第258話 土地の登録課の人が言うには


 俺とJさんはいろんな関係書類を持って、不動産屋やら、市役所の土地の登録課やら、弁護士にも当たった。弁護士は、なしのつぶてで、金のない俺は、まあ、仕方ねえと、とにかく無料ということで市役所で話を聞いた。


 もともと、そういうのを相談する場所じゃない、と前置きされたが、係のにーちゃんはとても親切だった。にーちゃんと言っても、後からわかったが、小さな子を持つ父親らしかった。それがわかったのは「もう申し訳ありませんが、娘を迎えに行かないといけない時間なんです、すいません」と、この国の人には珍しく、とても低姿勢に会話を打ち切ったからだった。ここが田舎だということもあったかもしれないが、とにかく自分に関係ないのに、このにーちゃんはたくさんのアドバイスを俺にくれた。


 そもそも、そんな紙に気軽にサインしたBが終わっているのだが、まだ契約は正式には完了していなかった。まだいくつかの工程があるから、訂正は無理かもしれなくとも、相手に聞いてみることはできる、その意図を。そして、契約の方法をこっちからも別の測量師や交渉人を立てる方法に変えれば回避できる、とのことだった。


 ここがBの難しいところで、頑として、ムッシューにそんな失礼なことは聞けない、そんな失礼な、ムッシューを疑うような提案はできない、と言って鬼のような形相だった。Bにしてみたら、ムッシューに気に入られたままでいたいというのが大きいらしく、俺はそういうのはどうでもよかった。だいたい俺は、天涯孤独な人が財産を国に譲ろうと隣人に譲ろうと知ったこっちゃない。俺は現実的だから、万が一そんなわけのわからないものをもらったら、税金やらなんやら、妬みや何から、よくわからない厄災までこっちに来るから、当てにしてはいけないと考えていた。だいたい、Bはナイーブに良い人すぎる。そんなね、天から降って来る金を期待しちゃダメだから。


 家の金を穀潰しよろしく使っちゃってる俺にそんなことを言う資格はないだろうが、とにかく俺は、ムッシューには小指ほども期待していなかった。それってなんだろな、不思議だ。俺は、蓋を開けてみたら、孤児院に全て寄付されてるとかそういう結末だろうと信じて疑ってない。だから、Bの喜びようが理解できなかった。俺ら、家族でもなんでもないんだから。


 俺が「近所に住んでるんだから、家族と思ってください」と言ったのは本心だが、このムッシューはそんな甘い男じゃないと知っていた。だいたい、金を持ってる人間は疑い深くなる。俺はそういうのに慣れていたから、ムッシューの心が俺の言葉に一ミリも動かされないことについて、当然だと思ってた。でなきゃ、甘い言葉で近づいてきて離れない輩が、このムッシューの周りにたくさんいるはずだ。そんな人間がいないということは、このムッシューはとても気をつけて1人で孤独に生きてきたんだろう。そんなふうに生きて楽しいか。


 俺は、このムッシューが元気な頃、定期的に車で頻繁に出かけるのを見て、こんなふうに人嫌いなムッシューだが、案外、親のいない子供たちの足長おじさんになっているのかもしれない、と思わぬことを夢想したりした。子供嫌いとは聞いていたから、それはないとは思っても、こんなにせっせと出かけて行くからには、何かあるだろう、と。

 もしもこのムッシューが、影で驚くほど、良い人だったとしたら、誰も見る目がなかったということになる。俺はそんなふうに思いながら、時に、飼っている犬を大声で叱りつけるムッシューの声を聞いていた。もしも、本当はびっくりするくらいの徳を積んでいるとすれば、誰が見抜けるのだろう。俺は、世の中というのはわからないものだから、と、ムッシューの苦情の手紙を眺めた。Jさんが言うには、苦情の手紙だが、手紙の体裁は非常に丁寧に失礼のないようになっているとのことだった。いわゆる慇懃無礼というやつかもしれないが、庭に洗濯物を干すなら、門を立てるぞとか、犬が逃げたら困るから、ゲートの開閉は最小限にして欲しいとか、いちいちタイプライターの封書の手紙を打ってこないだろう。


 これ、すぐに証拠能力があるような手紙だな。


 俺は、80過ぎてるから仕方ないな、とため息をついた。それでも、なんでもうまくやってきた方だった。怒鳴りつけられても、犬がうちの玄関を大小のトイレにしても、家の前でうっかり踏んだ靴でBが家の中を歩き回っても、俺は耐え忍んで掃除してきたというのに。人生の中で、ここまで踏んで、しかも家の中にまで撒き散らして、こういう場所で寝起きするのは、たとえ貴族の館のような屋敷であっても、俺はごめんこうむりたい。


 本当にごく普通のマンションでいいから、この鬱陶しい問題をなんとか解決できないかと考えたが、それは無駄なことだった。まさかウォーターガンで犬を撃つわけにもいかないし、何より、俺は黙って、犬のフンを見たらすぐに、Bがうっかり踏まないように、さっさと片付けるしかなかった。それでも、うっかりした場所にあり、踏むことが多かった。俺は、こんな小さな小型犬にまでバカにされていることについて、暴力で思い知らせる躾をしてやりたいと思ったりもしたが、たとえ犬でも他人様の犬なのでそれはやめておいた。俺も犬や猫を飼っていたが、ここまで性格の悪い犬は見たことがない。俺は散々噛み付かれて、この話はしたと思うが、一番最初の時はまずいと思い、医者に行った。


 Bはピュアだから、こんなに一生懸命にムッシューのお世話してるんだから、何かいいことがあるかも、と思ってるんだろうなあ。口とは裏腹に。俺は、お手伝いさんが「あのムッシューが死んで困ることって何かあります?」と言った時に、すぐ側にいる人に、こんなにドライな台詞を吐かれてしまうムッシューに、ちょっと同情した。別にお手伝いさんはすごくいい人なわけなんだが、このムッシューはそこまで人に思わせるくらいのところがあった。なんだろうね、まあ、仕方ない。


 そのカラクリがわかった気になったのは、ある日のランチだった。俺たち、毎週土曜日にムッシューの家に招かれて、食事を振舞われていた。最初は、銀のカトラリーや瀟洒な薄い絵付けのアンティークの皿やカップに感動していた俺だったが、慣れちゃうとそんなの、どうでもよくなる。シャンデリアや彫刻も、もうちょっと気をつけて、掃除をしようよ、と思えてしまうから。俺は決して整理整頓や掃除は得意でなく、むしろ、それが得意なのはBだったが、それにしても、何もかも触るなと言わんばかりに、お手伝いさんにきっちり掃除させてないんじゃないか。こんなにアンティークに囲まれていたら、古いものすぎて、気が滅入ってくるじゃないか。俺は、普段の俺たちの家自体から、すでに嫌気がさしてきていた。何もない真っ白なロフトにスッキリ住むようなライフスタイルに戻りたい。


 大理石の彫刻の首は若い男性だったが、庭の彫像がそういえばムッシューにそっくりなのと比べると、こっちの男はムッシューの趣味なのか、と思ったりした。リビングの大きなハープの弦は切れていたが、大抵、少し寒いとなると、暖炉の火があかあかと燃えていた。リビングの二枚の油絵はルノワールだったが、ムッシューは、それはコピーだと言った。俺が、それがコピーだとようやく気付いたのは、毎週ムッシューのお供で、本物のルノワールやピカソ、ジャコメッティモンドリアンやモネを常に美術館で見るようになってからだった。


 今がいつの時代かわからない気がしてくるムッシューの家だったが、それは俺たちの家も同じだった。俺が前へも後ろへも進めないのは、この家のせいじゃないかと思ったりするほどだった。

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