産業創世記

初書 ミタ

第1話 監獄の住人 Citizen of Prizon A-C

ここは、18世紀半ばの大英帝国の薄暗い路地裏。

まだ、陽も上がらない午前浅く、10代と思われる青年は

その日、酔った窃盗団の頭領が忘れていった皮袋を手にしていた。

半年くらい前から、3つ年下の彼の妹は体調を崩しており、

原因はわからないが、死んでしまうのではないかと心配だった。

乞食同然の彼、ライアンに助ける方法が無かった。

だが、頭領の皮袋には山のような宝石が入っていた。


ライアンはこんな生活から抜け出したかった。

自分が無理でも、せめて妹だけはまともな生活をさせてやりたかった。

このチャンスに、妹を腕のいい医者に見せてやりたかったが、代金が

宝石では明らかに怪しい。だから闇の医者を探していた。


高級住宅街の一角を妹を背負って歩いていた。

「こんなにも軽くなるなんて、」

妹の病気が心配だった。

自分たちの住んでいる、汚泥と糞尿にまみれた街と

ここはなぜこれほどまでに違うのだろうか。

日曜日の教会で、憎きブルジョアと叫ぶ

神父の言葉が、肌に凍みる。


10月のマンチェスターは、夜明け前という事もあって、

凍えるような寒さだ。ライアンの着ている、穴だらけの

薄いシャツとぼろぼろの半ズボンで耐えるには

かなりの忍耐を要する。

それは妹も同じだろう。


15分ほど歩き続けると、目的の闇の医者が見えてきた。

これだけの宝石があれば、ずっと暮らしていけるだろう。

妹を置いていくのは心苦しいが、自分が盗賊団に捕まれば、

妹も見せしめに殺されるだろう。

闇医者とて鬼ではないだろう、これだけの報酬を払えば大丈夫なはずだ。

そう思い決意を固め叫んだ。


「夜分すみません、開けてください、ドアを開けてください。」


アデルは早朝、外で物音がするような気がして起きた。

寒さで乾燥した空気が絡みつき、喉がひりつく様だ。

ベッドの脇においてある陶器製の水差しから、陶器のコップに

水を注ぐと、流し込むように飲み込んだ。

のどの痛みは少しましになったようだ。


元々、ユダヤ人貧民街ゲットーで、塵を拾って暮らしていたが、

この家の主のガブリエルに、治療をしてもらったとき、

支払えるお金も無く、おそらく主である医者が同情したのだろう、

幸運なことにゲットーの外の医者の家で住み込みで、

現在は、看護婦のような仕事をしている。


ユダヤ人がこんなところに暮らしているのは重大なリスクだ。

大英帝国ではユダヤ人への差別も少なく、寛大なほうだ。

これがフランスやスペインならいつ殺されてもおかしくない。

2階にある自室の窓を開けてみると、ドアの前にボロボロの服を着た

乞食にしか見えない兄妹が座り込んで、大声で必死に叫んでいた。


そもそもここに来るのは、同胞の富裕層か、

こういう馬鹿な勘違いか訳ありの貧乏人だ。

どうせお金など持っていないだろう。

どう追い返そうか思案をめぐらせながら、ランプに灯を点すと、

アデルは、部屋のドアを開け廊下に出た、そして階段を降りて行った。


ドア越しに話しかけることにした。まずは代金の確認だ。

そう考え、「お代はお支払いいただけるのでしょうか?」

アデルはお金は持っていなさそうだなと思いながら返事を待った。

「救貧院か教会にいかれてはどうですか?」そう言うと、


青年はやつれてボロボロの少女を抱えて必死に声を絞り上げた。

「お、お金はありません。」


(ああ、そう)しかし叫ばれるのは迷惑だ。

この類は、学習能力も無く叫ぶだろう。

しかも、少女が死んだら恨みそうだ。困った。

ドアの中ほどにある覗き穴をじっと覗きながら

アデルは兄妹の様子を注視していた。


すると青年は、アデルが想定していない言葉を吐いた。


「あ、あのう、宝石ではダメでしょうか?おそらく

ダイヤモンド、それにルビー、サファイヤ。」

青年は怯えながらそう言った。


「えっ!」

さすがのアデルも驚いて思わず、声を出してしまった。

動揺を悟られないように口に手を当て、深呼吸をする。

金持ちやユダヤ人ならともかく、こんな浮浪者が

闇医者に宝石を持ってくる。ただ事ではない。


反応の無いアデルに向かって、青年は何かを悟ったらしく

こう付け加えた。

「知人に宝石商がいまして、財産を持ち運びできるように

宝石に交換して、ウェールズからマンチェスターに出てきたんです。」

ライアンもこんな嘘が通用するとはまったく思っていなかった。

だが妹を助けたい。「お願いします。」意識が遠のき

体が崩れ落ちる瞬間、ドアの鍵が開く音を、聞いた気がした。


アデルはいぶがった。なんて馬鹿な男だい。

盗品だと言っているようなモンだよ。

なんで、こんなに宝石を持っているんだい。

不自然だねえ。放って置くわけには行かないねえ。


アデルは一大決心をした。すごい演技をするぞと気合を入れた。

できるだけ、慈愛に満ちて心配する、優しいお姉さんに見えるように。

「そうだねえ、まあいいわ。どんとまかせな。」

「いま先生を呼んであげる。」

ドアを開けると、喜んだその兄妹をそそくさと招きいれた。

絶対に逃がさないように。


「先生、先生、急患です。」アデルは家中の人間に聞こえるように、

大声で叫んだ。アデルとしては銅鑼でも鳴らして回りたい気分だ。

寝ぼけた使用人や同僚の看護を仕事とするものが、

いっせいに起きて来た。

「なんだ、なんだ、うるさいな。」

アデルの主でありラビであるガブリエルは不機嫌そうだ。

しかし、アデルが無意味にこんなことをする馬鹿でないことや

いたずらをする人間でないことも知っていた。


ガブリエルはバケツに頭を突っ込むと10秒ほど息を止め

顔ををあげた。鼻から水が入り込みむせた。

タオルを取って顔と頭を拭くと、寒さが身に浸みた。

だが、かなり頭ははっきりしてきた。


アデルは寝ぼけた使用人に兄妹を案内するように言うと、

ガブリエルに青年から受け取った皮袋の中身を見せた。

何事かと思っていたが、ガブリエルも心臓が止まるかと思った。

信じられないほど大量の宝石だ。

「どうやって・・・手に入れたんだ。」

ガブリエルも思わずうめいていた。


アデルとガブリエルは気持ちを切り替え、青年から

できるだけ多くの情報を聞きだすことにした。


ガブリエルは心配そうに患者を診ると、深刻そうに言った。

「かなりの重病だ。栄養状態のよいところで、

長期間休養すれば命は助かるが、今までのような生活を続けるなら、

確実に命を落とすだろう。」


青年は言った。「代金は宝石で払います。」


「ウム、わかった。」そういうとガブリエルは考え込んだ。


アデルは妹に話しかけた。

「おじょうちゃん名前はなんていうの?」


「グレースだよ。グレース・マクレガー。」

妹の答えを聞いた青年は仕方なく名乗った。


「お、俺は、ライアン・マクレガーといいます。」


「私としても救える命を救えないのはつらい、

だがこれだけの宝石を君が持っている理由を知らなければ、

受け取ることはできない。」


医者は暗に出所を言わないと妹を見捨てると言っているのだ。


「先生 宝石商の知り合いがいるらしく・・・」


「黙りたまえ、アデル君。」わざとらしい医者とアデルの

掛け合い。


「ライアン君、君はこの宝石が何ポンドに相当するかわかるかね?」


ライアンは答えられなかった。


「もし盗品だと言うなら、私は君を突き出さねばならない。

だが、君が正直に話してくれるのなら、グレースの身柄は保証しよう。

我が家で、治療が終われば、我が家に住み込みで働かせてもよい。」


ライアンは騙されているのではないかと思ったが、

妹の命がかかっている。必死に頭を回転させていた。


「私も、治療費が払えない乞食だったんだよ。毎日塵をあさってさ。」

グレースが 「それ、ほんとう?」と無邪気に尋ねた。

「私の出身は ゲットーだよ。」


ライアンは理解した。ゲットーは貧民窟の中の貧民窟。

アデルの言うことが本当なら、妹は助けてもらえるだろう。


「アデルさん ゲットーのどこに住んでいました?」

ライアンはアデルの答えを聞き、

アデルがゲットーの貧民出身であることが理解できた。


それを確認したのかガブリエルが優しく言った。


「君が直接、殺して盗ったというならともかく、

拾ったとか、盗んだと言うだけなら、見逃そう。」


ライアンはなけなしの勇気を払い、本当のことを話した。

すると、

ガブリエルは、宝石をすべておいていくことを条件に、

ライアンに服や銀貨を渡して、別の街のゲットーへ行くように言った。


「すぐに逃げたほうがいい。妹さんのことは

私が命に代えても守る。」

ガブリエルはそういうとアデルに案内を指示した。


ライアンは深々と頭を下げ、心からお礼を言った。

ガブリエルは少女をベッドに寝かせ、看護の人に体を拭く様に指示していた。


ガブリエルは蒼白な顔をアデルに向けると

今すぐゲットーの反ユダヤ主義レジスタントの活動拠点に行くように

言った。


アデルは事態を良く飲み込めずにいたが、緊急であるのはわかった。

ライアンを引きつれ、早朝の街に飛び出していった。

(逃げるかも、いや、妹がいる。あれだけの宝石を盗めば

法律的にも死刑だ。盗賊一味に見つかれば、拷問をずっと

受けるだろう。それでも盗んだのは、妹は大切なのだろう)

アデルはそう判断し、ゲットーに走りこんだ。


事情をライアンから聞いたレジスタンス活動の男は言った。


「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」

それを聞くと大慌てで、2人の男が別々の方向へ飛び出していった。


「これだけの量の宝石がカルテルに見咎められぬとはな、くっ。」

男は歯軋りし、吐き捨てた。

「至急、ハッペンハイムに連絡を請う。」

今度は、その男ともう2人が外に走り出した。

全速力で走っているのだろう、見る見る姿が小さくなる。


「はぁ、どうするんだろうね。」

アデルはため息をつきながら、立ち尽くしていた。




ここは大英帝国、アン女王の逝去によりドイツからやってきた

ハノーファ朝の支配する。7つの海の支配者の大英帝国である。

植民地からの大量に安く流入する物資で、急激に工業化が進み

世界で唯一、産業革命を起こした超大国である。


首都ロンドンから紡績の都市マンチェスターへ続く主要路は

この季節には珍しく、雪にもならず、かといって雨ともいえない

すさまじい勢いで降り続くもので覆われていた。


道路は降り続くものでぬかるみ、路行くものすべてが足を取られ、

ゆったりとした勢いで動いていた。背中に荷物を背負い何かに打たれながら、

ゆっくりと歩く農民、荷馬車に油を塗った麻の布をかけて、商品の

綿製品を首都ロンドンまで運んでいく行商人、多くの荷物を載せた馬車は

ぬかるみにはまり立ち往生していた。


そんな中、時折鳴り響く雷鳴が、王侯が乗るような豪華に仕立てられ、

磨き上げられた馬車を光に包み、輝かせていた。


誰が乗っているのかは窺い知れないが、装飾過剰ともいえるその馬車は

4頭だてであり、馬も筋骨隆々とした4歳から5歳の牡馬だ。

ただ、その馬車は、周囲のぬかるみやゆったりと流れる人々を

無視するように、猛然と、信じられない速度で走っていた。


「くそやろう、あぶねえだろ。」粗忽な農民の一人が怒りに身を任せて、

もっているたまねぎを馬車の窓に投げつけた。


どんっ、鈍く大きな音がする、窓に何かがぶつかったのだろう、

彼は少し気はとられたが、また思考に没頭し始めた。


首都ロンドンを出発したのは3日前であり、本来はもうとっくに

到着していなければならない。主人のハッペンハイム卿からの厳命であり、

是非も無かった。何の具体的な内容もなく、ただ、「行け。」と言われたのだ。


しかし、一昨日の夜から降り出し、あたりを漂う、これによって

到着は当初の予定を大幅に遅れていた。


「せめて、こんな豪華な馬車でなければ、気も楽だったのだが。」

彼はそういうと深くため息をついた。


ふかふかの高級なソファーのようなすわり心地、壁には銀の柱と

絹のカーテン、窓はガラス張りだ。室内も暖かい。

乗客は自分ひとり、

誰も見ていないので、道中は寝ていた。

体は軽く元気なのだが、心は重い。


ハノーファ朝の大英帝国を、実質的に支配し統治している、

彼の主人、ホーフユーゲン(宮廷ユダヤ人)モーセス・オッペンハイムですら、

その言葉に責任をもてないが故の処置、待ち合わせの人物はさぞかし

大物だろう。こんな馬車を用意するくらいだ。

言外に、「時間を守れ。」との含みだろう。

まだ少年とも言える年齢ではあるが、かなり頭が回るだけに

その意味が理解できてつらい。


窓の外を見ていると、急速に景色が移り変わる。

御者も理解しているのか、すさまじい速度だ。

「誰かをひき殺してなどしていないだろうか。」

本気で心配だ。

もっとも農民や商人をひき殺したところで、彼を処罰など

出来はしないだろうが。轢き殺した相手が「騎士。」であっても

「乗っていたのは別人だ。」と言う主張が100%まかり通るだろう。

そういった意味では安全である。


やがて、馬車は速度を落としていた。

「ふぅ、やっと都市部に入ったか。」彼は半日の遅れを

なんと言い訳すれば言いか考えあぐねていた。


やがてマンチェスターの街並みが見えてきた。

古代ローマのように、下水道が整備されていないため

街の住民たちはトイレの中身を路に向かって毎日投げつける。

そのため道路は汚物であふれており普段から鼻のひん曲がりそうな

悪臭が漂っている。こんな路を歩くなど真っ平ごめんだ。


この街は大英帝国の中央よりやや南西に所在があり、植民地から

大量に運ばれてくる、綿花から大規模な工場で布製品にすることで

栄えている。作り出された布生地から様々な服、帽子、ズボンやチョッキ

などが職人の手により作られていた。そのため、かなり供給過剰であり

綿製品の販売価格は非常に低く抑えられていた。


ゆえに商人たちは、ここで綿製品を買い入れ、ヨーロッパ大陸全土に

せっせと海を渡って、商品を運び利益を出していた。

と言えば聞こえはいいが、「ヨーロッパ大陸全土の布製品が暴落し

諸列強が大損害を受けている。」と言うのが正しいのだろうか。

布製品と関係の無い職業の人々は安くなって大喜びだろう。

まあ、それも彼らにとっては 「明日はわが身」であるのだが。

商品が下がれば通貨は上がる。

買うためにはポンドが必要だが、売って手に入るのはポンド以外だ。

当然ポンドの価値が上がる。というのが、ハッペンハイム銀行の方針だ。

もっとも、真の目的は他にあるのだが、守秘義務があるので

若輩の私が話すことは、今は出来ない。残念だが。


大英帝国、特に我々にとって最も怖いのが、実力行使、軍事力だ。

いくら金を貸そうが、彼らの通貨が下がろうが、戦争に負ければ終りだ。

だが、7つの海を支配する世界一の大帝国は、四方を海に囲まれている。

陸上戦力による侵略は不可能であり、世界最強の海軍である

ロイヤルネイビーを撃破できる存在など、どこにもいない。

幸い、ユダヤコミュニティーのヒューミント(人的諜報)は史上最強、

死角はない。


ハッペンハイム家の使用人である彼は、懐から懐中時計を取り出し、

時間を見るのだった。すでに10時間以上遅れている計算になる。

ふと、馬車の窓から外を見ると、働いている工場から我が家に帰る途中の

薄汚い格好をした、労働者階級の人間が急ぎ足で歩く姿が見られた。


紳士の一人が傘をさしながら、懐中時計を見るとまた歩き出した。

「ふう、こんなものが無ければ、ちょっとは言い訳できるんだけどね。」

ハッペンハイムの使用人はそう独り言を言うと、懐中時計をじっと見つめた。

元々、大航海時代に正確な経度を測るために開発競争をしていたのが、

時計の由来で、「国王の身代金」と同額の賞金がかけられていた。

もっともいまは、大量生産され、工場での労働管理に使われているが。


彼は、おおよその自身の役割は推測していた。

最後の英国王室、アン女王が逝去なされたあと、跡継ぎがいなかったため

いざこざはあったが、これを継承したのがドイツから来たドイツ人

ジョージ1世、そして2代目ドイツ人ジョージ2世、皇帝であるのに

「イングリッシュ」がまったく話せない、ドイツに居住御希望されるのだ。

当然、英語が話せるドイツ人はいる、だが「イングリッシュ」は、

「ポテト」が大嫌いだ。なぜか、英国に在住のユダヤ人が宮廷を支配し

ハノーファ御付のハッペンハイム卿の自由にできる国となってしまった。


それに猛攻撃したのが清教徒オリヴァー・クロムウェルの最大の支援者で

ヴァチカンのスパイ、トーリー党のハンタギュー公爵家と

実質的にアン女王を殺した故オックスフォード卿と

僭王チャーリーの残り香であるジャコバイトだ。

残党はブルボン・カトリックと結託し、テロリズムをしている状態であった。


10月末に先王ジョージ2世が崩御し、じきに戴冠式が行われる。

いままでどおり、大英帝国の皇帝陛下が、ハッペンハイムの

傀儡人形であればよいのだが、次の皇帝は不運か必然か、

「イングリッシュ」が堪能であらせられる。

ユダヤ人を嫌悪されているご様子、不幸なことだ。


ハッペンハイムとその取り巻きのユダヤ人は排斥されつつあり

かつての初代首相ロバート・ウォルポールの盟友で

12支族の族長の家系、ギデオン男爵でさえ

謁見を拒否される有様だ。


おそらく彼の役割は 「案内役」だ。賓客の接待だろう。

外交使節が戴冠式にお祝いに来るのに「会わない」ということは

大英帝国の次期皇帝でも、出来ないだろう。

ハッペンハイム銀行の現当主モーセス・ハッペンハイム卿から

直接指名され、接待を任された。そういうことだろう。

その賓客は名前も不明、どこから来るどのような人物か、

まったく知らされていない。そこが不安だ。


ハッペンハイム銀行で、重役である彼が選ばれると言うこと

その年齢を考えれば、賓客の年齢は「ティーンエイジャー」

だろう。


「子供、か。」


濃い霧の漂う、

今日、この日は、

1760年 12月 25日。

先王の喪の明けぬままの聖夜であった。


接待人 ハイヤーハムシェルを乗せた豪華な馬車はスラムを抜け

治安が悪く、住む家がなく働くこともない犯罪者の巣窟

そこさえも天国と思えるだろう、

マンチェスターの中心部を抜け、薄暗く、陰鬱な雰囲気の漂う

ユダヤ人の住む場所に到着した。

たいていの人々は、ここをユダヤ人街などではなく

「ゲットー」と呼ぶ。


ここよりこの物語は始まる。



ユダヤ人、そう呼ばれる彼らは、後述する十字軍以降、蔑まれ、

社会の最底辺であった。彼らの生命はゴミと同価値であり、

日々、物を乞い、ゴミを漁って暮らしていた。

大英帝国の人々は、まるで流行り病を見るように

それを見ていた。


ユダヤ人は、古代オリエントに居住していたとされる。

その後、大離散ディアスポラにより各地に散ったとされる。

もともと、イスラエル周辺に残留した、肌が褐色でアラム種の

ミズラヒムのユダヤ人、肌が褐色でアラム種だが、

移住し、イスラム圏に住居を構え、

権勢と膨大な財力を誇るスファルディムのユダヤ人。

そして、当時、由来のわからなかった。

肌が白く、ゲルマン系のアシュケナジムのユダヤ人だ。


風の噂に聞くところによるとアシュケナジムは巨大な2つの国にはさまれ

その2カ国のどちらかの宗教に帰属するように求められた、

ハザールと言う国が、国民全員をユダヤ教に改宗させてしまった。

結局彼らの国は滅亡し、ヨーロッパ全土に貧しい難民として押し寄せ、

その最下辺として定着した。


田畑を耕して作物を得ること、牛や羊を飼うこと、

槌を振るい金属を加工すること、糸を紡ぐこと、布を織ること

木を切ること、商品を売ること、商品を運ぶこと、すべてが禁止された。

ゲットーに住む売春婦や物乞いは、アシュケナジムのユダヤ人である。


イスラム圏に居住するスファラディムのユダヤ人は現地の言葉とラディノ語を

使用している。アシュケナジムのユダヤ人はイディッシュ語を使用しており、

当然会話は通じない。しかし、一部のアシュケナジムのユダヤ人は、

トーラーやミシュネー、ハーラート、タルムードを介し、ヘブライ語を学ぶため

ラビやインテリは共通の言語として、ヘブライ語を使用した。


この物語の主人公 ハイヤーハムシェル・バウアー、正しくは、

田舎者のハイヤーハムシェル、若しくは、単に、ハイヤーハムシェルであろう。

現在のドイツ、ヘッセン・カッセル領のフランクフルト・アムメインに生まれた。

白人種であり、身長は当時の男性にしては高く、176cm、体重は73kg。

好きなものは種無しパンで、嫌いなのは肉だ。趣味は古銭収集。

兄と弟が故郷におり、仕送りをしている。












8歳のとき、父親の勧めで、ハノーファのハッペンハイム銀行に仕え、

臆病でありながらも聡明であり、何よりも慎重であった。

ハッペンハイム家をして、その天凛を覗き見ることができた。その才能を買われ、

ハッペンハイムの本拠地、大英帝国へ来たのは12歳のときだ。

正直、英語は話せるが、ドイツ訛りがあり、滑舌とは言いがたかった。


ハノーファ家はドイツの地方領主であった、その財産管理を任されて、

側近として実務を行っていたのが、ハッペンハイム家である。

大英帝国の血縁ではあるが、単なる田舎貴族だ。

だが、アン女王の逝去により大英帝国の王冠を戴くようになった。

即位したジョージ一世は英語が話せず、宮廷ユダヤ人として同行した、

ハッペンハイムが大英帝国のユダヤ人を使い政治経済を動かしていた。

それはジョージ2世の時代も同じだった。


ハイヤーハムシェルは自身が組織に「高く」、いや、「非常に高く」

評価されているのは知っていた。

マンチェスターでの取引の多くを占める綿製品のほとんどを

任されていると言って良い。

15歳にして経営中枢に入り、

貴族であるキデオン卿や大商人ホォーバーグ卿とも会えるほどだ。


ハイヤーハムシェルはハッペンハイム卿の指示した通り、

マンチェスターのゲットーへとやってきた。


建物に入ると最前列の木製の椅子に、何かがいた。


「やぁ、ハイヤーハムシェル。時間に遅れるとは契約に従順な

ユダヤ人にしては珍しいな。早朝から待っていて日暮れ前だ。

尤もその分、多くの時間を神への祈りに捧げられたがね。」


「感謝しとるよ。」


黒服の男性は、粗雑で硬い椅子に長時間座っていたためか、

少し体が痛いそぶりを見せながら、ゆっくりと立ち上がった。


少し、歩み寄り3mほどまで近づいたとき、

ハイヤーハムシェルは腰を深く折り、頭を下げた。


「真に申し訳ありません。馬車が遅れてしまいました。」

ハイヤーハムシェルは素直に謝罪した。本当に申し訳ない。

待っていたのが、かなり高齢の方であり、真っ暗闇で

一人で半日待っていたことを考えれば、当然の感情だ。

暗がりに目が慣れると、ラビだとわかった。


「いったい、なぜ私はここに呼び出されたのでしょうか?」

大体、接待役についてだろうとは想像できたが、

直接、言葉として聞くことは大切だ。推測は時として

致命的なミスを生む。だから、「私は聡明だ、推察できる。」

などと言う態度は微塵を見せず、尋ねてみた。


すると、老人は高価そうな装飾された箱の封印を解き、蝋で閉じた

一枚の手紙を手渡してきた。

それを読んだときの衝撃を隠せた自信は無かった。

「ナスィ」とはヘブライ語で、「トップ」の意味だ。

シメオン族のトップは族長、イスラエル王国のトップは当然、「国王」

天地万物のトップは「神」である。色々な意味のある言葉ではあるが、

ここでの、「ナスィ」はある一族のことだろう。


ネーデルランド独立運動の最大の支援者にして、謀略を仕掛けた人物

「グラツィア・ナスィ」、

オスマンの海賊としてキリスト教徒を討ち破った「ヨセフ・ナスィ」

この2人は「ドナ・ドン」つまり貴族だ。

ヨセフ・ナスィは従妹であるグラツィアの娘を娶った。

つまり現在においても、2千年以上前の古代イスラエル王国の正統王位継承者、

いや、それ以上の意味がある。

神、ヤハウェと十戒を契約した「モーセ」の正統な後継者である。

「ナスィ」とは 神のファミリーネームであり、すなわち、

ブナイブリス(契約の子供達)と言う意味である。

(※契約の息子達と訳すのは、モーセが男性であったため)


「馬鹿な!」

思わず、ハイヤーハムシェルは声を上げていた。

本気でハッペンハイム卿の正気を疑った。

「わ、わたしは 貧しいゲットーの出身です。

乞食の出身と言ってもいい。なぜですか。」


それにラビは答えることは無かった。


「ふむ、専用馬車であったはずだが、さすがにこの豪雨と霧では仕方ないか、

まあ、私を待たせるのは一向に構わんが、王女殿下を待たせたら、

その首を斬られるぞ、物理的な意味でな。」


ハハハ、にこやかに笑い声を上げると、


「冗談だよ、殿下はそれほど狭量ではない。」


そういいながら、老人はこう言葉をつなげた。


「殿下が殺せと命令されれば、いつでも殺すがね。」


これは本気だ。事実に違いない。

正直ボスであるハッペンハイム卿が恨めしい。


「ひとつ聞いてもいいかな、君はその若輩とも言える年齢で、

ハッペンハイム銀行の重要な一翼を担い、ハッペンハイムが

王女殿下の接待役に推薦するほどの人物だ。」


老人はふと目を落とし悲しそうな顔をした。

しかし、その双眸は怒りに満ちているようでもあった。


「半年で、このゲットーの人間が何人殺されたか知っているかな?」


ハイヤーハムシェルは黙して待った。ここで言う言葉など無い。

問いかけでないことは確実だ。これは独白だ。


「120人だ。フランクフルトでは日常だろう。

だがここは我々の地だ。」


「しかも、一般民衆の溜め込んだ宝石を奪っていく。

理由がわからんのだ。

小さな宝石に価値は無い、・・・はずだ。」


老人はそう言うと、ハイヤーハムシェルの言葉を待つように

黙り込んだ。


しばしの沈黙が流れる中、ハイヤーハムシェルの頭は

フル回転しすぎて、パニックになっていた。


先ほどの首と胴が離れると言う脅しにドキドキしながら

様子を伺っていた。ハイヤーハムシェルも実際、

物理的に首を斬られた人間を百や二百では利かない数を見てきた。

その理由は、些細なことも多い。

犯罪はもちろん、居眠りや、失敗、身分の高いものに「態度が悪い」などと

言いがかりをつけられたり、枚挙に暇が無い。

それにこのラビなんだか迫力がある。

いつも行くシナゴーク(ユダヤ礼拝所」)のラビとは

明らかに違う。


落ち着いてきたハイヤーハムシェルは、

これは何か答えなければまずいな、などと頭を回転させる。

しかし、なぜ私にこんな話をするのだろう。まったく意味が無いような気がする。

解決方法がわかるくらいなら、当の昔に進言している。

意を決し、思いつく限りを述べる。


「宝石は、我々ユダヤ人が鑑定しなければ価値がわからず、

盗まれても、奪われても、換金できない。」


「それは貴族であっても同じ、必ずカルテルに見つかるはずです。

ましてや小さな宝石など、貴族が隠れ持つ意味も、買う意味も無い。」


「故に我々は、宝石を主要財産としている。違いますか。

なぜ、そのような質問を。」


またしてもそのラビは答えずにこう言った。


「ふむ、まあ、仕方なかろう。私が言えるのは、

君もここで神と会話して、その言葉に耳を傾ければ、

何かに気がつくかも知れんな。」


「それでは私は帰るとするか。祈りは大切じゃよ。

長く生きたものからの助言じゃ。」


ハハハハハ、そう言うと、わざととわかるくらい、わざとらしく笑いながら

老いたラビは去っていった。


ユダヤ人の祈りの場シナゴーク、水を湛えたミグェを見つめながら

ハイヤーハムシェルは心の中でこう尋ねていた。

「全知の王 ヤハウェよ、あなたは見捨てられた。

全能の神 ナスィよ。驚くべき御業はどこにあるのでしょう。

勇者ギデオンへの奇跡、海を割かつモーセ王の力はどこにあるのでしょう。

シェマー・イスラエール・アドナイ・エロヒム・アドナイ・エカッド。」



16世紀初頭 ポルトガルにて


「アーニャの夢は何?」

いつ誰にかはわからないが、友人だろうか、聞かれた。

幼いアーニャがどう答えたのか。

今でもはっきり覚えている。


当時、イベリア半島に住むユダヤ人には2種類いた。

ヨーロッパ北中部に住んでいる、言葉の通じない、

ユダヤ人と名乗ってはいるが、その大半は

乞食、物乞い、ゴミ拾い、何とでも形容できるが、

家畜や奴隷以下の扱いをされるものたち。


対して、アフリカ北部とヨーロッパ南岸の地中海沿いに住むもの

アーニャのようにポルトガル王家に帰属する大貴族、

表向きはキリスト教徒を名乗っているが、

誰が見ても、ユダヤ教徒でユダヤ人だ。

褐色の肌で、アラム種のため、見てすぐに判別できる。

ユダヤ人でなければ、イスラム教徒にしか見えない。


十字軍以降、迫害されてきた白人系ユダヤ人がどこから来たかは知らない。

両親も迫害される白人系ユダヤ人を支援する気はあるのだが、

あまりにも文化が違いすぎる。言葉もまともに通じるものが少ない。

大半のセファルディムのユダヤ人は、イスラムを盟友と考えているが、

白人系ユダヤ人にイスラムを友と思うものはほぼいない。


同じユダヤ人にも、戒律を守らず、法も守らないため、冷遇するものも多い。

周囲にキリスト教徒ばかりがいる環境で、そのような思想習慣を持つことは

確かに危険だ。拷問や密告、彼らは疑心暗鬼のあまり、

少し狂った人々だと、アーニャですら思わざるを得なかった。

だが、同じユダヤ人、救うべき者達、好くべき者達だ。


アーニャは元気に答えた。

「みんなをパン屋さんにすることゾ。」


キリスト教社会ではユダヤ人の多くが差別迫害され、

パン屋どころか、靴磨きにすらなれない。

ユダヤ人はみんなそれを知っていた。

まだ幼い、アーニャのような子供でも。


それを聞いたキリスト教徒の友人、

正確にはキリスト教貴族の友人が言った。


「アーニャは馬鹿だなぁ。パンなんて

お皿にいくらでもでてくるじゃないか。」


「うちの使用人が作ってるぜ。

いつでも雇ってやるよ。」


周囲の子供には理解されない。

アーニャは一人さびしく空を見上げるのだった。


アーニャが馬車から降りて家に着くと、父がイライラしていた。


「カーッ、またへまをやらかしおって。」

最近とみに怒りっぽくなったオスマン領で大商人をする、

父は従者のメンデスを叱っていた。

何をしたかは知らないが、申し訳なさそうに謝罪するメンデス。


後世の歴史では、メンデス家は香辛料を扱う新キリスト教徒で

フッガーと比肩する大富豪といわれているが、

実際にはそれは少し違う。


スルタンの侍従医、王の侍従医、ユダヤ人の名門に侍従医がやたらと多いが

侍従医は現在での、王専用のCIA長官のようなものだ。

仮にキリスト教徒の諜報をキリスト教徒にやらせたとしよう、

キリスト教徒に情報は漏れるし、イスラム教国にコネなど作れない。

少なくとも十字軍以降のイスラム教徒のキリスト教徒恐怖はすさまじく

見つけたら殺せ、内通者は拷問以上の極刑だ。


ユダヤ教徒はキリスト教徒とイスラム教徒の情報のやり取りを管理し

スパイ活動をしていたのだ。

当然、スルタンや国王の意見を直接聞き、報告する義務がある。

故に、侍従医なのだ。王の健康は王位継承にかかわる特の付く機密事項だ。

王妃や王子にも知られることは無い。当然、貴族にもだ。

故に、支配者が変わると、大物ユダヤ人が殺されたりする。


メンデスが大富豪といったが、メンデスはナスィ家の財産管理人で

信用のおける側近だ。

故に身寄りの無くなったアーニャを娘として育てたのだ。


父は有力ユダヤ人や新キリスト教徒の従者メンデスら数人と

なにやら深刻そうに話し込んでいた。


後世で「レコンキスタ」と呼ばれるキリスト教徒による

領土回復運動だ。もはやオスマン帝国のイベリア半島撤退は時間の問題。

各地の侍従医、諜報担当の貴族から厳重な警告がなされていた。


「撤退か、そうなれば、キリスト教徒が同胞をどう遇するか。」

それがみなの話題だった。


「火を見るより明らかでしょう。最低で改宗、火あぶりや全財産没収

もありうるでしょう。」


「最悪の事態、十字軍のような、

聖絶、無差別な虐殺も視野に入れるべきです。」


グラツィアは心配になって少し口を挟んだ。

「キリスト教徒にも友人はおるゾ。そ、そうじゃ、

メンデスもキリスト教徒ゾ。」


父はグラツィアを気にかける様子も無く、

メンデスに謝罪する。

メンデスもばつが悪そうだ。


今考えれば、メンデスも好きで改宗したわけではないだろう。

この陰鬱な雰囲気が嫌なグラツィアは軽挙にもまた

口を挟もうとする。

するとさすがに見かねたように、母が諭す。

「グラツィア、殿方のお話に首を突っ込むものではありませんよ。」

すると弟が母の差し金か、絡んでくる。

「姉上、あそぼ!」


ナスィ家は有力者、諜報のトップだ。もっと早く逃げられた。

だが、父は踏みとどまることを選んだ。

情報が得られなくなれば、一般のユダヤ人は全滅だ。

ユダヤ人の元締めとも言える、ナスィ家の名誉にかけてそれは出来なかった。


財産はほぼすべて、メンデス一族の名義になっている。

家をでるときに架けられた、ロザリオに注意を払うべきだった。

なぜ私が、キリスト教徒の学校に通っていたかを。

有力者 ナスィ一族の処刑。それがキリスト教徒、

それが、神聖ローマ帝国の意向だった。


闇夜に兵士達が 松明を持って近づいてくる。

ナスィ家の人間が逃げれば、もはや一般のユダヤ人に

生きる希望は無くなる。

みんなのために選択の余地は無かった。


「ひぃっ。」今思えば、父らしからぬ言葉だった。

割礼を受けている弟は逃げることは出来ない。

母は、幼い弟だけを死なせるつもりは無かった。

死ぬ瞬間まで弟と一緒にいる気だろう。

一族の根絶やし、それだけは避けねば。

モーセから受け継いだ、神の名を繋ぐために。


「ここまで付いてきてくれてありがとう。

メンデス親子は帰れるのでしょう。」

これが私の聞いた母の最期の言葉だった。


自然とほほを流れる涙。

家族との離別、死、耐え難かった、抗えなかった。

気が付いたら、号泣していた。


気絶しないように、最後の気力を振り絞ってこう言った。

「密告したのは私です。」

「お世話になったのに、裏切って申し訳ありません。」

無言で泣く弟。姉、グラツィアの未来を祈って。


父は去り際にこう言った。

「おのれ、生涯忘れぬぞ、メンデスの娘グラツィア!」


グラツィアは馬車に乗せられて、離れていく家族に向かって

聞こえるかなど考えることも無く、こう絶叫していた。

「これからは、あなた方の分まで生きてゆきます。」

「さようなら!旦那様、奥様、お坊ちゃま!」


そう言うとグラツィアは気を失った。

永遠の別れであった。

レコンキスタの時代、グラツィア 10代になったばかりである。


それから、約5年後、

ネーデルランドから早馬が到着した。


「ネーデルランドのグラツィアから手紙だ。

責任者にそういえばわかる。」

鬱陶しそうに異端審問官は鼻を鳴らした。

収容され、死体と生きている者との区別さえ付かない中、

改宗拒否者はうずくまっている。

ラビにいたっては鼻と耳、両目をえぐられていた。

扉を開けると「ううぅっ。」

悲痛なうめき声が聞こえ

耐え難い悪臭もする。

血と糞尿、腐った死体に沸く蛆。


だが、異端審問官はうれしそうに手紙の中身を読んだ。

「今しがた、手紙が届いた。差出人は、豚のグラツィア・メンデス。

今はベアトリーチェ・ルナ という名だ。」


「グラツィアはユダヤ教を棄て、キリスト教徒となった。」

ハハハ、そう笑いながら続きを読む、異端審問官。


「自殺が禁じられているので、改宗しなければ殺せとさ。」


ラビは抉られた目をそっと閉じると、聞いた。


「私は目が見えません、その手紙何色で書かれているでしょうか。」

どす黒い赤、異端審問官は言った。


「これは、血、血か?」


ラビは最後の命を燃やすように叫んだ。

「おお、かたはらよ。神は、神は、我らを見捨て給うた。」


改宗の手紙、無条件降伏命令書であった。


「たとえ豚といわれようと、生きよ。」

王家の娘、グラツィアからの告解であった。



ジョン・ラッセル 後世に記録が残るかわからないほどの小さな可能性、

ヘンリー8世は、彼にイングランドの命運を賭けていた。

一介の貿易商である、彼の船出など誰も注目していなかった。


かろうじて手に入れたキャラックに、まぬけ という名を冠し、

まともな資金も無く、航海に出る羽目になった彼は絶望していた。


船員はある程度の経験者だが、資金が無い。

この船で、海賊行為など論外だ。

国王がカトリック派の貴族ハワードのせいで無為無策。

私掠海賊としての権利は無い。

単なる無法者だ。


ハワードのせいでプリマスの港に長くとどまることも危険だ。

下手をすれば イングランド国内で人生が終わりかねない。

だが、生きていられるのは、あまりにも無力でちっぽけだからだ。


イングランド貴族の誰も、彼が何か出来るとは思っていなかった。

彼自身も意志は強かったが、コネも金もなしで海の藻屑となることは

覚悟の上だ。


故に考えた、イングランドの敵は誰か?、確実に教皇である。

では教皇を、キリスト教徒を殺したいのは誰か。

その答えは簡単だ。最も殺意を抱いているのはユダヤ人だ。

2番目がオスマンとイスラムだ。


ある日、アントワープの酒場で酔いつぶれていると、

ルナという女貴族が使いをよこしてきた。

おれはイスラム教徒と連絡を取るために、ヴェネチア経由で

オスマンに連絡したはずなのに、

なぜ、イスパニア領に連絡が入ってくるんだ。


「ちっ、しかたねえ。これが罠なら死ぬしかないな。」

酔っ払っているところを狙っての一報だ。

逃げることは出来まい。


2本の蝋燭のある真っ暗なところに案内されると、

通訳の男がやってきた。どんな腹黒が来るのかと思いきや、

若い女、しかも上玉だ。


「はじめまして、ルナと申します、」

女が口を開いた。


「とりあえず、俺はオスマンに連絡したはずなんだが、

あんたイスラム教徒か。」

ラッセルは内偵かと疑って聞いた。


「我々は、イスラムの家のものです。」

「あなたは、国に見離された無法者、

キリスト教徒に捕まれば海賊として縛り首でしょう?」

そう言うと女はくすっと笑った。


「あんたは俺に何を望む。何を与える。」

ラッセルは率直に聞いた。


「イスラムの家は、お金と伝はありますが、

軍事力はまったくありません。」


「はぁ、まあ、金は欲しいけど。

俺は金がほしくて海賊をしてるわけじゃないんだよ。」


「では何がお望みですか。」


「世界だ。イスパニアと大陸のキリスト教徒をぶち殺すことだ。

表舞台から退場していただく。」


「だから、オスマン帝国とイスラム教徒と同盟を結ぶと?」


「ああ」


「イングランドも十字軍として、エルサレムを襲っています。

あなたでは無理でしょう。」


「それで、本題は何だ?」


「イスラムの家に スルタンの侍従医のハモン、

そして、オスマン帝国海軍、いえ、公認の海賊をしているスィナンと

言うものがおります。なにぶん手が足りていないため、

助力しかいたしかねますが。」


「さっき聞いたはずだ。何を与え何を求める。」

ラッセルは無意味な会話は嫌いだった。


「求めるものは キリスト教の分断、そうですね、イングランド王には

離縁していただきましょう。そして、新キリスト教徒を作る。

その折には、我々ユダヤ人に住みやすい国にしていただけるとありがたいです。」


「与えるものは、あなたが求めるだけの、お金とそれと

オスマン海軍の一翼を担っていただくことを可能としましょう。」


「悪い条件じゃないな。」


「が、それは俺にとってはだ。」


「あんたにメリットがあるようには見えんな。

俺は王侯貴族じゃないんだぞ。単なる貧乏な3流海賊だ。」


「私怨、とだけ申しておきましょう。」


「じゃあ早速だが、最新鋭の帆船、戦闘用だ。20隻、

毎年、金貨換算で1万枚、それとあんたのコネを使って

オスマンの大物貴族に直接会いたい。」


「ネーデルランドは独立し、我が勢力に入る予定ですが、

現在はイスパニア領、船はアルジェにてお渡しいたします。

金貨に関しては、この場で用意いたします。」


「オスマンの高位貴族とおっしゃられましたが、

それはわたくしで事足りるかと存じます。

あなたの船に同乗させていただきます。」


「わかった、降参だ。俺の負け。」

「そこまでの覚悟があるのなら、イングランド王を

裏切ることが無い限り、あんたの手駒になってやるよ。」


翌日ラッセルが、アントワープの港にある船に乗り込むと

部下達が有頂天だ。


「なに騒いでんだ手前ら、声を落とせ。」

「ここはイスパニア領だぞ。」


「提督、金貨です。2万枚以上ありますよ。あと信用小切手とか言う物

ユダヤ人の銀行家なら誰でも交換してくれるらしいです。」


「うおーまじすっげえ。」


「あとすごい美人が乗ってきましたよ。」


「オスマンの大物貴族だ。失礼なことしたら殺すぞ。」


「あ、あいさー。」


「今こそ、これを開けるときか。」そう言うとヘンリー8世から

預かっていた文書の蝋の封印を解き、ラッセルはこう宣言した。


「今から俺は騎士爵だ。」


「陛下、海賊ラッセルは、信頼できる支援者を見つけました。

これからは無法海賊としてではなく、英国騎士ラッセルとして

大陸の奴らの鼻をあかしてやりますよ。」


それから、1ヵ月半の航海の後、アルジェに到着した。


約束されていた 「帆船」は20隻確かにあった。

予想していたが度肝を抜かれた。

どうやってこんな短期間に戦闘用の大型帆船

を新造したのか、想定の範疇を超えていた。

だが乗組員はいない。

乗ってきた船の乗組員は、ある程度熟練だ。


「まともに、動かせるのは1隻だけか。」

これからこなす難行を思うとラッセルの気分は

強烈に重かった。新しい船の名前は決めた。


とりあえず、ハルバリア王ウルージに謁見だ。


「共にキリスト教徒から逃げてきた者ではありませんか!」

グラツィアは誇り高きバルバリア王に侮辱とも取れる言葉を叫んでいた。


ラッセルは内心(あちゃー)などと思いつつ、グラツィアの発言を聞いていた。


彼らは、いちおう海賊。だが国王でもある。

ウルージ王とその弟 赤ひげハイレディンだ。


「逃げてきただと、ふざけるな!」

ウルージ王は激昂して怒り狂いながら、吐き棄てた。

女で無ければ確実に殺されていただろう。


それをなだめる温厚な弟ハイレディン。

そのグラツィアが誰か紹介したい人がいる、らしい。


「こちらは、イングランドのジョンラッセル殿です。」

ラッセルはヴァチカンの高速艇に振り回され、

情報戦で敗北している、イスラムを知っていた。

グラツィアのおかげで、命をかけた芝居を打つ必要が

ありそうだ。(あー怒ってるよ)


「失礼だが、貴殿、身分は?」

かつては平民の貿易商だったが、今騎士だ。

しかし、元平民の騎士だと明かすと、

ウルージは怒髪天を突く勢いで暴れだした。


「なめられたものだ。海賊とそしられようと

オスマン帝国の要衝アルジェを治めるバルバリア王に

イングランドは、一介の騎士を使節として送るのか!」

周囲のいかにもと言う古強者の船乗りがウルージを押さえ込む。


王弟ハイレディンがあわててウルージに報告する。

「しかし、スレイマン大帝の書状、侍従医ハモンの推薦もあります。

ハモン殿のは懇願と言っても良いでしょう。しかもかのスィナン・パシャは

彼女の家来です。」


ウルージの意志ははっきりしている。

「それがどうした!それはグラツィア女史にであって、

この騎士殿とは無関係だ。」


落ち着きを取り戻したウルージは礼を失せぬ程度に

平民騎士ジョン・ラッセルを軽蔑していた。

イングランドはなんと言う失礼な国家だ。

国王は逝かれ野郎か。


すると、不敵にもラッセルは笑い出した。

「ふっ、巷では噂になっておりますぞ。

ヴァチカンのスパイ船に振り回され、

海賊行為もままならぬとか、船は不足している。

私は必要でしょう。」


さすがのウルージも、騎士ラッセルが生命を賭している事は分った。

だから男として挑発に乗ってやることにした。

「ふん、無礼な奴だ。貴殿に高速情報艇の拿捕ができると言うのだな。

言って置くが、1度失敗すれば、その命貰い受ける。」


「いいでしょう。あなた方の協力があれが今すぐに可能です。

あいにく私の船は1隻でね。恐怖で支配し使役するガレー船の時代は

終わりです。それでは真のチームは生まれない。」


「兄じゃ、協力は俺がしよう。」


「分った、お前が行け。」


「だが、これは海の男としてではなく、王としての疑問だ。

なぜ同じキリスト教徒が、我々ムスリムに協力する?」


「疑問はごもっともです。陛下。」

ラッセルとしてもこれを説明できねば、

協力どころの話では治まらないだろう。


「イングランドはトルデシャリスの枠から締め出されました。

これは海洋国家にとって致命的、しかもイスパニアはベルナンブコで

銀を、ポルトガルはケープで金を発見した。」

ラッセルは続けた。


「今までは、教会が金を管理し、純度が変わらないため、

安定しており強かったのです。地方領主が銀を扱い、含有量をごまかして

流通させ、庶民も銀で商業取引をしている。生活の基盤である銀が

大量に持ち込まれ暴落すれば、すさまじい、物価の高騰です。」


「ここからはグラツィア女史からの知識でもあるのですが、

フッガー家はいくつかのキリスト教領主を教皇庁から離反させようとしている。

彼らの目的は金の流入による金の暴落です。大航海時代にレコンキスタ、

目的はご存知ですか?」


「いや、知らん。」

ウルージは荒くれ男の欠片もない態度、

完全に、オスマン帝国のバルバリア王という立場で聞いている。


では、


「イスラムの握るアジア、アフリカの交易ルートを無視し、無力化すること

そして、ヴァチカンの威信回復のため、再度エルサレムの奪還を図ることです。

バルバリア王国にはイスパニアの銀を沈めて頂きたい。」


「不可能だ。航路の特定が出来なければどうしようもない。」

ウルージは苦しげに言った。


「いえ、ヨーロッパの陸路は自殺行為、セウタ海峡を押さえればいい。

地中海に持ち込ませなければ決定打とはなりえない。」


ウルージは感心しながら言った。

「ムムム、正論だ。」


それから、グラツィアとラッセルは歓待を受けた。

ラッセルはイスラム教徒は酒は飲まないと知識として知っていたが

海賊は飲むようだ。頭の隅にメモしておいた。

(まあ、酒を飲めば、口が軽くなるからな。

単なる歓待というわけではないだろう。)


ウルージのガレー船は浅瀬で待機していた。

「ハイレディン提督、本当に高速艇は浅瀬に来るんですかい?」

副官の船乗りが言った。


「信じるしかあるまい。」

ハイレディンは答えた。ラッセルの命がかかっているのだ。

彼の行くその道の先を見てみたい、そう思える人物だ。

ラッセルの幸運を信じるしかないだろう。


ヴァチカン高速艇は何の警戒もせず、航行していた。

風下に巨大な船影があることも気がつかないほどに

油断していた.


「伝令、風下に船影。」


「例のバルバリア海賊か。」

船長が尋ねた。

「いえ、大型帆船です。船名ミドルトン号。」

「確か、英語で、ぱっとしない と言う意味か?聞かない名だな。」

船員達はその意味を知ると笑い出した。

だが、見張りは違った。

「速い、航路に入ってきます。」

見張りが報告するよりも速い速度でラッセルは行動を起こしていた。


「ダッキング航法です。」

「何だと、あれは100人近い人間がひとつになってできる

高度な技術、バルバリア海賊などではない、おそらく列強の正規海軍だ!」


「逃げるにも逃げられません。交戦許可を!」


ミドルトン号艦上

「ヤード引き込み面舵いっぱい、船首風上ヨーソーロー。」

「おうっ、ヤード戻せ。」


「敵、ミッシングステー。」


ラッセルは勝ちを確信した。

「葡萄弾、水平射撃、カルバリン右舷全門撃てっ!」

「直撃8 至近弾3」

「敵反撃ありません。」


ヴァチカン高速艇


「船員を狙っているぞ。糞ッ高威力のカノン砲は上にしか撃てない。

やられた、失策だ、逃げるぞ。

幸い敵喫水線は深い、浅瀬に逃げ込め。」


(大航海時代の大砲は砲撃すると反動で

大砲が船に突っ込んできて壊れたり、

人が挟まれたり潰されて死ぬので、

簡単に撃てるものではないのです。)


「提督、す、すぐそばに ガレー船、接舷されます。」

高速艇は複数の乗員を含め拿捕された。


ハイレディンは、ラッセルのミドルトン号に向け、力強く手を振った。

「まさか、本当に浅瀬に追い込むとはな。末恐ろしい。」


アルジェに帰還した、ラッセルとハイレディンはお互いの肩をたたきあった。

ヴァチカンの情報艇の乗員を尋問した結果、有益な情報が得られた。

それにこれで海賊業を再開できる。兄じゃの機嫌も直るだろう。


「ラッセル殿、私の使役しているキリスト教徒の奴隷で

気に入った奴がいれば、乗組員として連れて行ってもいいぞ、

ガレー船とはいえ熟練の奴らだ。役に立つだろう。」

ハイレディンは大声で笑った。


「感謝する。」

ラッセルはそう言うと船員のスカウトに向かった。


提督!そう言うと副官がハイレディンに耳打ちした。

「この船の情報を持っていけば、ラッセル殿をスレイマン大帝に

認めさせうるかも知れんな。たいした御仁だ。」


グラツィアは、ハモンに向けて、手紙を書いていた。


「大帝陛下、グラツィア・ナスィより書状です。」

ハモンが手紙を差し出す。


「なぜ、イブラヒムのいるところで?」

疑問に思ったが手紙を開く。


「血か、血をインクとしているのか。」


サドラザムのイブラヒム

「ユダヤ人が血のインクとは、我々を侮辱しているのか!」


「お待ちください!」

スィナンはハモンに指示されたものを持って

声を上げた。


「何だ、申せ、スィナン。」


「これは、我がイスラムに逃れてきた者たちから受け取ったものです。

血の書状、ここにあるだけで300枚以上、わずか6年の間にです。

おそらく、まだ幼い頃から。」


スレイマン大帝は少し考え込み、発言した。

「わかった、イングランドへの支援、前向きに考えよう。」


大公イブラヒムはヴァチカンとつながっていた。

悪い予感はしたが言うしかなかった。

「ヴェネチアとの同盟はどうなされるのですか?」


大帝は宣告した。

「インド航路の発見、我は与り知らぬ。

ヴェネチアは知っていて隠した、裏切りだ。

貴様、生きておられると思うなよ。」


「ひぃっ。」

そう言うとイブラヒムは腰を抜かして倒れ込んだ。


「我は思う、この血の書状の重みに嘘はないとな。」


これにより、オスマン帝国とイングランドの同盟は成った。


稀代の海賊にしてオスマン海軍創設者ハイレディンと、

イングランド救国の英雄ジョンラッセル、

そして、ティベリアの乙女グラツィアナスィのお話です。

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