第一章 ミリアムのソロ村①
オルエンデス地方はこの大陸で最も高い所にあると、ミリアムは教えてもらったことがある。生まれてから12年間ずっとオルエンデスだけで暮らしてきたミリアムでも、確かにそうかもしれないと思うことがある。
オルエンデスの空気は薄く冷たく乾燥しているが、少し下ったエルテペの町に行くと、暖かく湿ってねっとり濃くなるような気がする。太陽の光もミリアムの村の方がじりじりと肌に焼きついてきて、幾分太陽に近い感じがする。
それにこの辺りはとても風光明媚な所らしかった。稀に出会う旅人は皆、彼方にそびえるオルエンデス山脈の雄大さ、高原植物が広がる草原の美しさを褒めた。
だが、夏でも朝晩は寒く、やせて作物の育たない土地での生活は並大抵のことではない。まだ子供のミリアムが、今、百頭の毛長ヤギを谷間の放牧地に連れてきているのも家計の足しにするためだ。住んでいる村は、あの讃えられるオルエンデスの山の中腹に塩や鉱物の採掘抗を掘ってなんとか糧を得ている。なだらかな斜面の間に広がるこの放牧地は草花が碧く輝き、真ん中を流れる小川と一緒に緑のじゅうたんがすそ野まで広がるさまはとても開放的で、ミリアムは大好きだったが、どんなに美しい景色が広がっていても、埃まみれのひなびた村や日々の過酷な生活の中を思うと、故郷への誇りのようなものは芽生えなかった。
ミリアムは肌を焼く太陽光を防ぐつば広の帽子と乾燥した風から喉を守るスカーフの間から空を見上げた。
この日も空は爽快な青だった。雨はめったに降らない。
遠くにはオルエンデスの主役、天に刺さらんと大地から突き上げられた灰色の爪のような険しい山脈の峰々がそびえている。
頂にほとんど雪はなく、山脈の後ろから雲は沸き立っていたが、こちらの方へ流れると、ミリアムの頭上で空に溶け込むように渦を巻いて消えていく。
それを見ていると、高い所にいるはずなのに、ミリアムはまるで自分が深い川底の岩影から水面を眺めている魚になったようで重苦しい気分になった。
遠くの岩峰に沿ってコンドルが飛んでいた。まだ点にしか見えないが、かなり大きい方だ。
ミリアムはコンドルの行く先を見定めようと、草原の小川の川辺に転がっていた大岩の上に登った。
ミリアムが連れてきたヤギ達は小川を中心に散らばって、草を食んだり風をあびて立ちすくんでいたりしている。
オルエンデスのコンドルは獰猛で、弱った動物なら生きていてもつつき殺してしまう。よそのコンドルは死んだ動物の肉しか食べないそうで、オルエンデス産しか知らなかったミリアムは、そんなものかと驚いたことがあった。
ここにいるヤギは、実はほとんどが他人からの預かり物なので、コンドルにつつかれでもしたらたいへんなことになる。
「いあ、ぶるぐ、くふある、たとう。大いなる鳥の王、山の神がお呼びだ……」
ミリアムは、コンドル除けのまじないをつぶやいた。
まじないが効いたのか、コンドルは山陰に隠れて見えなくなった。
しかし、ミリアムはまだ背伸びをして、コンドルが消えた方向を眺めていた。
コンドルはこの重苦しい空気の中、天空の高みへ悠然と舞い上がり、死者の魂を天に運ぶ最も偉大な鳥だ。ヤギさえ連れていなかったら、追いかけて行ったかもしれない。
「ククルト。あんたの翼が私に生えて、あんな風に飛べたらいいのに」
ミリアムは誰かに言った。
『我にとって、飛ぶことは歩くのに等しい当たり前のことだ。飛ぶことを堪能したければ、己の身を保ったままで可能となる方法を考えよ。我の翼が生えるということは、我と同化しそなたがそなたでなくなるということだ。今想像している喜びは得られないであろう』
ミリアムは自分の身の内から聞こえてきた返事に、クスッと笑った。
「真面目に考えてくれたんだね」
『しばらくあの男を見ないので、この問題は重要さを増している』
「そうだね」
身の内の声に答えて、ミリアムはため息をついた。
「おばあちゃんに怒鳴られて追い出されてたもん。もう来ないかもしれない」
ミリアムはこの辺りの住民の一般的な衣装を着ていた。毛長ヤギの毛で織ったケープと膝までのスカート、レギンスに革のブーツで、腰に山刀と投石紐を刷き、長い杖を持っているのが放牧スタイルだ。長い黒髪は三つ編みにして仕事の邪魔にならないようにしている。
ただ、左腕に上腕部まで覆った黒地に金糸で綿密に呪術的な模様を刺繍された籠手のようなものをつけているのはミリアムだけのものだ。
ミリアムは大岩を降りて、傍の川辺に座った。
ヤギを連れてきた草原は、昔、氷河という氷の川で削られた跡だそうだ。川はその名残で、この辺りは雨は降らないが、こうした山から流れてくる川や地下水のお陰で、以外にも水に困ったことはない。
ミリアムは周りを見渡して、ヤギに危険はないか確認すると、そっと目を閉じた。
おのれの意識の底に沈んでいくように感覚を操作すると、金糸で幾重にも縛られ、伏している黒い竜が現れた。
それが、ミリアムの左腕に封じられているククルトだ。
伏していても、肩はミリアムの身長の二倍ほどの高さがある。肩から伸びた皮膜状の翼は金糸で押さえつけられているためにマントのように覆いかぶさっており、尻尾は長く、四肢には鋭い爪がある。竜ではないとククルトは否定するが、ミリアムには伝えどころに聞く竜以外の何物にも思えない。
話と違うこといえば、頭からは虫の触角のように前に垂れた角のようなものが二本出てていて、辺りをうかがうように止まることなくに動いていることや、体の表面が鱗ではなく、なめらかで柔らかいが黒曜石のように艶のある皮膚で覆われていることぐらいだ。
ミリアムが小さい頃はククルトも小さくて、金糸でできた籠の中をパタパタと飛んだりする余裕があったが、今ではこのようにちょっと痛々しい状態になってしまっていた。
「大丈夫なの?」
ミリアムは、両腕でやっと抱えられるくらい大きい頭をそっと撫でた。
『なんのことはない。あの男がもう少し器用に呪紋を描ければ、見た目がすっきりすると思うのだが』
ククルトは気持ちよさそうに瞳のない真黒な目を細めた。
ククルトが”あの男”と呼ぶのは、ミリアムの黒い籠手を作った魔導士のことだ。
この籠手がないと、ミリアムの体は次第に人外のものに変化し、意識もククルトと同化してククルトでもミリアムでもない「別者」になってしまうということだ。
魔導士の男は、赤ん坊のミリアムを古い馴染みのオルト
男がするのは籠手を代えることだけではなかった。
オルエンデスが高い所にあること、谷が氷河に削られてできたこと、この辺にはたくさんいる毛長ヤギがオルエンデス固有の珍しい品種であること等々、ミリアムに様々なことを教えてくれた人だった。ミリアムはその魔導士を”先生”と呼んで、相手をしてくれるのをいつも楽しみにしていた。
幼いころは”お父さん”じゃないかと思った時があったが、ククルトがきっぱりと否定したし、髪の色や顔だちも自分とは違うし、オルト婆も「あの男はそんなへまはしないよ」と言う。”へま”して子供は生まれるのか──と、ミリアムは憤慨したのだが、血縁関係のない人に’お父さん''や''おじさん''はおかしいと思ったので、”先生”という呼び名で落ち着いたのだった。
最近は、籠手の消耗が激しいこともあって、一、二週間に一度くらいの頻度で来ていた。しかも、うちに泊まってくれて、これまでずっとお願いしていた剣の扱いまで教えてくれたのだ。これは、年を取ったオルト婆では教えられないことでもあるので、ミリアムは嬉しくて嬉しくて、先生が帰ってからも、空いた時間にはずっと木刀を振り続けた。オルト婆が「女の子なのに……」と苦々しくつぶやいているのを聞きながら。
最後に先生に会ったのは、一ヶ月以上前になる。
先生は、来て早々ミリアムの籠手を外し、左腕を手に取ってじっと観察した。
左腕は肩の近くまで、ククルトの体のような黒に変色し、弾力はあるが人間の皮膚とは違う質感の上皮となっていた。指や腕の関節近くの皮はたるんで関節を守るかのようにかぶさり、爪の形も細くとがってきている。明らかに症状の進みが早くなっているのが、ミリアムにも分かった。
「先生」
左腕から目を離さず黙っている魔導士に、ミリアムは呼びかけた。
「私、ククルトみたいになるの、平気だよ」
「そして、俺に退治されるか封印されるというわけか」
先生は顔を上げてミリアムを見つめた。
「俺はそんなのごめんだよ。それに、大丈夫だよ。方法はあるんだ」
「ふふふ。左手を切っちゃうとか?」
ミリアムは笑いながら言った。左腕のククルトが目を丸くしているのを感じる。
だが、先生は大まじめだった。
「いや、そう単純じゃないんだ。左腕を切っても、また別の所から変化していくだろう。ミリィとククルトは魂で結びついているんだ。ミリィの魂の左手っぽい所でククルトとつながっているだけで、肉体の左手だけでつながっているわけじゃない。肉体の左手を失っても、魂まで切れる訳じゃなくて……わかるかな?たまたま左腕に出ているけれど、足に出ても顔に出てもおかしくないんだ。だから、左腕を失って、他の……命に係わるところなんかに出られると困るんだよ」
「ククルトが『そうならないように調節してみる』って言ってるよ」
「そうかい。でも、左腕を切るのは無しだ。今話した通り、無駄骨だからな」
先生は持ってきた新しい籠手をミリアムの左腕に被せ、ひもをむすんだ。
「治ったら、ククルトはどうなるの?」
「……家に帰るんじゃないかな」
「ええー! いやだ。ククルトと離れたくないよ! 先生!」
ミリアムの必死の表情を見て、先生のひもを結ぶ手が一瞬止まったが、すぐにのけ反るほどの爆笑になった。
「ハハハ! マジかよ。先生、どうしたらいいんだ?治しちゃっていいのかな……まあ、それはククルトがなんとかするさ。分離できたら、奴も自由だ。今、奴もずい分窮屈な思いをしてるだろう?」
ミリアムはこくっとうなずいた。
「あいつの悪影響は、お前の体にも影響を与えるだろう。とりあえず治さないとな。治せば、みんな解決だ」
「治るの?」
「”治す”さ。俺の顔を見なよ」
先生は自分の顔を指さした。顔には、頬を中心に刺青がある。
顔だけではない。手の指や体や足先まで、先生の全身に籠手と同じような模様が刺青としてあるのをミリアムは知っていた。
「けっこういじってはいるが、こいつはもともと治療痕だ。こう見えて昔はか弱かったんだ。治ったおかげで、できることがたくさん増えた。ミリィ、変化を恐れるなよ」
その夜、ミリアムは、隣の部屋でオルト婆と先生が話し合う声で目を覚ました。二人が夜中までそうしていることは珍しいことではなかったが、途中から様子がおかしくなった。ガタガタとイスが倒れる音がして、オルト婆の声が怒りに震えだし、魔法の稲光の瞬きが寝室のドアの隙間から見えた。
「ちょ、ちょっと待った!オルト、落ち着け!」
「出ていけ! 二度とうちの敷居をまたぐんじゃないよ!」
ミリアムは慌ててベッドから飛び出し、ドアを開けた。
同時に、オルト婆の太い杖から稲妻が発射され、先生は間一髪かわすと、すぐ後ろのドアから外に出た。バタンと閉められた扉に何度も稲妻が浴びせられる。
「おばあちゃんやめて! おばあちゃん!」
ミリアムはオルト婆の腕にしがみついた。
「ミリィ! 頼む。オルトを落ち着かせてくれ」
扉の外から先生の声がした。
「出ていけと言っただろう。その辺をうろうろしていると、家の護法陣をぜんぶ発動させるよ!」
オルト婆は杖を下げたが、今度は反対の手で印を結んだ。
「待てって、アチッ、うわぁ!」
「おばあちゃん、やめて!おねがい!」
ミリアムは自分より小さいオルト婆に全力でしがみついた。
オルト婆はハアハアと肩で息をしながら、稲妻で黒くなった扉を睨みつけた。
家の中も外も静かになった。先生の気配は消えていた。
ミリアムはオルト婆を支えながら、近くの椅子に座らせた。オルト婆は愛用の太い杖に両手を置くと、大きく息をついた。頭皮が透けるほど少なくなって、いつもは撫で付けている白髪も、今は逆立っている。
ミリアムは、コップに水瓶から水を汲んできて、オルト婆に持たせた。
「おばあちゃん、どうしたの。何があったの?」
オルト婆は水をグビグビ飲み、ゲホゲホむせ返り、ミリアムに背中をさすられながらつぶやいた。
「あいつはね、
「呪具屋」は魔導士を蔑む時によく使われる。本来なら、人のために人と相いれぬ人外のものの力を利用する魔導士だが、力を追い求めるがゆえに、魔力が強くなると言われる物や魔物と契約するための生贄を手に入れたがることも多い。呪具屋は、そうした需要に応えた窃盗、誘拐、売買を行う集団であり、魔導士でもこの道に堕ちる者も多く、人の世では魔物や呪術の類よりも恐れられていた。
「先生、そんな人に見えないよ……」
ミリアムはつぶやくように言った。
「いや。あいつは、自分のことしか考えていない。自分の力を高めるために、お前を利用しているんだ。 お前の幸せなんか、一つも考えていないんだよ」
「先生は、おばあちゃんになんて言ったの?」
オルト婆はしわの深い眉間に更にしわを寄せて、かぶりを振った。
「左手のことは、私がなんとかする。あいつのことは、一切口にするんじゃない。わかったね」
オルト婆は、杖を支えにゆらりと立ち上がると、しっかりした足取りで歩き出した。
「疲れたから寝るよ。お前も早く寝な」
ミリアムは寝室に向かうオルト婆を茫然と見送り、それ以来、先生の話は聞けずじまいだった。
籠手は、オルト婆の薬と魔術で保たれている。籠手だけでなく、オルト婆はミリアムの黒くなった腕に薬草を混ぜたオイルを塗って、歌うようにまじないを唱えながらマッサージをしてくれる。ククルトも気持ちよさそうにしていて、腕の変形も少し戻るような気がした。
しかし、先生のことは気になった。
ミリアムは目を開けて、ククルトといた世界から戻った。
オルエンデスの青い空と乾いた空気が目に染みる。
自分を育ててくれたオルト婆のことは大好きだが、老婆との二人暮らしは、体をいたわりながら、大体同じことの繰り返しで窮屈だ。最近は、木刀を持つと真っ向から文句を言われるようになったのでなおさらだった。
普段見慣れた広い空や高い山が、最近はミリアムの心をざわつかせ、駆け出して探しに行きたくなる衝動を呼び起こす。でも、ミリアムは左手をぎゅっと握りしめ、複雑怪奇で自分一人ではどうしようもない籠手の存在をかみしめた。
『……ミリアム』
ククルトの声に我に返った。
遠くに行ったヤギに近づくものがいる。
向こうの山の斜面をころころと転がり下りてきた丸いものは”
千疋皮は、文字通り毛の塊の妖物だ。この辺りで死んだ動物が風にさらされ、干物のようになり、それがなん十匹分も丸く固まって動いている。コンドルに食べられなくて、冥界に行けなかった生き物がさまよっているのだとも言われていた。見た目が見た目だけに怖がられ、近づくのは不吉だとされている。
あわててミリアムは手近の石を拾い、投石紐で投げて、走り出した。
石が当たっても、千疋皮はひるまなかった。腰が抜けてへたり込んだヤギに向かって、細切れの毛皮のような触手を伸ばしていく。
間一髪、ミリアムはヤギの前に立ちふさがり、山刀で触手を切り払った。
「千疋皮! 千疋皮! お前の笛は壊れているぞ。冥府の川の葦の葉で、直してやるから取りに行け!」
ミリアムは、千疋皮を追い払えるというまじない歌で怒鳴った。だが、千疋皮は動こうとしない。
近くで見ると、ますます不気味だった。直径はミリアムの三倍近くある。人間や家畜に積極的に悪さをするわけではないと聞いているが、さっきは絶対にこの毛長ヤギに興味をもっていた。
ミリアムは山刀を構えたまま、千疋皮をにらみつけようとした。が、どこを睨んだらいいのか、顔がどこなのかがわからない。
千疋皮としての顔はわからないが、千疋皮に取り込まれたヤギや馬などの獣の頭部がいくつもあって、その目玉のなくなった双眸の穴から何かがこちらを見ているような気がした。臭いなどはしないが、目の穴を風が通るのか、まじないの詞のように、かすかにヒューヒューと笛のような音がしている。切り払った触手も千疋皮を作っている生き物の手足らしく、よく見れば先に蹄や指が付いていた。
ミリアムの後ろでへたり込んでいたヤギが、そっと立ち上がった。すると、千疋皮の端っこあたりがもぞもぞして、また毛皮の触手が何本か伸びはじめた。
『ど、どうしよう、ククルト! 千疋皮をこんな近くで見たの、初めてなのに。しかも、こんなに大きいよ』
『うむ。小さいころから一緒だから、その辺は我もよく知っている』
『だから、どうしたらいいのさ!』
「千疋皮! 冥府の川に行け!行けったら行け!」
ミリアムは山刀を振りながら叫んだ。が、千疋皮は触手を伸ばしながら、体を左右に揺らし、じりじりとこちらに転がり始めようとしている。
『提案だが、逃げてみるのはどうだろう』
『でも、ヤギを渡すわけにはいかないよ』
ヤギも、ミリアムの後ろで、千疋皮を見ながら後ずさっていっているのを感じる。
ミリアムは早くなった呼吸を、ごくっと飲み込んだ。
「走って!」
ミリアムは、振り向いてヤギのお尻を山刀でたたいた。
メエェェーと鳴き声をあげて、ヤギは走り出した。
ゴロンと千疋皮も動き出した。
うわぁぁー! とミリアムも声を上げて走り出した。
目を付けたヤギとミリアムの後を、丸い千疋皮はゴロゴロ追いかけてきた。触手を体の回転に巻き込まないよう器用に出し入れしながら転げまわる。
巻き込まれたらひとたまりもない。
今まで遠くで見守っていた他のヤギたちも、蜘蛛の子を散らすように駆け出していった。
「こっちくるよー!」
『うむ。走り続けるがよい』
わああーと叫びながら、ミリアムは草原中を走り回った。後ろから、岩に当ってボン! ゴロン! と跳ねまわる千疋皮の音がする。
「もう!」
埒が明かない。ミリアムは急ブレーキをかけて振り向いた。山刀を両手で構える。
小山のような毛皮の塊が、目の前に迫った。
剣術も魔法術も最後は気合いだな──と、前に先生は言っていた──怖くなったら、自分をこんな目に合わせた憎い相手でも思い出してだな。この野郎!って腹に力を入れて、目の前の奴をしっかり見据えるんだ。そうしたら、すーっと頭が覚めて、なんだかんだで乗り切れるんだよ──。
カッと目を見開き、山刀を頭の上に振り上げた。
「せんせいの、ばかやろぉーー!」
目の前にきた触手を切り、横へ飛び離れる。
パッと毛が飛び散り、回転の風圧で、ミリアムは地面にたたきつけられた。
だが、痛みをこらえてすぐさま起き上がり、構える。
千疋皮も数回転してピタッと止まった。ヒューヒューという音が大きくなった気がする。
しかし突然、千疋皮の体が膨れ上がり、毛皮が針のように逆立った。
「!!!」
ミリアムは、声にならない声を上げた。
『ミリアム! 落ち着け!』
毛皮の針は、大きな千疋皮を支えるほど硬い。それがまた器用に体を揺らし、転がろうとしている。
ミリアムの手がぶるぶる震えた。
『ミリアム、上だ! 後ろの上から何か来るぞ!』
ミリアムは振り向いた。かすかに千疋皮とは別の風が鳴っている。
後方はるか上空から、大きな翼を広げた黒い影が猛スピードで急降下し、こちらに飛んでくる。
ミリアムは思わず地面に伏せた。
黒い影はミリアムを飛び越し、千疋皮に突っ込んだ。
千疋皮は破裂したように四散した。あたり一面に毛と皮と骨、干からびた肉片が舞い散った。
黒い影はそのまま何事もなかったように、地面に沿って飛ぶと、谷の斜面から吹き降りた風を受けて、空へと舞い上がっていった。
ミリアムは地面に突っ伏しながらも、なんとか千疋皮が散り散りなるところを見ていた。そして、影がコンドルの様な翼を広げていたが、コンドルではなかったことを見た。頭の禿げた、首の付け根に白い羽毛のあるコンドルではなく、頭から金色の髪をたなびかせ、くちばしはなく、人間の女の顔をした妖物だった。
彼女は、千疋皮を倒した瞬間、後ろのミリアムを見てニッと笑った。
「ク、ククルト。あれなに!? 女の、女のコンドルだよ!助けてくれたよ!」
目の前で起きた信じられない出来事に興奮して、ククルトへの会話も普通に声が出てしまう。
『我も初めて見た。ゴルディロックスかもしれん』
「ゴルディロックスって……私のあだ名じゃない」
『本来は魔法の生き物。魔導士の使い魔のことだ』
「おばあちゃんに知らせないと。ヤギは?ヤギはどこ!?」
連れてきたヤギ達は今まで以上にはるか遠くまで散らばっている。ミリアムは急いでヤギを集め始めた。
口笛を吹いたり杖で後ろをたたいたり、遠くのヤギにはそばに投石紐で石を投げて脅かしたりして、なんとか百匹をまとめ上げた。
いつもやっていることをしているうちに、ミリアムもだんだん落ち着いてきた。
逃げ回っているうちに飛んでいった帽子やスカーフも、なんとか見つけることができた。
ミリアムは、百匹の毛長ヤギの群れを後ろから操りながら、ゆるやかな谷の斜面を登って行った。
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