シュヴァイス・ローゼン

名▓し

『これは始まりで非ず』


 遠い、昔のことである。



 まだ春風が吹くまえの石畳の、肌寒い教会の朝——。冬のに土をえた花壇から、ようやく最初のつぼみが芽吹いた、そんなに。



 穏やかな陽のもとで微笑みが開いた。その時だけはなぜだか本当に一瞬、春がきたような感覚がして。フライングぎみに独り占めした瞳が大きく揺れる。


「――――」


 名前を呼ばれた気がした。もう思い出すことはない、第二のめい。ゆったりとこの身を揺らす横風に寝間着の裾が強くなびく。



 視界ぜんぶを埋め尽くす朝焼けに似た黄金。銀の甲冑に身をくるめ、雲では覆い尽くせない太陽の血を編んだ天界の絹。



 無骨な男装に実を包むその人はそれでもなお美しく、悠然と輝いていた。それに子どもながら見入みいったのを覚えている。



 腰に携えた一振りの剣はさびの1つとて付いていない。打ち据えてまだ日が浅いのではなく。光暈こううんはしる薔薇の刀身はいまだ何者の血も吸ってはおらず、ただの一度も抜かれたことはない。



 代わりに、群青の空にひとつ。透徹した天空よりもなお深い蒼旗を右手に宿し、夜明けの風に翻す。



 自分の存在すべてを優しく包んでくれる温かさほほえみが好きだった。



 これから死に征くはずのその人は、驚くほどにっこりと笑っていた。いっそ清々しいともとれた表情で、熱をもった掌がぎこちなくオレの頭を撫でる。



 不思議な気分だ。この人が誰かの頭を撫でるところを見た事が無い。



 教会に住む子どもはみな、親が死んで身寄りのない者ばかりだけど、それゆえに芯が強い。



 田舎の小さなところだったけど、切り盛りする彼女は他の誰も平等に扱ったし、ほかの誰にも奥深く干渉はしなかった。それが優しさからくる配慮であることは知っていたし、理解もしていた。



 だから今更こんなことする彼女をみて、子どもながらに納得する。



 もう、この人は帰ってこないんだろう。



 戦争が起きたのだ。もう百年以上まえから続く、馬鹿げた争いが。

 人智など優に通り超した、神話と幻想の戦い。ヒトとひとではない、仮に人間だとしてもここに集うは神代の担い手。それぞれが幻想の異能をもち、己が死力を尽きるまで魔を振るう。



 このひともまた血で血を洗う争いに身を投げるひとり。



「ちゃんとシスターの言うことを聴くんですよ……?」


 頷くと、残されるものが心配なのか、あれこれといままで教えてくれなかったことを口早に言い伝える。教会の運営や日々の礼拝の欠かさないことなど、困ったときの小切手についても話してくれた。本当に世話好きなヒトだ。それとも姉としての矜持だろうか。



 ああ、こんなことならせめて育てた花を見せてあげたかった。残念そうに眉を歪めたそれを彼女はどう受け取ったのか。口端が僅かに緩んだのが視られる。



 瞬間、全身が熱で包まれた。まだ成人前の、それでも充分に熟れた二の腕が、幼かった自分の身体を意図も容易く抱き寄せる。


「あなたは愛されています。あなたは誰よりも優しい子。あなたは生きていていいのです」


 耳元に吐息が触れる。囁きは震えていた。自分とは違う誰かの体温に少しだけ頬を赤らめながら、遅れて肩が上下する。そんなにキツくされると苦しい。


「これだけは、どうか覚えていてください。何があっても――――私は▓▓を▃▆▆█▓▓▆▁」


 絡め取った腕は抱き寄せられたときと同じように容易く解け、そのままその人は離れていった。

 悲しみはなかった。既に欠陥品の彼にそんな余裕はない。



 そうして一年後、少年は絶望した。

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