第2話スカウト 「Are you going to commit suicide or become a killer?」

 午後の診察で診てもらうと、軽い貧血だと診断された。女性にはよくあるが、男の貧血は、内臓の出血だったりとか危険な病気が原因のことが多いらしい。エコーで診てもらったが、なにも見つからなかった。

 急ぎではないが精密検査することを勧められだが、多分行かない。


 家に帰るには少し時間が早すぎる。

 会社を早退したとなると、妻が心配するので、駅近くの本屋で時間を潰した。最近の本屋は、ここで読んでくださいとばかりに、座り心地の良いソファが置いてあり、時間を潰すのには十分だ。

 前から気になっていたタイトルの本があったので読んでみたが、タイトルを下回る内容だった。数ページ読んだだけで気づくとソファにもたれたまま寝てしまっていた。

 一つ挟んで隣に座る禿頭の男が、体半分ソファからずり落ちて、大きなイビキをかいて爆睡しているで、こんなところで寝てしまった気恥ずかしさは薄れた。


 腕時計を見ると、いつも乗る電車はとっくに出てしまっている時間だった。本を棚に戻し、店を出ると、携帯で妻に電話をかけた。

 妻は時間に厳しい。遅く帰ることよりも、報告しないことに注意される。

 会社でトラブルがあり、少し残業になり、電話できなかったと嘘の報告をすると、妻も今日は残業で遅くなるらしい。残業になることがわかっていたので、保育園の迎えは実家のお母さんに頼んであり、週末なのでそのまま娘は実家に泊まらせる、と先週言われた気がする。夕飯は自分で済ませて、と言われた気もする。

 たまにはアナタも会社の人と呑んでくれば、とまで言われた気がする。それが今日だったのだ。ひとの話を上の空で聞いていたことを怒られた。


 一人で居酒屋に入るのは気恥ずかしい。早退した身で同僚を飲みに誘うこともできず、コンビニで缶ビール2本と海苔巻きを2つ買った。


 まっすぐ帰っても良かったのだが、ビールも温くなってしまう。駅前で座り込んで呑むのも周りの目もある。もう同僚も帰っている時間だと判断し、近いので会社まで戻ることにした。非常階段から登れば、屋上まで行ける。あそこならタバコも吸えるし。最近はどこもかしこも禁煙だらけで、最近は居酒屋でさえ分煙された肩身が狭い。

 禁煙禁煙と騒ぎ過ぎだ。自分の同級生で、タバコは吸っていた時は健康診断でなにも出ていなかったのに、禁煙を始めた翌年の健康診断で悪い結果が出たという奴が結構多い。タバコを吸う吸わないは、健康にはあまり関係ないと思ってしまう。吸った後は消臭剤をかけるなど、吸わない人のためにマナーは気にしているつもりだ。


 一人で呑んでいると、あまり量は飲めないものだ。炭酸で腹もふくれてくるし、2本目の一口を飲んだあたりから、頭をまで痛くなってきた。

 むかし母に、頭が痛くなったら靴下を脱げ、と言われた。足の裏が冷えていたら温めて、足の裏が熱かったら冷やせ、血液の流れが悪くなるから頭が痛くなるんだと、多分なんの根拠もないだろうが、不思議と母親に言われたことは、その通りにすると、だいたいのことは治った。


 革靴と靴下を脱いで、足の裏を触ると熱かった。革靴と靴下で蒸れて、汗ばんでいる。足を下ろすと、コンクリートが冷たくて気持ちよい。どんなに履きやすい靴を履いていたって、裸足が一番気持ちがよい。

 ペタペタと音を立てて歩く。誰が言っていたか忘れたが、多分どこかの偉い学者か大学の偉い先生だと思う、人間は靴を履くようになって、危機管理能力が衰えたらしい。足の裏から感じる膨大な情報を靴によって遮断してしまっているので、視覚や聴覚に頼り、視覚や聴覚は騙されやすく、足の裏の感覚は嘘をつかない、動物が言葉を話す必要がないのは、靴を履かないからだ、というような内容だった。俺の理解力が低いのが、色々と考えると、色んな矛盾が出てくるので、考えるのをやめて、頭のいい奴はぶっ飛んでるなぁ、としか思わなかった。


 缶ビールを持ったまま、屋上の柵に肘をかけ、外を覗く。十階建ての大して高いビルではないが、飲食店のネオンや車のライトなどが、それなりの夜景を作っている。今まで、どんな高層のお洒落なホテルに泊まっても、夜景なんか綺麗だと思ったことは一度もない。どこから見たって、ただの飲食店のネオンと、ただの車のライトだ。

 そこには人がいて、その一人一人もそんなに大層な生活を送ってはいないんだろうな、とひねくれた見方しかできない。本当の成功した人は、多分夜景なんか興味はないんだと思う。夜景を見たいから高級高層マンションの最上階に住むんではなくて、多分一番上の方がセキュリティ的に安全だとか、そういう理由だろう。成功する人は下なんか見ない、いつも上を向いている人だ、というのは母の言葉だ。どこかの偉い学者さんよりも、母の言葉の方が、明解で、直球だ。



「Are you going to commit suicide or become a killer?」


 突然後ろから声がした。映画の予告のような、ものすごく低い声だった。

 驚いて缶ビールを落とした。裸足の足にビールがかかった。

 振り返ると、そこには背の低い、少し色黒の禿げたおじさんが立っていた。アロハ柄のシャツにショートパンツに、ビーチサンダル、無精髭を生やしてはいるが、不潔な感じはしない。英語のような言葉を発したが、どこからどう見ても日本人だ。バ 格好つけて、英語で喋って、急に恥ずかしくなったのか、俯いてモジモジしている。


「今、なんて?っていうか、誰?」


「いや、まあ、なんというか、その。いや、忘れてくれ、いや、ちゃんと聞いてほしい」


 どっちなんだよ。


「っていうか、ここ、勝手に入っちゃダメですよ」


「君が、その、普通に入っていったから、私も、あの、非常階段の扉が開いてたので、ちょっと」


 おじさんは、掌をショートパンツの脇で拭いたり、右手で左腕をかじったり、頭をかいたりしてから、胸ポケットから一枚の名刺を出してきた。


 探偵事務所GESBK 所長 澤村 秀彦


 と書いてある。


 探偵事務所?


 GESBK?


 浮気調査か?多分妻は俺が浮気なんかすると疑わないし、たとえ疑ったとしても、探偵事務所になんか頼まず、直球で聞いてくるはずだ。


「なんの調査ですか?」


「いや、調査じゃないよ」


「じゃあ、なんの用ですか?」


 モジモジして、小さな声で「スカウトだよ」と言った。


「スカウト?なんで、俺に」


「いや、だって自殺しようとしてたでしょ。し、死ぬくらいなら、うちで、その、働いたら、どうかな、というか」


 ビルの屋上に裸足でいるから、自殺に勘違いされたのか。


「俺に探偵なんて無理ですよ。仮に自殺しようとしてた人を、探偵にスカウトします?」


「探偵じゃないよ」


 ?


「探偵事務所は表向きで、本当は殺し屋」


 ???


「とにかく、今日はもう遅いから、明日そこに書いてある事務所に来いよ。土曜日なら仕事休みでしょ、絶対来いよ!」


 おじさんは逃げるように非常階段を降りていった。


 殺し屋?何言ってるんだ、あの人は。

 名刺にはちゃんと住所が書いてある。殺し屋が事務所なんて構えるだろうか。しかもスカウトって。ただの酔っ払いだろう。


 名刺には探偵事務所の下になにやら英文が書いてある。

 Are you going to commit suicide or become a killer?

 多分、事務所名はこの頭文字をとったのだろうか。

 俺は携帯でネットに繋ぎ、「英文 和訳」と打ち込んだ。「検索」の欄に、この英文を打ち込んでみる。


 和訳:あなたは自殺者になりますか、それとも殺し屋になりますか?


 どういうことだ。

 なんだか変な奴に目を付けられてしまったようだ。


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