鳴響む

水戸けい

第1話

 ぼろぼろの、朽ち果てかけている荒寺に住んでいる男が居た。


 髪はボサボサ。着ているものは体に引っ掛けているだけとしか思えない、薄汚れた布だった。男は唯一、雨漏りのしない本堂で寝起きをしていた。蓆(むしろ)の上に布を敷き、その上に寝転び、何処から手に入れたのか、女物の着物を掛けて眠っていた。


 男が何処から来たのか、いつの間にここに住み着いているのか、村の者たちは誰も知らなかった。ただ、気が付けば男はそこに居て、山に入っては川で魚を捕り、山菜を採っていた。その折に村の者と顔を合わせる事があったので、男がそこに居ることを、村人は知ったのだった。


 男は、村人の姿を見れば異様に白い歯をむき出しにして、子どものように笑いかけてきた。男の風体に異様さを感じ身構えた村人は、その笑みを見た瞬間に警戒を安堵に変え、反射的に笑みを返していた。


 男と言葉を交わすことは無かったが、男の姿を見止めて笑みを交し合い、会釈をし、収穫物を交換したり分け合ったりしているうちに、村の人々は彼を招くことはしないまでも、受け入れ、時折口の端に彼の話を上らせては、彼の衣が貴族や武家の衣装が乱れたような形状であることに、権力争いに負けて追い出されたのだとか、跡目争いで命を取られそうになったところを逃げてきたのだとか、さまざまに語り合った。けれど誰も、彼にそれを問う事はしなかった。――村の人々の誰も、彼の声を聞いたことが無かったからだ。


 村の人が天気のことなどを話しかけてみても、男は頷いたり笑みを深くしたり渋い顔をしたりして、音が聞こえ、話を理解している様相を見せるが、音を発したことは無かった。それで、村人たちは彼に出自を問う事をしなかった。知ったからと言って、どうということも無いだろうと、村人たちは思っていた。男が村に危害を加えることは無かったし、気にする必要も無いと、考えた。ただ、隣人を気にする程度の気持ちを彼にかけて、畑の収穫を分けに荒寺に行ったり餅をつけば届けに行ったり、という事をするようになった。それは男が、ボロボロの衣をまとっているというのに、腰に見事な長剣を下げており、それで獣を仕留めては食べきれぬ分を村に分けに来ていたので、その返礼のようなものであった。


 付かず、離れず――。けれど親しみの情のようなものを持って、村人は男と接していた。


 荒寺の庭は野山のように草が生え放題のままで、親切心から草刈りをしてやろうと、世話焼きの老人が鎌を持ってやってきたが、男は眉をハの字にして両手を振り、泣きだす前の子どものように首をぶんぶんと大きく振った。老人が不便じゃないかと問えば、男は大きく頷き、身振り手振りでこのままがいいと示した。そうかと老人が残念そうにすれば、申し訳なさそうに男が頭を下げる。その実直な姿に、老人は顔をほころばせ、男は安堵に頬を緩めた。


 男は、年齢がわからなかった。汚れた顔と乱れた髪に隠されて、年寄りのようにも若者のようにも見えた。体の動きから、若者であろうと村人たちは判断していたが、矍鑠(かくしゃく)とした村の老人は、自分もそれくらいの動きはできると言った。なるほどそうだと思った村人は、ますます彼の年齢が分からなくなった。しっかりと顔を見ようとしても、男は顔を近づければ同じだけ離れてしまう。目元にある笑いじわが、さらに年齢を分からなくさせていた。――男の年齢など、どうでもいいではないかと村のひとりが言い、それもそうだとその場では納得をするのだが、人はわからぬものを知りたがる癖がある。すぐさま、男はどのくらいの年なのだろうかと、答えの無い問題を再び口に上らせることになった。


 大人たちが男を受け入れているので、子どもらも男に興味を示し、数人で荒寺に遊びに行くようになった。男はにこにこと子どもらを迎え入れ、庭に面した縁側に坐して子どもらの話に耳を傾けた。子どもらは、表情のみで語る男を保護すべき存在であり、仲間であり、また甘えられる相手でもあると認識をした。どちらかといえば痩身と言える男の力は存外に強く、子どもを抱えて肩に乗せ、走り回り隠れ鬼をするくらいのことは、造作も無くしてのけた。


 自分たちと同じように遊ぶ大人――それは、子どもたちにとってはずいぶんと楽しい相手であった。


 男の肩に乗れば、高い枝に上ることが出来るし、そうなれば木の実や果実を容易く取ることが出来る。男は木登りも得意で、まるで猿のように枝から枝へと移って行った。そんな姿を子どもたちは興奮したように大人に語り、大人たちはますます男の出自を不思議に思いつつ、いつしか冗談めかして狐か山の精が人の姿を借りて住まうようになったのではないかと、言いあうようになった。


 男は、楽(がく)をたしなむこともあった。あるとき、子どもらと遊んでいる時に小さな子どもが大きな子どもに着いてゆくことが出来ず、泣きべそをかいてしまったことがあった。困ったように頭を掻いた男は、手近な葉を千切り、唇に押し当てて高く澄んだ音をさせてみせた。半べその子どもは涙をためた目を真ん丸にして、男の唇に――そこに当てられている葉に目を向け、両手を広げて欲しがった。いたずらっぽく片目を閉じた男は、もう一枚葉を千切り、子どもに渡した。頬をぷくりと膨らませ、懸命に子どもが吹いてみるものの、唇の隙間から漏れ出る放屁のような音しか鳴らず、首をかしげる。その横にしゃがみ、身振りで子どもに教える男の周りに、先に行って泥だらけになった子どもたちが戻って来た。男の身振りどおりに何度も葉に息を吹き付ける子どもが、ピッ――とわずかな間だけ音を出せたことに興奮し飛び跳ねれば、他の子どもたちも我も我もと男に群がり、その日は草笛の講習会のようになった。


 そうして草笛の講習会がはじまれば、ほとんどが男児であった男の周りに集まる子どもに女児も混ざり増え、男の周囲は賑やかになった。子どもたちが男と親しげにすればするほど、家に戻り目を輝かせて昼間の出来事を語れば語るほど、その母親は男に親愛を浮かべることになった。何かを作れば鍋を持ち、あるいは桶を持って男のもとへおすそ分けだと言って、食べ物を届けるようになった。代わりに、男はこぼれるほどの笑みを女たちに返し、悦びを与えた。そうすれば年寄りらも男のもとへ通うようになり、男は老人の体をさすり、労わりながら子どもと遊び、女たちの作るものに舌つづみを打って過ごすようになった。

女たちが男のことを、自分らの子どものように語りだせば、山の中で出会い収穫を分けあったり挨拶をする程度だった男たちも、女房子どもまたは年寄が世話になっていると、付かず離れずの距離を縮めだした。


 いつしか男は村の中心にいるように、なっていった。身軽さと力の強さから、家の修繕や荷を運ぶことを頼まれるようになり、男はいつも笑みを湛えて頷き全てを受けた。けれど男は、一晩泊まって行けばいいという申し出は硬く断り、礼だと酒を勧められれば、それもまた硬く断った。けれど酒宴の席が嫌いなわけでは無く、酒を飲み騒ぐ者たちの中にやわらかな顔をして座り、乞われるままに草笛を響かせて場を盛り上げた。そうして男は宴もたけなわなころ、誰にも気づかれぬまま場から姿を消すことが常だった。男は決して、丑三つ時にかかるころまで、村に留まることはしなかった。


 そこで村の人々は、男はやはり妖(あやかし)の類なのではないかと、再び噂し始めた。それは以前のような冗談めかしたものでは無く、本気でそう考えているというものだった。そうは思っても、男にそれを問うことは無く、男に対する態度も変わることは無かった。

男は、呼び名が無かった。村の者たちは、男を呼ぶ時に「おおい」とか「そこの」とか「アンタ」などという、誰にでも使える言葉を使っていた。男のいない時に男の話をするときには「アイツ」や「アレ」というふうに言っていた。不思議とそれで、誰もが男の話だと理解した。村の誰もが名を持つ中で、唯一に名前が無いことがそうさせているのかもしれなかったが、誰も男の呼び名の事など気にもせずに過ごしていた。


 ある日、隣村の伍作という男が、こけつまろびつ息を切らせて走ってきた。何事かと迎え入れた村の男が、伍作の話を聞いて目玉が飛び出るほどに驚き、村長(むらおさ)へ伍作が持ってきた話を届けた。それは、領主のもとへ美しい女を差し出せというものだった。出来なければ、饗宴の席に出すためにふさわしいものを用意せよという命令だった。村は、悄然となった。領主は時折、こうして唐突の課税を申し付けてくることがあった。村に居た美しい女は、すでに前の下知の折に差し出されていた。伍作の村も、同じであった。そこで、何か良い知恵は無いものかと隣の村は伝令と相談の為に、足の速い伍作を送り出したのだった。


 そんなことが起こっているなどとはつゆ知らず、男はのんきな足取りで村へとやってきた。肩に捕らえたウサギを二羽かかえ、少し自慢げに胸を逸らして。


 そんな男を村人は無理やりに笑みを浮かべて迎え入れたが、隠しおおせぬ悲嘆の吐息に男が気付き、心配そうに人々の顔を覗き込んだ。すれば、伍作が妙な男の出現に、領主に対する怒りと切り抜けるための妙案が浮かばぬ苛立ちをぶつけた。


「なんでぇ、コイツはぁ。近隣の村がえれぇ目に合いそうだってぇ時に、のんきにふらふらヘラヘラしやがって。前に来たときには、こんな男はいなかっただろうが! 何モンだテメェ。遊びに来ただけってェんなら、とっとと帰んな!」


 伍作の啖呵に目を丸くした男は、その目を伍作を留めようと手を伸ばした村人に向けた。村人はバツの悪そうな顔をして、領主のことを男に話した。


「めぼしい娘は、みぃんな送り出しちまった。残っている女が醜いってぇワケじゃあ無いが、領主様が求めるほどの美女でもねぇ。――――代わりに用意するふさわしいものって言われたって、はいわかりましたと差し出せるようなモンが、すぐに手に入るわけじゃあねぇ。ここいらの村の米や銭をかき集めてやっと、買えるか買えないかっちゅう代物だ。…………おれらに、領主様は飢えて死ねと言うてるようなもんだよなぁ」


 力なく笑う村人の顔を見つめる男の目に、みるみる力強い光が宿り、体の内側から膨れ上がるほどの怒りがみなぎった。


 男の体がふくらみ髪が逆立ったように見えて、村の人々と伍作は目を見張り口を開けて言葉を無くした。


「それは、いつだ」


 男の唇が開き、音が発せられた。それは、鈴を転がしたような澄んだ音だった。男が喋ることなど出来ないと思い込んでいた村の者たちは、どのような悪戯を子どもに仕掛けられても柔和さを崩さなかった男の怒気と声を発したことに、二重の驚きを示して金縛りにあったように動けなくなった。そこで、男の事をよく知らぬ伍作が、村人らの驚きを不思議に思いつつ返事をした。


「三月の後に、大名様が領主様の所へござらっしゃるってぇんで、その時までに用意をしろって話だ」


「三月か」


「三月っつったって、おめぇ……領主様んとこへ行くのに馬で駆けても十日はかかる。歩いていきゃあ、天気が崩れることを考えれば大急ぎで駆け続けても一月はかかることになる。実際に用意が出来るのは、二月ばかしの猶予しかねぇよ」


 飢えて死ぬしかねぇと、怒りと怯えをないまぜにして震える伍作の肩に、男が手を置きにっこりとした。


「大丈夫だ――それだけあれば、なんとでもしてみせよう」


 言った男は周囲を見回し、心配そうに親の横についている少年の上で目を止めた。ゆっくりと近づき、自分の胸ほどの高さの子どもに膝を折って目の高さを合わせ、頼みがあるんだと声をかけた。


「おれ一人では、心もとない。おれの供となり、領主のもとへ共に行ってはくれないか」


 少年は、くるりとした大きな目を瞬かせ、ほほ笑む男の目の中を覗き込むように見つめると、きりりと眉をひきしめて力強く頷いた。


「いく!」


「そうか――助かる」


 男は軽く子どもの頭に手を置いて、目を糸のように細めて歯を見せた。そうして立ち上がり、子の母親に申し訳なさそうに眉を下げて腰を曲げ、きっちりと頭を下げる。


「申し訳ないが……子どもをおれに与えてくれ」


 母親は、男を見つめたまま子どもを抱きしめた。硬い顔をして、頭を下げる男のボサボサの髪を見つめる目には、惑いと不安があった。おそらく、子どもを売って銭に買え、何かをするのだろうと、その目は判じていた。そうでもしなければ、領主に言う品を用意することなど出来ないと、村の誰もが思っていた。目の前の男は、人買いの真似事をするのだと、自分の子どもを高値で売れると値踏みしたのだと、考えた。そんな母を見上げた子どもは、安心させるように抱きしめてくる母の手を叩き、首をかしげて笑った。


「大丈夫だよ、かかさま」


 その笑みに張りつめていたものが途切れたように、母親は膝をついて子どもを見つめ、村の為になるように言う事を聞いて良い子にするようにと、涙をこらえた硬い声で言った。


「ありがとう」


 男が母親の肩に触れてつぶやけば、母親は声を上げて泣きはじめた。子どもは仕方が無いなぁとつぶやいて、母親の頭を小さな手で抱きしめ撫でて、大丈夫だよと繰り返す。そんな彼らを見守る村人らが、男に何か自分たちが準備のできるものはないかと声をかけた。


 村人たちは、男の姿に全てをかける覚悟を決めた。不思議な男が放つ妙な安堵感に、誰もが酔いの中に居るように、ふわりとした心地で根拠のない確信を浮かべていた。子どもの母親も下唇を噛み、子どもを送り出す準備として何が必要だろうかと男に問うた。男は、申し訳ないが旅の間の携帯食料と馬を一頭もらえないかと申し出た。後は、自分が全てを用意するからと。


「一月後に、迎えに来る。それまで、存分に母に甘え父と遊び、祖父母に学んで友との絆を確かめ、村の事を深く心にとどめておいてくれ」


 子どもの髪を撫で、そう告げた男は伍作に顔を向けた。


「近隣の村々のぶんも、おれが請け負う。心配をせずに過ごしてくれと、伝えてくれ」


「わ、わかった――」


 包み込むような男の威圧感に、伍作は頷き一晩を村で休んで自分の村へ走り、他の村々へ男の話を伝えていった。


 男は荒寺に戻り、川で身をすすぎ髪をとかし、着ているものを丁寧に洗い、寝るときにかけていた女物の着物を陰干しにして埃を払った。毎日毎日、禊(みそぎ)のように身を清めていく男の肌は汚れが離れていくごとに白くなり、髪も艶を帯びていく。食事を届けたり何か用事は無いかと声を掛けたり、様子を見るだけに現れたりする村の者たちは、その変貌を、ただただ口を開けて見守った。


 一月かけて磨かれた男の肌は透けるように白く輝き、髪は艶々として日の光を反射する絹糸のようであった。丹念に洗い終えた衣の上に、寝具にしていた女物の着物をかぶり現れた男の姿に、村の者たちは呆けたように呼吸すらも忘れ、ただ立ち尽くした。


「では、行こうか」


 滑るように、連れ行く約束をした少年に手を伸ばす。男の支度を見ていた村の者たちが子どもにも同じようにしてきたのか、子どもの褐色の肌はぴかぴかに磨かれ、髪は十分に櫛を通されていた。纏う衣は皆で銭を出しあい用意をしたらしく、彼らからすれば高直(こうじき)なものであった。ふっくらとした頬に健康そうな赤みが差し、思わず頬を摺り寄せたくなるほどの愛らしさに、男は目を細める。子どもは笑みを満面にのせ、男の手を掴んだ。


 そうして男は子どもを連れて、村人が用意をした馬の傍に寄り手綱を掴んで歩き出す。その姿があまりにも現実離れしすぎていて、村人らは夢か幻を見ているような顔をして見送り、金縛りにあったように男の姿が見えなくなってもしばらくは、指先ひとつも動かすことが出来なかった。

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