第267話 メリー・クリスマス


 俺は相当参っていたから、日本に帰ってすぐ、真夜中にあいつに電話した。


 あいつは中卒だったが、俺が世界で最も尊敬している人は、あいつとあの子だと内心では知っていた。他にもたくさん俺が信頼している人はいたが、むしろ信頼している人に電話したりメールしたりというのは案外しないものだ。あいつは別格だった。本当に本当の最後の砦は、俺が電話口で何も言わなくとも、きっと全て伝わるような相手だ。


 俺はBがあまりに暴力的で不機嫌なことにほとほと困り果てていて、日本に帰ってすぐは、Bもまだその気配を引きずっていたから、俺は半ばおかしかった。


 心療内科に行って薬をもらってきたほうがいいか、俺は日本の気軽さでどうするのか迷った。日本だと至れり尽くせりだ。あっちの医者は予約してから、何ヶ月も待たされるようなケースがザラだった。早くて1〜2週間はかかる。


 まるで顔が歪むみたいなストレスの状況に、俺が話すことの内容は全てがおかしいんじゃないか、という気がしてきて、すごく親しい友人に悩みを打ち明けた。あまりに追い詰められていて、話す内容が辻褄が合わないんじゃないかという気がしてくるほどだったから。


「ハットリくん、泊まりに来ないか?」


 ハットリくんは、時々、気軽に俺の部屋に泊まった。俺にとってこういう友人はありがたかった。俺にとって、女性というのは慰めにならない。女性を泊めたとしたら、後で必ずややこしいことが待っている。女性は全く癒しにならない。後腐れのない女性相手にというのは、真面目な部類の方の俺は生理的に無理だった。何より頭の弱い女性の搾取と真っ先に頭にそういうキーワードが浮かぶ。すぐに体を許す女性は、情緒的、感情的過ぎて理性が足りないというイメージだ。


 俺自身も、うっかり弱ってる時に女性に弱みを見せて、まるでそこにつけ込まれるように関係を持ってしまったら、その責任を取らねばならなくなる。これ以上、ややこしい問題を増やしたくない。


 お姉さんは「ここはお姉さんが払ってあげる!」というような姉御肌だが、俺のそういう性質をいち早く察知して、全く俺のテリトリーには踏み込んでこなかった。だから俺はお姉さんを慕っていた。俺は、恋愛前提みたいな異性との関係が苦手だ。そして一度友達と決めたら、絶対に恋人に昇格はさせない。義理があるような友人に対する気持ちを、そこから恋人に対する気持ちに変化させるなんて、まるで近親相関のような禁忌の踏み越えを思い浮かばせた。俺は絶対に異性の友達から恋人を選ぶことはない。それは不思議だったが、好きになる人は必ず遠くから見ているだけのような関係の人だった。そして「友達から付き合ってください」というのは俺にはない。はっきり線が引かれてて、そういう意味で、俺は滅多に恋に落ちることなどなかった。


 俺にとって、全ての色めき立った女は鬱陶しい対象だった。俺は、自分が追うのが好きで、追いかけられるのが大嫌いという性質だった。「泊まっていかないか?」という相手が同性ということについて、ちょっと奇妙な感じは否めないが、別に俺はハットリ君に恋愛感情があるというわけじゃない。これ、気をつけないといけないのは、相手が隠れゲイだった場合だよな。時々ハッとしたが、そういえばハットリ君にも彼女がいるというのを聞いたことがない、と気づいたのはかなり経ってからだった。


 朝起きた時に、隣で寝ていたはずのハットリ君がいなかった時、俺はふと、そんなことを思った。まさか?


 枕元に貸していたTシャツが綺麗に畳まれていた。俺はTシャツはあんまり着ないんだが、さすがにゼロというわけじゃないから。パジャマがわりに貸して、俺が全くハットリ君が出て行く気配に気づかずに寝たままだったというのは、ちょっとしたショックだった。当たり前に出勤するわけだが、起こすに決まってると思い込んでいたし、俺はそこまでぐっすり寝たままなんてありえない。ただ、起きて思ったのは、ものすごく安心してぐっすり寝ていて起きられなかったという事実だった。


 俺はふと、敵が来るかもしれない仮眠で、何かあったらすぐ起きないといけない状況を思い出していた、常にそんなだから、それが普通で、ちょっとした気配や物音で、俺は飛び起きるはずだった。ずっとそうだったから、こんな風に眠りこけたということについて、俺、疲れてるのかなあと思った。もしかして、ごく普通に日本でサラリーマンしてる方がマシかもしれない。これでちゃんとした収入があればいいが、ほぼ主夫みたいな、召使の日々でこれはない。


 ハットリ君がもしゲイだったとしたら、俺の意思を尊重して、触れずにいてくれた気がした。俺やっぱり頭がおかしいな。


 俺が過去生で女だった時……


 俺の記憶は無茶苦茶に混ざってる気がした。誰もいないだだっ広い部屋で、起きて、呆然と取り残されたみたいな朝に、過去生の記憶が蘇る。


 わからないが、男が怖い、男が嫌いだ……


 無理に望まないことを力づくでされるような感覚が断片的に蘇る。


 今は男だから、ほぼそういう場面に出くわすことはないだろうが、女だったら、大ダメージだ。俺がどこか奥底が暴力的なのも、何か過去生の裏返しか。


 次々に思い出したくないような記憶が浮かび上がってきて、俺は頭を振った。過去生なんて思い出すもんじゃない。ショッキングなことばかり思い出す。とにかく今世は、弱い女性の立場でないから、良かったじゃないか。


 俺がゲイを毛嫌いしてしまうのは、隣のムッシューのせいかもしれなかったが、ゲイが感情的すぎておかしいという場面には頻繁に顔を突き合わせていた。きっとそのせいだ。そのことをJさんに言うと「俺の親友はゲイだとカウングアウトしたけど、全然、感情的なやつじゃなかったし、たまたま出会ったゲイが悪かったんじゃないのか」と言った。俺の知ってるゲイは、普通の人もいたが、金切り声をあげて、すぐ感情的にキレるやつが多かった。女以上に始末に負えない。というか、女よりも女々しい。こういうこというと、大問題になるのかもしれないが、ゲイに限らず、コロコロ感情が変わる奴と一緒にいると、精神的に持たない。


 ゲイかどうかはともかく、すぐにちょっとしたことで怒り出すような奴と、一緒にいたらこっちがおかしくなる。俺はすでにおかしくなりつつあった。モラルハラスメントというやつだ。こき下ろされ、罵られ、時に暴力を振るわれ。そういう環境でよく我慢していると俺は思ったが、自分が暴力を振るえば殺しあうみたいな凄惨なことになる。俺の立場というのは、収入がなくなってからというもの、本当に悲惨だった。何かバイトと探しても、運の悪いことにか、景気が悪すぎるのか、言葉の問題もあり、見つからない。


 俺は屋敷でサロン計画がすっかりあの気難しいムッシューのせいで頓挫して、早く自由になりたいと思っていたが、ぐっと我慢して、我慢して、我慢して、時が過ぎるのを待っていた。84、5の爺さんが120まで長生きするとは到底思えない。言っちゃ悪いが、明日にでも亡くなってもおかしいくらいによろよろだから、俺も後悔したくないから、優しくしていたんだが、あまりに調子に乗りすぎだ。Bにはともかく、俺には金切り声でヒステリックに怒鳴り、Bの前では猫を被ってるから、Bにもこの不愉快さを全く理解してもらうことができなかった。


 こういう時、無駄に辛抱強いのは問題じゃないかと、今は思う。スカッと実はやり返したいが、俺は手加減というのが苦手だった。絶対に暴力は振るうまいと思うのは、うっかり相手を殺してしまうような不運に見舞われるとか、外国だから逮捕されて強制送還とか、ネガティブな未来が簡単に見えるせいだった。そこまで俺も馬鹿じゃない。Jさんじゃないが、俺はこの爺さんがうっかり変な死に方したら俺たちが真っ先に疑われるんじゃないかと怖かった。だから、本当に気をつけて、「変な死に方しないでくれよ」と、爺さんが庭先で転ばないように、しっかり気をつけていた。それでも、何度か夜の庭先で動けなくなり、大声でBや俺を呼ばるんだから、正直、家に24時間のお手伝いさんを雇えよ、と俺は心からこの役目を早く降りたかった。今のお手伝いさんは、20年勤めているが、昼の1時半で帰ってしまって、日曜日は休みだ。代わりに俺を雇え、と口から出かかったが、Bは「やめとけ、もっとこき使われるぞ」と言った。それもそうだ、今でさえこの爺さん、付き合いきれないのに、無理。


 Bがゲイじゃないというのははっきりしてると思っていたんだが、それにしても、ゲイ以上に最近のBは、感情的におかしかった。仕事のせいだと知っていても、Bらしくないその様子に、あまりに長くそうだから、俺もおかしくなってきていた。一緒にいる女が悪いのか、頭が悪くなったんじゃねえかと思う言動のBを見ていると、一緒にいる人というのはすごく重要だと思う。


 ギラギラの衣装をつけて、サンバの行列にいる鼻が上向きな子持ちの人妻が、Bの精神不安の原因かどうかは詳しくは知らなかったが、あまりに程度の低い女に毒されるBが不憫を通り越し、仕事内容がおかしいんじゃねえか、と思い始めていた。一応、Bは公務員だ。相手の女は契約社員らしいが、一応、同じ会社だ。公務員なのに会社というのもおかしいが。


 もう辞めろよ、そんな仕事! 俺が言うまでもなく、耐えきれなくなったBは、一年間の休職手続きをし、次の就職先を決めてから、俺にくっついて、日本にバカンスに来た。


 俺は、それでもBのその普段の狂ったような機嫌の悪さの悪影響をもろに受けていて、喋る内容が既におかしくなってた。あまりにも追い詰められ、毎日罵られていると、頭がおかしくなってくる。俺はBと真剣にコンビ解消しようかと、買った家、あの悪性腫瘍のような隣のムッシューがおまけでくっついて来た家について、処分を考えあぐねていた。隣のムッシューはまるで綱引きのように、飴と鞭を使い、俺たちの生活に徐々に食い込んできていた。正直、ゲイの思考回路は本当に油断ならない。しかも日本に帰る直前に、あの変な30センチの土地の事件だ。思ったんだが、あの爺さん、Bがいなくなる状態が精神不安を引き起こすから、なんか変なことばっかり、こっちにいちゃもんつけるみたいに関わってくるんじゃないかと俺は思い始めていた。でなきゃ、帰る直前に、あんな変なことが起こってくるわけがないし。Bは土地がタダでもらえると有頂天だったが、俺は、猫の額ほどもない土地、しかも本来は最初から自分たちのものと不動産屋に説明されていた土地を1000ユーロ以上の手続きのための必要経費を払って、手に入れる意味というのがほとんどないような気がしていた。途中から俺は「もうどうにでもなれ」という気持ちになりつつあったのは否めない。それもこれも、どう考えてもゲイだな、というようなあの女みたいな金切り声で俺を罵る爺さんが原因だ。俺は、罵られる相手が二人という状態に、生理的に我慢できないという気持ちになって、困った。実はどこかにドメスティックバイオレンスのサポート窓口がないのか、調べたりしたが、市役所の人間は、信じられないという顔をした。そりゃあそうだろう。俺が反撃すれば良いんだろうが、階段からもみ合って落ちたら、いきなり殺人事件になってしまう。俺は、何度もひやっとして、絶対に気をつけていた。いきなりそういう事件の当事者になるなんてごめんだからな。距離を取るために、どこか他の国に行くとか、根本の解決をはかるしかなく、市役所といっても、俺らの小さな町でなく、世界の花の都の窓口な訳だが、案外とサポートが手薄というのに驚いた。この国では、密室の家の中の暴力の事件が後を絶たないというのは知っていた。この小さな町でさえも、銃での殺人事件、ごく普通の善良な市民が、激昂して自身の家族を殺す事件があるほどだった。いっとくがアメリカじゃないから、銃は普及してない状態でそれだ。


 まあ、そういや、モラハラといえば、他にも例に困らない。俺がここまで優しくなければ、巻き込まれないで済むのだろうと思ったが、あの爺さん、他の人に俺に対するような言動を繰り返したら、どんな目に遭うのかわかっているから、孤独を選んでいるのかもな。とにかく、普通の精神状態でこの状態にただ耐えるというのは、俺は今更ながら、庭師のヨアキンはすごいな、と思ったが、金の力だ。俺もこれが仕事ならなんとか耐えられたろうに、本当に最悪の役回りだった。


 痛いとか、苦しいとか、石を背負って運んでる絵画や彫刻を、これが美しいとかほざく爺さんに、俺は付き合いきれない。人の趣味かもしれないが、俺はそういう立場は本当にごめんこうむる気分だった。これ、この石運んでるの俺だよ、俺。爺さんは俺が苦しむ姿を見てスッキリするのかもしれないが、俺はちょっとおかしくなってきてた。まともな生活がしたい。


 昔から俺の見かけが優男なせいで、勘違いした奴らがよくやってきて、俺はその度に、うっかり暴力で応戦しようとする自分を押しとどめるのが精一杯だった。俺は見かけによらず、実は中身は凶暴で、それを知らない奴らにうっかり本当の自分を見せてしまわないようにすることが、本当にストレスだったのだ。子どもの頃、まだ小学校低学年にもなってなかった時かもしれないが、手加減せずに兄弟喧嘩して、弟に怪我させて、その時に、この程度で済んでよかったと思ったのをよく覚えている。以来俺は、どんなに頭にきても、決して暴力に訴えないと決めていた。


 俺がイライラするのも、それ以外のファクターは、これってもしかして、女を絶ってるというのと関係しているのかもしれない。何を言うかと思われるかもしれないが、そういえばBも俺も、ギスギスするのはそのせいかもしれない。かといって、Bはともかく、俺はいろいろと問題があった。俺が好きになる人というのは、必ずものすごい高嶺の花で、手が届きそうになると、途端に自分が引いてしまう。


 それは不思議だったが、Bが言うには「お前は愛しているけど、一緒になれない」という恋愛じゃないとダメなんだよな、と笑った。不倫みたいなチープなものには当然興味がないから、俺の周りというのは不可思議な二重構造のようなのがずっと続いていた。ものすごくモテるのに、気のない人からモテても意味がなく鬱陶しく、本気で好きになる人からは、いつも相手にされないというような、そういう状態だった。もしも相手もこちらを振り向いてくれそうになると、俺の方が引いてしまう。そこがとても不思議だったが、聡明な相手は、そこで自分が勘違いしたと感じて、距離を取ったり、去ってしまう。結局のところ、無意識で自分がいつまでもそんなふうに「叶わない恋」になることを望んでいるみたいに、どうしてもうまくいかなかった。


 お姉さんに言わせれば「岬くんはロマンティスト。本当の女性との恋って、そんなふうに夢やロマンだけじゃないもの」ということで、Bに言わせると「お前はイデアリスト。そんな完璧な女神のような女などこの世に存在しない」ということだった。いや、Bには反論できる。俺はあの子のことを女神のように崇めていたのだから。14歳にして、すでに完璧、完全で、大人よりもずっと大人だった。Bは俺の気持ちを慮って、あの子の話が出てくるとすぐに黙った。俺がいつまでもただ一人だけの人を心に置いているから、こんなことになっているのだとBはよく知っていた。


 俺は真夜中に、3回も留守電をモノローグで吹き込んだ。

ただの近況報告だった。2年は絶対経ってる。俺、日本に前帰ったのって、2年前だから。


 奴はまだ同じ仕事を続けてるだろうか。独立したいと言って、一瞬、その準備をしていて、結局、辞めたらしかった。また勤め人に戻ったのは、独立するのに、あいつ自身に「独立には足りない要素」があったからに違いなかった。あいつの場合、俺と違って、ぐちゃちゃ悩まないし、たとえ悩みがあったとしても、こんなふうに人に話したりしないだろう。俺は頭を抱えて、冷たいダイニングに座って、留守電に向かって、一人で話し続けた。あいつが聴いていようが、聞いていまいが、全く関係ない。俺が考えていることは、常にあいつには筒抜けだったのだ。


 俺が電話が欲しいと思えば、あいつから電話があり、俺が電話をかける時、あいつは俺から電話があることを事前に知っていた。俺は初めて、あいつと出会って、テレパシーというものの仕組みを知ったのだ。なのになぜ、こんなふうに遠い場所に行くことを選んだんだろうな。あいつと何か、店でもやるかと言っていたのに。俺は、海外に出て自分を試したかった。絶対に一旗揚げて、お前を呼んでやるよ、と。あいつはそんなことなど望んでない。だけど俺は、俺にとって日本は狭すぎて窮屈だと感じていた。自由に世界を行き来したい。俺が海外に出たのはそういう理由で、出た時はうまく行く気がしていた。俺の計算ミスは、「健康」なんて全く、顧みないで生活してたことだ。俺の性質は健康的な生活を営むというのと程遠い。放っておくと、無軌道になりすぎる。


 あいつも俺ととてもよく似ていたが、勤め人が続けられるという意味で、あいつの方がまだ出口があったに違いない。今でも思い出すが、金がなくたって、俺たちがこれ以上、望むものなんてなかった。本当に自由だったのだ。俺は会社員で、あいつは朝と晩、昼夜逆転に働いていたが、俺たちは夜寝ないから、真夜中以降は遊び放題だった。俺は遺伝という意味でか、睡眠時間が短くとも平気で、あいつも同じだった。ただ、俺は、いつまでもそれでいけると考えていたのが、甘かった。俺の家系はみんな早死にするが、当たり前かもしれない。それだけの無茶を常に繰り返してしまうのだから。


 俺が、今の行き詰まりについて、淡々と機械に向かって報告している間、Bはすっかりぐっすりと別室で寝ていた。広いこのマンションは、この部屋で喋ってても、Bの寝ている部屋までかなり遠いから、声など聞こえない。このマンションを売却してなんとかしようという話は現在進行形だったが、もう海外を諦めて、俺ここに戻って全く一から別のことを始めたらいいんじゃないかと思うほどだった。


 Bは俺と全く違い、早寝早起きの健康的な習慣の男で、だから俺は、助かっていた。Bのために食事を作れば、自然に自分も食べることになるから。ただ、俺は、食欲があまりないというのが普通だった。むしろ、食欲をコントロールすることで、不老不死を目指して実験していたからなのだが、この実験はやはり、かなり無理があるという結論にたどりつつあった。自分一人でできることは知れている。どこから食べ物に変わるエネルギーをうまく取り込むのかという点が、俺はクリアできなかった。だから仕方なく、食べる生活をまだ続けていた。うさぎちゃんに言わせれば、それでも「栄養失調」の可能性があるということで、俺はこんなに食べてるのに?と思ったが、確かに、俺の体に見合う量を食べているわけじゃないんだろう。俺にとってそんなことはどうでも良かったが、病気だけは鬱陶しいということに気がついた。何より、自分から全てのやる気やエネルギーを奪い、不快な感覚を連れてくる。この不快な感覚も、よく観察すればそうでないのかもしれないと思ったが、思考を邪魔してくる痛みは、「不快」というカテゴリーでもう、それで良いじゃないかと考えて、とにかく全ての建設的な俺の活動を阻害してくるということで、俺は「不愉快を連れてくる全てのファクター」とはもう縁を切ろうと決めた。


 冷静に考えると、そういうことなんだが、実は全く俺は冷静でなく、痛い痛い苦しいというばかりでおかしくなっていた。そこまでの痛みでもないはずが、脳が既にオーバーヒート状態になっているから、全てのことをまともに捉えて思考するところまでいかない。うさぎちゃんがそのことを指摘してくれて、俺は本当に助かった思いだった。うさぎちゃんの答えは常に単純明快で、それを示されることで、その結果を選べないのであれば、他を選んでどうなるという結果も、結局、引き受けるしかない。俺は、抜本的な改革ができないのであれば、できる限り、それに近い選択を選ぶしかないと動き始めていた。結果を考えて動くことをしなかった俺が、もうたくさんだと思うまで、これほどの痛みが必要とは驚く。


 お前、心療内科に行けば、と言われても当たり前の状態であったが、俺は医者をほぼ信用してないために、俺をおかしくさせている全てのファクターを取り除けば自然に治ることを知っていて、心療内科など意味ないと全く出かけていく気はなかった。


 誰が聞いても、どうせ俺の置かれている状況はまともなものでない。あのあっちの屋敷の生活は、俺を完全におかしくさせていた。俺は、2階の床がまっすぐでないことに気づいていたが、それもあるのかもしれない。空間が与える影響は恐ろしい。俺は、物に執着があるタイプなのに、ごく普通の、本当に普通の、落ち着く空間に自分は住むべきかもしれないと思い始めていた。なぜなら、日本のマンションにいると、俺はどんどん、日を追って、まともに戻りつつあることが、手に取るように感じられたからだった。



 爺さんと同居じゃないのに、なんでこんなことになってるのか、この屋敷の構造がそうさせるとしか言えず、塀を立てるぞ!と脅された時に「どうぞどうぞ、建ててください」と言えばよかったのだと、俺は後悔していた。とにかく、爺さんの母屋から、ストーンと丸見えで全てが見えるのも良くないのだ。死角が本当にないような家だ。母屋から丸見え、遠くからゲイの爺さんが双眼鏡でもしも見ていたら、俺たちは「異常に仲良い」ように見えるんだろうと、ある意味、見ている人が気の毒に思われた。外から見るのと、中は違うんだよ。俺がBをふざけて蹴ったり、空手チョップしたり、Bがコブラツイストをかけてきたりするのは、何も知らない人が音声抜きで見ていたら、どういう風に見えるのかと思ってしまう。親しくじゃれ合う姿を覗き見るというのは、孤独な生活をするものにとったら、ある種、憎まれても仕方ない気がした。俺がな。俺だけが憎まれる。なんだよこの、変な構造の生活は。俺は、これなあ、こういうのほんと、コンセプトとしてはありえるよ、誰が本当に実現してしまうんだよ、と半ばあきれていた。貴族趣味だよな。聞いたことあるが、城にそんなふうに何人か人を招待し、住まわせるって話。退屈しのぎに。俺らこの家は、自分たちの金を払って買ったから、本当に割に合わない気分になる。ただぐらいじゃないと、マジで割に合わねーよ。


 俺は幸い裸族ではないが、いろいろ考えると、本当に微妙だ。


 俺は座敷の畳とダイニングの境の段差に腰掛け、延々とモノローグを続けていた。むしろ、あいつが心配してしまう。俺は、あまり悲壮感を出さないように気をつけながら、追い詰められていて、うまくいかないということを喋り続けた。正直、何を喋ったのかよく覚えてない。クリスマス・イヴにこんな不景気なメッセージを残す非礼を詫びた。


 まあでも、まだ諦めずに何とかする。まだまだ、諦めない。


 俺は最後にそう言った。だったら電話するなよ。俺は俺自身に、そう宣言するためだけに電話したのかもしれない。


 お前、好きな人ができたら、早く結婚しろよ。メリークリスマス、良いイヴを。


俺はメッセージの最後にそう言った。






 

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