【R15】最終電車のアダムたち【2話完結】

なずみ智子

第1話であるも、これは1つの終わり

 その日、種田凌馬は、ほぼ朝から晩まで会社に拘束された疲れた肉体に鞭打って、最終電車の最後尾車両になんとか滑りこむことに成功した。

 凌馬の滑り込みを待っていたかのように、電車は走り出す。


 ゼエハアと息をつく彼が顔をあげると、ガラス窓に彼の年相応のいつもの顔が映る。いや、”いつもの顔”ではない。

 散々に疲労が蓄積され、今は一日の中で最もコンディションが悪い時だ。午前中なら、まだもう少しマシな状態であるだろう。

 ギリギリ20代である29才の会社員・種田凌馬。

 ”りょうま”なんて、名前の読みだけは歴史上の有名な偉人と同じであった。

 日本人なら大半が知っているであろう例の有名な偉人――西暦1836年から1867年という31年の短き人生を駆け抜けたあの偉人が、日本に与えた影響は多大なものであった。

 しかし、凌馬は歴史を動かすこともなく、過疎り始めていることが分かる田舎寄りの土地で、親企業の子会社の一歯車としての馬車馬のごとく働き、1人分の食い扶持とささやかな娯楽はなんとか楽しめる賃金を受け取り、同じ日々を三流大学卒業後からかれこそ7年程度繰り返しているだけだ。

 でも、これが一般人の日常であり、それが積み重なっていき種田凌馬の〇〇年の生涯ってモンになるのかもしれない。



 虚しさと諦め。

 最終電車の窓ガラスに映った自分の疲れ切った顔を見た凌馬は、思わずクッと喉を鳴らしていた。

 だが……

――やべっ!!

 凌馬は窓ガラスより超高速で目を逸らす。

 窓ガラスに映った自分からではない。窓ガラス越しにふと目があった、いかにもなヤンキー風情の若い男からだ。


 ”てめえ、今、俺の顔見て笑いやがったろォォ! 上等じゃねえか、ゴルァァ!!”

 ――などと、座席に深く座っていてもかなりの長身であることが見受けられる、あのまだ25才前後の、もしかしたらもっと若いかもしれないヤンキー男に胸倉を掴まれ、すごまれるんじゃないかと瞬時にして、最悪の未来予想図を描いてしまったチキンな凌馬。

 だが、幸いにしてヤンキー男も凌馬からスッと目を逸らし、自身のスマホに再び目を落としただけであった。



――何、あんな年下で、三流大卒の俺よりも学歴が低そうなガキにビビってやがんだ……俺は何もしてねえんだから、ビビる必要なんてねえし……


 他人はそれほど自分に興味はないものなのだ。

 特にたまたま最終電車の乗り合わせてしまっただけの、再び会う確率など0%に近い他人などには……


 凌馬はごく自然な感じとなるように、すぐ近くの座席に腰を下ろした。

 ヤンキー男とは対角線上に座ることとなる。

 そして、また自然な感じとなるように、凌馬は自分の仕事の書類でパンパンとなった鞄へと手を突っ込み、ゴソゴソとスマホを探りつつも、よせばいいのにヤンキー男の全身へと視線をサッとすべらせた。



 ヤンキー男は、全身をレザー調の黒で決めていて、まだ夏本番は少し先ではあるのに、その黒のタンクトップからは日に焼けた逞しい両肩が剥き出しとなっている。しかし、冬本番もまだまだ先であるというのに、足元は黒のブーツだ。

 中途半端なこの田舎の土地ではかなり目立ち、お年寄りにヒソヒソされることは間違いないファッションである。

 ヤンキー男の顔立ち自体はそう彫りが深いわけではなく、整っているわけでもなく、いわゆる一般的な日本人顔であり、つまり美醜という点では凌馬とそう大差はない。


 視線一つで凌馬をあそこまでビビらせたのは、彼の”加工具合”だ。

 その金色に染め上げられた髪の、ところどころに赤のメッシュまで入っている。いや、髪型よりも何よりも、彼の顔には幾つものピアスが光っている。


 その加工具合に加え、凌馬より明らかに年下であるヤンキー男は、凌馬より明らかに女性経験豊富であるオーラを全身より漂わせていた。醸し出す雰囲気は明らかに童貞のそれではなかった。それどころか、そう美形では彼であるが、女には不自由などしたことも、これからもすることはないだろうとも……

 

 彼の顔――両耳はもちろん、鼻や唇(痛くないのか?)で光るピアスの数を、凌馬が正確に数えようとしたなら、間違いなく”再度”視線はバチッとかち合い、先ほどの凌馬が描いた”未来予想図”が現実のものとなる確率があがるであろうから、凌馬は慌てて自身のスマホへと視線を落とした。




 そして――

 ふと、凌馬は気づく。

 この電車内には――自分の座席から更なる傾斜を描く対角線上の座席にもう1人、自分と同じ最終電車に乗り合わせただけであろう若い男がいることに。



 若い男――いや、”あいつ”は若い男の分類に入るのか?

 自分と同じぐらいにも見えるし、年下にも見えるし、年上にも見える。つまりは年齢不詳。

 そのうえ、明らかなキモオタ系。本格派な童貞のオーラ。


 ヤンキー男からは、超高速で目を逸らした凌馬であるも、自覚してか知らずか、相手は明らかに自分よりも”弱い”であろうことが見て取れる”そのキモオタ系”にはジロジロと不躾な視線を浴びせてしまっていた。


 座席に浅く腰掛けていても、いわゆる低身長の部類に入ることが見て取れる。Tシャツからのぞく二の腕は生白くブヨブヨとしていることが実際に触らなくても想像できた。

 離れた距離からでもあるが、その頭皮から分泌される脂で髪の毛は”嫌な艶やかさ”を持ち、黒縁メガネもその脂っぽいであろう肌からの湿気で”嫌な曇り方”をしていそうな……

 ピッチピチでサイズがあっていないペールグリーンのTシャツの脇には、今はそう暑いわけでもないのにクッキリと汗染みができている。

 凌馬から見える片方の脇に汗染みができているというなら、もう片方の脇も濡れているだろう。


 その清潔感の無さに、凌馬は”うへえ”と息を漏らしていた。

 ピッチピチのTシャツ――腹の肉が二段、いや三段となっているシャツには、明らかなアニメタッチでピンクの髪の少女が描かれていた。

 

 凌馬も正直、今でも漫画(ちなみに少年ジャ●プは中学2年生より購読している)は読んでいるし、アニメだって有名どころは知っている。アニメのイベントに参加したり、キャラの声優について調べたり、高いDVDを買って何度も見返したりするほどのハマりようではない。

 他人の趣味にどうこう言うつもりはない凌馬であったが、”おい、部屋着ならともかく、その服で外に出るのはちょっとやめとけよ”と思わず、他人の趣味に心の中で口を出し、失笑してしまっていた。


 オタク男は、そんな凌馬の視線をものともせず、小さなブックレット――そのブックレットの表紙や背表紙にもTシャツに描かれているのと同じ、ピンクの髪の少女が描かれているように遠目でも見えた――を食い入るように見つめていた。

 食い入るようにではない、あのオタク男はピンクの髪のアニメキャラに、まるで”恋をしているよう”にも思われた。

 その恋には、もちろんのこと、肉欲が含まれているであろう。

 触れることもできない女への肉欲が……




 名も知らないオタク男から、こちらへ伝染するがごとき虚しさを感じた凌馬。凌馬は、再び自身のスマホに視線を落とした。

 凌馬の指はサッサッと素早く動き、お気に入りの画像たちを探し出す。

 お気に入りの画像。

 それは恋人とのツーショットなどでもなければ、家族やペットの写真でもなければ、旅行先で見た美しい景色などの写真でもない。

 彼女なんてかれこれもう5年ほどいなかったし、遠方に住む家族はスマホで写真を撮るといった習慣がない性格と年代ばかりだし、ペットなんて一度も飼ったこともない。それに旅行など、ここ3年は行っていない。行く気力すらない。


 そんな凌馬のスマホの中で、ターコイズブルーの水着に身をつつみ、素晴らしいまでに盛り上がった胸とのびやかな肢体をくねらせ、ツヤツヤのサラサラの黒髪を肩まで垂らした1人の女性が微笑んでいた。

 凌馬もまた、言葉を交わしたこともなければ、実物を見たこともない”触れることもできない女”へと視線を落としていた。


 グラビアアイドル、井部(いぶ)きよか。

 23才、身長160㎝、バスト88㎝、ウエスト57㎝、ヒップ85㎝。

 Y県出身、2月2日生まれのA型。

 趣味は料理とネイルアート。特技はバレーボール。

 つまりは、芸能人の女。

 オタク男は二次元の女に欲情、凌馬は三次元の女に欲情という違いはある。

 それに、TVにもたまに顔を出すグラビアアイドル・井部きよかは凌馬の存在すら知らない。

 この世に確かに実在している(井部きよかの可愛い童顔やプルプルの爆裂ボディがPhotoshopで作られたものでなければ)のに、触れることのできない女。


 凌馬の”切なくなってくるような、腹の下からの疼き”は、ここのところ井部きよかにばかり向けられていた。

 凌馬も、井部きよかについては、嘘か誠か分からない情報が漂っているネットという海において調べたことがある。

 「井部きよかは、Y県一の馬鹿女子高出身www」「超男好き。クラブで外国人のモデル風イケメンにまとわりついてて、超ウザがられていた」「グラドル仲間からの評判最悪! 虐めっ子気質でメイクさんとかも二度と仕事したくないってさ」「実家は笑えてくるほど超ビンボー! 小学校時代から体売って生活費稼いでたってもっぱらの噂」と、嘘か誠か――いや、明らかに嘘だろうと思われる(特に最後の書き込み)の情報の洪水が凌馬に向かって流れてきた。

 今、現在の公称23才の井部きよかと比べると、目が半分ほどの大きさの中学校の卒業アルバムの画像や、悪質でありモロ見えなアイコラ画像だって凌馬は目にしたことはある。いや、悪質でありモロ見えなアイコラ画像は”目にしただけ”では終わらなかったが……


 井部きよかであるが、客観的に見て、世に類なきほどの美女ではないことは凌馬も理解している。町を普通に歩いている女の子として見たら超可愛いに違いないが、芸能人にしては、せいぜい中の上ぐらいの器量であることも。

 でも、この世界で生きる女の中で、凌馬を女として――そう、雌として一番惹きつけるのが、井部きよかなのだ。凌馬が男として、雄として一番惹きつけられるのが井部きよかなのだ。


――もし仮に、この世界に俺ときよかちゃんの2人しかいなくなったら(いや別に会社はなくなってもいいけど、ライフラインとか止まるのは本当に困るし)、俺みたいな平凡会社員だってきよかちゃんに触れることができる。……俺は絶対にきよかちゃんを満足させてみせる……! これ以上ないほど……きよかちゃんが許しを乞うほどに……! きよかちゃんの×××や△△△△を……”


 凌馬の頬は緩み始めた。

 その頬の緩みなるものに、上品な緩み方と下品な緩み方があるとしたら、凌馬は間違いなく後者であった。

 その笑みに音を充てるとしたなら、間違いなく”ゲヘヘ、グヘヘヘ”といった具合であっただろう。


 2人だけの世界で、自分はアダムであり、井部きよかはイブであるというスケベな妄想。

 妄想の真っただ中にいた凌馬はふと、対角線上から視線を感じた。


 バチッ。

 そのかち合った視線にも音を充てるとしたなら、そのような音になっていただろう。

 だらしなく下品に頬を緩め切った凌馬と、件のオタク男の視線はまっすぐにかち合った。


 オタク男の顔つきは、横顔ではなく真っ直ぐに見てみると、意外にも知性が高そうに感じられた。

 そのオタク男は、怯えたような顔で凌馬を見ていた。

 変質者でも見るような目がその怯えた顔の中にあった。

 

 凌馬の頬の緩みは、即座にこわばり固まった。

 凌馬と目が合ってしまったオタク男の頬もさらに固まった。

 そして、どちらともなく、目を逸らす……



 と、その時――

 次の停車駅を告げるアナウンスが鳴った。

 凌馬が下りる駅は、終点から2つ目だ。まだまだ、この電車に乗っていなければならない。

 だが幸運なことに、そのアナウンスを聞いたオタク男とヤンキー男は、次で降りるらしかった。

 オタク男は座席に置いていた紙袋に二次元の美少女が描かれたブックレットを宝物のように大切にしまい、ヤンキー男はスマホに視線を落としたまま、空いている左手で傍らに置いていた使い込んでいることが一目で分かるヴィ●ンのクラッチバックへと手を伸ばしたのだから。



――早く降りろよ、お前ら。特に、”お前”……! キモオタ野郎……!


 ただ自分と同じ最終電車に乗り合わせただけの2人の男。

 この電車を降りれば、二度と会うことはないであろうというか、1人は漂う恐怖のオーラによって、もう1人はバツの悪いところを見られたことによって、できれば”二度と会いたくない分類に入る”男たちであった。

 

 しかし、凌馬もこの最終電車を降り、1人暮らしのアパートの乱雑な部屋に戻っている頃には、彼ら2人の目鼻立ちなどはぼやけたようにしか思い出せないであろう。

 覚えているであろうことは、彼らの相反する雰囲気――突出したヤンキー系と突出したキモオタ系の雰囲気そのものだけに違いない。



 次の停車駅へと近づいている電車は、速度を落とし始めた。

 もうすぐ、この車両には凌馬ただ1人しかいなくなる……はずであった。



「!!!!!」


 一瞬で昼夜が逆転したのか?

 まさか、夜空にあるはずのない太陽が突如、地上に落ちてきたとでもいうのか?

 そもそも、太陽は地球より大きいはずだ。地球を飲み込むのならまだしも、落ちてくるなんてことはあり得ない。

 

 月明かりとポツポツとした街の灯りだけが光となっているはずの外は、突如、凌馬の網膜を焦がさんばかりの閃光に包まれてしまったのだ。

 それだけじゃない。

 光は音より早い。音は光より遅い。

 その光の後に、大地を揺るがすどころか、大地を破壊しているとしか思えない爆音までもが響きわたってきた――!


「!?!?!」


 何が起こった?

 何が起ころうとしている?

 世界の終わりか?

 俺が生きるこの世界は壊されるのか?


  

 凌馬の思考が状況把握へと向かうよりも先に、爆音につきものの”大衝撃”がこの最終電車を――もちろん凌馬と次で降りるはずであった2人が乗ったままの車両に襲い掛かった。

 大衝撃により、凌馬は座席から飛んだ。

 言葉通り数メートルは吹っ飛んだ。

 そして、そのまま肩から電車の床へと叩きつけられた。

 顎も打ち、口の中を切ったらしく、血の味が凌馬の口内に広がっていく……

 凌馬が右手に握ったままのスマホの液晶画面には、まるで雷(いかづち)のようなヒビが生じ、凌馬にとっての性の象徴・井部きよかの微笑みをいびつなものにしていた……

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