第93話

「憐姉様っ! 空兄様っ!」


 幻聴かと思えた可憐な少女の声は、それを否定するように何度も響く。しかも、その声は千翔によく似ていた。


「……千翔?」


 半信半疑で呟いたその名を聞き届けたのか、ぱたぱたと軽い足音が駆け寄ってくる。すぐ傍に人の気配を感じた。


「っ良かった! 間に合いましたね!」


 改めて聞けばその声は、紛れもなく千翔のものだった。だが、合崎は警戒しているのか私を抱える腕の力を強めた。


「嫌ですね、空兄様。どこまで疑り深いんですか? 妹の声もお忘れとは、次期軍師の名が泣きますね」


 いつになく勝ち誇ったように笑う千翔に、私はただ動揺することしか出来なかった。まさか、私たちを助けに来てくれたというのだろうか。だが、ここまでの道のりは決して楽なものではないはずだ。この暗闇に加え、人工知能が巡回しているのだ。はっきり言ってしまえば、合崎レベルの実力がなければ、この回廊を攻略できるはずがない。


 そんな戸惑いばかりを見せる私の手に、そっと温かく柔らかい手が触れた。記憶が、これは千翔の温もりだと教えてくれる。再び会えると思っていなかっただけに、それだけで泣き出しでしまいそうだった。


「とにかく、まずは解毒剤を打ちましょう。ちょっと失礼しますね」


 水野財閥が誇る高品質なものなのでご安心を、と言いながら千翔は手早く私の右腕を取り、何やら処置を始めた。冷たい消毒液の香りが鼻腔を刺激したかと思えば、ちくりと肘の内側に痛みを感じる。


「万能ではありませんが、これでしばらくは持つはずです。どうでしょう、空兄様。憐姉様の終末は遠ざかりましたか?」


 僅かな沈黙が流れる。そうしてふっと安心したような合崎の溜息を聞いた。


「……ああ、あと3時間くらいは問題ない。……助かった」


 合崎の見る終末は、条件が変わればそれに伴い変化するものだ。全ての終末には、必ず何かしらの鍵となる存在があるのだろう。


 私たちにとって、その存在は千翔だった。彼女が私たちの「終末」を変えてくれたのだ。


「3時間もあれば、余裕ですね。もう大丈夫です、憐姉様。私が帝国まで導いて差し上げます」


 恐らく今、彼女はこの上なく温かい笑みを浮かべているのだろう。暗闇でもその表情が手に取るようにわかる。張り詰めていた緊張の糸が解けていくのを感じた。


 まだ、生きられるかもしれない。そう思うだけで、ぽろぽろと涙が零れ落ちてしまう。ここが暗闇でよかった。こんな情けない姿、千翔には見せられない。


「……生きていてくださって、ありがとうございます。憐姉様」


 合崎に抱えられたままの私を、千翔の腕がそっと抱きしめた。いつかは細く、今にも折れそうだと思っていた彼女の腕だったが、訓練の成果なのか以前よりずっとしっかりとしている。彼女も成長しているのだと、嫌でも思わされた。


「千翔っ……」


 年上だということも忘れて、私はただその腕に縋りつく。その体温が、牢の冷たさも鎖の閉塞感も忘れさせてくれるようだった。「妹」と「兄」に抱きしめられているというこの状況は冷静に考えれば妙に気恥ずかしいのだが、今はただ二人の温もりが嬉しいのだ。










「……それにしても、どうやってここに来たんだ」


 ひとしきり再会を喜び合った後、千翔に応急手当てをされながら合崎が怪訝そうに訊く。彼も私と思っていることは同じなのだろう。千翔の実力でここまで辿り着くのは奇跡に等しい。


「父に頼んで、水野財閥の警備部の皆さんと一緒に途中まで来たのです。空兄様が人工知能を沢山破壊してくださっていたおかげで、そう難しいことはありませんでしたよ」


 財閥の警備部となれば、第一帝国学院を卒業した者が就職しているのだろう。私たちにとっては先輩にあたる人たちだ。確かにこの回廊を攻略するまでとはいかずとも、多少は踏み込むこともできるかもしれない。


「その、警備部の人たちは今どこにいるんだ……?」


 この辺りには、私たち以外の気配を感じない。いくら学院の卒業生とはいえ、私たちに気づかれないように控えているとは思えなかった。


「置いてきちゃいました。止められましたけど、急がなきゃいけなかったので。……おかげで、帝国に戻るのが少し怖いですね」


 苦笑いを押し殺すように千翔は息をつく。とんでもないお転婆令嬢もあったものだ。間違いなく、両親に叱られてしまうだろう。私たちを助けるためとは言え、気の毒なことをしてしまった。


「……まあ、空兄様も『白』では指名手配犯のように扱われていますし、お互い追われる身ですね」


 からかうような千翔の声に、珍しく合崎が黙り込む。聞き捨てならない台詞だ。


「……お前、一体何をやらかしたんだ……?」


「――さてと、手当ても済んだことだ、さっさと帝国へ戻るぞ」


 あからさまに話題をはぐらかす合崎とそれを聞いてくすくすと笑う千翔。いつもとはまるで逆の立場だ。


「……では、私が憐姉様をお連れ致します。――空兄様もご所望であれば肩くらいであれば貸して差し上げてもよろしいですよ」


「いい。……憐は俺が連れていく」


「その有様でですか? どうにか抑え込んでる出血がぶり返すのでやめてください。どのくらい出血したか知りませんが、帝国まで持ちませんよ」


 こんなところで変な独占欲を出さないでほしいですね、と溜息をつく彼女の言動にふっと気付く。先ほどの注射と言い、合崎への手当てと言い、千翔はこの暗闇の中にしては手際が良すぎる。


「……千翔、もしかして、見えているのか?」


 こんな暗闇で物が見えるものだろうか。暗視装置のような物は帝国軍にも確かに存在するが、そもそも光に溢れる帝国では需要が少ないため、精鋭部隊しか所持していないと聞く。そんなものが、一学生に過ぎない千翔に手に入るだろうか。


「私、暗いところは得意なんです。むしろ、帝国は明るすぎて、専用のコンタクトレンズをつけなければ目を傷めちゃうくらいで。……加えて、水野財閥が開発している暗視装置の試作品を盗んできましたので、大体の物はばっちり見えますよ!」


 まあ、流石に色は見えないんですけどね、と笑う千翔に、ふっと報道番組の映像を思い出した。


 人身売買の「商品」として捕らえられていた子供たちが押し込められた暗い牢のような部屋。あれでも撮影のために灯りをともしていたのだろう。本当はもっと深い暗闇に包まれていたはずだ。そんな環境で育った彼女が、帝国の光を眩しいというのも無理はない気がした。


「では、憐姉様。私の肩におつかまりくださいね」


 千翔の過去を思い、感傷的な気分に浸っていた私の体が、不意に浮き上がる。膝裏をしっかりと抱えられ、どうやら私は千翔に背負われているようだった。あまりにも突然のことに、「姉」らしく振舞うこともできない。


「ち、千翔……?」


「ちゃんと捕まらないと危ないですよ。痛むところはありませんか?」


「それは、大丈夫なんだが……」


 いつのまに、千翔はこんなにも力をつけたのだろう。小さな可愛い「妹」だと思っていた少女にこんなにも軽々と背負われてしまうなんて。一見小柄で、か弱そうに見えても、千翔も学院の生徒なのだなと思い知らされる。


「では、参りましょうか。……ふふ、空兄様、そんな表情なさらないでください。撃たれた空兄様が悪いのですよ」


 合崎がどんな表情で千翔を見ているのかは知らないが、大方彼女の成長に驚いているのだろう。この暗闇の中では、千翔が最も優位に立っている気がする。


「空兄様は憐姉様のこととなると、隙だらけですね。からかい甲斐があるというものです」


「……後で覚えておけよ、千翔」


「上等です。私も、からかうネタでも探しておきますね」


 なんだかんだ言って、この二人も仲がいい。私は心底幸せを感じていた。


 また、三人で笑い合えるなんて。思わず口元が緩む。二人の他愛のない論争を微笑ましく思いながら、軽く目を閉じた。また、平和な日々が訪れるのだ。日常に溶け込んだ多少の退屈すらも、今の私には待ち遠しかった。

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