第334話 イースターの3日間


 この国では40日前から、肉を控えるらしい。そしてイースターには子羊を食べる。俺が先生に根掘り葉掘り聞くのを、イスラム教徒はどこか耳をそば立てる気配があった。


 キリスト教徒の習慣。そしてこの国に、キリスト教の戒律を厳密に守っている人はおそらく少ない。俺が見る限りでは。


 金曜日には魚を食べる。ジーザスクライストが磔になって、復活した過程をなぞる。俺は聖書に興味があったが、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教、それぞれの聖書・聖典は変化しているが、元は同じアイデアだ。


 ユダヤ人は小麦を絶ったり、イスラム教にはラマダンがあったり。日本人には理解できないかもしれない。そのシーズンごとにカレンダーに従う宗教心。お盆や正月、彼岸程度にしか名残をとどめていない。


 肉は不浄なものだから、あまり食べない日本人には出会うことがない。俺の叔父なら、死ぬ10年はそうだった。結局のところ、俺は身内の血を引いているんだ。膨大な仏教の資料が父さんの実家にある。全集だ。兄貴が処分したんだろうか。あれこそ、俺が古本屋で買ってきそうなやつなんだが、兄貴はネットで売り飛ばしたかもしれない。俺の持ってるものでも、なんでも売ってやる、と兄貴は言った。


 ギャンブルのようなことが、兄貴は得意だ。オークションで売り飛ばす。めぼしい家にあったもの、祖父母の家にあったものは、そうやって兄貴が全部始末したと聞いた。仕事の傍、家を守る長のように、真夜中に地道に。


 俺たちの代で、ダメになるのか。兄貴も俺も、そう思ったが、弟がいる。なんとかなるんじゃないか。俺たちのこの、自滅していくような性質、弟は幸い受け継いでない。その代わり、弟には何も見えない、理解できない。俺や兄貴とは全く違って、普通の奴だった。


 



 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。


 さて、もし万が一、この大元の情報が、悪魔の仕組んだことであれば大変だな。


 俺はそんな仮説を、まさかなと思いながら、戯れにパラパラ、聖書をめくりながら考えた。かなり前に気づいて、俺はゾッとした。まずいんじゃないか。悪魔が得意なのは99.9パーセントの真実に0.1、それ以下の嘘を混ぜることで、全てを嘘に変える。


 俺のオセロのゲームとそっくりなことを奴はする。だから俺たちは呼び合う。結局、ゲーム。


 俺と聖書の付き合い?


 うーん、長いと思うが、まともに読んだことはあまりないな。新約聖書ぐらいなら、全て読んだとは思うが、家に買った全集はまだ手付かずだ。


 旧約聖書、新約聖書。ユダヤ教徒の情報は少ない。イスラム教徒は、書いたか忘れたが、ふるいつきたくなるような、美しい女性の護衛を日本でしたことがある。精神科医でありながら、要人の第二夫人だ。


 俺は彼女を逃してあげたいと思ったが、その目論見が見透かされるように、俺は排斥された。この話はまあ、いいじゃないか。その要人は結局、その後すぐに亡くなった。


 彼女は俺にどうしても連絡先を教えてくれなかった。どうしてもそれはできない、と。写真に写っても、夫から見咎められ、写真をすぐに回収するよう指示が入る。美しい彼女が宴会の中で、座敷の旅館でただ座って食事しているような取引先の接待の記念写真。


 彼女を万が一抱きしめたりしたら、殺されるな。俺はククっと笑った。籠の鳥、かわいそうだ。冗談じゃなく殺される。相手は国の中枢にいる武器商人だからな。


 彼女は、この日本の滞在で、信心深くなったと言っていた。朝晩の礼拝を自分からするようになったんだ、と。


 俺は彼女と話す機会に時々恵まれた。ラッキーな瞬間が時々ある。


 それにしても、要人が、3時間ごとに彼女に電話してくる。ビデオでなくて幸いだ。電話だから顔が見えない、どこにいるのかもわからない。


 今どうしているのか、どこで何をしているのか。全く知らない、掴めない。彼女はカナダに行きたいの、と言っていた。それが最後のニュースだった。




 俺がイスラム教のことに詳しいのは、俺自身が前世でずっと、イスラム圏の女性だったからだ。いつもそうだった。俺はこの時既に、自分の過去生を所々思い出していた。彼女、この美しい彼女も同僚の一人だった。


 俺の前世は、なぜか知らないが、中東やラテンアメリカが多い。その次が日本で、その次がアジア、ヨーロッパの記憶は、ユダヤ人だったことくらいしか記憶がない。



 俺がユダヤ人だった時、結局、俺は、早くに死んだ。男児で多分、7、8歳だ。この記憶を思い出す前に、アムステルダムのアンネフランクの家を訪れたことがある。



 並ばないと入れない、人気の美術館になっていたが、俺はゲートをくぐった途端、外に出たいと暴れた。


 係りの人は「順路を守ってください、出口じゃないともう、出られないので、最後まで通過してください」と俺を押しとどめた。鉄のゲートは、入ったらもう外に回転しない。


 俺は、入ってきた入り口から今すぐに出たい、そんな回転バー飛び越えたい。係員に押しとどめられる。順路を守ってください。順路の最後にある出口から出てください。逆行禁止です。俺は、やっぱり入館を取りやめる、と言ったのだが、ダメだの一点張り。必ずまっすぐ出口まで順路通りこのまま、進んでください。


 混み合う中、俺は仕方なく、諦めて順路を進んだ。気がおかしくなりそうだった。怖い。



 怖い、怖い、隠れないと、逃げないと。



 俺はおかしくなっていた。とにかく隠れないと。見つかったら殺される。



 パニックになっていた。押し合う人たちは普通に見学をしている。俺には我慢できない。



 怖い、見つかる、どこに逃げるの、どうしよう。



 頭の中を恐怖が木霊する。息を潜める、息を詰めた緊張感は、今ここにいる俺じゃない。俺は、当時そのものに戻っていて、とにかくここから逃げたくて、できるだけ早く、この美術館を出たいのに、それができない。進路が一つしかなく、狭い家の中を見学するのに、前へも後ろへも行けない構造になっている。


 とにかく通り抜けないとダメな構造。全てを見ろ、と。まるで忍者屋敷のようだが、全く違うのは、俺が変になること。何もかもが空間を歪めるみたいに俺を変にする。隠し扉や隠し部屋は大好きなはずの俺が、気狂いになりそうに追い詰められる。怖い。他の人は何も感じないのか。



 俺は、俺の過去だけでなく、何かこびりついて層になった集団意識の恐怖が俺を襲ってきていることを感じていた。それこそ無数の、顔のないような恐怖に怯える羊のような人たちの念だ。




美術館から、たくさんの人と一緒に吐き出された俺は、確信していた。はっきりと記憶がある。アウシュビッツに行く電車。俺は見送られた。あれは誰だ。


15歳くらいの兄のような少年と、俺との別れ。


電車に乗ったのは俺じゃない。俺じゃない。俺じゃなかった。


 あの電車はどこに行くんだ、わからない。俺は、アウシュビッツに行ったのか?行ってないよな?わからない。



 ただ、すぐに死んだ。すぐに死んだからそこまでしか記憶がない。


 俺は何も知らない頃、すぐに気分が悪くなった。一枚の写真が、雑誌に載っていただけで。


 この大都市で、慰霊のモニュメントに行った時もそうだ。俺はおかしくなる。おかしくなる、怖い。迫ってくるような、戦場よりも緊迫した空気。



不思議だろ?なぜ戦場より緊迫してるんだ?死んだ人の怨念なのか?



 とにかく、我慢できない不快さは人がたくさん死んでいる血だらけの戦場の方がマシなんだよ。信じられるか?



 無抵抗の人を虫のように殺す、そのやり方のせいかもしれないが、俺にとって、戦場の記憶は日常、だが、この記憶だけは、どうしても我慢できない。


 俺自身が何かされるよりも、ずっと我慢できない。



 俺は悪魔のせいなのか、はっきりまた、自分の過去を思い出し始めていた。こんな話をうっかり医者の友人に言えば、薬を出すぞと言うだろう。馬鹿め。


 俺は平気だ。正常だ。過去を思い出して、正常でいるということは難しい。凄惨な記憶は忘れるから生まれ変わっても普通に生きやすくなる。わけのわからないトラウマ以外はな。



 俺は狭い場所が苦手だ。暗くして寝ることもしない。俺は暗闇にいるが、必ず目を開けて起きている。


 Bと出会うまでは、絶対に暗いと寝られない。いつまでも起きていた。寝たら死ぬかもしれないからな。



 今はBがいるから、寝ることができる。真っ暗な中寝るのは苦痛だが、Bがいるから。


 俺にとって、全ての宗教は同じだ。同じ大元だ。



ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も。


 俺は身についてよく知っている。神、俺は神を信じないとは言っても、他の人がそういうのとは、全く違う意味で言う。



全く違うんだ。



 俺たち自身が、個々の神だ。外側に投影してそれを見る。全てをすっかり忘れている。


 俺は自分自身を憎んでいる。信じていない。神を信じていないと言うのはそういう意味だ。


そしてふと、この文章をもう一度読み返した俺は、古い現在の記憶を思い出して震えた。



 そうだ、思い出した。B。



お前この時、ドイツ人の将校だった。



俺はこの、現世で思い出した、数年前の記憶を身震いして思い出した。Bの前世も俺は時々読んでいたが、そうだよ、お前。



お前とは縁が深いんだ。あの時。



あの時、Bは大人だった。今よりももっと、制服を着ていたせいか、クールな金髪でカッコよかった。今のBの髪は金髪ではあっても、暗いマロンがかった色がある。


 純粋に金髪にブルーアイズなのはBの兄だが、そう、あのときのBはブルーアイズかどうかは知らないが、金髪で細身、長身の男だった。



 俺は思い出した。お前、俺を助けてくれただろ。



どうやって助けてくれたのかは、どうしても思い出せない。俺は子供で、何かちょっとした、ちょっとした出来心のようなものを装って、さりげなくBは、俺が助かるように細工してくれた。



 どんな細工か全く思い出せない。そして何も言葉もなく。ただBは、俺を死なせるのは、こんな子供だからと、さっとそう決めてすぐに実行して、すぐに忘れた。ほんの一瞬の判断。


 俺の名前を書き換えたとか、右の列から左の列に流したとか、そういう簡単なこと。



 俺の書類のユダヤ風の名前の綴りをさっと書き換えたとか、俺……


 よくわからないが、急に泣きそうになった。何も知らない、わからないもの、話したことがない者同士でも、そんなことから、また出会う因縁が生まれる。



 俺が今、Bと一緒にいるのも、いつもそういう、小さな瞬間の「縁」があったからだ。いつもすれ違うような「縁」。今回は、長く一緒にいる。


 俺は、俺の住んでいる世界が、あまりに他とかけ離れているから、人に話すことはない。


話しても仕方ないし、だからどうだ、ということもない。


 ただ、生きて死ぬだけだ。今回も。今回のように「楽な人生」は、これまでなかった。


 まるで苦しんだ分のご褒美のような人生だ。だが、その対価は俺はすでに支払っている。


 何事も、無料タダというのはないんだ。俺が人生の早い段階で、突き落とされた絶望。今与えられている「自由」や「楽」とは比べ物にならない痛みを伴うその体験をしないで済むなら、俺は戦場での殺戮の中に身を置くほうがずっとマシな気がする。



 俺の汚れた手。


俺は何度生まれ変わろうが、その汚れを落とすことができない。


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