序章2 藍子と青年

 恵美と別れた電車の中は、私の一番好きな空間だった。


 どんなに能面のような表情をしていても、誰も何も言わない。


 窓の外を眺めながら、今日という日が終わっていくのを見送っていた。


 私は今日を見送り、今日は私を見守る。相対図が出来上がっているように思えた。


 こんなくだらない事を考えられるのも、今日を何事も無くやり過ごせたからだろう。


 面倒な人間関係も、鬱陶しいくらいの教室の暗黙のルールも、先生からの重圧も、友人という名の引っ張り合いも、全部が色を失っている。


 それと同じくらい、どうして自分はこんな風なんだろう、と憎しみすらも覚えた。


 変われるものなら変わりたい。だけど、変われない。


 だったら、私という存在そのものが消えてしまえばいいのに。


 諦めにも似た期待だった。


 外に視線を向ける。夕暮れの落ちる速度が日に日に速くなっていく。


 そんな小さな変化を見ながら、感傷に浸る。


 私はここにいる。


 くだらないくらい面倒な世界で生きている。


 どうしてこんな風に悲観的になってしまったんだろう。


 自問自答してみる。


 だけど、答えは一向に出て来てはくれなかった。


 多分、きっと、私は不幸なんだ。


 その考えに行き着いた。


 だって、色々と持っている人よりも、持っていない人の方が不幸になる。


 当たり前だけど正論。


 正論こそが人を……、いや、自分さえも説き伏せていくんだ。


「はあ……」


 溜め息を漏らす。


 溜め息を吐くのと同時に、下腹部を触れられる感触がした。


 これは……、と思った瞬間に恐ろしさが襲いかかってきた。身体中が粟立ち、汗もかかないほどの恐怖だった。


 触れられた感覚が気持ち悪く、逃げ出したい思いに包まれる。


 なんで私ばかり、逃げたい、なんで私ばかり、死にたい、なんで私ばかり、消えたい、なんで私ばかり、誰か……、助けて……。


 目を瞑り、心の中で繰り返し唱える。


 すると、それが叶ったのか、後ろから大きな声が飛んできた。


「あの! その……、えっと……」


 最初の声だけは大きかったものの、その後すぐにぼそぼそと声が小さくなっていった。


 振り返ると大きな声を出していたのは私とそこまで歳が離れていないであろう、青年だった。


 制服を着ているところを見ると、やはり同じくらいに見えた。


「おい、お前! 今この子に痴漢していただろう! この次の駅で降りろよ! 覚悟しておけよ、小僧が!」


 私の斜め後ろにいた四十代の男性が青年の腕を捻り上げて叫んだ。青年は周りの視線に狼狽え、私の視線に気付くと更に狼狽えた。


「ぼ、僕じゃな……。だって、あな……あなたが……、あなたが……」


「ああん? なんだって? 俺が何したってんだよ? はっきり言わないと分からねぇな? ああ?」


「あの……、その……」


「……ったく、これだから最近のガキはダメなんだよなぁ。ちゃんと教育を受けてねぇのか、常識ってもんをわからねぇんだもんなぁ。迷惑かけたらまずは「ごめんなさい」だろ? 常識だ、常識。おぼっちゃん高校に通ってるくせに、んな事も教えてもらえなかったのか? 可哀想だな?」


 青年は膝から崩れ落ち、頭を抱え込んでしまった。


「僕じゃ……、僕じゃ……」


「後で覚えてろよ? お前の人生、終わらせてやるよ。なあ?」


 男性が青年にぼそりと言ったのが聞こえてしまった。その言葉に身体がぞわりとする。


 青年はその言葉で、糸人形の糸が切れてしまったかのように、四肢がだらりと伸びきってしまった。


 青年の表情には怒りや悲しみなどの感情は無く、ただ、無になっていた。


 すると、そこへ次の駅へ到着を知らせるアナウンスが流れた。


「おら、小僧。立て。行くぞ」


 男性は青年を無理矢理立ち上がらせると、そのままホームに降りて消えていった。私には不快な思いだけが残った。


 痴漢もそうだけど、より不快だったのは青年と男性のやりとりだった。


 何も言えなかった。


 私だけが、青年を救えたかもしれないのに。


 私はもう一つ感傷を覚え、電車のドアが閉まるのを見ていた。

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