依頼・依頼人の壁 を越えて
「……なぁ、セレナ」
「なぁに? テンシュ」
翌朝のご飯の支度をするセレナに、自分の世界から持ち込んだ本の中の事典を読みながら店主が呼びかける。
その顔は深刻な悩みを抱えているような表情。
「この世界に……『漆』ってやつはあるのか?」
「ウルシ?」
テーブルの上に料理の乗った皿を並べながら、興味ありげに店主が読んでいる本を見る。
「写真があるな。こんなやつ。長時間の乾燥と日光に弱い。熱や腐敗に強い。防虫効果もある」
「何に使うの? そんなの」
「樹液を塗料にして、それを使って線を引く。そして星をつける。使うときの作業はそれだけだが、かなり重要。だがこの世界にもそんな素材があるかどうか……」
「あるよ? 宝石が腐敗するなんて話はあんまり聞かないけど、品質を維持させて、塗料自体もずっと残るってのなら」
「あ……そう……用意できるなら用意してくれ。それと……」
日本特有の文化の一つ。ここでは代用品は見つかるまいと思っていた店主は拍子抜けする。
「あれ? 誰か来たっぽい。先に食べてていいよ。ちょっと下見て来る」
店主はつくづく不思議に思う。
音など聞こえていないのに、誰かが来るなどとよく分かるものだと。
「テンシュー、法王からの遣いの人来たよー」
実際これである。
これから食事というときの来客は、どんな気分になるだろう。
店主の場合、仕事だったならば間違いなく不機嫌極まりない。
しかし食事の上、前日法王へ依頼した国章のデザインの件であることは間違いない。
思いの外早く届いたことで、少し機嫌が良くなる店主。
「テンシュさん、お久しぶりです」
「おう、お前のことはどうでもいいからさっさとデザイン寄越しな」
遣いの者はイヨンダ。
巨塊事件の終わりにウルヴェスと会ったときに、その間にいた国からの役人である。
店主と面識があるその職に就いている者と言えば、ウルヴェスには彼しか思いつかなかったのだろう。
しかし店主からはこの扱いである。
「……葵の御紋が縦横四方向になったって感じだな。その間に出てるのは葉っぱか?」
「『アオイ』ってのはなんだか分かりませんが、ホウロンと花です。テンシュさんが言われるように花弁と葉です」
「本物見たいな」
用件が終わったと思ったらば、今度はその相手からのリクエスト。
ましてやその用件は、この国の住民からすると肩をすくめてやれやれと言いたくなるような事。
「そこら辺に咲いてますよ。国の花にもなってますから」
「根っこから掘り起こして持ってくる気か? 植木でいいよ。植木鉢」
「それこそそこらの花屋さんにでもあるでしょうに。こんな田舎にだってありますよ?」
イヨンダの言葉が次第に泣きごとのようになってくる。
国の王からの用命なら当然従うが、その後で一国民からの使い走りのような扱いをされるとは思わなかった。
「テンシュ、それは私が用意したげるから。イヨンダさんこれから帰るところだから。来るときは法王の瞬間移動で来られたらしいけど、皇居に戻る時は竜車なんだって」
片道三日。のんびり帰途に着くという訳にもいかないらしい。
昨日のウルヴェスの事を思い出す店主。その下で常に働いているのかと思うと、口に出さずにいられない。
「悲しいほどに宮仕え。文字通り宮仕えだよなぁ」
「悲しい事言って凹まさないでくださいよ。じゃあもう帰りますね」
既に手配していたのか、店の外で待たせていた竜車に乗り込むとあっという間に店の前から走り去っていった。
「確かに竜、だよな。へえぇ……。つくづく異世界だよなぁ、ここ」
この世界の住人になったとは言え、仕事が殺到。外出する余裕もない店主はこの世界の様子を見て歩くこともままならない。
店主が、長距離を移動するための交通手段である竜車を見たのは今回が初めてだった。
「で、さっき言いかけたのは何だったの?」
「さっき? 何か言ったか?」
「イヨンダさんが来る前に、『ウルシ』のほかに何か欲しい物あったような物言いだったから」
「あ? あぁ、そうだったな。裁縫道具のギザギザのクルクル回る奴、あんなのが欲しい。っつってもセレナは知ってるかどうかは知らん。この世界にもあるのか? あぁ、事典があるか。つくづく先に持ち込んどいて良かったな」
店主の話を聞いて、セレナはポンと手を打つ。
「ルーレットとか言う道具でしょ。暇つぶしにちょっと作ってみたの。回るところはいろいろバリエーション作ってみたのよね。冒険者の武器としても使えそうだったからそのうち売り出そうかなって思ってた」
「……カジノって、合法なのか? ここ」
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