解呪
シルヴァは出された茶に手をつけることもできず、ただ小さな身体をさらに小さくして笑っていた。その笑みはいつもの明るいものではなく、青ざめ、引きつっている。
高い天井には満天の星のような照明具がきらめき、足元の毛皮の敷物は踏むのが申し訳ないほどやわらかい。すべらかな革張りのソファーは座った瞬間に身が沈み、あわてて起き上がろうともがけばもがくほどさらに沈んだ。
テーブルの上の茶器には王家の紋章、部屋の隅に控える侍女たちでさえおそらく貴族の娘。なぜ教えておいてくれなかったのだと、呑気に茶をすする美青年を恨んだ。
「……今、ベリンダがどういう時期かご存知?」
正面に座る女性が低い声で問う。
きちんと軍服を着込み、帯剣した勇ましいこの女性こそ、現国王の姉カノン・ラック・ウェーザーだ。西の都ベリンダの領主に嫁ぎ、本来ならば王籍をはずれるところだが、弟王が病弱なため万が一に備えて現在も王位継承権を有する。
隣で穏やかにほほ笑むマーカス・ベリンダ卿がそっとなだめるが、カノンの苛立ちは鎮まらない。そして嫌われることに慣れているカインは、気に留めることもなく答えた。
「花祭りが近いらしいな」
「なのに、よく入れましたね」
カノンは侍女を一人呼び付け、本日の門番を解雇するよう言伝た。ベリンダ卿が小さくため息をつく。
自分のせいで門番に迷惑をかけたと思ったシルヴァは、ますます青ざめた。事情を説明したいが、畏れ多くてとても話しかけることなどできない。本来ならば同席すら許されぬ身分なのだ。せめて絹のブラウスを選んでおけばよかったと後悔する。
「厭味はもういいか? 急いでるんだ」
カインが眉をひそめると、カノンはとても言い足りないとばかりに舌打ちした。
「アナベルの仕業なら、フランに責任をとらせればいいでしょう?」
「もちろんそのつもりだが、王都よりここの方が近いからな。知らんぞ、何かあった時に俺がどうなっても」
卑怯な、とカノンは目を吊り上げた。その瞳の色はウェーザー人にしては明るく、カインとよく似ている。
「あの、私、だ、大丈夫です。その、苦しいとか、何もないので……」
顔を上げることもできずに、シルヴァは消えそうな声で言った。気の毒に思ったのか、ベリンダ卿が口をはさむ。
「カノン、せっかく訪ねてきてくださったんだ。見てあげたらどうだい?」
「あなたがそうおっしゃるなら……」
カノンは渋々うなずく。すっかり冷めてしまった茶を一口含み、気持ちを落ち着けた。
「仕方ありませんわね。カイン様に暴走されては、花祭りどころではありませんもの」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、シルヴァの手をとりシャツの袖をまくり上げた。不気味な紋様を指でなぞりながら、注意深く読み解いていく。
高貴なひとに腕を掴まれ、シルヴァは生きた心地がしなかった。
「この紋様は、ただのしるしのようですわね。遠くから呪いをかけるための。まあ、アナベルは魔力を持たないので、呪いといってもせいぜい悪夢を見せたり、少し運を悪くさせたりする程度でしょうね」
それを聞いて、カインはひとまず安心する。
「解けるか?」
「もちろん。ですが、花祭りまで力を使いたくないので、カイン様の力をお借りしますわよ?」
やすい事だとうなずく。力だけは嫌というほどあるのだから。
「ごめんなさいね、シルヴァさん。王家のいざこざに巻き込んでしまって」
なるべく優しく声をかけるが、ついにシルヴァの緊張が解けることはなかった。
「では、準備ができるまで、どうぞお楽になさっていてください」
ベリンダ卿は侍女に新しい茶と菓子を出すように命じ、カノンとともに部屋を出ていった。
シルヴァはふうっと息を吐き出し、肩の力を抜く。
「ひどいよ、カイン様。私、てっきり街の有名なまじない師とか、大聖堂の祭司様とかだと思ってたのに。王女様だったなんて……」
「言ってなかったか?」
聞いていれば、きちんと支度していた。わざわざ軽装でいいと言っていたのはこういうことか。
「非公式だからね、気にしなくていい」
「でも……」
市民権を持たぬ流浪の民はしばしば忌み嫌われ、王侯貴族に近付くことなどはとくに厳しく制限されている。そして何より、作法などを全く知らなかった。出された茶に手をつけていいのかさえわからない。
「俺も、いちおう王族だがね」
「そうだった」
まるで傭兵のような出で立ちと気さくな話し方のせいで、すっかり忘れていた。
「市民権がほしいなら、手配しようか?」
「ううん、いらない」
別れた仲間たちは、今どの辺りを廻っているだろう。また一緒に旅することになった時に、市民権は邪魔になる。
「ウェーザーのひとは、みんな優しいよね。よそ者でも受け入れてくれるし、親切だし。カイン様も、私を助けてくれるし」
隣国シラーでは彼女たちの存在は疎まれ、不作が続き疫病でも流行ったならば、石を投げられ追い立てられた。
「俺と同じだね」
カインは自嘲気味に笑った。
「俺も、街に近付くと嫌がられる。ウェーザーで起こる悪いことは、全て俺のせいなんだ」
「ひどい」
「いいんだ。そう思うことで救われるなら。おまえだってそうだろう? 嫌なことを誰かのせいにしたら、気持ちが楽にならないか」
「あ……」
昨夜のことを思い出し、恥ずかしくなる。きゅっとカインのシャツの端をつかみ、おずおずと顔を見上げた。
「怒ってる?」
「怒ってないよ。俺は、すべての怒りや悲しみを引き受けるために不死になったんだ」
「カイン様……強くて、優しいんだね」
「え、あ、いや……」
なぜこの娘は、誘惑するような仕草で心震えることを言うのだ。懸命に、諦めようとしているのに。
「その、きっと、鈍感なんだよ。それか、長く生きすぎて慣れてしまったんだ」
「……カイン様が、みんなから愛されて、幸せになりますように」
握りしめたシャツの裾にくちづけ、祝福する。ああ、このまま時が止まればいい。
暖かな午後の風が吹き込み、祭りの準備で賑わう街の声を運ぶ。シルヴァは窓の外を見遣り、頬を上気させた。
広場の中心に組まれたやぐら、祭壇の位置を測り聖水で清める祭司たち、花屋が荷馬車にいっぱいの花を届け、訓練所では見事な演武の実習が行われている。厳しい冬が終わり、春の訪れを告げる祭りに人々はみな心躍らせ、準備に余念がない。
「せっかくだ。まじないが解けたら見物していくか」
「いいの?」
「ああ。土産話にいいだろう」
無邪気に喜ぶシルヴァの横顔を見つめ、気付かれないように小さくため息をついた。
「お待たせいたしました。こちらへどうぞ」
案内されたのは聖堂ではなく、机と椅子を隅に寄せた狭い会議室だった。窓に護符を貼り、床にはシルヴァの腕と同じような紋様の魔法陣が描かれ、魔除けの蜜蝋の甘い香りが充満している。
「カイン様の力がありますから、この程度で充分です」
カノンはシルヴァを陣の中央に立たせ、それを挟むようにしてカインと向かい合う。術師がカインの長剣を借り受け、聖水にひたして清めた。
「シルヴァさんからまじないの元凶が抜けましたら、その剣で斬ってください。それまでは絶対に動かないでくださいね」
「しかし……」
おそらくスークは遠見の術で様子をうかがっているだろう。この隙をついて、攻撃を仕掛けてくるかもしれない。
「選りすぐりの兵と術師を配備しています。どうぞご安心なさって、カイン様は式に集中してください」
ベリンダ卿が言うと、兵たちはよく揃った動きで敬礼した。
「さっさと済ませましょう。いいですね、カイン様、こんなくだらないまじないを解くのに失敗して、街や市民を危険にさらすわけにはいかないのですから、お願いしますよ」
「ん、わかった」
カノンは手にした鈴を鳴らし、ゆっくり祝詞を詠みあげる。シルヴァには理解できないが、古い言葉で精霊たちを讃えているのだろう。
カインの身体から光の粒がふわりふわりと溢れ、それに呼び寄せられた何かが部屋に集まってきた。これが精霊か。
やわらかな光は優しくシルヴァを包み、その心地よさにうっとりと瞳を閉じた。
が、次の瞬間、全身が総毛立つほどの不快感に襲われる。ぞわりと腕の紋様が蠢き、聖なる力に引きずり出されるのを拒むように、さらに深く、強く絡みついてきた。
「うう……」
シルヴァは声を殺して堪える。悲鳴など上げようものなら、きっとカインは心配して持ち場を離れてしまうだろう。
邪悪なものよ出ていけと、懸命に祈った。
精霊とまじないの攻防が続く中、部屋の四隅に置かれた燭台の一つが突然、不自然に揺れて倒れた。控えていた術師があわてて駆け寄ると、絨毯に落ちた火は勢いよく天井まで燃え上がった。
「来たか!」
炎は獣の姿に変わり、咆哮をあげてシルヴァに飛びかかる。
「いけません! カイン様、動かないで!」
カノンが制するよりも先にカインは剣を抜き、炎の獣に斬りかかった。
両断された獣はしばし床でくすぶり、やがてそのどちらもが失った半身を再生させて立ち上がる。二頭の炎獣はじりじりとシルヴァに迫った。
「カイン様、斬らないで!」
カノンが叫ぶ。これ以上、敵を増やされてはたまらない。
術師たちは獣に向かって聖水の入った水瓶を投げつけた。炎が消え、獣の動きが鈍くなる。カインは剣を払い、今度こそ仕留めた。
ほっと息をついたのも束の間、聖水で濡れた部分を踏みにじったため、床の魔法陣が欠けている。
「あ、あなたたち、何をしているの!」
得たりとばかりにまじないの元凶がシルヴァから抜け出した。混乱する精霊たちを取り込み、力を増幅させ、窓をつき破らんと激しくぶつかる。
指示通りにカインは斬ろうとするが、すでに想定の力を超えたまじないには効果がない。霧散しては集まり、不気味な怨声をあげて呪いをまき散らす。力の弱いものから正気を失い昏倒した。
解呪は失敗したのだ。
「く……このままでは……」
為す術もなくカノンは立ち尽くす。たかが田舎まじない師の術と侮っていた。
「……カイン様、申し訳ありません」
「ん?」
カノンはきゅっとくちびるを噛み、宙空に新しい魔法陣を描く。魔法陣は闇色の塊を引きつけ、捕らえた。
「呪いよ、かのひとにとり憑け!」
「お、おい!」
カノンが指差し命じると、まじないの元はするするとカインの中に吸い込まれていった。
狭い会議室に静けさが戻る。窓の外では何も知らない市民たちが、相変わらず祭りの準備に勤しんでいた。
ただカインだけが青ざめ、身体を戦慄かせている。
「おまえ、なんてことを……」
「動くなと言うのに、カイン様が動くからでしょう」
カノンは決まり悪そうに目をそらし、椅子と机を元の位置に戻して部屋を片付ける。
「不死に呪いは一番辛いんだぞ」
「ですが、シルヴァさんに戻すわけにはいきませんし」
もちろん、部屋の外に出すわけにもいかなかった。
強い魔力を持つカインならば、しばらくは抑え込むことができるだろう。カノンの判断は正しい。
「ちくしょう。ただ悪夢を見るだけだな?」
「あと、少し運が悪くなります」
「運の悪さはもともとだ」
ため息をつき、剣を収めた。
「カイン様……」
シルヴァが泣きそうな顔でカインの腕を確認する。紋様は浮き出ていない。だが、確かに何かが体内に入っていくのを見た。
「大丈夫だ。おまえだって一晩耐えただろう?」
「カイン様がいてくれたから」
「はは。俺は不死身だよ。まじないなんて、どうってことないさ」
髪を撫でてやるカインの表情が穏やかで、カノンは驚く。
黄金の王と呼ばれ、人々から敬遠されるこの男は、いつも悲しげに、何もかもを諦めたように、薄くほほ笑むばかりだったのに。これが運命の乙女の力かと思うと、少し妬けた。
「終わりましたか? 王都へ向かわれるなら、馬車を用意いたしますが」
別室で待機していたマーカス・ベリンダ卿が、様子をうかがいにきた。
「ん、もう一度アリーセに戻るよ。そうだ、カノン。遠見の術で、この子の仲間がどこにいるか探せないか?」
「……どういうことです?」
ようやく運命の乙女と出会えたのだから、すぐにでも国王と議会の承認を得て妃にすればいい。それで黄金の王が落ち着くのなら、誰も反対はしまい。
「約束したんだ。まじないを解いて、仲間のところに返してやると」
「そんな……」
「いいんだ」
この手で抱きしめ、言葉を交わした。もう充分だ。この記憶をいつまでも胸に、生き続ければいい。
「だめだよ」
「ん?」
シルヴァはカインのシャツにしがみついたまま、きっと見上げた。大きな碧色の瞳には、強い意志が宿る。
「だめだよ。私だけまじないを解いてもらって、あとは知らん顔なんてできない。ちゃんと、カイン様からも悪いものが出ていくのを見てからじゃないと」
「俺は平気だよ。ああ、日が変われば元に戻るから、まじないだって……」
「不死に呪いは辛いって言ったじゃない」
しまったと口を押さえる。
「ね、呪いは消えないんでしょう? 毎日、悪夢を見ながら永遠に生きるなんて……ねえ、どうやったら消えるの? カノン様じゃ消せないの?」
「ごめんなさい。私はあまり強い力を持っていないの。それに、花祭りのために力を温存しなければいけなくて」
「じゃあ、どうすれば……」
カインは言うなと首を振るが、カノンはそれに気付かないふりをした。
「王都にいる私の弟なら、カイン様と同じくらい強い力を持っているわ。それに、まじないをかけた子もそこにいるから、捕まえて解かせるのが一番いいかもしれないわね」
「わかりました。ね、カイン様、一緒に王都へ行こう」
カインは舌打ちし、余計なことをとカノンを睨みつける。これは、連れていかなければ納得しないだろう。
「あの銀髪の子は、私が邪魔だって言ってた。また襲ってくるかもしれないし、カイン様、私を守ってくれるんだよね?」
「……よく覚えているな」
大きなため息をつき、目を閉じた。耐えられるだろうか、これ以上側にいて、いざ手離すとなった時に。もう、すでに心は止められないほどに求めている。
「今から向かわれたのでは、王都につくのは夜中になってしまいます。よろしければ、出発なさるのは明朝になさってはいかがでしょう」
「ああ、すまんね。一晩宿を借りていいか。昨夜もろくに寝かせてやっていないんだ」
カノンとベリンダ卿は思わず顔を見合わせた。
「では、北の聖堂を片付けて、部屋を用意させましょう」
「どうぞそれまで、祭りの準備でもご覧になっていてください。ふふ……」
にやにやと笑いながら、二人は侍女たちに指示を出す。
彼らに多大な誤解を与えたことに気付けるほど、シルヴァはもちろんカインも経験豊かではなかった。
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