第五章 黒い魔導士とトリクシー④
陽の光が頬に当たるのを感じてミリアムは目を覚ました。気分はだいぶ落ち着いていたが、頭はまだ重い。体の中ではククルトが触角を揺らして調子を取りながら鼻腔や口唇を震わせて小さなハミングを奏でている。頭痛を打ち消せそうな心地よいリズムだった。
横で寝ていたはずのトリクシーはすでに起きて着替えていて、クローゼットの扉の鏡に向かって髪を編んでいた。
「おはよう、ミリィ」トリクシーは編む手を休めずにこっちを見た。「具合はどう? 昨日よりは顔色は良さそうだけど」
「おはよう。昨日よりはいいわ。でも、まだふらふらするみたい」
実際ミリアムが上半身を起こすと、目の前の壁が半回転した気がした。身支度を終えたトリクシーはミリアムを支えてくれた。
「さっき朝ごはんの用意ができたって知らせが来たよ。ミリィの分もあるみたいだけど、どうする?」
「まだ、何も食べたくないけど……」
「じゃあ、無理をしない方がいいね。私一人で行ってくるからまだ寝ていてよ。おばあちゃんの家に行く話もしてくるから」
ミリアムはトリクシーの言うことを聞くことにして、再び体をベッドに横たえ目をつぶった。
トリクシーがそっと出ていくドアの音がした。
ミリアムは瞼を閉じたままククルトに話しかけた。
『ククルト、その歌はなに? ゆうべ誰かに教わったの?』
ククルトは答えらしいものは何も示さず、ハミングを続けた。
ミリアムはそのまま眠りに落ちた。
再び目覚めたのは、ドアが軽くたたかれた音を聞いたからだ。ノブがカチャリと回って、ミリアムははっとして体が跳ね起きた。
よっこいしょという掛け声とともに両手にお盆を持ったトリクシーがお尻でドアを押して入ってきた。お盆の上には木の蓋を被せた陶器のスープ皿と銀のスプーンが乗っていた。蓋の隙間から漏れる湯気のおいしそうな匂いにミリアムのお腹がぐうと鳴ると、トリクシーはニッと笑った。
「起きてた? お粥を作ってもらったんだけど、どうかな」
「ありがとう。今なら食べられそう」
ミリアムは今度はしっかりと体を起こすことができた。ベッドの縁に座り、膝の上にお盆を置いてもらってスープ皿の蓋を開けると、甘い湯気の塊がほわりとミリアムの顔を覆って鼻をくすぐった。ミルクでとろとろに煮込まれたパン粥を一さじすくってそっとすする。口の中でよく咀嚼して唾液と混ぜ合わせ飲み込むとえずくことなく胃に入っていく。体は受け付けてくれるようだ。
ミリアムがゆっくり食べている間、トリクシーはオルト婆のところに行く許可が取れたことを話してくれた。
食事の会場に夫人と一緒にごきげんで現れたディエノにミリアムの状態とオルト婆の治療の必要を伝えると、
「ブランボ様に診てもらえばいいじゃないですか。うちの中の面倒をわざわざ外へ持ち出さなくったっていい。もううちには魔導士がいるんだから」
と、取りつく島もなかったのだが、トリクシーは譲らなかった。
「私たちの立場でいえば、私たちの連れてきた使い魔が暴れてこうなったのだから謝罪の意味も込めて最善を尽くしたいのです。それに、どのみち私はオルトという魔導士に会わなければならない。イセルダ様から託された御用があるのです。お孫さんに傷を負わせてしまったままでは気持ちよくお願いできません」
「そうなんですか、ブランボ様」
「確かにトリクシーはイセルダ様から直々に受けた御用がある。相手が優秀な魔導士ならば昨夜の騒ぎを感じ取っているかもしれん。ごねるかもしれんな」
ディエノは自分の感情を断ち切るように深くため息をついてから「わかりました。乗り物を用意させましょう」と言って、朝食のパンを自分の口に押し込んだのだった。
「食べ終わったら出かける準備をして、下で待っていようよ」
トリクシーの元気な声につられてミリアムも大きく頷いた。トリクシーが『奥様』と呼ぶ魔導士に頼りにされる理由が分かった気がした。パン粥もするするとお腹に収まっていく。ミリアムは結局全部平らげてしまった。
それからすぐ荷物の整理を始めた。治療を理由に何日か泊まることができるからだ。先生からもらった剣を司祭の部屋に置いてきたことが心残りだった。ククルトは起きてから食事中も準備をしている間もずっと変わらずぶんぶんと何かを口ずさんでいたが、トリクシーと他愛もないおしゃべりをしていると全く気にならなかった。
「おばあちゃんに何をお願いするつもりなの?」
「奥様が欲しがっている薬の生成とお茶よ。すごい値段したらどうしよう。ブランボからお金貸してもらわなきゃ」
「私の友だちだから大丈夫って言いたいけど、おばあちゃんは商売には厳しいから……」
「そこんとこお口添えお願いします」
二人は肩から荷物を入れた鞄を下げて──トリクシーは腰にブラスナックルも下げ──部屋を出るとゲストハウスの玄関へ降りていった。
玄関にはすでにカウロと四人の青年が待っていた。四人の青年たちはミリアム達が近づくとおびえたように二、三歩後ろに下がった。残ったカウロの傍らには背もたれ付きの椅子の両脇に長柄を取り付けた輿が二挺そろえてあった。
「これに乗っていくの?」
ミリアムとトリクシーは顔を見合わせた。カウロたちにかしずかれるようにして村の通りを進むなんて顔から火が出そうだ。
「歩けないくらい気分が悪いと聞いたんで。それなら馬は無理だと思いまして」
憮然としたカウロが説明した。
「気分が悪いのは本当です。でも馬には乗れます」
あわててミリアムが釈明する。
「私の馬を持ってきて。私がミリィを支えながら乗るわ」
トリクシーもそう付け加えた。
「それなら、おい、これはしまって、馬を。俺の馬と客人の馬を出してこい」
カウロが青年たちに命じると、すぐに輿は持ち去られ馬が連れてこられた。
「途中でめまいをおこして落ちても困るから俺もついていくぞ」
「勝手にどうぞ」
トリクシーは自分の馬にまたがり、ミリアムを引き上げて自分の前に座らせた。そして、カウロが馬に乗って青年たちに何か言っている間に,馬の腹を蹴って走らせた。トリクシーのブラスナックルがカチャカチャとかち鳴る。植木を飛び越え,屋敷の門までほぼ一直線だ。
「ミリィ、道を教えて」
ミリィが村の通りへ行く道を指し示すとトリクシーは素早く馬の首をそちらに向けて進む。カウロが「おてんばめ」と毒づきながら二頭分ほど後からついてくる。
村の家々に面した道を通るときは、エルテペほどではないにしろ村人の往来があるので、さすがに速度を落とした。早くオルトの家に着きたい二人は速度を落としたくなかったのだが、氷河に削られた斜面のわずかな平地に張り付くように作られた道路からそれると、馬が岩を踏んだり滑ったりして足を痛める危険があった。
遊びながら好奇心いっぱいの瞳で見上げる子供や戸口でけげんそうにこちらを伺う老人が目につく。手を振ってくる幼児にトリクシーも手を振って応えた。村人は知りたいことを後ろのカウロに尋ねた。
「カウロさん、お急ぎでどちらまで」
「オルトの小屋にお客人を案内するところだ」
「あの魔女は最近特に機嫌が悪い。カウロさん、お気をつけなさい」
村人の家々がまばらになり、村の入り口の門が近づいてくると、門の先の丘の上にこの辺ではロスアクアスの庭にしかなかった背の高い木々がこんもりと繁る緑の塊が見えてきた。オルトの薬樹園だ。その緑の下草をかき分けてオルトがひょっこり顔を出した。ミリアムの胸に何年も離れていたかのような痛いほどの懐かしさがあふれてきた。
オルトは馬に気づくと、薬樹園の丘の斜面をよろめく足で下ってこようとした。
「おばあちゃん無理しないで。そこにいて」
馬上でミリアムは声を張り上げた──つもりだったが、自分でも声に力が入らず、オルトの耳まで届いていないのがわかった。トリクシーも街道をそれ、馬が砂利で滑らないように慎重に手綱を操る。
薬樹園の入り口近くで馬と息も切れ切れのオルトははち合わせた。
「ど、どうしたかね。や、やっぱり昨夜何かあったかい」
「おばあさん落ち着いてください。ミリィより先におばあさんがたおれちゃう」
トリクシーはミリアムが馬から降りるのを手伝いながら老婆をなだめた。
「もう大丈夫ですか、おばあさん。私はトリクシーといいます。はじめまして」
「ミリィからいつも話を聞いていたよ。会いたいと思っていた。一体何があったんだ。あいつには雷とか投げなくてもいいのかね」
ミリアムとトリクシーが振り向くと、カウロが追いついてきたところだった。カウロは右手を上げて自分を睨むオルトを牽制した。
「おっと炎だの雷だの投げつけないでくれよ。俺はただ
「おやそうかい。じゃ、炎を投げる前にうちの子の有様の訳を聞かせてもらおうか」
「わけはこの都の魔導士の侍女に聞いてくれ。俺たちは関係ない。まったく、お客とはいえおてんばで口が達者なところはあんたと気が合いそうだよ」
「ほうほう。なら早速邪魔者のいない私の家で話を聞いてみようかね」
「ロスアクアスの俺を邪魔者扱いとは……まあいいや。今日はここまでだ。義妹が治ったころに迎えにくる。もう、お前の娘じゃないんだ、丁重に扱えよ。村じゃ呪われ子の厄介者だが、ブランボ様たちには貴重なやつらしい。それにこのくらいの生意気さ、都では珍しくないらしいや」
「そう簡単に絆が切れてたまるかね。もう行きな」
カウロが砂埃を巻き上げながら去ったあと、オルトは涙ぐみながらミリアムの両手をぎゅっと握った。
「一体何があったんだね、こんなに弱って。ひどい仕打ちを受けたのかい。それともククルトがどうかしたのかい?」
「おばあさんごめんなさい。私たちが悪いんです」
トリクシーがふらつくミリアムを支えながら頭を下げた。
「理由は話します。とりあえずミリィをおうちで休ませていいですか」
「こっちだよ」
オルト婆もミリアムの手を引きながらゆっくり案内した。
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