封印石


 封印石は、サルダの城の地下に設置されている。

 薄ぼんやりと燭台に照らされた石の階段を、小さなランプを片手にラキサスの案内で、ゼクスたちは降りて行った。

「城が殺風景で驚かれたでしょう?」

「封印石の間への通路は、どの城もこんなものだが」

 ゼクスの言葉に、ラキサスは苦笑いを浮かべた。

「大侵攻の後、領内で食料や物品が不足しまして、城にあった装飾品の類を、全部売り払ってしまったのです。最近はようやく財政が安定してきましたが、イリスのドレス一つ、作ってやることができていません。それもあって、あの子はいつも封魔士の格好でいるのです」

「イリス様が帝都に来られないのは、経済的なご事情ですか?」

 レキナールが遠慮がちに問いかけると、ラキサスは首を振った。

「もちろん、それもないわけではありませんが、根本的な理由は他にあります」

 階段の先に、ルクセリナ帝国の竜の紋章とクアーナ公爵家のフクロウの紋章が描かれた両開きの扉があった。ラキサスが、ゆっくりと扉を開く。

 ギィッと音がして、部屋の中央の白金色の封印石の柱が煌めいた。白い大理石の床は、よく磨かれ、光沢を放っている。

 丸く作られた石造りの部屋の壁をぐるりと燭台が並び、そのひとつひとつに、灯りが灯されていて、白金の封印石は、澄み切った輝きを放っており、ヒビ一つない。

 ラキサスは、封印石の前に作られた小さな机にランプをのせ、息をついた。

 ゼクスは、レキナールとともに封印石を隅々まで眺める。

「とても強い結界が保たれている。帝都のものより、厳重だ」

 ゼクスの言葉に、ラキサスは苦い顔をした。

「兄さん」

 しばらくして、扉の向こうからイリスの声がした。

 ラキサスが、静かに扉を開く。

 青ざめた顔のイリスが、封魔士の女性を伴って立っていた。

 イリスは、頬を押さえ、ゆっくりと中央に歩み出る。

「──!」

 封印石がもやのように曇った。温度が、急激に冷える。

 石の中のもやが消えて、やがて、一つの形を描き出した。暗い藍色の髪。青白い肌。作り物めいた整った顔立ちの男の姿だ。単に姿が映るのではなく、意志ある銀の眼差しは、イリスの姿を捉えて離さない。薄い唇が声なき声で、イリスを求めて呼んでいた。

「エル、イリスを連れていきなさい」

 ラキサスが絞り出すように声を出すと、イリスは震える身体を女性に支えられながら、部屋を出ていった。

 イリスが出ていくと、封印石に映った人影はぼんやりと霞み始める。

「わが身に流れし聖なる血よ」

 ラキサスは念をこめる。

「力よ。魔を退けたまえ」

 ラキサスが結界を強化する呪文を唱えると、封印石は、再び、美しい白金の輝きを取り戻した。

「……どういうことだ。あれは、魔人?」

 ゼクスは、本物の魔人を見たことはない。しかし、今見た男は、ひとではありえなかった。

「ここを出ましょう」

 ラキサスは、ゼクスとレキナールを部屋の外へと連れ出し、扉を閉めると、深いため息をついた。

「大侵攻の時、奴は、現れました。たくさんの妖魔を引き連れて、我が公国を蹂躙した……」

  尖兵を倒し、ようやく魔人にたどり着いたものの、ラキサスは死を覚悟した。圧倒的な力の違い。ラキサスひとりでは、どうにもならない相手であった。

 そこへ、イリスが現れた。

「魔人は、イリスを見初めて花嫁にすると言った。あの子の左頬の傷は魔傷痕。魔人の所有物であるという証なのです」

 ラキサスの声が震える。

「あの時、私はなんとか魔人を異界へ送り返した。しかし、今思えば、たとえ死すともイリスと二人、なんとしても魔人を倒すべきだった」

 ラキサスは握りしめた拳で、石の壁を叩いた。痛みだけが、心の苦痛を和らげるかのように見えた。

「あの日以来、イリスが封印石の前に立つと、石は魔人の姿を映し出す。そして、明らかにイリスを見ている……」

 おぞましさ。そして恐怖。いくつもの感情がラキサスの心で渦巻いているのだろう。

「イリスが封印石の前に立つだけで、結界に綻びが生じる。そして、どんなに結界を強くしても、魔人の姿は消えない」

 ラキサスは目を伏せた。

「封印石に近寄らなければ、取りあえずの害はないのですか?」

 レキナールが言葉を選びながら問う。

「今のところは。ルクセリナ帝国の結界を出たらどうなるかは、わかりませんが」

 ルクセリナ帝国の結界が機能していれば、魔人がこちらに渡ってくることは、ほぼない。しかし、帝国の外に出たらどうなるかは、何の保証もない。

「ならば、封印石に近寄らなければいい」

 ゼクスの言葉に、ラキサスは苦笑した。

「確かにそうです。しかしイリスは公女です。いざというとき、封印石を守るのが責務。もし、イリスが他の公爵家に嫁したなら、それを求められるのは必至。まして、イリスは他の姫たちと違い実戦経験がある。全てを隠して、責務を拒絶するなど、できようはずもありません。それに」

 ラキサスは、冷たい石の階段を昇っていく。足音だけが大きく響いている。

「今まで魔傷痕を受けた人間は、資料に残っているもので七人。うち、幸運にも魔人を倒した者は一人だけです。残る六人は、長短はあるものの、それぞれに人生を生きました。そのうち、生涯の伴侶を得たのは、二人。その二人の死後、その相手は謎の死を遂げている。もちろん魔人のせいとは限りません。偶然なのかもしれない。だが、イリスはそうは思っていない。あの子は生涯、誰にも嫁すことはないでしょう」

 イリスに住み着いた孤独の影。彼女は誰の手も取らないと決めているのだろう。

「公女の役目から外してやれば、少しは楽になるかもしれません。しかし、イリスはこの五年の間、クアーナ公国の領民の希望として、背筋を伸ばし続けてきました。まだ、この国にはあの子が必要なのです」

 大侵攻でクアーナ公国はたくさんのものを失った。領民たちは、頬に傷を負いながらも、前を向き、封魔士として妖魔と戦い続ける美しい公女を、自らの希望の光として見ている。

「俺は何も知らないな……」

 ゼクスは呟く。ラキサスの立場。イリスの気持ち。そして封印石は、結界の要であり、妖魔や魔人と対極にあるものだと思っていた。しかし、魔人の姿はあまりにも鮮明に、封印石の中に映し出されて、今にもイリスに手を伸ばしそうであった。

 ゼクスが封印石の話を切り出した時、イリスの表情が曇ったことを思い出す。あの時、彼女は、どこまでゼクスに語るつもりだったのだろうか?

 封印石と魔人の関係に積年の疑問があったのは事実だろう。

 ひょっとしたら。ゼクスがイリスに心を魅かれなければ、ラキサスは彼女を封印石の前に立たせるまではしなかったかもしれない。

「イリスが帝都に行かない理由を理解していただけましたか?」

 ラキサスは人を呼び、ゼクスたちに部屋へ戻るように言った。

「嫌な思いをさせてしまいました。部屋にラパ茶を運ばせます」

 ラキサスは青白い顔で僅かに笑みを浮かべて、そう言った。


 

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