トマトが赤くなると

「あれ、お医者さんだ。こんにちは、おいしゃさーん!」


「ん? ああ、君か、奇遇だね。こんにちは」


 ある男が遠くから医師を見つけ、嬉しそうに駆け寄ってきた。医師はにっこり微笑み返し、手を振った。

 医師は内科医で、男の近所に診療所を構えている。そして、この男はこの診療所に患者として先週やってきた男だ。胃腸の調子が良くないと言ってここに駆け込んできたのだ。

 そんな一度しか出会ったことのない彼だが、たまたま彼と再会し、私のことをよく覚えていた。私は一瞬忘れていたのに、わざわざ話しかけて挨拶してくれたのだ。たまにはこんなこともあるものだな、と医師は感心した。


「どうだい、あの後は。お腹の具合は治ったかな?」


 医師は微笑みながら男に訊ねた。男もにっこりして答えた。


「うん。おかげで、すっかり良くなった!」


「そうか、それはよかった。また何かあったら診療所においで。診てあげよう」


 医師はそう言って手を振り、その場から去ろうとした。医師は訪問診療の途中で、次のお宅に向かう最中だったため、そんなにゆっくりと話している時間はない。

 ところが、男は医師の袖を引っ張り引き留めた。


「ねえねえ、お医者さん。「トマトが赤くなると医者が青くなる」ってことわざ、知ってる?」


 男はゆっくりと訊ねた。


「ああ、知っているが……それが、どうかしたのかね?」


 医師は訊ね返した。すると、男は懐からピンポン玉くらいの大きさの赤い玉を取り出した。よく見ると、それはヘタのついていないミニトマトであった。


「これあげる!」


 男は医師の手を強引に開き、その手にミニトマトを乗せた。医師は少し驚いて訊いた。


「これをくれるというのかい?」


「うん、家の庭になってたんだ。よかったらどうぞ!」


 そう言うや否や、彼はパッと離れて行った。


 医師はまさか飴を渡す感覚でトマトを渡してくる人がいるとは、と心底びっくりした。トマトが赤くなると医者が青くなる……旬のトマトの栄養のすばらしさを表現したことわざだ。確かに身体に良い栄養が詰まった野菜である。今は旬の夏だし、きっと作り過ぎて余っていたのでお裾分けしてくれたのだろう。とりあえず、有難く頂いておこう。

 そう思っていたら、何やら火薬のような臭いが漂ってきた。医師はそれがこのトマトから発せられていることにすぐに気づいた。


「んん、これは……」


 よく見ると、トマトの後ろに爆竹が深々と刺さっていることに気が付いた。そのときには既に時遅し、爆竹はトマトと一緒にパーンと音を立てて弾けた。


「うわっ!」


 医者は驚いて尻もちをついた。顔と服はトマトまみれになり真っ赤だった。医師はただただその場で目をパチクリさせるだけだった。

 木の陰で、さっきの男がその様子を覗いていた。そして、一言ボソッと呟いた。


「なんだ、トマトが赤くなっても、青くなるどころか医者まで赤くなってるじゃん。ことわざの嘘つき」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る