第5話
それからすぐに私は辞表を提出し、結局会社を辞めることにした。
とはいえ、何も資料室への配置換えが不満だったわけではなく、そんなことよりも企画室という私の全知の書の力が最も活用できる職場を奪った当の張本人である
それに、
そう。実際私が辞めてから数ヶ月間もたたないうちに、何とかつての我が社はとても目も当てられない惨状へと陥ってしまったのであった。
私が危惧していた通りに、件の企業買収が大失敗に終わったのを始めとして、全能の書を有する日向のアドバイスのほうも確かに会社が目標とする
その結果、万能アドバイザーとしての日向の名声が地に落ちてしまったのは言うに及ばず、彼女を強引にスカウトしたチーフ自身も責任を取らされて首になり、絶望のあまり日向とともに心中を図り、乗用車に乗ったまま湖へと飛び込み、全能の書もろとも湖底へと沈み、二度と浮かび上がってくることはなかったのだ。
それに対して私自身の現況はと言えば、公私共に非常に充実した毎日を送っていたのであった。
実を言うと全能の書の力を使った日向の奸計によって会社を辞めたからといって、別に私は泣き寝入りをしたわけではなく、私同様に会社の急激な方針転換が意に添わず退職した、志を同じくするかつての企画室の同僚たちとともにコンサルタント会社を設立し、今度こそ自分たちの持てる力を存分に発揮し理想的職場にせんと邁進していたのであった。
特に企画室に在籍中の折から何かと私を慕ってくれていた入社したばかりの後輩男子の
そして言うまでもなく我が社の何よりのセールスポイントこそは、私の全知の書を活用しての、完全無欠を誇る『リスク対策』であったのだ。
もちろんかつての日向のコンサルタント会社のように全能の書を擁しての即効的な実効性なぞは持ち得ないものの、企業戦略においては重要なる岐路での選択肢に潜んでいる無数のリスクを前もって把握できることほど心強いものはなく、それさえわかれば後は顧客の企業の経営陣のほうで選択肢ごとのリスク対策を踏まえた戦略を練り最終的な判断を下せばいいのであり、たとえ大成功を収めることはできなかろうとも少なくとも予想外の損失を被ったり思わぬ失策を犯すことはなく、安心して経営施策を実行できるということで、我が社は瞬く間に経済界において注目の的となり、コンサルタントの依頼がひっきりなしに舞い込むようになったのだ。
しかも実は何と、私たちが元いた会社が零落してしまったことに関しても、この全知の書によるリスク対策こそが、大きく関与していたのであった。
それと言うのも、私たちは競合企業のいくつかにかつての職場の企業戦略上の弱点をリスク対策の一環としてそれとなく知らせて、集中的に攻撃していくように誘導していたのだ。
何せ経営戦略立案の中枢である企画室に在籍していて、しかも全知の書なんてものを有しているのだからして、元いた会社にとってのリスク──つまりは弱点なぞ手に取るように把握でき、他の企業を巧みに誘導して間接的に陥れることすら造作もないことであった。
いや、それどころかひょっとしたら最初から、こうして私が妹の猿真似のようにしてコンサルタント会社なんかを設立したのも、私を捨てたチーフやその原因をつくった妹に対する私怨を、何としても晴らさんがためだったのかも知れなかった。
……まあどっちにしろ、日向なんかを専属アドバイザーにして会社に引き入れて頼り切ったりすれば、むしろ大損害すら被り会社の経営体制そのものが傾き兼ねなかったことは、最初からわかり切っていたんだけどね。
何せ全能とは、全知なる神をも凌駕し得る絶大なる力を有するがゆえに、どうしても自らを過信しがちになり、本来なら何よりも肝心なリスク対策が、完全におろそかになってしまうのだから。
☀ ◑ ☀ ◑ ☀ ◑
『──そりゃあそうでしょう、何せ「全能であるということは、全知ではないということ」なのであり、妹さんは全能の力を有していたからこそ、あなたのようにリスク対策をすることがまったくできなかったのですからね』
「まったくよね。だいたいが日向ったら、企業の経営者向けにコンサルタントなんてやっておきながら、企業経営に必要な知識の習得も、顧客の相談事に関する情報の収集もまったく行っておらず、実のところはすべて全能の書任せだったんだから、失敗して当たり前よ。実際日向に願い出た『目標』自体はちゃんと達成できたものの、むしろそのせいで予想外の落とし穴にはまることになって、結局は大損失を被った顧客すらいたそうだし」
『それこそは「全能だからこそ全知にはなり得ない」の一言に尽きるわけなの。確かに全能の書なら顧客が求める
「へ? 全能なんてけしてあり得ないって、何を今更。だったら全知のほうだって、本来ならあり得ないのでは?」
『そんなことはないわよ? 前にも言ったかも知れないけれど、全知というのは現代物理学の根本原理たる量子論にちゃんと基づいたものなのであり、将来真に理想的な量子コンピュータが実用化されれば十分実現可能なのよ? それに対して全能のほうは、実は今や完全に時代遅れで非現実的な古典物理学で言うところの決定論に基づいているのであり、言わば「おとぎ話なんかに登場してくる完全に事実無根の何でもアリを標榜しているエセ神様」のようなものに過ぎず、本来ならこの現実世界においては実現できっこないところを、これまた以前述べたように多重的自己シンクロ状態化という七面倒な仕組みを構築し、世界そのものに「形ある現実世界でもあり形なき小説の中の世界でもある」という量子同様の二重性を無理やり与えることによって、いわゆる自作の小説に対する「
た、確かに、言われてみればまさにその通りだし、ここら辺のことに関しては、以前も詳しく説明を受けていたっけ。
『つまりは全知と全能は、お互いに相容れない矛盾した関係にあるってことなのよ。ここら辺のことに関しては以前ちょっとだけ述べた「明日の天気に対する未来予測」を例に挙げるとわかりやすいんだけど、全知のほうは未来の無限の可能性をすべて
「へえ~。普通全知とか全能の力を手に入れれば、何でもできるようになると思いがちだけど、ちゃんと物理学的論理に基づいていて、それぞれに限界というものがあるのであって、つまり日向のやつは自分の有する全能の力を真に理解していなかったゆえに、自滅してしまったようなものなのね」
私がそのように、万感を込めてしみじみとつぶやいた、
まさにその刹那であった。
『何言っているのよ? 全知と全能というものをまったく理解していなかったために、結局のところすべてにしくじってしまったのは、あなたも御同様でしょうが』
…………………………は?
あまりに唐突にスマホから突きつけられた、これまでになく冷ややかなる幼き少女の声に、私は完全に面食らってしまう。
「な、何をいきなり言い出しているのよ? 私は全知の力をちゃんと理解しているし、実際にリスク対策に最大限に活用することによって、顧客の企業経営に役立たせることを成し遂げていて、日向の全能の力のような派手な成功例はないものの、少なくとも取り返しのつかない損失を被らせたことなんてないわよ?」
『確かにあなたは全知については、十分理解しているでしょう。だけど私はこう言ったのよ? 「
「え? それって、どういう……」
『さっきちゃんと言ったでしょう? 全知と全能とは両立させることができず、お互いに矛盾した関係にあるって。つまりこれって、全知の短所こそが全能の長所であるとともに、全能の短所こそが全知の長所であるってことなのであり、全知と全能の力を有する者同士がお互いに補い合えば、文字通り『全知全能』の力を有することになって、今度こそできないことなぞ何も無くなり、しかも欠点も一切無いという、神をも超越した真に完璧なる存在になることができたのよ』
なっ⁉ 私の全知の書と日向の全能の書を併せて使っていれば、真に完璧なる万能の存在になれていたはずですってえ⁉
『それなのにあなたたちときたら、この世で二人だけの姉妹だというのに協調し合うどころか、おのおのが自分の願望のみに従って力を使うばかりか、事もあろうに相手のことを陥れ合うといった体たらくで、これじゃあ天国におられるあなたたちのお祖父様も浮かばれないことでしょうね』
「ど、どうしてここで急に、お祖父様の話が出てくるのよ⁉」
『……あのねえ。そもそもお祖父様があなたたちにそれぞれ全知の書と全能の書を形見として授けたのは、いかにも折り合いが悪そうな双子の孫娘に何とかして協調し合うきっかけを与えんとした、苦肉の策だったのよ? それというのも、あなたたちのお父様が若き時分にお祖父様に背いてあなたたちのお母様と駆け落ちなんかしたものだから、長男だというのに勘当されてしまって、その子供であるあなたたち姉妹も国内有数の大企業である
「──うっ」
……そうだ。そういえば、そうだった。
確かにお祖父様も私に対して、あたかも遺言のようにして言っていたではないか、「月世、これからも日向のことを、しっかりと頼むぞ。何と言ってもこの世で二人だけの姉妹なのだから、いつまでも仲良くな」と。
そのように完全に自己嫌悪の極みに達する私へと向かって、スマホからの声は更に容赦なく、とどめの言葉を突きつけてくる。
『……まあ、今更そんなことを言っても、しかたないんだけどね。何せ妹さんはすでにお亡くなりになっていることだし、あなたのほうももうこれからは、全知の力を使えないのですからね』
「えっ。私が全知の力を使えなくなるって、どういうことよ⁉」
『まったく、今まで何を聞いていたのやら。全知の書と全能の書は元々二つで一つの存在なのであり、お祖父様に授けられた時もそうであったように、本来は一人の相手に同時に二つ共もたらされるものなの。よって現在すでに全能の書のほうが湖への飛び込み心中の際に妹さんもろとも損失してしまったからには、あなたの全知の書の力のほうも「ナイトメア」に没収されてそのスマホ内から削除されることになるわけ。──そもそも今回はこのことを告げるためにこそ、こうして久方ぶりにあなたにアクセスしてきたわけなのよ?』
「私から全知の力を没収するですって⁉ いや、やめて! お願いだから、それだけは勘弁して!」
必死に手のうちのスマホに向かって懇願するものの、幼き少女の返事はあまりにも無慈悲なものであった。
『恨むんだったら、自分の浅はかさを恨みなさい。──それじゃ、永遠にばいば~い♡』
そのふざけた挨拶の言葉を最後に、それ以降うんともすんとも言わなくなり完全に沈黙してしまう、漆黒のスマートフォン。
「そ、そんな。私の何よりも勝る生きるよすがだった、全知の力が……」
「──へえ。先輩もう二度と、全知の力が使えなくなったわけですか?」
突然背後から聞こえてきた男性の声に思わず振り向けば、コンサルタント会社における私の片腕あり、同時に私生活における恋人でもあるゆえに、この一人暮らしの私の部屋の合い鍵を持っている年下の青年が、いつしかすぐそばにたたずんでいた。
「せっかく先輩の信頼を勝ち得て、やっとのことで秘密だった全知の書のことを教えてもらえた矢先に、使うことができなくなるとはねえ」
「……
「ああ、気にしないでください。もはやここには用がありませんので、俺もさっきのスマホの声の子と同じように、もう二度とここには──つうか、あなたの許には、来たりはしはしませんから。合い鍵のほうもお返ししておきますよ」
そう言うやさもぞんざいにこちらに向かって、かつて私が与えたこの部屋の鍵を放り投げる青年。
「ちょ、ちょっと待って。いきなり何を言い出すの? あなたと私はれっきとした恋人同士でしょうが? 何でもう二度と会わないなんて言うのよ⁉ あなたはチーフに裏切られて傷ついていた私のことを、あんなにも好きだと言って励ましてくれたじゃないの⁉」
「ええ、好きでしたよ? ──確かにあなたの
そのように言い捨てるとともに、なおも未練たらしくすがりつこうとした私を払いのけるようにして、あっさりと部屋を出ていく、
一人残された私はしばらくの間ただ呆然とその場にうずくまり続けていたものの、ようやく我に返るやおもむろに、いまだ手のうちにあった漆黒のスマートフォンを操作し始める。
そう。この現代社会においては紛う方なく『全知の書』そのものとも言い得る、たとえ
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