよエチオピアンさん!」


出発が待ちきれないというようにリオは目を輝かせる。真新しい白い制服の胸元に飾られた花の黄色が鮮やかに映えて美しかった。


「今日のために何もかも完璧に整えたんだ、訊くだけ野暮ってもんだぜ」


「そいつは心強いな、これからよろしく頼む」


彼は俺等の手をおしつつむように取り、強く握る。俺等も二人で掌を重ねて、ぎゅっと握り返した。



 俺の元の機体は先月、787型機としては初めてスクラップ扱いになっている。残していく機体に名残惜しさがなかったといえば嘘になるが、結果として案の定というか俺の姿は消えず、むしろリオの機体に部品が換装されるに従い、いつの間にか試験機として飛んでいた頃に近い姿に戻っていた。幽霊とはいえ旅客運用に入れるなんて悪くないロスタイムをもらったものだと思う。あるいは自分がそう望んだから、かもしれなかった。


 一方のリオはというと、長らく不完全なまま放置されていた機体が補完され整っていくとともに、笑顔を見せることが増え明るくなった気がする。これからはふたりで一機ってことかな、と彼女の横顔を見やった。


「じゃあ、行こっか、お兄ちゃん」


「そうだな、むこうの奴らも待ってるらしいし」


 リオと笑いあって、生まれ育ったエバレット工場に手を振る。俺等の後に受領を控えている10号と18号が、私達もすぐにそっち行きますからねー、と叫びながら両手を大きく振り返した。


 その隣に父も佇んでいる。どうにか微笑もうとしているような、むしろ無理をしすぎて顰め面みたいなひどい顔だったけど、俺も俺で父にはうまく笑えなくて、多分ひどい顔になってたと思う。


 これからよほど必要がなければ、しばらく父も俺も互いに姿を見なくて済むだろう。悔いたところで起こった事が変えられるわけじゃないし、父も、きょうだいや後輩たちの事とか、新しくて素晴らしい夢のこととか考えてればいい。法人である父のことだ、誰に咎められずとも、過去の損失を繰り返したくなんかないだろうから。それにもう、俺も試験機じゃなくて旅客機なんだ、一部だけどさ。


「行ってくるからな親父!」


「ああ」


3月の空を吹き過ぎる風の中、怒鳴るように言った声に父は短く答えた。


 手に手を取って、機体は滑走路のスタートラインに就く。火の入った心臓はその高鳴りの声を上げ、薄雲を抜けて今舞い上がる青空は、ここから遥か世界のどこにでも続いている。



 夢なんか嫌いだと思った。けれどやっぱり俺も夢の一部であることには違いなくて、そしてずっと思い描いていた俺自身の夢は、こうしてきょうだい達と一緒に空を飛ぶことだったのだと思う。


 翼は、大空を駆けるためにこそあるのだから。





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