第297話 今日という日が近づく


 俺、どこまで話したか、すっかり忘れてる。俺がこっち帰ってきて、努力することに決めたことは言ったよな。努力という言葉は嫌いだが、何としてでも、最期にはそれなりの結果を残してやろう、と考えたこと。


 公開していないかもしれないが、俺にはたくさんの記憶がある。そして、それらの記憶が、俺にものすごく影響していることは言うまでもない。大人になってから、思い出したことは、本当に「神様、ありがとう」という気持ちだ。


 最初から、こんなにたくさんの記憶を持ったままだと、人生が混乱する。俺は生まれた時は、すっかり全て忘れてた。そして、何かを忘れている、何かがおかしい「違和感」しかなかった。


 覚えていたのは、めちゃくちゃ綺麗な女性を母親に選んだことだった。俺がなぜその女性を選んだかといえば、綺麗だったからだ。そして、ピュアな感じがした。ちょっと繊細で、でもしっかりしていた。なんというか、枠からはみ出さないようにきっちり気をつける女性で、それで俺は、よし、この人ならいい、と思った。


 だから俺は、最初の頃、母親を旧姓で呼びそうになった。〜さんというよくある旧姓だ。あんまり詳しく話すのはやめる。アテナイで書くとまともじゃないから時間の無駄だ。ちゃんとしたお話のネタばらしになるだけだ。


 とにかく、俺は何も覚えていなかったが、大人になったある日、怒涛のように過去生の記憶を思い出し始めた。俺、前に出会った人と会うと、前どうだったかすぐに思い出すが、それがまたややこしい。


 俺が真面目にコンペに勝ってやる、とまた応募を始め、いや、小説には応募したことはほぼないが、本業に力を入れ、そうすると、朝までやる。だから、寝る時間が3〜4時間の日が続いた。だんだんおかしくなってくる。食べるのももちろん、忘れる。だが、一日一食、Bにご飯作ってやるから、それだけは忘れない。


 俺が飯当番はずっと最初からなんだよ。奴は、料理の能力がゼロ。一人暮らししていた時の奴の冷蔵庫はびっくりするくらいカラだった。


 俺がまた本気出すと決めて、仕事が入り始めた。これね、ずっとコンスタントにこうなら生活できるんだよ、俺。


 満開の桜が散り始める。俺は、先週は完全に寝坊して遅刻、ヤバいと飛び起きたら、運よく「車が壊れたので今日はアトリエ閉まってます」とメールが来ていた。俺、ツイてる。


 締め切りあるのにどうしよう、と他のレンタルを考えた、まあいい。


 そして今週は、信じられないことに、アトリエに向かう朝、家の門を出てすぐに途中で忘れ物に気づいて戻って、電車がギリギリ行き過ぎた。俺はそれを眩しいひかりの坂から見送った。


 もうすぐ散るのかもしれない桜が、朝日の中で輝くように咲き誇る。そして誰もいない。みんな電車に乗って行ったから。


 俺はリュックから革のノートを取り出した。この田舎町はな、電車が滅多にない。だから電車の来ない時間は無人になるんだよ。


 俺は依頼された仕事のために、何か書き始めた。俺が卒業時、それでどっかの企業に雇ってもらいたいと思ってたようなことを結局、今になってやろうと、そういう状態で数年前から時々、依頼は受けていた。


 涙というのは、あんまり感情に関係ないんだよ。俺は、何も感じなくなって、乾いた砂漠のような心になっていると思い込んでいたが、まるで滲むようで、それからそれは、涙というよりは、まるで血のようだった。


 長く生きるのは辛い。俺は子どもの頃でばっかり、死んでいたから、大人になるのがこんなに辛いとは。特に男の大人になるのが、こんなに辛いとは。


 女のようにメソメソできない。でも、ここには誰もいない。どうせ30分は誰も通りがかることもない。黒人の女が仕事なのか、ゴロゴロと荷物を引き、俺のことなど気にせずにどんどん坂の先を上がって駅に向かう。


 俺はノートに書きつけた。俺が何かを考えるんじゃない。書くときはいつもそうだ。俺は考えて書くということを、ほぼしたことがない。


 小学生の時の読書感想文でもそうだ。俺は考えるとか、組み立てるとか、事前にやらない。


 目の前の情景をただ、言葉に置き換えていくだけだ。


 俺の目の前には、言葉にできないような風景、風景じゃないな、どこか宇宙空間のような場所が見えた。俺がこんなふうに生きているのを、あの子はどんな想いで見ているだろうか。


 誰かが、あの子もきっとあなたの幸せを望んでいるはず、と言った。俺はそんなこと、望んでない。俺は幸せになどなりたくない。


 そしてそれでいいんだと思ってる。自分が感じる痛みや苦しみなど、正直、おそらく何でもない。


 泣いているというのに?


 カッコ悪い。男は人前で泣かないものだ。


 俺は誰もいないから、いいんだ、と自分でそう、そんなふうに放っておく。


 暴力的に、何かを壊したいような衝動に駆られても、本当にそうするわけにはいかない。この時期、俺はいつもそうだ。


 だから……


 俺、最近、心臓が止まりそうなくらいに金髪の長い髪の女の前で、自分が挙動不審になったって話、した?


 Bにも言ってない。


 空港まで行ったけど、俺、結局会えなくて、それで良かった、って思ってた。その後、そっくりな女と出会った話。俺、その女が嫌がるくらい、注視してしまった話、したっけ?



 俺、完全におかしいわ。自分がおかしい。



 黙ったままでいて欲しい。相手には。俺は何を投影しているんだろう。ただ、ただ……多分、衝動的に、今みたいな時は危ない。相手の気持ちとか関係なく、そのまま無理なことしそうな自分がいる。


 相手にとったら、たまったもんじゃない。


 だからYさんも、相手の気持ちを考えないと嫌われるよ、って言ったんだろうか。俺はその時、確かにそうだと思いながら、余計なお世話だと感じた。そんなこと言ってたら、人類、滅亡するぞと心の中で思った。


 どこでそんな思考回路になるのかわからないが、俺のようなタイプの男が、ここまで何かを欲しいというのは、そう滅多にあることじゃない気がした。そしてそれは、常に一つだ。形を変えてるだけで、一つ。



 でもそれは自分勝手な望みだろう。俺が求めてるのは、生身の目の前にいる相手には関係ない「投影された何か」にしか過ぎないのだから。


 相手は望んでスクリーンになるわけじゃない。俺が相手の人格を無視して近づいたり無理なことしたら、当然トラブルになる。もし相手が俺のこと好きだったとしたら、余計にややこしいことになる。気持ちもないのに、そんなことしたの?ということになる。俺が見ている人は、結局一人だけだから。ずっと同じ人しか見ていない。何度生まれ変わっても。


 俺は乾いた笑いに包まれた。誰かが言ってた、そんな執念深い愛は嫌だと。その通りだな。


 好きなんだ、一緒になりたい……俺は、いったいどの時代の、どの俺が、そんなことを呟いているのか、分からなかった。いや、俺は男として生まれたことはそう多くない。自分が男であろうと、女であろうと、いつも同じパターンだ。好きな人と幸せな未来が来ることはない。俺が女だった時、最も幸せだったのは、焼かれる業火の中、これで終わりだという記憶と、俺を守ろうとして俺の代わりに毒杯をあおいだ恋人と一緒だった時だ。


 今は男に生まれた。でも、愛する人は先に、俺のせいで死んでしまった。


 どの人生も、愛については恵まれた記憶がない。冷たい一人の状態で、誰も心に入れなかった時に、俺の中心にあったのは神への信仰だった。そういう人生が最もマシな結末を迎えている。男であっても、女であっても。


 俺は、寝てないから頭がおかしくなってるんだろうか。いや、寝られない。食べることも忘れるのか。いや、腹なんて減らない。滲む涙は放っておいて、俺は肩で息をした。苦しい。数日、息がとても浅い。俺はBに、疲れた疲れた、と言って、Bは、当たり前だ、早く寝ろ、と。Bは何度も、何もしなくていい、早く寝ろ、ちゃんと食べろと言った。


 俺はそうする、と返事しながら、朝まで書いてしまう。


 Bが、お前、無茶するな、寝ろと言って会社に行く。


 以前から俺はそうでも、なんともなかったはずが、もう全く無理な気がする。危ないから無理だ。俺は、自分が無茶できないということについて、精神力が落ちたせいかと思っていたが、体力も落ちてくる。俺は、15歳くらいで死ぬのが普通だから、体力が衰える経験を今までほとんどしたことがない。だから今回は、本当にダイジェストのように、いろんな新しい経験に戸惑ったわけだ。俺は、実のところ、なんというか、うまくは言えないが、まあ初めてというわけでなくとも、まるで中高生みたいな、なんとも言えないフレッシュな気分を持っていた。持ち続けていた。恥ずかしいが、何度も女しか経験してないと、珍しいんだよ。なんというか、珍しい感覚に慣れない、なんでも初めて、ということになる。まあ、あんまり聞かないで欲しい。当たり前だが、罪悪感があるし、虚しい。それだけいえば何のことかわかる?いやキーワード検索で来る人のために書いてもいいかと思ったが消したよ。さすがに恥ずかしいから。


 他の人にとったら当たり前だろう。なんでも「初めて」と思うだろう?でも俺はそうじゃない。なんか前から知ってる、という感覚が常に拭えなかった。その理由がわかる。だって何度も同じような経験を実際に既にしているのだから。


 俺は、こんな風に気持ちが暴れて誰かを好きになるという男の体験も、ほとんど経験がなく、持て余した。ものすごく暴力的に相手を求める、この理解できないような衝動的な感覚。ストレートに言って、とにかく、やりたくなる。


 母さんが耳にしたら、眉をひそめるどころか、「そんな下品なこと言うの、信じられない、やめなさい」と言うに決まってる。俺がアテナイを書き始めた最初も、うさぎちゃんが可愛い、やりたいと言うストレートな動機で、俺自身のことを書き始めた。「まるで中学生みたいだな、お前」と藤浪君は大人だから思ったかもしれないが、やりたいな、と思っちゃったことを、正直に書いちゃったんだよ。


 だからと言って、本当の俺はそんな短絡的なことしないし、できない。母さんから、「女の子を妊娠させるような事態になったら、大変だから」と本当に物心ついた時から、厳しく育てられた。女の子の友人は全員、家に連れてくるように言われていたし、ましてや、付き合うとか、それはそれは厳しく、女の子と映画に行く約束をした、なんて聞こえたら、こっそり母さん、ついでに婆ちゃんまでも、俺たちの後を尾けてきそうな、そういう息苦しい中で育った。


 女の子からの誘惑の方が多いんだよ。向こうから抱きついてきたり、触ってきたり、さ。


 俺はまるで自分が中高生みたいに顔を赤らめるのをそっぽ向いて隠した。Bが、お前、すぐに顔に出る、とニヤニヤするから腹がたつ。俺が高校生の頃、よく言われたのは「なんか純粋培養っぽい」というセリフだった。


 スレた女は俺、最初から大嫌いだから距離を置いていても、真面目な、本当にごく普通の女子からもそんなふうに見抜かれることについて、俺は時に腹立たしかった。優等生の振りをしていても、俺だって実際は息苦しい。


「そんなこと言うのか?だったら、そんなこと、言えないようにしてやろうか?」と真面目に迫って、大人な年上の女子だと「そんなセリフ、あなたにほんっとうに似合わないから、心にもないこと、言うのやめたほうがいいわよ」と言われたことがあったが、相手が大人じゃないとややこしいことになる。「やれるもんなら、やってみなさいよ」と言うような女だと、俺の素性を全く知らない女なら、後腐れがない。ま、母さんが絶対に夜は出かけないで、とうるさかったのが、よくわかる。夜はそういう、どうでもいいような感じの女で街が溢れるから。俺はもちろん、そういうスレた女は絶対に好きになれない。セックスを消費するようなタイプに興味ない。男が金を持ち、時間を持つとろくなことがないが、俺は幸い、大学生の頃、金はあっても時間はなかったし、何より俺の清潔感覚では、誰とでもキスしてそうな女は不潔で嫌い。生理的な嫌悪感があった。もしも、年上のしっかりした女性にこんなことストレートに話したら、なんて諭されるだろうか。わからない。俺は、やっぱり何か間違ってるんだろうなという気はするが、とにかく俺にとって、純粋に清廉潔白な、聡明な、全てが完全な清らかさが全開くらいのしっかりした真面目な女の子じゃないと俺の中で、スイッチ入らない。まあだから、口をひらけば、くだらないこと喋っちゃうような女は、俺の前では黙ってた方がいいよ。特に「好きです、付き合ってください」と言われた時に俺は「何と言って断ろう?」とまず考えるのが普通だったから、告白してきたら、必ず「断る」しか答えがないんだから。


 この映画、すごく評判良いんだけど、一緒に行かない?


そういう誘われ方で、しかも、一緒に行くはずだった人が既に見ちゃってて、チケットが余っちゃったの、そう言われたら、俺は行くかもしれない。


 俺の人生に深く関わってきた人は、ごく普通のセオリーから必ず外れる。気がつけば関わっているというふうに。まあでも、苦しいからあまり言いたくはない。あの子には、出会った時から、すでに彼氏がいた。あまりこの話はしたくない。本当に。俺は誰とも深く付き合う気はないというのは、実はずっとそうだったんだろうな。無理矢理に俺の人生に割り込んでくるような人以外は。


「仲良くなってしまったら、変な女の子でも、結婚しないといけない羽目になるから、絶対に注意しなさい」と母さんから、本当にしつこく言われて育った。そんなのわかってるよ。制服に女の匂いがついてるとか、俺のせいじゃない。女がベタベタ纏わり付くんだよ。俺、何もしてない。


 相手の家柄、住んでる住所、親の職業、本人の学歴、性格、兄弟構成、親戚全て。


 ま、なんだろうね、俺は「やりたい」なんて、あんまり意外と思わなかったんだよ。それは、受験が大変だったから、それどころじゃなかった。


 海外に出て自由になっちゃうと、まあある意味、親が見張ってるわけじゃないんだけど、俺の中では「セックス=結婚の責任」という規律は消えないから、そう簡単に誰とでも関係持つとか、絶対にできない。俺の頭がちゃんと理性的に働いている時はね。


 俺が酒を飲まないのは、注意してるからだ。何でも、どうでもよくなるような状態に自分を置くのは良くない。


 まあ俺より兄貴の方が真面目だから、悲惨だ。親の連れてくる人と、否応なしに結婚させられる長男の立場だからな。イマドキそんな家あるの?と言われそうだが、あるんだよ。大した家柄でもないくせに!どういうことなのか、わかんないだろ?俺もわかんないね。わかりたくもない。何故なんだ?


 俺が海外にいる理由、わかるだろ?日本みたいに息苦しい場所、無理だよ。こっちの女は全く日本とは違うから、結婚制度自体がそもそも崩壊していて、結婚している人なんて珍しいくらいだ。同棲婚で子供を持つから、一緒に住んで子供も産んで、孫までいても、実は結婚していないとかだよ。驚く。


     〜〜〜〜〜


 アトリエで作業していたら、後ろのやつがうるさい。しかも、ただ遊びに来てるだけだ。俺の道具をちょっと貸せと手を伸ばしてくる。


「やめろ、お前、邪魔なんだよ。何しに来てるんだ?」


 普段、温厚な俺が、強い語気でハッキリ言うのに驚き、周りがざわめく。


 俺は作業中だが、怒りで手がブルブル震える。俺は暴力振るわない主義なんだが、もし溶解炉を使っていたら、頭から突っ込んでやろうか?


 「何? 何なんだよ……俺はただ、その道具をだな……ちょっと借りても良いかと……」


 思わぬ俺の強い語気に、遊び気分の奴は周りを味方につけようと、意味わからない、と戸惑いとニヤけた感じと不快さを入り混じった声で、繰り返す。


 俺は現地語で「触るな、邪魔するな、集中できなくなるだろ!」と叫んだ。


 俺は、俺の作業に必要な道具を、必要でもないのに借りようとするこいつを殴ってやりたい殺意に駆られた。こいつは見学者。作業していない。冷やかしで遊びに来ているだけ。こいつがここに入れるのは、責任者と懇意のせいだ。仕事もせず、イチャイチャと。


 その時、俺は、見るからにすごく単純なことをやっていた。本当に。だが、そういう問題じゃない。もっともっと、見るからに大掛かりなことをやっていたら、焼きゴテみたいに、背中を焼いてやるところだ。死ねよ。


 俺はこんなチャチな作業で、ここまでにならないとうまくできないこの技法が、あんまり好きじゃなかった。俺は大掛かりな作業が好きなんだよ。


 Jさんがチェーンソーを振り回すみたいに、俺も、体全部で使うような道具が好きなんだよ。こんなチャチなちっちゃいもん作るのにな、神経をすり減らす今の状態自体が俺にとってストレスなんだよ!


 俺は黙っていたが、指はブルブル震えた。うっかり近づきすぎて火傷しているが、そのまま続けるしかないのは、作業の途中だからだ。やばい、熱い。


 火傷などどうってことないが、俺は2週続けて、作業の最後に作ったものを全部割っていた。集中力が途切れて、机から、はたき落としてしまう。作業した時間が全て無駄になる。信じられないが疲れていた。悲鳴をあげるのは俺でなく、隣で作業している女性だ。そうだよ、この朝の作業がゼロに無った。俺は、大したものを作ってないが、完全なピースだったら悔しいだろう。この技法はいくらやっても俺は上達しない。全部ゴミだな。



 「……お前、この時間に登録してるか?」


 俺は作業を止めず、語気を強めて言った。してないに決まってる。邪魔しに来ただけだ。


「こいつの入室を認めた責任者は誰だ?」


 俺は現地語で喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。そんなこと言わずとも火を見るより明らか。俺が何か言う前に、俺の殺気に気づいて慌てた責任者に、そいつは外に連れて行かれた。


 そうかといって、そいつを呼んだのはその責任者に決まってるから、帰るわけじゃない。「目立たずおとなしくしてろ」と言われただけに違いない。


 俺が怒りに震えながら作業していると「これ使って」とその責任者は、珍しく猫なで声で俺の作業に使うと良い道具を持ってきて、さっと貸してくれた。


 本当に珍しいが、俺の機嫌を取ろうと言うわけだ。俺はこういう方法で自分の意思を通すのは大嫌いだが、この国ではこんなふうでないと、本当に人権が蹂躙される。俺はもうほとほと、嫌気がさして、今年からははっきり言うことに決めていた。俺は、優しくて温厚と思われすぎて舐められ切っていた。どこでも。もう我慢しない。俺は良い顔をすることにほとほと疲れたと言うか、いや、それは違うな。間違ってる。周りがつけ上がることについて、だ。俺が良い人であると、周りがひどくなりすぎることについて、このレベルの低さにうんざりした、と言うのが正しい。


 ジーザス・クライストがどこでも石を投げられたのがよくわかるよ。いや本当に。


 この国ではそんなふうに、はっきりモノを言わないと嫌な目に遭う。俺はこれまで本当に温厚そのものとしか思われてないから、周りがひどく驚いているのがわかる。


 俺は、こういう感じは好きじゃなかったが、結果を出すにははっきりモノを言わないとダメだと知っていた。何でもかんでも、許していたら、無茶苦茶なカオスになる。久しぶりに会った友人が数年前だが「お前、丸くなったな」と言っていたが、違う。俺は本気でやってなかっただけだ。周りの和だけを重視して、周りの人が伸び伸びできるようにと思っていたら、何事も成せないが、その時はそれで良いと思っていた。その結果が今で、俺は失敗したと思っていた。和は乱さないが、俺は本当に舐められ切っていた。


 それでも良かったのは実験していたせいだ。結果は本当に悲惨なものだ。相手そのままを受け入れ、好きなようにさせてあげるのは愛じゃないから。ダメなものはダメだと厳しく言うことがないと、頭の悪い輩はより助長する。そんなこと中学でよくわかっていたはずなのに、俺は周りのレベルが上がったから、忘れてた。レベルが高いやつは、冗長するとかは、あまりない。人格のレベルが高いのと、学力はまだ別の話だが、とにかく俺は、今年ははっきり「理不尽な要求、相手の自分勝手な要求を飲まない」ことに決めていた。でないと、何事も成せない。


 俺はもう一つ別の技法のアトリエを同じ理由でやめていた。もう我慢できないとなるまで俺はとことん我慢した。この家を買ったのと同時に辞めた。早計だと思わないのは、もっとここよりひどかったからだ。作ったものが全部壊れているとか普通だったからな。嫉妬というのは恐ろしい。


 この状況に俺が我慢しているのは、屋敷の敷地にアトリエを立てようという目論見が、あの隣の爺さんのせいですっかり頓挫しているからだ。俺は早くに日本にアトリエを持っていた。実は父さんには本当に感謝している。父さんは何でも作れるタイプだった。兄貴もそうだが、父さんは編み物までやったらしい。数学的だという理由で。


 兄貴は車の革のシートを手で縫うくらいだからな。何でも作れる。俺はそれに比べたら、全くそこまでいかない。王子くんも何でも作れると思う。俺たちは似た者同士なんだよ。俺の価値観の中では、物を作る人と、物を消費するだけの人は、全く人種が違う。消費するだけの人は何も見えてない。



 俺はこいつが大嫌いだったのは、一度、俺が作業中のものを不用意につまみ上げたからだ。なかなかいいじゃないか、という感じで。ふざけるな。触るな。


 そもそもお前が火傷するぞ。


そいつは「熱くないのは知ってる。俺、家にアトリエあるもん」とぬかしやがった。お前な、見た目でわからないのは知ってるだろうが。それより何より、デリケートな部品を勝手に許可も得ず触るなよ、殺@ぞ。


 そいつは俺の作ったものを参考にしようと思っているのがアリアリだったので、俺は作業自体を後ろから注視されているこの状態が苦痛で仕方なかった。こいつ、俺の技術を盗む気。


 俺は、そこまでこの技法について特別な技術を身につけていたわけではないが、こいつの無遠慮な視線が許せなかった。俺が特別な理由なんて、こいつにはわかるまい。俺は誰にも喋ってないが、伊達にこんな生活してるわけじゃないから。俺は付き合う人間を絞っているのも、それなりに理由がある。すれ違うだけのはずの人が、毎回、俺の顔を見に来るのが許せない。俺そういうの大嫌いだった。


 多分、待ち伏せとか、嫌という程された過去と関係ある。俺は俺と関わろうとして来る人をすごく選ぶ。誰にでも優しそうに見えて、実はそうじゃない。クラスの奴とか、俺に関係ある人はいい。仕方ない。俺、こういう奴大嫌い。頭悪いんじゃないか。


 俺は人を見る目があるという自負があったが、普段、誰にでも優しい、親切に見え、実際そうなんだが、頭の悪いやつ、根性の曲がったような奴には容赦ないようなところがあった。卑怯な奴とか、意見を相手によって翻す奴とか、人間的にどうかと思う人間に、普通に付き合うように見えて「俺はそういうの、許せないし、許さないね」と誰もいないところで言ってしまうようなところがあった。俺は結局、ちょっと暴力的な人間なのだと後ですごく反省するんだが、許せないものは許せない。悪い奴というのは、自分が悪いから、他に言いに行くこともできない。俺は肝を掴んで握り潰すような、そういう後先考えない強いものを内面に持っていて、普段はそれを隠していた。だから、あんまり酷い奴は俺と近づかないのが正解。


 本当に馬鹿な奴だけ、俺を舐めきって、キャンキャン吠えながら、逃げる羽目になるんだ。俺を怒らせるから。


 兄貴や弟なんかはよく知ってると思う。俺に殺される、という恐怖を子供の頃に味わったことがあるだろうから。俺はそんな自分でいたいわけがない。だが、温厚、気が長いように見える俺が、もしも本当に怒ったら、どうなるか怖い。まあ、そんなことは起こらないだろうが。俺が会社勤めできない理由も「そんなこと、俺にはできない」と言ってしまうせいだとよくわかっていた。そんなおかしなことはできない、と言ったら、明日から露頭に迷うのよ、とお姉さんが言ったことを思い出す。父さんもそうだ。


 父さんも長い間、勤め人だったから。上から言われたことは従わないと仕方ない。一度だけ俺と二人だけで話していた時に「妻子を食わせるようになってから、今と同じことを言え」と言われたことがある。俺は自分を曲げるくらいなら、結局、妻子を持つことを拒絶するような人生を生きそうで笑ってしまう。俺のようなタイプは結婚には向かない。明らかに。


 

 俺は中学生みたいに、真面目な殺意に自分でゾッとした。俺の最も毛が逆立ってる部分に触れてくるやつ。一年近く、ここの責任者とランチするためにこの時間に通ってきて、べちゃべちゃオバさんみたいな喋り声で不快な声でひっきりなしに何かを責任者にまくしたてている。恋人か何か知らないが、作業に邪魔だ。ものすごく鬱陶しい。最近はのさばってきて、我が物顔にここの私物化に近い。この国ではそういうことがザラにある。本当によくある。公務員がそうだと国が崩壊するよな。


 だいたい太っていて茶色の髪が醜い。お前な、存在自体がそもそも俺のカンに触る。火気厳禁の場所で煙草を吸うな。責任者もヘビースモーカーで喘息で蒼い顔をしながら煙草を吸う。馬鹿なんじゃないか。俺の全てな嫌いな要素を持っている二人。聡明でない。弱い。仕事をサボる。自分の立場を利用する。そのくせ、上に告げ口されないか、いつもビクビクしている。


 俺が何も言わないのは、責任者は確実に鬱を患ってると思ったからだ。鬱だから、もしも、こういういろんなことが上に知れて職を追われたら、路頭に迷ってしまう。どんなに酷くともそれは気の毒だと思う気持ちが俺のどこかにあった。


 タバコを吸っているから喘息は自業自得。公務員の扱いではあるが、ここだけで食っていけないのは明らかなので、他に収入があるはずだ。それが多分、芳しくない。ちょっとおかしくなってるのが明らかにわかるから、この変な奴がくっついてきているのを黙って黙認している。こいつがいないと多分ダメなんだろう。よく分からないが、仕事先にこんな風に他人を出入りさせるようなヌルい環境が許されるこの国、日本じゃ信じられない事態だろう。


 いつかガスが漏れていて、俺はそれ以来、真面目に辞めて欲しいと思っていた。上に立つ資格なし。いや本当に、いろいろ許せないから。辞めてほしいが、それより先に俺が辞めたほうが早いから、黙っていた。


 火気厳禁、飲食厳禁、あらゆる厳禁には理由がある。そういうのを守らないやつ、嫌い。頭が悪いからそんなことができる。飲食厳禁は、そこで食べると危ないから禁止になる。別にここは研究室じゃないからいいが、あらゆる口に入ったらいけない薬品や粉塵が舞っている。俺は清潔感覚が欠如してるこの国の人間が嫌い。何度をシャワーを浴びて、汚染を落とすようなイメージがあるエリアでの作業のこと、俺自体そんな作業をすることはないが、どういう意味があるのか、よくわかってる。俺はある意味、作業についても他の人と全く捉え方が違う。俺は自分が何をやっているのか、知ってないと動かない。上からこうしてくれと頼まれて、ただそうするような仕事はやらない。自分のやっていることの意味を知ると、できないようなことがたくさんあることをよく知ってる。


 作業が一段落して、火傷をすぐに冷やしたが、やはり火傷してしまっていた。焦げてはいない。水ぶくれになるだろうか?じんわり焼かれたのは、理由があるんだが、料理の肉じゃあるまいし、迂闊。すぐに作業を止めるのが普通だろうが最悪だな。まさか火がつくとは思わないが、火がつく可能性があってゾッとした。


 当たり前なんだけど、発火点を超えたら、いきなり発火する。皮膚なら、そうなる前に熱いから。まあ、なあ。あまり人が燃えるところとか、思い出したくない。地獄絵図という言葉通りだ。


 俺は左腕についていた火傷を腕をまくって見た。はっきり大きく、まるで煙草の根性焼きが3センチくらいについた火傷の跡は今は消えていた。Jさんと出会った頃「それ、なんだ?」と訝られたが、別にそんな傷じゃなく、調理でついたものだった。えらく大きな傷だから、調理で?と訝られるのも無理はない。まるで虐待の痕のように見えただろうからな。いや、最近だよ。3年くらいかかって、やっと消えた。


 その時の焼けた具合に比べたら、今回のはすぐに忘れそうな火傷だった。俺、子供の頃から、道具を使って怪我をするのは慣れていて、小学校の美術の時間で派手に指を切って、先生が慌てたのを覚えている。俺にしてみたら、死なない程度の傷は全て、「どうってことない傷」でしかない。死にそうな傷を受けたら、何も感じなくなるから、そういう感覚を知らない人にとったら、ダラダラ傷から血が出てれば驚く。


 本当に死にそうな深い傷は、傷ついたこと自体、しばらくわからない。


 あれ?っていうくらいに、その時はわからないものなんだよ。山手線の電車のレールが例えば1ヶ所外れて電車が脱線しても、その場所に来るまでは慣性で電車は普通に動くだろ。まあ、これまでとは違う風に引っ張られるから、まるきり普通というわけではないかもしれないが。もちろん繋がってない他の列車は正常なわけで。この例えはあんまり上手くないな。なぜなら、死ぬほどの致命傷だと、あれ?あれ?と思う間にになるから。


 この程度の作業でこんな俺だが、いつか「お前とは組みたくない。お前、スタンドプレーして、人を怪我させそうだからな」と言ったやつのことが忘れられない。それは当たってそうだ。俺はもちろん、もっと今よりも気をつけるに決まってるが、見抜かれた気がした。スタンドプレーなんてしないが、こうすればうまくいく、という時に、今みたいに無理をすることは確かだろう。


 人を怪我させるなんてとんでもないが、確かに後ちょっとの作業なら、こんなふうな火傷もなんとも思わないくらいだから、人から見たらそれはクレージーだろうな。もちろんそんなこと、パートナーに求めない。俺こそ、こいつのようなタイプは絶対一緒に組まない。信頼関係がない。


 俺が危険な作業はもうできない、しない、と思ったのも訳がある。本当に危ないからだ。いつか取り返しのつかないことになるだろう。だからこんな、チャチな作業にキュウキュウする訳だ。



 俺は憮然とした顔で、Jさんが、肩を壊しているというのにもかかわらず、チェーンソーで庭木の剪定をまるで機関銃でも扱ってるみたいに延々とやることを思い出していた。俺とJさんは、結局よく似ている。


 アトリエから出て俺は、ぼんやりした頭で陽の光の中の公園を通って、いつも行くカフェで昼飯にすることにした。猫が平和にのんびり歩いてるんだが、まるで自分の館の庭を散歩するまだ幼い王子たちのようだ。本当に優雅だった。


 俺は額の傷を触った。左目がよく見えてないことに気づかず、作った傷だ。比較的、最近で、血がダラダラ流れた。俺は、ほっとけばそのうち止まるだろう、と思ったが、念のために薬局に行った。薬局の奥さんは蒼い顔をして、すぐ病院に行って、と言った。その時、すでに血も止まっていて「なんてことないですよ」と言ったら、「顔に大きな傷が残りますよ」と言われた。結局、会社から帰ってきたBにそう言われたことを話したら、すぐに病院に行こうと蒼い顔で連れてってくれた。お前までなんだよ、大げさだよ。


 傷は大きく、「縫います」と医者は言った。ああそう。


 俺が思ったのは、医者だから俺よりも上手なはずだ、ということだった。まあ、上手い医者だと薬局が紹介してくれたんだが、痕ははっきり残った。なんだよ、あんまり上手くねえ。国際電話でものすごく婆ちゃんが心配していた。帰国した時に、真っ先に言われたくらいに。


 多分、俺の環境はすごく、なんだろうな、周りから大切にされている。あんまり過剰だと俺がひ弱になる。でもなんだろうな、こういう扱いを常に普通に大きくなってしまうと、今のようになるんだろう。俺、自分が一ヶ月にいくら使っているのか今も知らないくらいだから、ぶっちゃけたことを人と話すと本当にまずい事態になる。俺は浮世離れしていると、昔からよく言われたが、そんなの、実は行くところに行けば普通のことだと俺は思う。こんなで良いとは決して思ってない。何を大事にしながら生きているのかという点が、人と大きく違うだけでこんなことになってしまう。



 「あら、いらっしゃい」


 そこのカフェのマダムは、まるで通いつけたスナックのママみたいに愛想が良かった。酒を飲まない俺は、行き場所に困る。そんな中に見つけた気を使わない場所だった。


 俺は夜の女性について、求めることは一つの気がする。癒されたい。自分には触れられたくないが、まるでよく知る友達以上、恋人未満のように接して欲しい。


 俺は近況報告をした。マダムの娘さんが厨房を担当し、マダムが給仕するこのカフェ。俺は入った時から、ピンとくるものがあった。そこから、できるだけアトリエの帰りは寄るようにしていた。それでも、俺は食欲があまりない人間だから、ランチを食べきるというのが信じられないことにキツイ。こっちの量は多いとは言っても、いかに普段食べていないか。


 俺は醜く太ることにはとても否定的で、食べることには気をつけるべきだという持論があった。贅肉というものについて、女性ならともかく、男には無駄な筋肉は要らないという考えだった。


 大掛かりな作業していた時は、兄貴みたいにガチっとしたちゃんとした筋肉があって、俺はまあそれはごく普通に当たり前だと思っていたが、作業しないと落ちる。洋服が映えない体は嫌だから、中庸が重要と考える俺は筋肉バカも嫌いだ。兄貴なんかだと、気をつけないと腕や胸だけキツイとか、着る服を選ぶ。兄貴は俺と違い酒を浴びるように飲んだりするが、体は絞ってある。どうやって帳尻を合わせているのか知らないが、実は王子くんもそうだ。俺は酒が嫌いだが、好きな人は好きだということだ。


 俺が本気出して頑張ってることに、マダムは本当に自分の息子のように励まし褒めてくれて、俺が頑張ってないくすぶっていた時も、良いところを見つけて必ず褒めてくれた。


 俺がここに通う理由って、わかるだろう?俺はお腹は空かないが、ここに通うと、食事量が増えて、普通に食べられるようになる。


 俺があまり腹減らないタイプというのは、もちろん、育ち盛りは逆だった。兄弟で奪い合うようにして食べた。それが、「もし食わなきゃ、全く違うよな、人が食べなくても生きられるんであれば、社会の根底から全て変わるよな」というアイデアが発端だった。必ず食べ物からエネルギーを得ないと生きていけないというのは、もしかして思い込みなのかもしれない、と。


 俺の長い実験は、病気という終着駅だった。肉体というのはまだ単純にそんなふうになってるらしく、ちょっと信じられない思いだったが、とにかく食べないとダメらしい。おそらくエネルギーをどう取り込むという意味で、他の代替物が見つかっていない状態で、食を絶ってもダメだということだろう。


 インドの仙人はちゃんとどうにかなってる、と俺は思ったが、何か秘密があるに違いない。もっと精神的なことだ。単に食べるのをやめても、ダメだということだけがわかった。


 俺は今回は、作ったものを見せなかった。どうせ出すなら、今見せるよりも、内緒にしておこう。


 俺はコーヒーとガトーショコラはテイクアウトにした。なんとなく歩いていて、思い出したように、別の仕事で必要なネタ探しにふらりと文具店に入った。



 レジの女性は長い黒髪をした中国人だった。俺は、一通り見て、やはり文房具は日本が強いから難しいな、と諦めて帰ろうとした。


 ドアに手をかけると不意に「日本の方ですか?」と声がした。


 振り返ると、カウンターの中にいた女性が微笑む。俺は「さっき話してる発音からして、てっきり中国人と思ったんですが……」と笑った。白い肌に大きなほくろ、前髪をスッキリあげて、どこからどう見ても中国人だ。


 彼女はピンチヒッターでこの店に入ってる、と言った。流暢な発音だから、日本人じゃないと思った。日本人の喋る言葉には微妙な日本語の訛りが残る。それがアメリカではスペイン語と間違えられやすい。彼女はもっと複雑なバックグラウンドを想像させるような発音をしていた。元々の言語は中国語、と俺があたりをつけたのは、他の人と会話する現地語の中に中国語訛りのような発声部分があったから。タイ語でもベトナム語でも韓国語でもない。ラオスやカンボジアでもない。


 彼女はとても気さくな人で、失業しちゃったから、ここでバイトしてるの、と言った。もともと、高級デパートでずっと働いていたと思えないような気さくさだ。しっかり稼いでた女性特有の自信とたおやかさがあり、すっと抜けるような肩の力の抜けた感じが、好印象だった。


 いろいろ話す中、結婚しているけど、子供はいない、と明るく笑って言った。決して綺麗というわけではないが、髪型を変え、メイクを変え、洋服を変えれば、もっと洗練された雰囲気になる。素材は惜しいのに、全く気にしていないふうだ。年齢的には、おそらく、子供が望めるぎりぎりのラインの年齢のようだった。もっと若いか?年齢というのは本当にわからないものだ。


 俺は自嘲気味に「この国の言葉、話せなくて困ってますよ、『食パン下さい』程度しか知らない」と言った。彼女は「嘘ぅ」と笑う。


 俺はこの人がなぜかすぐに気に入った。気さくだ。俺たちはカウンター越しに長時間、話し込んだ。こんな小さい店なのに、案外ひっきりなしに現地人の客が来て、その度ごとに特殊なものを欲しがる。彼女はハイハイ、と中国人さながらに客の求めるものをさっと出して来て、首尾よく売っていく。こういう女性はやりやすい。


 もちろん俺は、この人を女性として気に入ったわけではなく、ただ、日本語が話したかっただけだ。


 すぐに懐に飛び込んでくるような、気軽な人で、単なるバイトということは、いつもいるわけじゃなく、次また、会えるかわからない。


 彼女自身が「連絡先を教えてください」と言った。その時、ちょうど、お店のオーナーが戻ってきたのがガラス越しに映ったらしい。彼女は「あ、まずい、帰って来ちゃった、オーナー」と日本語で囁くよう素早く、言った。


 入ってきたオーナーが「お友達?」と俺と彼女に聞いた。俺は現地語で「違います、ペン買いに来ただけです」と即答したのと「お客さんです」と彼女が言うのは、ほぼ同時だった。


 オーナーはふーんと言う顔をしたから、俺が「前にここで働いていた人と違いますよね?俺のこと知らないって言うことは」と現地語で続けた。オーナーは「それって、もう一人のオーナーのことかしらね」と言った。ここは共同経営で、確か2〜3人のマダムが「私がオーナー」と前に言ってたはずだ。俺はそのマダムから「あなた、数年前から時々、この前を歩いてるでしょ?印象深いから、よく覚えてるわよ」と、店の中で話しかけられたことがあった。だから、あの時のマダムではないらしい。


 俺は帽子に手をかけ「じゃこれで」と店を後にした。買い物したペンはすでに会計済みで手に持っていたし、ちゃんと名刺はカウンターに置いた。ガラスの引き戸を開け帰る直前、彼女に日本語で「で、聞くの忘れてたけど、名前は?」と振り返って、聞いた。彼女は微笑みながら、名乗った。よくある名前だ。オーナーはちょっと不審そうな顔をした。俺たちが、通りすがりの客と店の人と言うが、あまりにも古くから知る旧知の友人のように見えたのかもしれない。

 





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る