想像少年
星町憩
エデン
「本日の定例報告は以上かい。なければ解散とするが」
「一点、気になることが」
「何かね」
「床から二メートルまでの高さ、ガラス壁の厚みが、西暦二千九十八年四月の観測時と比べ、平均で十センチメートル増加しています。今一度、シェルター外壁、ドーム頂上の厚みを計測すべきと進言させて頂きます」
一人の若者が放った一つの報告に、議会は騒然とした。俺はあくびを噛み殺しながら、学生時代に学んだシェルターの構造と仕組みを思い出そうとしていた。よそのシェルターは合金鋼などが外装を成しているらしいが、このC半球区域は紫外線反射コートの施された耐熱・高度強化ガラス張りのドーム型のシェルター壁に守られている。ここはいわば実験都市として作られたシェルターであり、物理的な防御力は低いが、他のシェルターと違い日光が直接降り注いでくるため、電力の消費は少なくて済む。報告では、他シェルターに比べると精神疾患の発生率も著しく低いとされる。壁が無色透明のガラスになっていることによって、本当は我々は外界と接することは出来ていないにもかかわらず、まるで自然の営みの中に生きているかのような錯覚を得られるのだ。しかしガラス造りのシェルターには幾つもの懸念がある。その一つを、先刻の議員は発言したのだった。それは、ガラスは固形化しているように見えて、流体であるという点だ。
したがって、人の目には観測できないほどの非常に緩徐な動きを持って、長い長い時をかけて重力に従い、より下方へと流れていくのである。そのガラスの流動によりドームの天辺が薄くなり、割れやすくなる未来が待ち受けていたのだ。それが、どうやら俺たちの時代だったというわけだ。外界の環境が未だ人類居住可能な状態に至っていない以上、シェルターの崩壊は中に生きる三億八千万人の命が危機に晒されるということに他ならず、死活問題である。俺一人ならば、仕事で特殊な防護服を支給されているから外界で長時間作業することも可能だ。ひかし膨れ上がった人口全てを賄うことの出来る数の防護服は用意もできないから支給もできない。防護服の材料は環境変化によって失われた。研究所では代替物質の発明に日々勤しんではいるようだが、C半球地区はそもそもが圧倒的な電力不足であり、したがって実験器具をうまく稼働させること自体日々困難であるから研究が進むわけもないのである。
「うむ、シェルター壁の脆弱性が懸念される今、ここらで内壁を金属で新たに作るというのはどうかね」
「材料が足りませんよ。元々この辺りの鉱山は、前時代の我々の祖先が採取し尽くしているのですから」
「近隣のシェルターから譲ってもらうというのは」
「百万キロメートルも離れたF地区にですか? 輸送にかかる莫大なエネルギーと労力を算出すれば、先方が快く受けてくれるとは思えないな。向こうもエネルギー問題には日々頭を抱えているでしょうからね」
「ならば地下を掘り進め、モグラになるしかあるまい」
「土壌も汚染されているというのにか? 馬鹿なことを」
「ふむ。外務環境省バレンティン大臣、外界はどうなっているのかね」
上官たちの意見交換を他人事のように聞き流していたところで急に直接の上司が指名された。俺は姿勢を正しつつ、挙手して発言許可を取る。
「バレンティン大臣は誤嚥性肺炎のため現在入院治療中です。よって私が代理として参りました。ダヤン・ビラール副大臣と申します」
「……なるほど、では貴官の意見を頂戴する」
副大臣なんて大層な役職を頂いているが、単純に人手不足だっただけでこんな役職ただの肩書きだ。したがってこんな堅苦しい場に俺は慣れておらず、起立したところで首の後ろに猛烈な痒みを覚えた。それを掻きながら口の中で言葉を選ぶ。
「はあ。えー、遺伝子管理部に開発していただいた【エデン】は既に半島内全域に裁植しており、日々その成長を観察、記録しています。今のところ問題なく成長しており、周辺の有毒物質濃度は裁植前と比べ、約十五パーセントの低下を観測しています」
「たったの十五パーセントだと?」
周りの議員たちが、顔をしかめたり、ひそひそと無駄口を叩き始めた。俺は片眉を釣り上げた。机上の空論でしか生きていないお偉方は、その数値がどれだけの功績で、その数字を出すのにどれほど俺達が苦労してきたかなど知らない。外に出もしないヤツらに、汚染度マイナス十五パーセントの空気が以前と比べればどれほど体感的に負担がないかということもわかるわけがない。
「土壌の汚染度は約五パーセントの低下を認めていますが、やはり気圧や風の影響、そもそも海の汚染度も考慮しますと、浄化した側からよその汚染が流れ込んでくるものでしてね。C地区だけで清浄な土地を得るのでしたら、今のシェルター璧の外側にもう一枚壁を張り、地下水路を整備すればあるいは可能かも知れませんが」
「そんな予算などあるものか」
老齢の議員が歯噛みをした。するとそれまで黙っていた総理大臣が、なんということはないかのようにこう言った。
「ならば、【エデン】を諸地区にも輸出し、地球全土に植えつけるしかないだろう。一刻も早い環境浄化が求められているのでな。幸い、諸外地区は【エデン】に匹敵する浄化回路の発明に至っていないようだからな。うちの財源確保にも繋がるいい機会だ」
俺は思わず口の端を釣り上げたが、それは総理を賞賛したからではなかった。
「苗を裁植する人件費や技術の伝達はどうしますか? 今のところ、私とバレンティン大臣の二人しか、裁植に成功はしておりません。コツと根気、そして外界の不浄な大気に長時間耐えうる体力と気概を持っている者でなければ耐えられる仕事ではありません。私のように耐性のある方が果たして何人見つかるか楽しみですね」
正直なところ、俺は【エデン】などという花に期待はしていない。確かにそれ単体では、かつて地上で大気土壌を浄化するシステムを有していた樹林よりは強力な浄化作用を持っている。遺伝子操作の賜物だ。しかし結局はそれも気休めに過ぎない。花は木よりは育つのが早いが枯れるのも早い。次の種が育つための条件をまだ確立できておらず、実際のところ枯れたそばから新しい温室育ちの苗木を植え直すことでしか対処出来ていないのだ。しかもその苗は取り扱いに繊細さを要し、栽培を続けるには長時間の外界滞在を何度も繰り返さなければならない。大臣は長きに渡る【エデン】の裁植で身体を蝕まれ始めている。俺もそのうちだめになるかもしれない。環境の悪化に伴い、歴史上から戦争は消え、軍部は瓦解し、人民はつかの間の平和に慣れきり、国のために身を捧げる覚悟のやつなんざ育っちゃいない。危険とわかっている外界に長時間いたがる人員なんて確保出来るわけがない。まあ、俺も戦争時代の人々の思想なんて額面上でしか知らないのだが。
とにかく、あくまでこの【エデン】計画は、後世に伝え更に地上浄化の方法を開発していくための踏み台に過ぎないのだ。それなのに、お偉方は今すぐ結果を出せという。無理です、と言っても埒があかず、かといってわかりましたと答えたところでできるわけもない。
俺がそれ以上発言するのを躊躇っていると、総理は再び涼しい顔で俺を見つめ、言い放った。
「ならば君が世界一周して【エデン】を植えて回れば良い。犠牲も少なく済み、時間の浪費もなかろう。移動手段であれば前時代の精巧な機械が保管されている。使用を許可しよう。君にできなければ他の誰にもできまい。期待しているよ、ビラール君」
俺は絶句した。議長は速やかに解散を告げ、困惑に立ち尽くす俺の側を、何人もの上官が一言もなく通り過ぎていった。
*
出立の準備は思っていた以上に困難だった。苗を生きた状態で長距離運ぶことは可能なのか、ということだ。普段の栽植の際に使用しているキャリーケースは強度の面で不安があった。技術開発部にも掛け合い、培養ケースに最適な素材がないか探したが、無いの一点張りであったし、あったとしても譲るわけはないだろうと納得もできた。
「思ったんですけどねぇ、先輩の肌に植えとくってのはどうです?」
俺には到底思いつかない奇抜な提案をしてきたのは、部下のゴメスだった。
「俺に苗床になれと?」
「あ……いや、流石に嫌ですよねえ……僕だったらやりたくないですし……すみません、思いついただけなんで許してくれませんか」
「別に怒っているわけじゃない」
「先輩は顔が怖いんですよね」
「それで、何の利点があってそれを提案してきた? それによって期待される効果とデメリットは」
「いや、僕は専門外ですけどね、エンリケがマウスを使った実験をしているじゃあありませんか。あいつ、マウスに外界の野生植物を食わせてどれほど身体が汚染されるかのデータを、先日もまとめて提出してきましたよね」
「そうだな」
「あの論文、改稿前はもう一つ項目があったんですよ。データが足りないってことで今回は掲載を見送ったみたいなんですけど」
まどろっこしいのは嫌いだ。俺が睨みつけると、ゴメスは逡巡のち、口を再び開いた。
「いや、その……マウスの皮下組織に【エデン】の種を移植したんですよ。結果的に、そのマウスの体で花は芽吹いたそうなんです」
「ほう。初耳だな」
「バレたら上に処罰されますから内密にお願いしますね。改稿前の原稿勝手に見ちゃったのもあいつに言ってないんで」
「あいつはいつもそうだろう。事後報告ばかりだからな、今更驚かない」
「まあ……ああそれで、寄生されたマウスは数日内に死んでしまったらしいんですが、死体の細胞分析したところ、汚染度が限りなくゼロに近くなっていたそうなんですよ。【エデン】は僕達人間にとっての有害物質を栄養としますが、マウスの中のそれが切れたんで今度は“体内で比較的有害な脂肪細胞”を吸収したようで。死因は栄養失調です」
「なるほどな。もういい、わかった」
「やっぱり怒っているじゃないですか」
俺はゴメスの最後の余計な一言に気分を害した。別に怒った訳では無い。ゴメスの着眼点に純粋に感心していたところだったのだ。あとは皆まで言わなくても言いたいことがわかったというだけの話である。
俺がシェルターを出て行く旨を病床の上司に伝えれば、彼は深いため息をついた。
「なんだってまた、そんなことに……」
「知りませんよ。大人の事情というやつでしょう。俺だって行きたくないですけどね。誰かが行かないわけにもいかないでしょう。前例が作れるという意味では私の犠牲も無駄ではないと思いますよ。ああ、無駄というのは自画自賛が過ぎるな」
「……ビラール君。君は自己卑下が過ぎる。胸が苦しくなるようなことを言うのはやめなさい」
「わかりました」
わかっていないだろう、とバレンティン大臣は眉間に皺を寄せた。
「私が君を今から解雇しよう。そうすれば君は行かずに済む」
「部下が私だけではないことをお忘れですかね。ゴメスやエンリケに白羽の矢が立ちますよ。現状、万一シェルター壁が瓦解した時の対策はこれ以外にないんで。あいつら、外に出ただけで丸一日昏睡したでしょう」
「ああ、うん、そうだったね……しかし、私は意外だよ。君はふてぶてしい割に、案外このシェルターのために身を粉にするところがある。君を表面しか知らない者は分からないだろうな」
俺は、まるで孫を見るかのような初老の上司の眼差しに居心地の悪さを感じた。感傷に浸るのは好きじゃないし、慣れていない。そういうことを言われるのもむず痒くて、嫌悪感とすら錯覚してしまいそうになる。
「大臣は最後まで私を買い被りますね」
俺は自分では冗談のつもりでそう言った。大臣の表情はピクリとも動かなかったが。
「最後と言うんじゃないよ」
優しく窘められる。
「最適解を導いた結果の心構えですが」
「そうかい」
「……よかったんですよ。俺には元から父親もなく、母は一昨年死んだ。爺さんも五年前に死んでいますし、幸い俺との別れを惜しむ友人もいないのでね。他は少なからずいるでしょう。今時崇高な自己犠牲精神を持っているやつなぞいないでしょうから、どうでもいい俺が先陣を切り開くのが一番いいんですよ」
「君は少年のようなことを言うな。大人になり損なった子供のようだ」
「もうすぐ四十です。やめてください」
俺は、口をついて出てしまった感傷的な言葉を恥じた。
貴方くらいは俺との別れを少しは悲しんでくださるんですかね、と皮肉を言いたくなくて、俺は足早に病室を後にした。
*
自身の左腕に移植した【エデン】の苗は、過剰に育ちすぎることもなく、成長不良に陥ることもなく、予想していたよりも遥かにいい状態で輸送できていた。人間の体には植物ほどではないが浄化作用、免疫機能があり、摂取した有害物質を少しなら代謝できる。俺自身の体質や免疫力の強さと、【エデン】の有害物質吸収力がちょうどいい塩梅で平衡状態にあると言えた。これはある意味で喜ばしい誤算なのだろう。過去の宇宙物理学者達は、この
訪れたそれぞれの核シェルターでの反応は様々だった。俺がもたらした技術を手放しで歓迎するところもあれば、外界の穢れを運んできたとして入室を拒まれることもあり、あるいは運よく入室を許可されても隔離され、長い月日審判にかけられたこともある。シェルターごとに当然法は異なり、牢に入れられ脱獄をせざるを得なかったこともあった。この年になって、そんなことに頭脳を使う日が来るとは皮肉である。
俺の知っていた外界は、見えない透明な壁で守られた内側でしかなかった。そこを越えたらただ未知の世界だった。言葉は通じても、彼らは同じ生き物ではないかもしれなかった。俺の腕に育つ苗を見た者たちのほとんどが、不快そうに眉を顰め、それは俺にとって予想だにしない反応だった。
俺の故郷は世界全体としては寒冷地域に属していた。温帯地方へと進むにつれ、発汗頻度が増えた。それに伴い、携帯式体外血液分析機が、腎臓と肝臓に関する異常値を示し始めた。苗は俺の左腕から胸と腹を伝い、大腿の内側まで根を伸ばしていた。俺は一度断念し、故郷へと帰ろうとした。その道中で、栽植をした覚えのない、いわば更地に【エデン】の紫色が点々と咲き誇っているのを目にした。
つまり、俺は蜜蜂のようなものだったのだ。俺自身が蒔いた種が、適した環境下では自然増殖する。人の力を借りる必要なんかなかった。植物細胞は動物細胞よりも遥か古代から存在していたという。ただの一個人がガラにもなく頑張ってみたところで、そんなもの花にとっては要らぬ世話だったのかもしれない。
大気中の成分観測をしたところで、俺が故郷を発った二年前よりも、窒素濃度が遥かに回復していることが分かった。俺は自分を諦めることにした。見知らぬシェルターに留まっている時間が惜しい。ソーラー式スクーターは、既に地球の半分の距離を走行していた。
俺を捕食する【エデン】が、臀部を回り脊椎を上行して項へ到達したころ、俺の見る世界は美しかった。青い空に橙色の砂原、真っ白な地平線。その地平線へ向かって、濃い紫色から白へ向かって淡く色を失っていく花畑の広がり。
俺は、自分の人生に満足していた。自分が偉業を成し遂げたなどと大言壮語を吐くつもりは毛頭ない。しかし俺の人生にも意味はあったのだと、今この景色を見るために生きてきたのだと、少し感傷を抱き自己陶酔に浸ってもいいのではないか。俺は俺に、そろそろ許してもいいのではないかと。自分自身は確かに価値のある人間だったと自分を認めてやってもいいのではないかと思って、そんな自分の思考に苦笑しながらその日の眠りにつこうとした。
その時だった。
轟々という音が頭上から響いてくる。何事かと思えば、真っ白な一筋の雲が、空の天辺から垂直に線を引いていた。落ちてくる何かは、光を纏っていた。あるいはそれは、炎だった。隕石だろうか。被害はどれほどのものだろう。俺の育てた花畑はどれほど残るだろうか。あるいはすべて灰になるだろうか。俺は絶望する間もなく、ただその短い時間、落ちてくる何かを凝視し続けることしかできなかった。
そしてそれは、俺の頭上目測二十メートルほどで、不意に加速を止め、その場に滞空した。
やがて炎は弾けて、花片のように空に広がった。青色の火花は夕焼け空に溶けていった。その真ん中に残ったのは、人の姿をした子供のようだった。それは、まるで綿が落ちてくるように、ゆっくりと落ちて落ちて、
……俺の足元に、着陸した。真珠のような白い肌に、緑なる黒髪を散らした、白樺のような細い四肢を持つ子供が。
俺が目の前の光景に絶句し、自分が既に寝ているのかもしれないと逡巡し始めた頃合いで、ピクリとも動かなかった子供は突然目をぱちくりと開けた。長い睫毛が、小さな音を立てたように思った。その陶器のような眼球に、金箔のような虹彩が透けて見える。
「こんにちは!」
子供は、更に言葉をしゃべった。俺にも当然のようにわかる言葉で、溌剌と発声した。俺はただその金色の目を瞬きもなく見下ろすしかできない。
子供はにっこりと笑んだ。その目は、地平線に沈んでいく満ち切らない月のような形になった。形の良い唇は、真っ赤な舌を覗かせて、再び俺に話しかけてきた。
「僕、この星を助けに来ました!」
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