第256話 俺たち騙される現在進行形?

 騙しのテクニックというのは、いろいろあるわけなんだが、俺がそんなことに詳しいのは、Jさんのせいなのか。


 飛行機に乗る朝、Bが血相を変えて、図面に定規を当てていた。その図面はムッシューがくれたもので、この家と庭、ムッシューの家と庭の図面だった。不動産売買の時にもらったやつの縮小版だ。その中にボールペンで赤の線がムッシューの土地に引いてあって、そこにBとムッシューのサイン、日付が入っているものだった。俺らのキッチンの窓から約2〜3メートル。それだけの土地だが、俺らにとったら重要だった。ムッシューが裏の例の土地を測量代だけで分けてくれると言うから、俺たちは喜んで、その図面をよく見もせずに、その場でサインした。正確には、サインしたのはBだけだが。Bは、自分が不自由になったら、銀行口座を自分の代わりに見る権利を託したいとBに言って、書類を渡した直後で、Bは舞い上がってた。今から思うと、まるで騙しのテクニックのように思えて仕方なかった。2つの書類を同時にサインさせたのだから。


 よくよくじっくり眺めて見ると、なんとその図面は、元の俺たちの土地の図面から、玄関前の30センチを引いてあった。平たく言うと、裏の2〜3メートルの土地をくれると赤い線が手書きで引かれていたんだが、前の玄関側の土地は30センチのところで切り取られ、ムッシューに返すという図式になる。


 俺は「騙された!」と短く声にならない叫びを心の中であげて、慌ててファイルから不動産売買時のこの家の土地の図面を出してきて、照らし合わせて、数字を確認した。飛行機の時間が迫ってるのに。


「B、ちょ……これ、数字おかしいぜ」


 俺がそう血相を変えたから、Bは切れた。「うるせえんだよ、黙れ!」


 普段エレガントなBだが、最近のBはおかしかった。だいたいだな、銀行口座の書類のサインあたりからおかしかった。何がおかしいって、ヤツ、銀行口座の面倒を見るとムッシューに約束した書類にコピー取ってない。コピー持ってないと、何の書類にサインしたのか、わかんねーじゃねえか。もちろん、10枚以上あるちゃんとした書類で、俺はゾッとしていた。一体何が書かれてたんだろう。俺は「見返りはちゃんとあるのか」と聞いたが、Bは「そんなのないよ」と言った。


 俺が「馬鹿じゃねーの、お前。絶対それすごい後から面倒で、無料じゃ割に合わねえ、って思うぞ。もしムッシューに負債とかあったらどうすんの?ただでさえ、年がら年中、裁判やって揉めてるジジイなのに、お前、ムッシューがわけわからなくなったら、お前が代わりに原告になるの?原告ならいいけど、なんかミスったら、被告になることもあるんじゃねーの」


 Bは「それは大丈夫だし、俺、純粋にボランティアだから」と言ってたが、俺は、Bがあまりに人が良すぎてつけ込まれてると感じていた。だいたいムッシューは人使いが荒い。金持ちはみんなそうだが、奴隷のように搾取されるのがオチだぞ。Bは奥ゆかしいから、本当にただ使われるだけで終わりそうだった。


 俺は注意深いから、Bがいない間に、机に置かれた書類にさっと目を通しだけはしたが、元より外国語、念のために写真を撮ろうと1枚撮ったところでBが戻ってきた。そしてそのまま、その紙をムッシューに渡してしまった。もう俺、知らねーぞ。


 ムッシューとどんな契約書を交わしたのか。契約書が重要というのは全世界共通なのに、Bは本当に思慮が足りなかった。Bの友人で弁護士事務所に勤めている女がいたが、「遺言があれば、もしかして遺産相続の可能性はあります」と言い、それはBを有頂天にさせた。俺は「馬鹿じゃねーの、遺言を書くにも、弁護士の立ち会いとか面倒だから! そんな、死んだ後のことまで、他人の単なる隣人のお前のことを、あのじーさんが考えてくれてるとか、そんなの俺、ありえないと思う」と言った。


 俺たちは運命共同体なわけだが、俺は、Bの「人が良すぎて迂闊すぎる点」について、最近は愛想を尽かし始めていた。Bは、俺が疑い深いことについて、逆に同じように俺を疎ましく思っている。人が信用できないというのは悲しいことだが、俺は石橋を叩いて渡らない方で、当たり前に気をつけている。それはJさんと同じ意見だった。俺たちは裏道を知っているから、当たり前に気をつける。騙される奴が馬鹿だとよく知ってるからな。


 俺は嵌められたな、と思った。誰がまさか、30センチ引かれた書類だと考えるか。そっくりな見覚えのある書類。赤できちんと30センチを示しているが、プリントアウトされたフォントで、数字が手書きじゃないから、全く気づかなかった。30センチ部分をちゃんと赤で手書きじゃなくて引いてあって、うちの玄関前の庭がはっきり狭くなってる。


 Bは怒り狂った。「お前、うるせーんだよ!!」殴りかかってきたので、俺は「お前、落ち着けよ」と蒼い顔で言った。体格の良いBが本気で殴ってきたら、血を見るような喧嘩になる。俺が本気でBに抵抗したら、図体がデカイだけのBだからお互い怪我する。俺が子供の頃、母さんに言われたのは「これ以上、凶暴になったら困るから」というセリフ。それはいつも俺にブレーキをかけた。俺、ほっとくと無茶苦茶するようなところがあるから、ちゃんとブレーキかけてないと。本当の俺は実は凶暴。自分でそんなこと思ったことはないが、凶暴と母さんがいうからにはそうなんだろう。実はすぐカッとなるのは父方の血のせいだ。子供じゃないから、理性を働かせているだけで、俺は暴力振るう人の気持ちが実はよくわかる方だった。ただ、子供じゃねえし、俺はすぐカッとくるような激しい性質を人に悟られることはない。むしろ、人よりもずっと気をつけて、怒りを制御してきた方だ。誰も俺の内面など知りはしない。


 最近の俺とBは、激しい喧嘩になりそうなことがしばしばあった。あの温厚なBが、人が変わったみたいに。俺が冷静にならないと、殺しあうみたいなことになる。俺は真剣に悩んでいた。子供じゃないんだから。Bも昔、兄貴と流血の喧嘩したと言ってたが、俺らはもう子供じゃない。俺も兄弟に怪我させたことがあるが、子供心にいつも、死んだらまずいと思ってた。怒りに任せて無茶苦茶すると危ない。俺は武道をやっていたから、特に暴力振るうというのはもう致命的だ。武道を嗜むものとして風上にも置けないということになってしまう。だから俺は、どんなに怒り狂っても気をつけていたが、Bは武道の心得がない分、心配だった。Bは図体ばかりデカく、力があった。狭い家の中で、自分の重みで怪我をしかねない。


 Bは最悪に不機嫌なまま、俺たちは飛行機に乗って、この旅は本当に始終が最悪なものとなった。俺ね、もう本当にマジで、Bとは組むのやめようと思い始めた。


 俺、思い余って泣いちゃったもんね。酒飲んでたっけ?Bの家族とご飯食べてて「どうしたの岬くん、食欲ないの?顔色もなんか蒼いけど」と言われ「なんでもないです」と俺は答えたが「なんでもないってことないでしょ、真っ青な顔してる、何かあったの?」


 俺は、Bとはもうやっていけないです、と席を立った。こいつ迂闊すぎる。せっかく苦労して買った家や土地も、この隣のジジイに全部取られるぞ。俺は、いつもいつも訴訟ばかりして、弁護士をいつも家に呼んでるこの金持ちのじーさんが、どうしても信じられなかった。B、お前、騙されるぞ。


 俺は、なんでこんなはっきり目に見えるトラップにかかるんだ、馬鹿じゃないのかと、洗面所で情けなくなり、洗面台に食べたものを吐いた。家、家屋丸ごとやられる、今は30センチでも、相手は百戦錬磨、俺じゃ太刀打ちできない。チクショウ。Bが馬鹿すぎで、俺の力じゃどうすることもできねーじゃねーか。俺が何か言おうものなら暴力振るうし。


 俺はずっとお通夜みたいな顔で始終、旅を続けた。Bは、なんでもないと家族に説明して周り「こいつ、心配性だから。きっとムッシューは勘違いして、古い書類を引っ張り出してきて、サインに使ったんだと思う」と説明した。


 「お前、あのムッシューはそこまで悪人じゃないと思うぞ」


 Bはそう言い張った。俺は、どこの誰が『悪人』と額にマークしてるかよ、とBの楽観的な希望的観測を呪った。Bが騙されて怒り狂って、もっと暴力的になったら、爺さんなど殺しかねないと思い、ゾッとした。B、お前、殺人犯とかになっちゃったら最悪だぞ。今の段階で「この30センチは何ですか?」とムッシューに確認すりゃあ、こんなに気を揉まないでいいものを、その一言をなぜ言わない?俺の胃はキリキリ痛んだ。これは胃と腸の間ですと医者は言ったが、本当に痛い。


 おまけに、こんな慌ただしい飛行機に乗る直前に、電車の中にいるっていうのにムッシューはわざわざ俺らに電話してきた。


 「今すぐ測量士にお金を振り込んでくれないか。今すぐ電話で。電話して欲しい」


 あのな、俺ら、空港に向かう電車の中だぞ。何で今すぐなんだよ。俺は、何もかも怪しいと思い「B、よく考えろ、金を振り込む?何で今なんだ。お前、考える時間も与えられず金を振り込むってことは……」


Bは「うるせー!!!」と券売機で切符を買いながら怒鳴って俺の言葉をさえぎった。「黙れ、お前、うるさい!」


「はい、はい……そうです、よろしくお願いします」


 Bは俺を怒鳴りつけつつ、券売機で切符を買いながら金を振り込む電話をかけていた。ミラクルかよ。金払う時は、できるだけ引き延ばすのが鉄則。お前、金払いいいけど、なくなったら俺に頼るだろ。俺、もう知らねえからな。その金、たった10万円くらいだけど、ドブに捨てて、30センチ取られるんだぞ。裏のどうでもいい猫の額もないような光の当たらない北側の土地と引き換えに。


 さすがの俺も、鏡の中を見ると、やつれて見る影もなかった。気分悪い……こんなやつといたら、身ぐるみ剥がされる。だいたい、無尽蔵に金がかかる住めない家を買わされたこと、B、お前わかってないのか?


 わかってるだろ。心の中で俺は「この家自体が騙しなんだよ、B、お前も本当はわかってるだろ!!」俺は景色を楽しむどころじゃなく、ブルーの海に、温かな南国の風なのに、むしろ死にそうな気分の俺と遊離しすぎてて、どこか現実味がなかった。記念写真は死人のように写ってた。俺は、夏頃からずっと、病院で検査ばかりしてて、今もそうだが、激しく痛む。左半身が重く、胸がムカムカして、差し込むように一点が痛い。俺もう、ダメなんじゃねーのか。土地が仕事が、とか言ってるが、俺自身、もうすぐ死ぬんじゃねーの。 


 そんな俺の深く悩む姿を見かねて、高校の友人が「お前、あんまり調子悪そうだから、みんなで会わないか」と言ってくれた。持つべきものは友だね。俺、高校では落ちこぼれだったんだけど、だから気にかけてもらえるのか、よくわかんねーがある意味、愛玩動物的な癒しがあったのかも。


 いや、実はこの友人は書いたかもしれないが、学年で一番の成績のやつだったから、俺は恐れ多くて、在学中は一度も話しかけたことはなかった。一年・二年と同じクラスだったが。そのことを卒業後、地下鉄で偶然出会った時に言ったら、奴の仏のような顔色が曇った。


 「僕は成績が良いというだけで、ずっとそんなふうに人から誤解されてきたんだ」


 成績の良い奴は良い奴で悩みがあるのだなあ、と俺は妙に感慨深かった。まさかそんなこと思っていたとは。雲の上の人だと思って、話しかけないでいたが、それがまさか奴を傷つけていたとは。


 そこから俺たちの交流が始まった。学年で一番成績が悪かった俺と、学年一番の奴と。奴は日本の最高学府を卒業し、東京で一番の外資系の弁護士事務所に勤めていたが、同時に、アメリカの大学にも行って弁護士資格を取っていた。俺たちが話すきっかけは「海外在住」という共通点があったせいもあった。もう随分前だが、俺が海外に出たばかりの頃、奴は深夜に国際電話をくれた。アメリカから。俺はそのことにちょっと感動した。家族でさえ滅多に電話などくれない。ヨーロッパとアメリカで距離があったが、落ち込んでいる時に電話をくれる友になれるとは高校時代は夢にも思ってなかったが、その時から俺は特別な思いを抱いていた。奴は思っていたよりも、ずっとスピリチュアルな人間で話が通じ合うというのが、その大きな理由だった。


 俺は、最近、Bのアップダウンに悩まされ、今のままでは俺自身の未来がないことについて本当に真剣に悩んでいたんだが、誰からもそのことは理解されたことがなかった。それって何だろうな、俺は雲の上を歩いているみたいに現実感がないような人間だから?まさかここまできて、何もかも立ち往生するとはさすがに思ってもみなかったが、それもこれも全て、屋敷に手がかかりすぎるというのが原因だった。この家は実は、人など一度も住んだことがないんじゃないか。よく見ると、壁と窓枠の隙間が広く開いていたりして、その上に豪華な内装を施していて、見掛け倒しだった。完全にハリボテのモデルルームだった。


 俺はメールでこの、学年一番だった秀才にいつも悩みを相談した。いつもあまりに簡潔、的確な答えをくれるのに、俺はとてもその答え通りに生きられない人間だった。ある時俺は、こんなこと誰にも言ったことがないが、好きな人ができて、気持ちを制御できない。やりたくて仕方ない。我慢できない、と相談したことがあった。相手もそれを望んでいるから、自分を殺すことができない。欲しくなって、苦しかった。あまりにあからさまな悩みだから、俺はBにさえ口にしたことがなかったが、離れているせいと、こいつなら、ちゃんとした答えをくれる気がした。こいつもメチャメチャにモテるから、きっとわかってくれるはずだ。


 奴は「とにかく禁欲を貫いている」と言った。俺もこいつも、求められるままにやると、トラブルを生むことをよく知っていた。相手が求めても、それに全て答えるわけにいかない、と。幸い俺が好きになった相手は、とても冷静な人で、俺はすんでのところでいつも止めていた。気が狂いそうな日々だった。人を好きになるのに、理由などないのかもしれないが、ほとばしるような情熱に身を任せてしまったら、全てを焼き尽くすような結果になるのは目に見えていた。世界で2人だけになれるならと、できないことを夢見ながら、俺は転がりまわって我慢した。今から思うと本当に馬鹿だな。


 俺はとにかく、仕事をなんとかしたかったが、この屋敷を使う目論みは見事に外れ、今や不良債権と化している。ここに人を集めたりできないのであれば、普通の近代的で便利なマンションに心地よく住みたかった。狭くてもいいから。わざわざ庭や地下室がある家を買ったのは、ここで何かを始めたいと思っていたからだ。Bはお前の好きにすればいいと言っていたが、それは今や、大きな嘘となりつつあった。なぜかBは俺がここを使うことに良い顔をしなかった。Bは現実的だから、家をパブリックにオープンすることのリスクをよく知っていたせいだろう。


 俺が身動き取れず悩んでいるのを見かね、奴はとうとう「私のアドバイスはあまり有効でないようで、申し訳ないです。一度、高校の皆で会いませんか?」と言ってきた。俺、馬鹿なんだけど、奴の誕生日を祝う一年に一度のメールが、なぜか最後、俺の最悪の近況報告で埋まっちゃうわけで、ここ数年、本当に申し訳なく思っていた。俺、何、懺悔やってんの、と一日でスクロール仕切れないくらいの長いメールにため息をついた。奴は高校の同窓生とはほとんど連絡を取ってなくて、と昔は言っていたが、ここにきて何か変化があったのか、それは不思議だった。


 誤解があってはいけないが、全てのクラスメートが一目置いていて、雲の上の人のように学級委員を頼んで引き受けてもらっていたような奴で、学年の代表で、送辞や答辞を式で読んだのも、きっと奴だ。友人がいないということはないはずで、いつも上品で物静かな奴らとつるんでいたはずだった。


 この家を買ってから「一度俺、死んだほうがいいかな?」と、一行だけ切羽詰まったメールを奴にしたこともある。Bが仕事でうまくいってなくて、暴力的で悩んでいた頃だ。Bが俺の生活費を出してくれているわけではないが、この家のローンはBが払っていた。食費やガソリン、引き落としでない全てのエトセトラは全て俺持ちでやってきてたが、俺は終わってる。奴の答えは完璧で、俺はとにかく、その時、その短いメールの返事を見て、死ななかった。こういう時、「感情的な何か」なんて有効に全く働かない。俺は砂漠みたいにとっくに「カラッカラ」に干からびた「こころ」で生きていたから。そのことを思うと、焼き尽くされてもいいから、思い切りやっちゃってたら、良かったんだろうか。


 いや、そんなことはできないな。俺、そこまで馬鹿なことできねーわ。いくら自暴自棄でも、好きな人を道連れにしたりできない。好きな人には、どんなことがあっても、生き延びて欲しいと普通は思うよな。自分と一緒に死ぬようなこと、誰が望むもんか。


 俺の切羽詰まった状況を見かね、時々、金を貸してくれていたJさんは「お前、なんでもいいから働け」とよく言った。Bからは「お前、日本に出稼ぎに行け」と。今の日本はあまりに物価が安く、身を粉にして働いても、一度帰ったら、もうこっちに戻れない恐怖があった。バイトは不定期な収入と呼べるものでさえなく、時間ばかり食われて。兄貴からは「お前、面倒見きれない。早くなんとかしろ」と言われ、母さんからは泣かれた。「日本なら何しても働けるでしょ、あなたあんなにしっかりしてて、兄弟の中でも一番優秀だったのに、あの頃のあなたはどこに行ったの?」


 Bも俺も、激しい荒波の中を漂流してるようだった。思えば、ホテルを一緒にやろうとBは言ったり、俺自身がもうちょっとエネルギーがあれば、2人なら実現できてたんだろうか。俺は、自信がなかった。何故ないのか、その理由は、俺が本当にやりたいことじゃなかったなんていう、単純な理由かもしれなかったが、とにかく俺には「うまくいきそうなこと」と「うまくいかなさそうなこと」くらい、最初から見分けがついた。そして「うまくいきそうな予感がすること」を必ず選択したのに、今のような状況に陥ってるということは「この今の状況が必ず必要だということだ」と感じて、こんなに辛いが仕方ないじゃないか、と心のどこかで思っていた。


 実際の俺の生活具合を冷静に思うと、本当、俺ってどうしようもない。黙ってさっさと死ねばいいものを、と思う。随分前のことだが、こんな時、あの先生の言った言葉を思い出す。


 「俺さ、大学何年も留年して、麻雀ばっかやってた。親を心配させて」


 当時、どうして俺にそんなこと言うのか、俺は気づいてなかった。先生は春の小道を歩きながら、「そんな俺も、やっと親に顔向けできるようになった」と言った。先生は立派だよ。紛れもなく。俺は本当に意外で、なんと言っていいか、言葉を失ったのを覚えてる。先生、俺が将来、今みたいになることを見越して、あの時、俺にそんなこと言ったのかな。


 先生は結局、今、最高学府の教授にまで登りつめた。先生と俺じゃ、とても似ても似つかない、とてもじゃないが、おこがましくて、同じふうに並べられない。でも俺は先生の言葉を「これはエールなのかな」と辛い時、ふと思い出す。何でも自分に都合よく捉えるのは、本当に人間の自己防衛本能のなせる技と思うが、こんな俺も、いつか先生みたいに「俺ももうダメかと思ったが、やっと何とかなった」と、胸を張って言えるようになれるんだろうか。

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