第七章 精霊の国からの脱出④
カイエン人がかけてきた言葉は少し長かった。意味は分からなかったが「やあ」とか「こんにちは」などの挨拶だけではなく、近況か何かを訊ねたのだろう。このまま黙って通り過ぎれば相手の機嫌を損ねるかもしれない。しかし、相手の言葉はククルトにも分からない方だったので、返す言葉が分からない。
ミリアムはカウロのあしを掴んでいた手を空けた。相手が沈黙に疑念を抱いて近づいてきたとき剣を使えるように。帰るためだから──震えてきた手に心の中で言い聞かせる。
『下半身にも神経を集中させたほうがいい』ククルトが静かに助言してきた。『仲間を呼ぼうとしたときは、あっちの舟まで飛ぶのだ。覚悟してくれ』
だが、返事はあったのだ。ミリアムの頭上から。カウロの声だ。
驚いて上を見たミリアムは息をのんだ。一瞬、カウロの目がいつもより大きくなり、喉が膨れたような気がしたからだ。見間違いかとミリアムが慌てて目を瞬かせると、カウロはいつものカウロだった。担いでいるカイエン人の顔と見誤ったのだろうか──ミリアムが見つめ直していると、カウロは視線をそらして黙っていた。
相手は機嫌よく短い言葉を残して、ミリアム達の舟の後ろを横切って対岸の方へ進み、天井の血晶岩塩のほのかな光が星明りのように降る中、薄闇に消えていった。
ミリアムは一旦安堵の息をついたが、カウロから目が離せなかった。ファニもカウロを凝視していた。そっぽを向いて二人の疑惑の視線に耐えていたカウロだったが、ファニが石斧の刃を少し持ち上げると、唇を震わせながらしゃべりだした。
「お前たちには分からないんだな」
カウロは半泣きか半笑いか、どちらにも取れない顔をしていた。
「うちの年寄りたちがたまに使う言葉とよく似ているんだ。故郷の言葉だと言っていた。村から嫁いだ母さんには分からない。婆さんたちがうんと遠くから嫁いできたからだと思っていた。でも、ロス家のお前ならしゃべれるって。喉の奥の袋を震わせて声を出すんだって」
ファニはふんと鼻をならした。
「やっぱりあんたはこいつらの仲間だったんだ」
「黙れ。違う」
カウロは真っ赤になって、ファニの顔へ手を振り上げた。
だが、カウロの平手はファニの目前を空振った。カウロはカイエン人の体ごとぐるりと半回転して、船尾へとゆっくり動き出した。担いでいるカイエン人の足で歩いていた。
死んだと思っていたカイエン人が生きていたのだ。
カウロが手足を突っぱねて抵抗したが、死者の歩みは止まらない。
「なんとかしてくれ!」カウロが喚いた。
ミリアムがカイエン人の足にしがみつく。カイエン人は二人を引きずった重たい歩みで船の端へ向かった。苦痛の呻きを吐き、友人が去った方へ手を伸ばした。
ぐしゃりと何かがつぶれた音がして、脱力したカイエン人がカウロごとミリアムの上へ倒れてきた。そのまま鋭くたたきつける衝撃が何度もカイエン人の体ごしに伝わってくる。ミリアムは身を縮めて耐えた。
ミリアムとカウロが動かなくなったカイエン人の下から這い出してくると、濃い血色のしぶきを浴びたファニが鬼の形相でこちらを見下ろしていた。カイエン人の背中にはファニの鉈が刺さって赤黒い液体の泉を作っていた。
「ほんと、いい加減に──」
肩で息をしながらファニが何か言おうとしたが、その頬を横切ったナイフが言葉を遮った。
声をかけたカイエン人が戻ってきていた。片手で操舵し、もう片手でナイフを構え、大きな目を見開き、敵意むき出しのうなり声をあげている。カウロを助けるのに必死で、周囲に気を配る余裕などなかった。
再び投げられたナイフを、前に出たミリアムが剣で落とす。
相手のひときわ高くあげられた雄たけびが、広い洞内にこだました。
一呼吸おいて、暗い左右の岸辺から高まった殺気が津波のように押し寄せた。雄たけびに同調した声が船出の銅鑼となり、ぎらぎらと輝く数多の目玉がこちらに漕ぎだしてくる。
絶望している暇はなかった。目の前のカイエン人が舟をぶつけてきた。
ミリアム達がよろめいた隙に相手は櫂を振り上げてきた。間一髪かいくぐったミリアムが剣で薙ぐ。避けたカイエン人が水に落ちた。
『奴はかすり傷だ。油断するな』
ミリアムは刺さった相手の舟を蹴り離し、水面に目を走らせた。鞄からカンテラを取り出してかざす。奴は見当たらなかった。
押し寄せてくる船団はまだ距離があったが、どんどん迫ってきていた。明りも大きく増えてきている。
ミリアムはククルトに尋ねた。
『あなたの力であいつらを相手にできないの?』
ククルトはばつが悪そうに『足場が気に食わぬ。水はどうもよくない』と答えた。
水に落ちた奴は自分の舟のすぐ傍に顔を出した。さっきとうってかわって一人で突っ込んできた気迫はなく、ひどく取り乱していた。ミリアム達には見向きもせず、仲間のいる岸へ哀れな声をあげながら自分の舟に上がろうと船縁に手をかけたが、トプンと……ただトプンと水音一つ残して、水中に吸い込まれた。
「溺れたのかな」
「一匹溺れたからってなんだっていうのよ」
舟の真ん中で座り込んでいたファニが呟いた。
「もう終わりよ。この亡骸を見てあいつらはますます怒り狂う」
しかし、ミリアムには追撃が鈍ったように見えた。溺れた仲間の姿に衝撃を受けたのだろうか。そのすきにミリアムは逃げる先を探した。
『ミリィ。あの辺から少し冷たい風が吹いてくる』
ククルトの視線を追って、ミリアムは前方の壁に注目した。
血晶岩塩の小さな光が密集しているところがあった。それは卵塔の根が束になっていることを示していた。ぼんやりと明るくなっているそこに目をこらしてみると、卵塔の根が集まっているそこは、大河が緩やかに蛇行して削った壁にあいた小さなトンネルになっているのがわかった。どこか見覚えがある。来る時にくぐってきた水路の屋根にも根がはっていた。流れは厳しいが、トンネルへの距離はそう遠くない。
「カウロ、舟をあそこへ動かして」
カウロはしりもちをついたまま反応がなかった。
ミリアムはカウロの漕ぎ方をまねて櫓腕を左右に振った。櫓にまとわりつく水は想像より重く硬かった。舟は波に揺られながらのろのろと進んだ。
「今更どこへ逃げるっていうのよ」
またファニが呟いた。ミリアムはファニを見ないように前だけを向いて漕ぎながら、自分に言い聞かせるように言った。
「あの水路に逃げるの。狭くて大勢は入れないから。あれが最初に通ってきたトンネルなら、カウロのおじさんたちがいる扉まで行けたらいいなあ、と思って」
ファニは尻に火が付いたように飛び上がり、船底に転がっていた櫂で舟の横側からがむしゃらにかき始めた。
舳先が回転して迷走しそうになったが、カウロが反対側からもう一つの櫂で漕ぎ出すと、舟はまたまっすぐに、しかもなかなかの速度で進み始めた。
ミリアムは自分の足より太い櫓を全身の体重移動で操りながら、後方から追ってきているはずの船団を観察した。彼らはまだ動かず、距離がだいぶ離れてきている。
ファニとカウロは漕ぎながら互いに怒鳴りあった。
「あんたまでなんで逃げるのよ。あいつらの仲間でしょ!」
「お、俺はあいつらの仲間じゃない」
カウロは今度はちゃんと泣いていた。
「俺はあんな怪物なんかじゃない。俺は村で、シエラと結婚して、幸せに暮らすんだ」
「まだそんなこと言ってるの。あたしをこんな目に遭わせた女とよく結婚できるわね」
「それに早くここから逃げないと。恐ろしいものがくるんだ。あいつらが怯えるほど。あいつが『俺たちの血を嗅ぎつけた』と言ってた」
「あいつってあの溺れた奴? やっぱりあんたはあいつらと同類よ!」
「違う!」
『ククルト本当?』
『さあな。?子がなにか、我には分からん』
突然ミリアムは前につんのめって水路に落ちそうになった。櫓が動かなくなったのだ。舟の速度はみるみる落ちていった。何に引っかかったのか、押しても引いてもびくともしない。カイエン人たちはまだ停滞気味だが、いつ追撃を再開するかわからない。ミリアムは船団を窺いながら、引っかかった何かを外そうとあらん限りの力で櫓を揺さぶった。
「ミリィ、ちゃんと漕い──」ファニが文句を言いかけたが、急に悲鳴を上げて飛びずさった。
「い、今、何かにここ食べられた!」
ファニが震えながら指さした上着の袖は、肩からちぎられていた。
「もう少しで手を食べられるところだった!」
腕は無傷だった。しかし、ファニが櫂から手を離して川に落としていることに、ミリアムは悲鳴をあげそうになった。
「なにやってんだお前は」
代わりにカウロが怒鳴りながら駆け寄って、川に流れてしまっていた櫂を取ろうと自分の櫂を水面にのばしたが、「うわ」カウロも短い声をあげて櫂を引っ込めた。
「なにかいる。俺の櫂もなにかに引っ張られた!」
ミリアムは頑なに動かない櫓の微かに山なりになっている曲線を、船尾から水に潜る先まで目でなぞっていった。櫓の長さは乗っている舟と同じくらいあって、水没する辺りはほの暗さのベールで隠されている。ミリアムは魔法でカンテラに火を入れて高くかざした。
櫓の近くに、ミリアムが座れそうなくらい大きな平べったい盆のような頭が、水面すれすれに浮いていた。表面は暗褐色と黄褐色のまだら模様で、黒く濁った水にすっかり溶け込んでいたが、左右に二つずつある小さな目が光を反射したおかげで輪郭が露わになっていた。こいつが櫓を水面下で押さえるか何かしているのだ。そうとしか思えない。
「こら放せ! 放して!」
ミリアムはまだらの生き物を怒鳴りつけながら櫓腕を強くたたいた。櫓の振動が伝わって、カンテラの灯がちらちら漂うだけだった水面に白波がたつ。しかし、まだらの生き物は全く動じず、むしろ四つの目でミリアムを観察して面白がっているようだ。
逆に舟の方が大きく傾ぎ、ミリアム達はまた投げ出されそうになった。
ファニがいる方とは反対側の船縁に赤ん坊のように短い指の小さな手がかかり、大きく平らな頭の怪物がぬっと顔を出した。まだらの模様、四つの小さな目。小さな手二本で大きな体を舟の縁まで持ち上げ、舟に乗りこもうとしてくる。舟は更に傾いて、今にも浸水しそうだ。
ミリアムはバランスをとりながら急いで怪物の所へ向かうと、平たい頭に切りつけた。まだらのぬめった皮膚はぼよんと弾んで刃を跳ね返し、ミリアムはひっくり返った。
怪物は四つの目を鋭く光らせてミリアムを威嚇しながら、鈍重な動きで船上に上がってきた。ミリアムを丸ごと飲めそうな太い体は、頭と同じく平らに均されていて、まるでつぶれたトカゲだ。後足も前足と同じ赤子の手のごとくで、多少立体的な長い尾はまだ半分水中に隠れている。怪物はカイエン人の死体に寄っていくと、あくびをするようにのんびりと大口を開けた。口は黒い頭の後ろ、首近くまで裂けた。上下に並ぶ白い小粒の歯と鮮やかな肉色の太い舌の照りを見せつけながらカイエン人の腕にかぶりついた。
とっさに沸き上がった嫌悪感でミリアムはカンテラを怪物へ突きつけた。
「光れ!」
灯がパッとはじけたとたん、怪物は素早く身をひるがえして水中にもぐった。はずみで舟は大きく跳ね、三人は船底に強く打ち付けられた。きしむ体をなんとか起こすと、四方にまだらの怪物が何匹も浮上していて、水面を漂う青黒い血しぶきをなめていた。それはさっきの怪物が食いちぎった死体のものだ。
なめ終えた怪物たちは舟に寄ってきた。彼らは短い指を舟の縁にひっかけ、我先に舟に乗り込もうとして大きな頭で互いに押し合った。舟は手加減を知らない赤子にもてあそばれるようにざぼざぼと揺らされ、ミリアム達は船底を転がり回った。大きなカイエン人の死体も転がった。それを見た怪物は、それを自分の近くに引き寄せようとさらに舟を揺さぶった。
ミリアムは舟板にしがみつきながらカンテラを怪物たちの方へ掲げ、カンテラの魔石に火の魔方陣を思い念じた。
「光れ!」
カンテラが強く光ると、近くの怪物は目がくらんで退いた。だが、すぐ別の怪物が寄ってくる。
「光れ!」
「ミリアムこっちだ!」
カウロは櫂を振り回して怪物をけん制している。ミリアムはカウロの方へカンテラを向けて唱えた。
「光れ!」
「助けて!」
ファニはまた上着の裾を怪物に噛まれて引き寄せられている。
「光れ!」
「服を脱げ! それについた血が奴らを引き寄せるんだ」
ファニが上着を脱いで遠くに投げると、それにつられて何匹か泳いでいったが、別の怪物がまたすぐに押し寄せてきた。
「光れ! 光れ!」
ミリアムは強く念じ続けた。念じる毎にカンテラの魔石にオルト婆から教わった火の魔方陣を重ねる。重ねた分、光は強くなっていく。
魔法の火は、術者の能力や魔石の許容量によっても灯る時間は変わってくる。許容量を超えた魔方陣を込めると、その分の陣は消滅したり全体が変質したりと変化をする。そこを調整して目的の魔法に変えるのが魔導士の腕なのだが、ミリアムはまだそれを知らなかった。ひたすら念じ、光が消えないように火の陣を重ね、四方から寄ってくる怪物へカンテラを突き出し続けた。
カウロは怪物を叩きまくり、ファニはカイエン人の死体の服をちぎって遠く投げるなどして怪物の気を逸らした。三人とも本当はカイエン人の死体を放り投げたかったが、重いのと足場がゆれるのとですぐにはできない。油断すると、怪物は舟に乗り込もうとしてくる。この肉食の怪物が自分たちを絶対に食べないという考えは三人には浮かばなかった。それに、カイエン人の船団も近くにいるのだ。
光はミリアムが片腕で顔を覆うほど眩しく熱くなってきていたが、カンテラを掲げるのをやめるわけにはいかなかった。怪物は光に怯えながら、舟の周りをうろついていた。
小さな魔石の容量をはるかに上回る異常な密度で重ねられた魔方陣は、圧縮され溶け合い、不純物を飛ばし、より高密度で複雑な魔方陣を編成し、その位相の意思を持つに至った。
生まれたものは外に尋ねていた──私は何のために生まれたのか、何をするべきか……
ミリアムは魔導士の素質でその問いを感じ、悟った。オルト婆や先生が魔法を使う時感じていたものを自分も感じているのだということを。これをどうすればいいのか、教えてくれる人は今そばにいない。
『思い出せ。オルト婆たちが何をしていたかを』
そうか、この時唱えるのだ。オルト婆や先生がよく唱えていた言葉。目的によって呪文は変わるけれど、二人がよく使う言葉があった。「わが手で育まれしものよ……」
──ねえ、私に何をしてほしいの?
ミリアムは応えた。
「私の手で育まれしものよ、力を解き放て。私の敵を倒すために!」
魔石の中で生まれたものは、創造主の言葉に従い、己の力を解き放った。
光が一瞬、舟を飲み込むほど強く輝いた。
そして急速に収縮した。
荷重の限界を超えた魔石が崩壊したためだ。依り代としていた物質──この世界に己の存在を確かにするもの──が失われ、小さな存在も消えようとしていた。未熟な魔導士の脆弱な魔力だけでは、光るだけで精いっぱいの存在だった。
それはククルトにもわかっていた。冷静に加勢の機会をうかがっていた。また下手を打って守り人を気絶させ、無防備にさせるわけにはいかない。
だから、天井の卵塔の枝に生っていた無数の血晶岩塩の粒が落ちてきたとき、すぐにミリアムの魔法に後押しができた。魔石が崩れ落ちた時に。血晶岩塩が雨のように降ってきた時に。魔法でできた存在が消えんとした時に、ほんの少し自分の力を加えることができた。
まだ怪物の目がくらんで茫然とし、ミリアム達の瞼に白い残光がにじんでいる、そんな刹那だった。
なぜこの時血晶岩塩が落ちてきたのか、ククルトにも分からない。分からないと思うより前に好機と思った。警戒する前にそれにすがった。
ククルトの影響で消滅はせずとも不安定になった魔法の存在は、再び最小単位の魔方陣に分解された。魔方陣の群は魔石に近い性質を持つ上空の血晶岩塩と引き合って次々に結合して新たな依り代を得て安定すると、連鎖的に魔導士が欲しがる特殊な岩塩の魔力と反応して持っていた基本的な能力を発揮した。
ミリアム達が視力を回復すると、頭上には炎の天幕が広がり、血晶岩塩を核とした火の弾が降り注いできた。驚いた怪物たちは急いで水中に潜った。多くが一度に身をひるがえしたためにたくさんの波がたち、ミリアム達の舟はあっという間に横倒しになった。
ククルトが『余計なことしたかな』と言うのを聞きながら、ミリアムは水中に投げ出された。
ミリアムは慣れない水の中で必死に手足を動かした。足下では、自重でどんどん沈んでいくカイエン人の死体に四つ足の怪物たちが群がり、たちまち食い尽くしてしまった。ミリアムは死に物狂いで水をかいた。
ところが、怪物たちはミリアムには目もくれず、体に似合わない俊敏な泳ぎで船団の方へ行き、突如降り注いだ流星雨に驚き水中に飛び込んでしまったカイエン人たちを追いかけた。カイエン人たちの泳ぎも巧みだったが、怪物たちはそれ以上に速く、逃げまどうカイエン人たちをいとも簡単に巨大な口で捉えていく。餌食となったカイエン人の数だけ河の流れに血の帯がたなびいた。
『奴らのことは気にするな。ここの水はしょっぱいぞ。体の力を抜いたらぽかんと浮かんでくるはずだ』
ククルトの言う通りにすると、本当に体が持ち上がっていく気がした。ミリアムはそのままゆっくり手足をひらひらさせ、上から飛び込んでくる熱い血晶岩塩を縄張り争いをする鷹になったつもりでかわしていくと、なんとか水面に顔を出すことができた。
河の上も混乱極まっていた。まだぽつぽつ落ちてくる火の石と追うものと追われるものの喧騒で水面は泡立ち、岩盤に反響する悲鳴が洞内に充満していた。奴らもだれもが自分のことで精一杯で、ミリアム達にかまうどころではなさそうだ。
一緒に投げだされたはずのファニやカウロの姿は見当たらなかった。
「ファニ! カウロ!」
大声で呼んでみたが何も返ってこない。
ミリアム達の舟は見事にひっくり返っていたが、幸いにもこの近くで浮いていた。ミリアムは水を飲みそうになりながら泳ぎ、なんとか舟にしがみつくことができた。
ミリアムが残った力を振り絞って舟の上に這い上がろうとすると、懐で何かがぱちんとはじけてむくむくと動いた。服の内ポケットに入れていたガナンの実だ。
ミリアムはやっとのことで舟によじのぼると、白く柔らかい実の中身は水を吸ってふやけた殻からするりと抜けて河の流れに飛び込んでいった。両手一抱えほどの大きさになって、まばらに生えている短い鞭毛をくねらせ、荒波の中をふらふら泳ぎまわっている。
「危ないよ。こっちにおいで」
思わずミリアムが声をかけたとたん──案の定、狙いすましたかのように落ちてきた血晶岩塩の粒がガナンに衝突した。ジュッと焼き印を押したような音がして、ガナンの実は二つに割れた。ミリアムの目から涙が出た。割れた実は、四つ、八つ、十六と次々に分割しながらゆっくりと沈む。ゆらめく火の弾と共に暗黒の底へ白い影が消えていくまで、ミリアムはただ見ることしかできない暇を味わった。途中、ファニとカウロの幻が重なって、胸の内をぞっとする冷たい風が吹いた。──あの二人もこんな風に沈んだのかしら。あんな人たちでも最後は協力して舟を漕いだのに──風は虚無を生んでミリアムの全身を蝕み、これまでなんとか動いてきたミリアムは水面を見下ろしたまま動けなくなった。
周囲の騒ぎは収まりつつあった。ここの結界を破るときのような司祭の声が降ってくると、怪物たちはなりを潜め河面は静まっていき、代わりに川下のほうから新たな船団がやってきた。
たくましいカイエン人が泳ぎながら曳く馬車のような舟の船団で、先頭に立つ黒い影はブランボの形をしている。
『ミリアム』
ククルトが声をかけても、ミリアムはうまく返事をすることができなかった。口にも、いつも密かにククルトと会話していた心にも力が入らなかった。手足も神経が抜けたように動かなかった。頭の中でさっき見た白い影が自分に代わっていた。
『そんなことにはさせんぞ』
ククルトがミリアムの体を動かそうともがくが、空回りしていた。疲労と絶望でククルトの力が通らない。
『封印もう少し緩みやがれ。魔導士の呪文が、ここに満ちるあいつの力がねばりつく!』
ひょっこりと、痩せた白いカイエン人がひっくり返った舟の縁に顔を出しても、ミリアムはぼーっとしていた。カイエン人はすぐにミリアムを襲おうとはせず、じっとこちらを見ていた。
『こっちに来るな!』
ククルトは盛んに喚いたが、その声はミリアムの体だけに響くのみだ。
突如、カイエン人は水面下から体を出すと、長い腕でミリアムを引き込んだ。
ざぶん!──水に落ちた衝撃と溺れるという恐怖がミリアムの体にスイッチを入れた。ミリアムはきしむ手足で不器用にもがいた。大柄な大人ほどあったカイエン人はミリアムを楽々と引きずり、舟の下へもっていった。ひっくり返った舟の下には空気が溜まっていた。カイエン人はそこにミリアムを放り投げるように顔を出させた。
ミリアムは盛んに喘いでありがたく空気を吸った。突然のことで肺に空気をためることもできていなかったのだ。息苦しさで自分がまだ生きている、もがく力が残っていることを意識した。
行動は荒いが、カイエン人自身の表情は穏やかだった。穏やかではあったが、何かを隠しているような、無風な草原に潜み、生き残りをかけてけん制し合っている小動物の緊迫感があった。長い年月と過酷な環境で刻まれた皺だらけの顔の奥から見た目では測れない何かがこちらを探っていた。
油断ならない相手だと思ったが、ミリアムは不安をどうにかしたかった。自分が正気に返っても周りは変わっていないのだ。怖かったが、不安をぬぐうためには目の前の相手と対峙するしかない。
「あの、ここにいれば、見つからないのでしょうか」
おそるおそる発した質問に、カイエン人はゆっくり首を左右に振った。そして、口先でついばむように小さく何か言い始めた。ミリアムは何とか聞き取ろうと耳をそばだてた。
『これは我が分かるほうの言葉だ。(あなたが、ガナンを連れてきてくれたから、集まれる。あなたは役に立ちそうだし、同じだから、つながれる、と思う)と言っているんじゃないか』
ククルトが訳した言葉を反芻してもなにもわからない。
カイエン人の舟が迫ってくる音が聞こえた気がして、ミリアムは狭い空間を見回した。
それを見たカイエン人はゆっくりミリアムの左手を指さした。ククルトが宿っている方。それから、自分の頭頂部も指さした。ここだけつるりとした皮膚に血晶岩塩の粒が埋まっていた。
今のミリアムの心臓の音のような、どーんどーんと響く振動が足下から伝わってきた。
それに気づいたカイエン人が身を折り曲げ潜水する。急いでミリアムは顔だけ水につけ、カイエン人の姿を追った。
カイエン人は下で渦巻く水流に向かって泳いで消えた。
大きくなった水流はすぐにミリアムも巻き込んだ。砕かれた舟の破片もろとも。本能的に体を丸めると、ククルトの力が体を覆う。苦手な水をなんとか弾き返そうとしている。
底に沈んでいるはずなのにどこか浮遊感があった。死ぬときだからだとミリアムは冷めた頭で考えた。
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